第37話 時代の狭間 バトル 1 地響き
「女王様の食事をお持ちしました」
侍女は外の縁側で食事盆を差し出しながら、伽藍の境目にいる由希の向こうの暗がりを見た。侍女の不安げな瞳が由希を動かす。
「姉君!」由希は、堅い樫の木で出来た戸を激しく叩いた。昨日の二回目の食事を受け取らなかった。
ヒカル、ヒカル! 反応して!
「姉君!」戸と壁の間に体当たりした。
まずい、ヒカル!
もう一度体当たりした。戸は外れた。痩せきった女王の体が真ん中に横たわっている。
「姉君!」由希はヒカルの両肩を強く、優しく、掴んで叫んだ。「ヒカル!」胸に耳を当てた。鼓動はある。
「ヒカル!」呼び続けると呼気を感じた。「負けるな! 出てこい!」女王の薄目が開いた。由希は顔を近づけその瞳を左目、右目、と確かめる。
そうだ、ヒカルはアタシが誰になったか知らないんじゃん!「安心して、アタシ、由希。ヒカルのお姉ちゃん。キンモクセイの木の下で目を開いたときみたいじゃん。ここではアンタの弟、あのコテージで話した」
女王の空っぽの肉体に、安堵の複式呼吸が戻ってきた。肉が落ちきった頬がわずかに持ち上がった。
「お姉ちゃん、やっと、乗っ取った、よ」ささやくような声で言った。「でも、この体は、もう、長くない。セキセインコの、くせに、高く、飛び、すぎて、長く、飛び、すぎて、命を、使い、果たした、んだ。おれ、どうしよう? 動け、ない、水に、入れ、ない。お姉、ちゃん」すがる瞳が由希を見つめる。
「大丈夫。儀式のため、って言って、湯船になる箱をこの伽藍に作った。毎日、清潔な水をお湯にしてアタシが汲んで運ぶって申し上げたら、女王様のアナタが、この部屋に入るなって言い張ったけどね!」
「お姉、ちゃん、おれを、運べる?」
「アタシ男、この約二十年間。見ての通り」そっと抱き上げた。ヒカルが小さいころはよく、おんぶしたり、ケンカを仕掛けてくる小さな体を持ち上げたりした。やせ細って骨と皮だけになった女王の体はそのころのように軽い。
「とにかく、先に返すね」由希はヒノキで作った湯船にヒカルを浸し、左上腕の真ん中を指の腹で触れた。
タイミングなら。皮膚の下に円型のポートが感じられる。
タイミングだ。「今日のお湯じゃないから冷めてるけど、我慢して。ヒノキの香り、落ち着くやろ」
気がつけば侍女達が後ろにそっと集まり、不安げに由希の肩越し、頭越しに湯船を覗きこんでいる。
全身を浸したことによる水の動きが、異常に速く収まり、水面がガラスのように平坦になった。
水の中でその目は初めギュッと閉じたが、間もなく薄目になり、はっきりと開いて、黒目がユラユラ動く。
由希には二度、経験のあることだったけれども、自分の目を見たことはなかったから驚いた。「わかるよ、今、ワームホールの世界を見てるね、良かった、順調」
由希の言葉のどこを理解したのか、侍女達が一斉に安堵のため息を洩らした。
そのため息がかかったのかと思った。
長方形の水面の中央に、小さな円が現れ、すぐに同心円状に広がり始めた。
中に見える体が、ゆらゆら、波の境目ごとに途切れて見えた。
ヒカルの全細胞を構成する全サブクオークが、量子レベルの物体のように、ランダムに動き始めた。それらは波のように揺れる。
その波が規則的に、ヒカルのために辿るべき道を作り始めた。同心円の波が現れるスピードが速くなり、光の反射が、中にいる弟を隠してしまった。
ヒカルの腕にあるポートを押さえていた由希の指の腹が、何も感じなくなった。
完全に見えなくなると、同心円の波は弱くなり、そして、湯船の中には誰も居なくなった。侍女達が叫ぶ。
ヒカルが帰ったぁ、よかったぁ。無事に二十一世紀のあのコテージに戻れた。よね? 残るはこの鏡。
侍女たちは慌てふためきながら外に散って行き、その騒ぎで建物の前に人が集まり始めた。
由希は女王が倒れていた、その枕元にあった鏡に向かう。
ニニギから取り上げるためにアタシはここにいるんだから! 割ってしまおう。アタシと一緒に水に浸けても鏡は残る。
速く、固い角にたたきつけなきゃ。飛び散ると危険、布で包んで……
包んだ鏡を両手で持ち上げたとき、一人の侍女が走ってきた。「収拾つかんとです! 何とかしてください! せめて姿ば見せてください!」
由希はとっさに鏡を湯船と床の隙間に挟んだ。壊す所を見られたら、ここの人たちに殺される!
