マイムマイム -真珠吐きの末裔と人の子の物語-

星町憩

第一章 オログ

耳飾りと紫

 深い深い森の奥。夜鳴き虫の羽の音が儚げに途切れていく。太陽が山際に白い光を瞬かせ、濃紺の空に水色がそっと滲む。霧に霞んで、森は淡い紫色に揺らめいていた。眠りゆく朝の森で、二人の少年少女が手を繋ぎ、茂みをかき分ける。

 森に林立する樹々は貝殻のような光沢をもち、青や紫の輝きを鈍く照らしている。辺りには、透き通った草がぼうぼうと生い茂っている。葉脈を白く浮き立たせたその草は魚の骨の様で、僅かに瞬く緑の粒と相まって、濁って見えた。枝の先に揺れる小さな花もまた、朝露に濡れ白と透明のまだらに見える。それは人の知るものとは随分と様相が異なる森だが、彼ら【貝の末裔】は知る由もない。

 少年少女の艶やかな髪は淡く七色を滲ませた乳白色で、まるで真珠を細い糸にしたようである。肌は血色が悪く、黄味と灰色を帯びた色。爪は胡粉を塗ったかのようにほんのりと白く、青紫色に滲んでいた。彼らの血液は、透けるように薄い青色なのだ。瞳の色は血液を透過して、紫色に輝いていた――より区別をするのならば、少年の方は青紫に近く、少女の瞳は赤紫に近い。

 少年は、左手で少女と手を繋ぎ、右腕では金の壺を抱えていた。ふと立ち止まって、少女を顧みる。

「疲れた?」

「う、ん……少し」

 少女は途切れがちに答えながらも、やわらかに微笑んだ。その笑顔につられたように、少年も笑う。

やがて周囲を確認してから、少年は膝をついた。朝露に濡れた焦げ茶色の土が、服の裾にじわりと染みを作った。

「このあたりは朝露が沢山残っているみたいだ。僕が集めておくから、テルネラは休んでて」

「だめだよ……だって、私のためにこうしてここまで歩いてきたんだから……」

 テルネラと呼ばれた少女はそう言いながらも、地面に弱々しく座り込み、横になった。

「でも、ちょっとだけ、息をつかせてね……なんかね、頭に血が足りないの……」

「朝から何も食べてないからね」

 少年は静かに言った。不規則に息を吐きながら、テルネラは少年を見つめる。

「オログは……何も食べなくていいの?」

「僕はもうとっくに食べたんだよ。お前と違って、僕の食べ物はそこらじゅうにあるからさ」

 オログと呼ばれた少年は笑い、そっとテルネラから離れた。果たして葉の裏側や花弁の先には朝露が今にも零れんばかりに滴っていた。オログは丁寧な手つきで、その雫を壺の中に落としていく。

「いつも……ごめんね」

 テルネラは擦れた声で呟いた。オログは振り返る。

「急に何? 別に、いつものことだろ」

「でも……私のせいで、オログをいつも巻き込んでるよ」

「いいんだよ。僕にとっては、お前がみんなにコエナシモドキだと知られてしまうことの方が恐ろしい。それ以外のことなら何も怖くないし、つらくもない」

 テルネラの呼吸は次第に穏やかに凪いでいった。眠ってしまったらしいが、無理もないだろう、とオログは思った。寝ているところをたたき起こして、朝から長い距離を歩かせたのだ。

 それからは、テルネラを起こさないようにより静かに、慎重に朝露をかき集めた。植物の群生した湖畔の森で、金の壺はあっという間に満たされていった。

 【貝の末裔】の潜む森では、湖はどれも海のように塩からい。だがこの湖だけはどういうわけか唯一塩濃度が低かった。だからこの淡水を吸って育った【貝殻の木】も、塩の味が薄い。テルネラが食べられる木はここにしかない。他の民は好んでこんな場所になんてこないから、都合もいい。オログは毎朝かかさず、この場所で露と木を採取する。全てはテルネラの命を繋ぐために。

 【貝の末裔】はつがいを持つが、鳥のように卵を温めて雛に餌を与えることはしない。子供は産んだら産みっぱなしだ。沢山の大人たちに見守られて、子供は自分の力で生きる術を覚え、成長する。大人になって、金属器の扱い方を教わり、村を支えていく。

 オログの物心がついた頃から親はいなかったが、傍にはいつもテルネラがいた。引っ込み思案なオログと、天真爛漫なテルネラ。正反対の様でいて、まるで一緒に生まれた双子のように気が合った。

