第31話 美の化身
潮の香りがして、由希が目を開くと小雨の中、目の前に海があった。右手遠くに砂州が見える。
ラグーン! 細い陸地に囲まれた海は浅瀬で、所々、湿地が広がる。細い陸地は霞んで遠くに見える。晴れていれば泳いで辿り着けるかも。その手前に小さな島が二つ浮かぶ。
そして自分一人、松の木の上にいるのが分かった。
ニニギと会う時間と空間は、今度こそ、会っているはず。それにしても何で松に登ってるんだろ? 心の奥底をのぞき込んでみた。
そうか、この子は周りの人たちと上手くやっていけないんだ。時代も地理も超えた悩みね。パパはノイローゼになったことあるし。会社で鬱というんか神経症というんか入院した。退職してママと専業農家になった。
狩猟民族の十五歳は、二十一世紀の十五歳とは、かなり違ってる。第一、誰も自分の年齢なんて知らない。
この体が十五歳だってアタシが知ってるだけ。十五歳はもう一人前。
手足と体を観察。うあぁ、オトコだ。で、どんな顔? 先住民だから期待する! ナガスネ族になったときも部族は美形揃いだったなあ。土蜘蛛、なんて侵略者は呼んだけど。古事記に出てくるニニギの前任者が女性に目が眩んで使命をほったらかしにしたのは、そりゃそうだ。
で、服は、っと。木の皮と藤ヅル、長いままの海藻を組み合わせて作った蓑のような服で体を覆ってる。
松から砂浜に飛び降り辺りを見回した。全身バネになった気がする。
松林が砂浜に沿い、幅広く広がる。
防風、防潮、防波のために人間は手を付けていないのね。
だから集落はずっと向こうのはず。
顔を見るには水鏡。水面を探さなきゃ。小川で汲んだ水をためる場所には、いつも誰かいるから人けのない水たまりを探そう。
雨、あがった。
水たまりはどこも浅く、ぬかるんで何も見えない。見まわすと、平らで光を反射している大きな石が見えた。
濡れてるなら映るかも。
案の定、水鏡ほどではないが見えた。イェーイ! 笑顔になる。勇気を出して集落に向かった。弟を探さなきゃ。
湿地はここにも広がる。こんな土地ならコメが発芽しそう。
人間を遠くに見つけドキドキした。歩き方や動き方、態度を観察しながら近づいた。
大人も子供も、雨を貯めた竹筒を集めたり、雨で洗った海藻を広げたりして働いている。
水道の無い時代は雨上がり、大忙し。
水は湿地にいくらでもあるけど、カエルが泳いだ水より雨の方が飲みたいよな。
弟が移ったはずの女性がどこにいるのか、わからず日が暮れてしまった。
夕闇が訪れれば寝て、朝日が射せば起きる、それが電気の無い時代の生活。
翌日も村人を観察し続けた。ヒカルはどこにいるんだろ?
ヒカルらしき女性が見当たらない。
この体の持ち主の記憶に集中した。前回ナガスネ族の中に入ったときに習得した技だった。
ヒカルにもこの技のこと、言っとけばよかった。自然にわかるかな。
その記憶をたどると、女になった弟は親が決めた相手と結婚していた。
すんごい綺麗っぽい。
姉弟とも縄文的美形!
ヒカルがタイムトラベルしたときの身体の持ち主は十五歳。年齢差、四歳の姉弟だからヒカルは今、十九歳か。アタシ抜きで四年も、この世界で過ごしたわけね。不安だっただろおなぁ。
どこで会える? どうやって二人だけになる? どんなふうに話しかける?
次に白い月が水色の空に現れるころ、やっと、大勢の女性がドングリを選り分けているところでヒカルらしき若い女性を見つけた。
隣の女性をイタズラっぽく流し目する切れ長の瞳。次の瞬間、ドングリを見てその瞳がお皿のように開いた。小さな引き締まった顔の中で大口を全開にして笑っている。
スタンド・アウトって英語はこのことだあ。美、そのものが人間の形をとってる。小さな耳、長い首、広い肩、長い手足。
神様が渾身の力を込めて造形した、何種類もの曲線が構成するその全身はどの角度から見ても、どの動きも、視線を捉えて離さない。
化身、っていうんだろか?