由希が外に出ると、すでに村人のほとんどが集まり、近くにある村のオサたち数人の姿もあった。「女王様に従う三十村のオサは、日没までに全て、揃うでしょう!」由希が信頼する老いた女が、縁側に両膝ついて由希を見上げた。
「みなが集まったら、そのときに話し合う」アァ、大変なことになる、アタシも早く水に! ヒカルが戻ったかどうか、心配。
ヒカルが浸かったヒノキの湯船に駆け戻ると、侍女たちが水を抜いていた。由希は湯船の水を替えやすいように、底に穴を開け、竹筒をはめ込み、皮を丸めて栓にして、床下に水が落ちるよう工夫をしていた。
ウッソ!
覗き込むと、ほとんど空になっている。侍女たちが日々の仕事を全うしたのだ、使い終わったら片付けるという仕事を。
その足元に隠した鏡には誰も気が付いていない。でも、取り出せば、バレる。目撃者である彼女たちを抹殺するなんて、映画みたいなことはできない。
どうしよう? 井戸だ!
井戸に飛び込もうと外へ走った。
そこにはすでに男たちが十人以上集まり、共同して水を汲み、それぞれの木桶をいっぱいにし、家に持って帰ろうとするところだった。由希が中を覗き込むと、底が見えた。うわぁ、じゃ水路!
遠くに見える高塀を見た。
全身が浸かる深さの水路は、はるか遠くの西。他の水路は今の季節、足首も浸せない、そうだ、流れをせき止めればいい!
門へ走り出そうとすると、十数人のオサが入ってくるのが見える。
口実、出ていく口実、あー、由希はラグビー部員のような体型をしたオサたちに囲まれた。
「我らは新しい王を選ばねばならない!」由希はできるだけ太い声で叫んだ。
オサたちの駆け引きはすでに始まっている。早く駆けつけることができたのは、平らなカルデラにいる農耕を主とする村々からのオサたちだった。
遅れて、外輪山の山にすむ狩猟採集を続ける十二部族のオサたちが到着した。由希はその中にタケミナカタの姿も見た。
農耕の民と狩猟の民は元々、相いれない。コメを育てる者たちは人口を増やし、組織化を進めていた。権力を持つものと持たない者の差はすでにある。家族単位の山の民は、見下されていると不満を募らせていた。
耕す男たちの腕には堅い木で出来た鍬が、狩る男たちの腕には弓があり背中の筒には矢がぎっしりと詰まっている。
「コメがあるからってぇえばるな!」
タケミナカタの父親、オホクニが仁王立ちして叫んだ。失った右足にケヤキで作った添え木を結び付けている。腫れ上がっていた太ももは元の太さに戻っている。
感染を克服、よかったねぇ。
「そうだ! 俺たちは元々、オメえらのやり方が気に入らん! 何が『俺んらの土地』だ! 地面をお前ら、囲いやがって!」
別の狩人も同調した。
「勝手に森を引っぺがしやがった!」
タケミナカタも叫ぶ。しかしその目は誰かを探している。
「引っぺがして丸裸の地面に囲いをしやがった!」
別の狩人は弓を持つ左腕を下に下げたまま、指三本をしなる木の真ん中に這わせた。
「女王様がこれ以上木を切らせんち、ゆうかばい、耐えた! そんあと、無理やり木を切り倒した奴に、火の山の岩が飛んできて当たったけ、俺たちは女王様の下に入っただけとよ」
「お前らはいつでん、待てっちゆうばっかりや。お前らの人間は多すぎる、みんなが揃うンば待っちょったらシカが逃げるたい!」
「上のモンの命令ば待っちょったらクマに殺されるたい!」
狩人たちがバネのように動きながら溜まった言葉を吐き出すと、農民たちが鍬や鋤を振りかざして威嚇した。
十二人の狩人オサの中で最も年老いた賢者が通る声で宣言した。「これから俺たちは、俺たちの流儀でやる。肉や皮が欲しいとなら分けちゃる。狼煙で合図してくれ。俺たちの森に、黙って、入ったら目玉を射抜くぞ。俺たちは元々、コメなんぞいらん!」
定住者とたもとを分かつことにした狩人たちは、熟練の狩人が最後尾になり、後ろ向きに歩きながら広場を後にした。
―今だ、この隙に!
