藍と涙(ニ)
夜は、男たちがほとんど寝静まる。彼らには昼間働いてもらう代わり、夜の船を操縦するのはウルリヒだ。他よりも多少夜目がきくのも、この碧眼のせいなのかもしれない。
一人だと物思いにふける。潮風の匂いと星明りで意識を保つ。あの夜を思い出して恐怖心が浮かび上がってくるけれど、それと一人で向き合い続ける。ある意味で、ウルリヒが唯一一人でいられるのは船の上で過ごす夜だけだった。……近頃はそうもいかないが。
今夜も小さな足音が背後から近づいて来る。もう慣れたから、ウルリヒは振り返らない。声をかけるだけだ。
「いいかげん、与えられた寝床で寝やがれ。それともなんだ、お前ら貝の一族は、固い床で寝るのが趣味なのか」
「そうじゃないけど、なんだか落ち着かなくて」
顔を見ていないのに、声で彼女がまたむっとしたのがわかる。ウルリヒは小さく笑った。テルネラは舵輪の傍に座り込み、夜空見上げた。
「星、綺麗。すごいね」
「あ? おまえ、それ毎晩言ってんのな」
「だって本当に綺麗で……」
テルネラはほう、と息を吐いた。吐いた息は白く滲んで空に溶けていく。
「ずっと、夜は月が空に上がる前に寝ちゃってたから。こんな風に星空を見ることなんて滅多になかったなあ。真珠の欠片がたくさん散らばっているみたい。海のなかと、一緒だね」
「海のなか?」
「ここに来るまでは海の底を歩いてきたの。海の底にはね、沢山真珠が敷き詰められていて、まるで絨毯みたいだった。多分、私たちが――私の同胞が零した真珠たちが何百年もかけて積もったんだろうなあ」
「へえ……海の底に、ねえ。王さまが聞いたら喉から手が出るほど欲しがりそうだ」
「王さま?」
「たくさんの人間を率いて国を作っているおえらいさんだよ。真珠は宝石だからな。しかもなかなか採れない。貝の末裔から譲ってもらうわけにもいかないしな」
「……海の底の真珠は、採ってもいいと思うよ。誰もほしがらない真珠だもの。女神さまもあんなにたくさんはいらないと思う」
「高く売れるだろうな。そしたら村も潤う」
「……どうやって採るの?」
「俺たちはそんな深いところまで潜れないからな。採れるわけがねえよ。これは全部もしも話だ。ま、王様の耳に入れたら採りに行けって言われるだろうからこれは内緒」
「……私、採ってきた方がいい?」
ウルリヒはテルネラと目を合わせた。星明りの下だとテルネラの目は青く見える。そのことに少し安心する。
「……いい。おまえ怯えている様子だしな」
「なんでわかったの」
「そんなしかめ面していたら誰だってわかるよ」
「オログは、あんまり私のことわからなかったわ」
「そりゃ……距離が近すぎたとかじゃねえの。知らないけど」
「……そうなのかな」
テルネラは膝を抱えてしばらく考え込む。
「私ね、今やっと生きているって感じる」
「あん?」
「……オログがいないのに、生きている実感に溺れてる」
ウルリヒは首を傾げた。黙ったまま続きを促す。
「君は、……ウルリヒは、私のこと働かせてくれるでしょう。下手でも作業が遅くても、最後までやらせてくれる。下手なのは下手って言ってくれる」
「えこひいきなんかしてねえぞ」
「うん、ひいきしてない。それがどれだけ嬉しいか、わかるかな……」
テルネラは顔を膝に埋めた。
「……私、わがままだね。オログに見捨てられたのも、仕方ないね……」
「だから、捨てたんじゃなくて――」
「知ってる。わかってるよ。ただ、私は最後まで死んでもいいからついて着てって言われたら、喜んでついていったよ」
「……いまさらうじうじすんなら、自分から言えばよかったじゃねえかよ」
「オログの好きな私はそんなこと言わないの」
「なんだそれ」
「オログは私のために、なんでもしてくれた。いつも思い詰めていっぱいいっぱいになってた。私があしでまといで、できそこないだったから、オログを苦労させてきたの。だから、私はその恩返しを、あの子の理想の私でいることでしか補えなかったの」
「あー……めんどうくせえな。おれそういうのわかんないんだよ」
ウルリヒはため息をついた。舵を揺らすのをやめて、頬杖をつく。
「そんなふうにうだうだ考えてたのも、そういう仲だったからかねえ。おまえらつがいだったんだろ?」
「つがいじゃない。本当のつがいじゃないわ」
「なに、それ」
「………耳飾りには意味があって、耳たぶは体の中で一番冷たい場所。昔々私たちが貝であった名残なの。だからそこに、私たちは初めて零した真珠の耳飾りをつける。つがいになる人と初めてを交換して、耳たぶにつける。それが、私たちにとっての愛の証だった。かけがえのない誓いの証」
「ああ、だからおまえの耳飾りは黒い真珠なわけだな」
「……ちょっと、違う」
テルネラは、オログと耳飾りを交換した経緯を説明する。
ややこしいことをするなあと思った。それでも彼らにはその細やかなやり取りに深い意味があったのだろうとも理解できる。人が子供の青い目に意味を見出し信じ続けてきたように。
「私は結局、オログに私の真珠をあげられなかったから、あの子のつがいじゃないよ」
「でもつがいになりたかったんだろ。お互いに思いあってるならいいんじゃねえのかな」
「……それも、よくわからないよ」
テルネラは顔をあげて、また星空を見た。目が潤んでいて、綺麗だと思う。