様子を見続け、自分を完全に無視しているかのような態度に不安がよぎる。水汲み場でやっと二人になることができ、美貌の横顔にそっと声をかけた。「ヒカル」
「ん? なんて言った?」その目はあまり知らない他人がいるときと同じ冷たさだった。この体の持ち主の記憶によると、この姉弟は母親が違うから、あまり一緒に過ごすことはなかったらしい。
やっぱり。
ヒカルが入った魂があまりにも強かったのか、ヒカルが頼りなかったのか、ヒカルの意識は閉じ込められてる。助け出さないと元の世界に戻れなくなる。ヒカルが覚醒して、いつ戻りたいと言っても言いように水汲みの仕事だけはいつも、しとこ。
機会を見つけては、さりげなく近づき話しかけ続けた。
ニニギが持ち込む先進文明はまだ到着してない。
水汲みという重労働を率先してするから、村人たちから感謝された。
父親は何度もアタシの縁組を進めようとしてきた。臨終の床でさえ。でもヒカルから目を離すわけにはいかない。
由希はヒカルを観察しながら焦りつつ過ごした。
この世界での姉は、食料を得るために集落の全員と力を合わせ、自分が産んだ幼児二人を事故にあわせないために必死で、休むことなく動き回っている。かつて輝いていた大きな瞳の下には、いつもクマがあるようになり、痩せていく。
由希は自分の顔を両手で軽くマッサージしてみた。ヒカルにもやってあげたい。顎の周りも触って気がついた。ここの先住民にはヒゲは生えてこない。
良かった。ヒゲの人たちはどこから漂着してきた遺伝子なんだろ? 生えてきたら、剃れない。剃刀ないし、石器の刃物を肌にあてるなんて、ありえない。
ある日、大陸から漂流してきた小舟に乗った一人の大男が稲の束を船底に持っていた。
この男じゃない。ニニギはどんなふうにこの島に上陸するんだろ?
浜には舟が時々、打ち上げられる。逆さまになっていたり、壊れていたり、中で人が息絶えていたり、空っぽだったり。ごくまれに、息の残る者もいた。
由希はその大男に言葉を教えるふりをしながら、先住民の年長者に、漂着者が持っていた稲作と天候についての知識を伝えた。そのため、父親という後ろ盾を失った後も、年長者から信頼され十二ヵ月が過ぎた。
稲作が始まったっていっても、沼地で勝手に伸びるだけ。田んぼじゃない。金属がないと地面は耕せないんじゃね?
稲の成長もバラバラ、すぐに倒れたり虫に食べられたり。茎にコメは付いてたり付いてなかったり。
二十一世紀に食べていたコメとは全然違う、色は濃いし、甘みもない、殻を手作業で取り除くから薄皮がついたまま茹でただけ。
農業って、大変。腰をかがめ続けるなんて、誰にでも苦しいよ。雑草は次々に生えて、暑い日は三日サボっただけで食べる植物を隠してしまう。
緑の汁でガサガサになった両手をじっと見る。葉っぱが鋭いせいで、切り傷がたくさんついている。
それでも無いよりはずっとまし。この冬、誰も餓死しなかった。家族や友達が飢えないために、と思うからミンナ頑張ってる。
それにしても権力争いが増えたなぁ。狩猟採集だけだったころ、世襲リーダーはいなかった。得意分野に関してだけの一時的リーダー。だからナガスネ族に女の首長がいた。
こうやって階層社会になっていくのね。いったんリーダーになった父親が息子を跡取りにしようとしてる。赤ちゃんはどの両親に生まれたかで人生が決まる時代が、始まった。
世代を繰り返せば、実際に耕す人たちは、自分たちがどんだけ権力者たちの生活を支えてるかなんて、わからなくなる、だって見えないもん。
インターネットの動画投稿も無いしジャーナリストも居ないし。
竹で家の補修をしながら石斧の刃を指でなぞった。
「またぁ! あっという間に切れなくなる、もぉ!」
鉄ってすごいわ。鉄器を作る技術を手に入れたら戦闘勝利も食料も手に入れることになる。
鋭利に割れる黒曜石はこの辺じゃ採れないかぁ。
アステカ文明では生贄の体に使う祭祀用ナイフが黒曜石だったっていうし。コワ。
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