そのとき由希は遠くに響く何かを感じて静止した。帰りかけた狩人たちも立ち止まり、村人は全員耳を澄ませる。
確かに、不吉な遠雷のような何かが、たくさんの耳に届いた。
「火の山がついに怒り始めた。女王様がおらんくなったけん」一人の農民が号令をかけるかのように大声で言った。
狩人たちは両足を広げ、弓を構えながら辺りを見回す。
「いや違う、方向が違う。西から響いてくる」一人の女が叫んだ。
「地震や、これは!」数人のオサが叫んだ。
「いや違う、揺れ方が違う!」一人が一番高い屋根に駆け登る。「地響きや!」目を凝らす。「なんか来る!」
「なんや!」次々に若者が屋根に登る。
村人たちは西を向いた。地響きは盆地を囲む外輪山の唯一の切れ目、火口瀬の方向から響いてくる。狩人たちは素早く西へ走った。由希もその中に混じって外に出ようとしたとき、中にいたオサたちの一人が後ろから由希の肩に手をかけた。
「奴らについて行ってはなりません、今は、ここで、あなたが、不吉を祓ってください。女王の弟であるあなたにしかできない」
由希は、肩に載せられた手のひらの大きさを恐ろしく感じた。振り払って外に出ようとすれば即座に素手で殺される気がする。由希は恐怖を表情から取り除きながら、そのオサに威厳を保ちつつ体を向けた。
由希の後ろで、コメ作りの男たちが門を閉じる堅い木の重い音がした。
屋根に登った一人が裏返った声で叫ぶ。「西へ先に行った狩人たちが!」そして吠えた、「狼煙やぁ! 狩人の狼煙やぁ! 危険の徴や!」
何? やばいよ! マジやばいよ、水につからなきゃ! 由希は周りを見回した。
「見えてきたっとう!」遠目が自慢の一人が叫ぶ。「大きなケモノの集団や、クマよりでかいぞ、オオカミより多いぞ!」
男たちは鍬や竹やりや石を付けた棒を構えた。若い母親たちは子供の手を握り直し、背中にワラ紐で結びつけた赤ん坊を確かめ、足元のつたない幼児を胸に抱きあげた。
由希も門柱の片一方によじ登った。高い柱の上から西を向くと、その小さな点々が大きくなるのがわかる。
も、もしかして、ニニギ到来? バトリオンを率いて? ついにこの時が来た? ヒカルいないのに? アタシ一人で? 元々、アタシ一人じゃん! 鏡を取られたらまずい! でもヒカルが戻ったかどうか、気になる!
ああ、ニニギを倒すために時間を遡った、あんなに苦しい思いをして! やっぱ、きょうだい! 世界を変えるより弟!
大地が細かく揺れる。
西の水路には行けない、水の湧き出る外輪山に走る時間ない。火口山の東側は外輪山とつながってるから、そこから外輪山崖斜面の森に入って滝を探そう、潜れる深さの滝つぼがあるはず。
オサたちに目を移すと、数人が由希に向かって何かを叫んでいる。このまま塀の向こうに飛び降りたら追いかけて来る?
そのときオサたちの間に白黒の塊が飛び込んだ。
ハナクロ!
二回りも体が大きくなったヤマネコが音もなく、敏捷に村人たちの間を飛び回る。
全員の視線がその動物にくぎ付けになっている間に、由希は素早く塀の外側に滑り降り、若いイチョウの向こう側に身を潜め、耳を澄ました。幹に耳があたると、走る足音が、声が、聞こえる。
びっくりして見回す。いや、幹の中から聞こえる。もう一度、幹に耳をつける。たくさんの足音。規則的な、大きな呼吸。「あと二周」クラスの子が、周回遅れの子を励ます。
え? 何百キロ離れてる? あの地下水で繋がってるってこと?
直ぐにハナクロが現れ、由希は懐かしい分身を再び抱きしめた。
地響きに人間の声のようなものが混じり始めた。
ウオー、ウオー、ウオー!
