江戸吉原の美少女が俺の家に居候することになった件

田中勇道

プロローグ 江戸時代と現代

 江戸幕府が公認した吉原遊郭には昼見世と夜見世がある。

 昼見世は昼九つ(正午頃)から昼七つ(午後四時頃)。夜見世は暮れ六つ(午後六時頃)から営まれる。

 遊郭が盛り上がるのはやはり夜見世。そして、振袖新造の初音はつねは、花魁の名代みょうだい(客がかち合ったときの代理)として座敷に上がっていた。振袖新造は遊女の見習いで振振とも呼ばれる。


「また振られた……。せっかく登楼あがって来たのについてねぇな」

「姉さんは見世の一番手でありんすからなぁ。それに振られたのは、ぬし様だけではござんせん」


 初音の花魁は馴染みが多く客が重なることは珍しくない。初音がこの客を相手にするのは今回でもう三度目だ。

 客は初音の言葉を聞くと「さすがお職だ」と言って苦笑した。


「ところで初音、お前突き出しはまだなのか? そろそろ花魁になってもいい年だろう」


 突き出しとは遊女として初めて客を取ること。振袖新造のうちは客は手を出してはいけない決まりがあるため、話をする程度で床入とこいりはしない。

 逆にいえば、遊女になると何人もの男と床入りすることになる。そして子をはらめば、間違いなくろすことになるだろう。休むには身揚みあがり、つまり遊女自ら揚げ代を払わなければならない。


「もう少し待ちなんし。姉さんだってすぐ花魁になれたわけではありんせん」

「へいへい。まっ、お前が花魁になりゃ登楼って来る客も増えるだろうよ」

「ありがたきお言葉。わっちのほまれざんす」


 初音は見世の一番手につかえる者として、花魁になるのは当然だと思っている。姉さんに恥をかかせるわけにはいかない、ただそれだけのために初音は禿かむろの頃から厳しい稽古に耐えてきた。吉原に住む幼い子どもは禿と呼ばれ、花魁について雑用をこなしながら妓楼ぎろうのしきたりを学ばせる。十三、四歳頃に振袖新造となる。

 

 そして遊女になってから、年季が明けるまでの期間はおおむね十年。身請けされればすぐに自由の身だが、そのためには莫大な金が必要になる。

 身請け以外で吉原を出るには大門おおもんを抜けるしかないが、容易なことではない。仮に抜けられたとしても、見つかってしまえば折檻せっかんは免れないだろう。

 ただ、少しだけでも、夢でもいいから吉原の外を見てみたい。初音は心の中でそう呟いた。

 



 アニメや漫画では「美少女」という単語が頻繁ひんぱんに使われている。たまに「誰もが認める」とか「千年に一人の美少女」なんて比喩ひゆを見るが、さすがに言い過ぎだと思う。

 人によって好みはあるし、平安時代か遥か未来の人間に写真を見せて「この女の子、美少女だと思いますか?」ってアンケートを取らない限り千年に一人かどうかは判断できない。仮に会えたとしても、千年も経てば語彙や発音はだいぶ変わってるだろうから会話するのは厳しいかもしれない。日本人同士でも方言で話されると何を言っているのかまったくわからない、なんてことは普通にあるからな。

 俺は人見知りなのでそもそも人と会話すらしないのだが、話しかけられた場合は無視するわけにもいかないので適当に応じる。今がまさにその状況だ。


「あれ、高尾たかおくん」


 二年生に進級して十日ほど経ったある日の放課後。ふと立ち寄った書店の参考書コーナーで俺は、クラスメイトの吉野よしのあおいと鉢合わせした。

 あまり軽々と「美少女」という単語を使いたくはないのだが、彼女を一言で表すとその言葉がしっくりくる。

 さらさらした栗色の髪は腰の近くまで伸びていて、長い睫毛まつげに大きな瞳。そして通った鼻筋。顔全体のバランスが見事に整っている。

 体型は長身でやや細めに見えるが出るところは出ていて少しなまめかしい印象を与える。

 俺の通う学校では「テストは競争ではない」という理由で定期テストの学年順位を発表していない。ただ、上位十人の名前は発表されていて、吉野葵はその十人の中に必ず入っている。

 運動神経もよく、体力テストでは半分以上の項目で十点満点を記録した。平均も九点を超えていたらしく女子では学年トップではないかと噂されている。

 そんな吉野葵と鉢合わせて緊張しないはずがなく、俺は声が震えそうになるのを抑えて言った。

 