「つがいってなんだろう。愛し合うってなんだろう。私はオログのことが世界で一番大事。あの子だって私のことをそう思ってたと思う。でもそれって、私がいつ死ぬかわからないできそこないだったから。もし私が普通の子だったら、何か変わってたかもしれない」
「そんなもしもの話、意味があるか?」
「わからない。でも、考えずにはいられない。私は愛を知りたい。……知りたかった」
「……早すぎたんだな」
何が、とは言わなかった。でもウルリヒにはわかっていた。引き離されるのも、つがいになるのも早すぎたんだろう。もっと時間が必要だった。
それでも、女神からの呪いは世界でちっぽけな二人の時間なんて待っててはくれないのだ。
「おまえ、本当はこんなところまで来たくなかったんだろ」
テルネラがウルリヒをじっと見つめ返してくる。
「本当は、こんなふうに人間と過ごすのも、嫌いだろ」
「……よくわかったね」
「そんな顔してるからな」
「……そうかな」
「いつもしかめつら」
眉間をつついてみせれば、テルネラは目を伏せた。
「そう。ほんとうは来たくて来たんじゃない。贄になってしまったオログが逃げたいって言ったから、初めて私に望みを言ってくれたから、ついてきた。それだけ……私、みんなに食べられたってよかったよ。これ以上足手まといになるのもいやだったから」
「多分、お前って矜持が高いんだよな」
ウルリヒは薄く笑った。
「俺たちのことも本当は見下してる。でも、自分ができそこないで、俺たちと変わらないこともわかってる。だから恥を感じてるし、諦めてるってとこだろ」
「……そうかも、しれない」
「なら教えてやる。そんなお前がおれは大嫌いだ。正直に言うと、おまえなんかこれっぽっちもいらない」
ウルリヒは息を吸う。ひゅう、という音が喉から漏れた。テルネラは唇を噛みながらも、ウルリヒから目を逸らさなかった。だからウルリヒもまっすぐに見つめ返してやった。
「おれは貝の末裔が嫌いだ。きっとみんなもそうだ。たとえお前が真珠を吐けなかろうが、人を食わなかろうが、おれらにとって大差ないんだよ。きっとお前は必要と言われれば人を食ったはずだ。たった一度人を食っただけで引きずって、俺の血を見て吐いたオログとは違う」
「……うん」
ややあって、テルネラは笑った。泣きだしそうな笑顔だった。
「……でも、だからこそな」
ウルリヒは、言い含めるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「だからこそ、おまえにその気があるのなら、おまえは人になれるとおれは思う。今なら選ばせてやる。海に行くか、舟で故郷に帰るか、このままおれについてくるか。そして、もしも人になるなら、あいつらを同胞だと呼ぶな。お前にとっての同胞はオログじゃなくて、おれだ」
テルネラの顔は、血の気を感じないほどに白かった。きっと、人間の蒼白な顔と同じなんだろう。
「お前は考えすぎて勘違いしてると思う。あいつの、オログの願いなんてもっと単純なもんだよ。好きな女に生きててほしかったんだ。あいつは人を食うのがいやだった。だからおまえにも人食いになってほしくなかったんだ。あいつはおまえが貝の末裔として生きるよりも、人間として生きることを望んだ。だからおれに託していった。ひでえ話だよな、出会ったばかりの人間のおれなんかにさ。おれの目の前で……おれの事情なんか何も知らないくせに……自殺みたいだった。おれ、あんなの傷ついたよ。おれだって少しは傷つくんだよ。まだ子供だったからさ」
――ああ、そうか。
話しながら、ぼんやりと気づかされる。そうか、なんだ。おれ、傷ついてたんだ。オログがあんな逝き方をしたことが、苦しかったんだ。
だからきっとおれは、こいつを見捨てられないんだ。本当は今すぐにでも海に捨てちまえばいいのに。真珠が吐けないのが心苦しい? 海底には真珠の絨毯? じゃあ大好きな真珠に埋もれて勝手に死ねばいい。だのに、もう見捨てるわけにはいかないんだ。
「……さあ、どうする?」
テルネラはますます顔を白ませ、口を両手で覆った。何度もえずいて、堪えた。それほどに、テルネラにとっては苦渋の決断らしかった。そのことをウルリヒは悲しく思う。種族を壁を越えるのは簡単じゃない。
「『可哀想な自分』を捨てる覚悟はあるかい、真っ白なお嬢さん」
「……………嫌い、ウルリヒって、嫌い」
「嫌いでけっこうだよ」
テルネラは口を拭って、泣きだしそうな顔でウルリヒを見つめた。
「……海は嫌い。怖い。女神さまがいるから」
テルネラは、肩を抱いた。
「もう二度と……行きたくない。綺麗な場所だったけれど、塩からいし、息ができないし」
「ならさっきも採ってこようかなんて言うなよな」
笑いながらそう言ってやれば、テルネラは素直に頷く。
「私を捨てないで」
「はいはい、わかったよ」
テルネラはしばらく目を擦って、泣き止んでからはやっと笑った。初めて、ちゃんと彼女が笑うのを見た。この笑顔がオログは好きだったんだろうなと思う。少しだけ切ない。
ウルリヒは水平線へと視線を戻した。
紫、緑、黄色、橙、赤。
小さな色とりどりの光が、霧の向こう側に輝きはじめる。岸がようやく見えてきた。
「見ろよ、人間の大地だ。ようこそ? 歓迎は特にしないけど。ほら」
テルネラも立ち上がって、霧の向こうを見つめた。
あとは二人共、黙っていた。
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