屋根の上の若者たちが叫ぶ、「四本足のでかいケモノがぁ! 大勢、すごい速さでぇ! こっちに来よっとぉ! 化け物やぁ! 化け物やぁ!」
四つ足の化け物どもは地響きをあげながら近づく。
「ケモノの上半分は人間のごたる! ドタマに人間の顔がついちょる! 腕もあっと! 片腕に長い光る武器を持っちょる!」見張り番が裏返ったままの声で絶叫する。
由希はハナクロの目を見る。
ハナクロは火の山へ真っすぐに向かった。数千年、数万年をかけて巨岩が追突し、転がり落ちながら削った大地に身を隠しながら、一人と一匹は登り坂を走り続ける。
ハナクロはアタシをどこかに案内しようとしてる?
火山灰で荒れた土地でも雨は降る。森林を形成するほどの水は無い。
緑の大草原が、火口を中央にした縦に、丘と谷を形成して一面に広がる。何年も前、ヒカルを探すために西の外輪山を越えたときに、そのフチから見た火口山の中腹に今、自分がいる。
あのとき見えた、火口近くの茶色と灰色の世界には、まだ到達していないということ? 思ったよりすそ野は広大!
数百人の地響きと雄たけびが大きくこだまし、集落に到達したとわかった。竹と木で出来た高い塀が容易く壊される様子が目に浮かび、振り返ろうとした。
先を走る四つ足動物が二つ足動物のために速度を急激に落とす。
ハナクロ! 振り返ってはだめ、振り返るその数秒が生死を分ける!
由希はパートナーのために再び力を振り絞りスピードを上げ、うねる大草原を走り続けた。アタシは、あのイチョウのある高校の敷地を走ることが出来んかった。車に乗って、早退した。みんなと一緒に走りたかった。
長い上りが続く手前のくぼみで、やっと息をつく。遠くのはずの火口山が、近づくほど見えにくい。
呼吸を整えるゆとりも無く、山頂から立ち上る煙を観察した。わずかに青っぽい。見慣れた白や灰色とは違う。
と、いうことは、水蒸気だけじゃない。二酸化硫黄や硫化水素が混じってる、このくぼちにいてはまずい、窒息する。
「ハナクロ、火山口は避けよう!」
その野生動物は煙を右に見ながら東に進み始めた。
ついに平地が終わり、外輪山が壁のように目の前に迫って来る。
ハナクロは迷わず前を跳ねる。由希の耳に、かすかに希望の音がそよ風に乗って聞こえてきた。
水!
体にエネルギーが満ち溢れてくる。白と黒の背中を追いかけ、藪を分け入ると、ついに高さ十メートルほどの滝が木々の向こうに見えた。
「やったぁあ! 滝つぼあるよね? この水量なら! ハナクロ、アタシに必要なものが分かってるの?」
シャァ!
透明な水が二十メートルほどの幅で、白いレースカーテンのように落ちていて、近づくと滝つぼは競技用プールの広さがある。
水際の岩にたたずむハナクロを抱きしめた。喉を鳴らして分身が答える。
「ありがとう、ハナクロ。一生、忘れない」
ザバザバと滝つぼに向かう。腰まで沈める前にハナクロを見ようと振り返ると、心配そうに、その岩から離れようとしない。
「ハナクロが見てるとアタシも名残惜しくて置いて行けないよぅ、だから、行って!」
その哺乳類は言葉を理解して、しぶしぶ、背中を見せた。顔はこちらを何度も向く。しょんぼり、見えなくなった。
急に風が強くなる。疾風。殺気を感じ由希が振り返った瞬間、一メートル先の水面で人間が発射した。
両刃の剣が降り落ちる。
かわして滝つぼに潜ると幾つもの大岩が行く手を塞ぐ。その間も銀色の刃が何度も振り落とされる。
潜ることが出来ずに岩の上を跳ね、滝へ向かう。疾風が竜巻に替わり、巻き上げる枝や木の葉が襲撃者を鈍らせる。
空気が切れる音が真後ろで続く。全視界が水色に替わる。
由希が滝のカーテンをくぐり抜けた途端、背中に熱いものを感じ、絶叫が聞こえた。
白いレースカーテンが真っ赤なマグマに変異し、剣の持ち主を溶かしていた。
え? なんで?
助かったけど、アタシも、この滝裏から出れない?
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