 やがて成長するに従い、テルネラは物静かになっていった。それが体調が悪いせいだと気づいたのは、彼女が倒れたから。気づけなかった自分を責めた。テルネラを失ってしまうんじゃないか――そう思った瞬間、世界が急速に色を失った。テルネラが目を覚ますまで、生きた心地がしなかった。

『からいの』

 目を覚ましたテルネラは、そう言ってすんすんと泣いた。

『みんながくれる食べ物が、飲み物が、塩からくて、呑み込むのがつらいの。だから全然喉を通っていかないの。食べられなくて、いつもお腹がすいて、苦しいの。みんなおいしいおいしいって言うのに、私、おかしいのかな。未だに真珠も作れないし、私、やっぱりおかしいのかな』

『……大丈夫だよ。アレルやヘルガだって、まだ真珠は作れないよ。テルネラだけじゃない』

 そう言ってテルネラを慰めながら、嫌な汗が噴き出すのを感じていた。

オログだって、幼い頃は塩水のからさが、殻の木のからさが、つらくてたまらなかった。だのにいつのまにか苦にならなくなっていた。そうして今では、真珠を吐けるようになっている。真珠は、殻の木を食べ、塩水を呑んで、栄養を搾り取ってできた粕だ。そして真珠を口から吐き出せるようになったら、一人前になったということ。

 真珠を体内で作れるようになるまで、【貝の末裔】の子供は一族の同胞とみなされない。一族が捕食し【コエナシ】と呼ぶ人間と何の違いもないからだ。コエナシと一族の違いは、真珠を吐くか吐かないか、ただその一点に絞られる。体ばかり大きくなっても真珠を作れない子どもの末路は、【コエナシモドキ】と差別的に呼ばれながら捕食され、誰かの真珠の餌になる。

 ……テルネラだって、そのうちぽろりと真珠を零すかもしれない。そんな淡い期待を捨てたくなかった。けれどもうわかっていた。ずっと傍にいたからこそ、目を逸らせなかった。テルネラは、【コエナシモドキ】に違いない――

 まだ真珠が作れていない子どもはまだ残っている。けれど彼らは、与えられる殻の木も、水も、今ではおいしそうに食べて、飲むことができる。

テルネラだけが、それをからいと感じて、苦しんでいる。食べられなくて、痩せていく。どうしてテルネラが肥えないのかようやく合点がいった。小食なのかと勝手に納得していた自分をオログは恥じた。

 【コエナシモドキ】なんてめったに生まれないとは言ったものだが、本当かどうかさえ怪しい。子どもらの知らないうちに間引きされているとしたら。【コエナシモドキ】なんているわけない、そんな風に楽観的に考えることなんて到底できない。テルネラのいない世界に価値なんて見出せない。でも誰にも話せない。テルネラがいなくなって困るのが、世界中で自分だけだということをオログはよく知っていた。運命ってそういうことでしょう? だってオログは、テルネラとつがいになりたい。テルネラを守れるのは僕しかいない、きっと……

 テルネラのために森を渡り歩く。草花に貼りついた朝露をかき集める。貯めた雨水で、塩を吸い込みからくなった殻の木を何度も洗う。大人たちの目を盗んで、それらをテルネラに食べさせ続けた。大人たちの前では、与えられたものをおいしいと言って食べろとテルネラには言い聞かせた。後でどれだけ吐いてもいい、具合が悪くなってもいいから、大人たちの前で、絶対にぼろを出さないで――。森の奥深くに塩濃度の薄い湖畔を見つけてからは、その場所をテルネラの主だった食料源とした。

 大人たちが二人の様子を訝る時もなかったわけじゃない。けれどそのつど、オログは作り笑いで無邪気さをよそおった。

『テルネラはね、僕が傍に居ないと、ものが喉を通っていかないんだって。だから僕が食べさせているの』


「テルネラ、起きて。さあ飲んで。たくさんお食べ」

 テルネラを揺り起こす。満たされた壺と腕いっぱいの殻の木の欠片を渡せば、テルネラは飢えていたとばかりに朝露をごくごくと飲み干し、小さな口で殻の木をかみ砕いた。それを見つめながら、オログはそっと息吐き、崩れ落ちてうずくまる。今日も無事に朝を迎えられた。テルネラがまだ生きている。誰にも気づかれずに、生きている。オログは唇をきゅっと噛み締めた。微かに響いていた咀嚼音が止まる。