「えっと、奇遇だな。その……吉野は、何買いに来たんだ?」


 俺は改めて自分のコミュニケーション能力のなさをなげいた。小学生が見たら普通に笑われるレベルだ。

 吉野は特に気にする様子はない。単純に興味がないだけかもしれないが。


「買う物はまだ決めてないんだけど、良い参考書ないかなと思って……高尾くんは?」

「俺はなんとなく。家に帰ってもやることないし」

「趣味とかないの?」

「趣味は読書ぐらいだな。あとはあんまり……」


 アプリゲームやSNSも興味はあるが中毒性が高い。成績に影響しては元も子もない。

 

「高尾くん読書家だったんだ。小説とかよく読むの?」

「え? あぁ。まあ、そこそこ」

「そうなの? ねぇ、好きなジャンルとかある?」


 おお……よくわかんねぇけど、めっちゃ嬉しそう。あれか、共通の趣味があると気分が上がったりするのと同じ感じ。てか、距離が近い。本人は自覚がないのかさらにせまってきた。至近距離で見ると吉野の顔は本当に遜色そんしょくがない。なんかいい匂いもするし……って俺は何を言ってんだ。


「高尾くん顔赤いよ?」

「そ、そうか? 気のせいだと思うけど……」


 吉野が近くにいるからだ、なんて言えるはずもなく、俺は目を逸らす。吉野は俺の反応でようやく状況を理解したのか、慌てて距離を取った。

 

「あはは、ごめんね。高尾くんを困らせるつもりはなかったんだけど、つい……」

「いや、別にいいよ。それより、その……本、好きなんだな」


 俺が頭をフル回転させて出した言葉に、吉野は笑顔で頷いた。天使かよ。


「小学校の頃はよく遊んでたんだけど、中学に上がってお母さんから『たまには本でも読んだら?』って言われて『時をかける少女』を薦められたの。聞いたことはあるでしょ?」

「そりゃ、有名だからな」

「だよね」

 

 その笑顔は反則だ。俺も読んだことはあるけど具体的な内容はおぼろげだ。久しぶりに読んでみるか。

 話を終えると吉野は本棚に視線を移した。俺もならって本棚に目を向ける。


「吉野はどの教科の参考書買うつもりなんだ」

「数学。少し先取りしとこうと思って」

「先取り? もう三年の範囲やるのか」


 まだ一学期の中間テストすら行われていないというのに……。あまりにも早すぎではないだろうか。


「今から勉強しといた方が気持ちに余裕できるじゃん。大学には進学する予定だから早いうちに対策しとかないと」

「それは……そうだな」


 俺はまだ進学と就職どちらにするかさえ決めていない。思わず冷や汗が出た。


「じゃあ、もう二年の範囲は全部終わらせてるのか」

「まあね。抜き打ちでテストしても満点は取れると思う。油断はできないけどね」


 その言葉はハッタリではないだろう。実際、吉野は一年の学年末テストでは全教科で満点を取っている。もちろん、彼女の努力もあるが、それ相応の才能がないとできないことだ。

 吉野は参考書を取り出してから再び本棚を見る。そして、英語の参考書も手に取った。


「二冊買うのか?」

「うん。英語はあんまり得意じゃないから早いうちに克服しておこうと思って」

 

 ここまで勉強熱心な女子高生はそうお目にかかれない。俺も自主的に勉強するタイプではあるが、さすがに一年分も先取りしようと思ったことはない。


「ごめん高尾くん、ちょっとこれ持っててくれる? 財布にいくら入ってるか確認したくて」


 俺は参考書を受け取り、吉野は財布の中身を確認する。そして、渋い表情で頬をかいた。どうやら足りないらしい。


「いくら足りない?」

「百五十円。英語の方諦めようかな」

「それぐらいなら出すけど、次に来たときないかもしれないし」


 普通に出せる金額なので提案した。吉野は意外そうな顔をして少し考える。他意があると思われただろうか。

 別に断られてもよかったのだが、吉野は「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って一緒にレジに向かった。結果オーライってことでいいよな。

 会計を済ませて店を出ると、吉野が俺に微笑みかけて言う。


「高尾くん、今日はありがとね」

「たかが百五十円で感謝されても困る……財布にはあんまり入れてないんだな」

「無駄遣いしないように敢えて少なくしてるの。プライベート以外でそんなにお金使うことってないじゃん?」

「確かにないな」


 せいぜい昼休みに購買でパンを買うときぐらい。五百円もあれば充分足りる……俺の場合は。


「じゃ、私こっちだから。高尾くんはこのまま真っ直ぐ?」

「ああ。……また明日」

「また明日。お金はちゃんと返すからね」


 吉野はそう言うと、俺に背を向けて手を振る。俺はその姿が見えなくなってから帰路にいた。このときは、あんなことが起きるなんて微塵も思っていなかった。

  

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