「いつもどこに行っているんだって言われるの」

 不意に、テルネラはそうぽつりと零した。

「私とオログが夜になるといつもどこかへ消えるって。それで朝になるとふらりと戻ってくるのは、一体何をしているんだって」

「恋人たちの夜を詮索するなんて、野暮なことするなよって言ってやれ」

 梢の合間を縫って、朝日が筋となって降り注ぐ。オログは眩しそうに目を細めながら、忌々し気にそう返した。

「こっ」

 テルネラは顔をわずかに青く染めて俯いた。

「……オログはいっつもそういう心臓に悪いことばっかり言う」

「なんで? 僕はテルネラのこと、恋人って思われてもいいんだよ」

「そ、れは……私達、ずっと一緒にいるから」

 テルネラは目を泳がせる。

「でも、やっぱり恋人じゃないよ」

 オログは首を傾げた。

「なんで?」

「うう……」

 テルネラは眉根を寄せ、言いにくそうに唇をもぐもぐと動かした。そわそわと落ち着きなく足を組みかえる。その様子を見つめながら、オログは首を傾げた。

「みんなに、何か言われた?」

 顔を覗き込んでみれば、テルネラはいっそう俯くのだった。

「恋人は……最初に零した真珠で耳飾りを作って、お互いに交換してつけるでしょう? それで初めて恋人になれるの。でも、でもね、私は真珠を作れないよ。オログに証を贈れないの」

 オログは膝の上で頬杖を突き、しばらく考えてみた。やがてもう一度テルネラの目を覗くが、彼女の瞳は揺れている。だから口に出した。

「ねえ……そういうの、必要?」

「え?」

「だから、そういう、形になるようなものがどうしても必要なの?」

 テルネラは目を見開いた。けれどすぐに、何かを振り切るように真珠色の睫毛を震わせて、目を細めたのだった。

「ここに、」

 テルネラは自分の耳たぶに触れて言った。

「ここに痛みがあるということが、愛されてるっていう実感だってみんな言ってたよ。私は、それをきっとこれからも、一生、オログにあげられないんだ」

「いいよ。痛みが愛だって言うんなら、僕はとっくにお前に痛みをもらってるし、今でもずっと、痛いよ」

「どうして?」

「テルネラが、コエナシモドキだから」

 我知らず、声が震えた。テルネラの顔も苦しげに歪んだ。

「ごめんね……できそこ、ない、で」

 テルネラは俯くばかりだ。

「違うんだ」

 オログは力なく笑う。

「テルネラがいつかいなくなっちゃうんじゃないかって怖いんだ。テルネラがいなくなったら、僕は生きていけない自信があるよ。毎朝、こうしてお前と朝を迎えられることにほっとする、お前が生きているだけで嬉しい。耳飾りなんてそんなものなくても、お前がいてくれるだけでいい。他に欲しいなんて思わないんだよ」

 オログは、へへ、と声を零してはにかんだ。その瞬間、オログの喉からはぽろりと真珠が零れた。地面に転がり落ちたのは、緑色の光沢を浮かべる大粒の黒い真珠だ。それを爪先でつつきながら、テルネラはなおも難しく考え込んでいるようだった。それがなんだかおかしくて、オログはくすりと笑った。

「ね、いいこと思いついた」

「え?」

 オログは懐から小さなお守り袋を取り出した。巻貝の体液で染めたその紫色はくすんでいて、オログの瞳の色によく似ている。袋の口をそっと開いて、中から真っ白な真珠を――真珠でできた耳飾りを、しゃらりと引き出した。

「それ……どうしたの? 誰の?」

 テルネラは不思議そうに首を傾げる。

「僕の」

「え?」

 テルネラは眉根を寄せた。

「でも……オログのは黒真珠でしょう?」

「そう。今の僕は黒真珠を吐くけれど、僕が初めて零した真珠はこの白い真珠なんだ。いつかお前にあげようと思って、とってた」

オログは笑顔を作った。

「白かったのは最初のこの六粒だけでね。あとは黒真珠ばっかり零れるようになっちゃって。でもさ、最初は本当に白かったんだ。ほんとだよ」

「うん」

 テルネラはオログの瞳をじっと見て、悲し気に目を細めた。

「信じるわ。……ねえ、真珠の色って、体調とか気持ちにも左右されるって聞いたよ。もしかしてオログは、ずっと具合が悪かったの?」

 オログは頭を振った。

「そんなことは……ないよ。ただ、そういうものだったんだよ。それだけのことだ。……それで、これを僕がつける」

 オログは取り出したばかりの耳飾りを自分の右の耳にはめた。その後、懐をまさぐってもう一つのお守り袋を取り出した。珊瑚の粉を溶かして染め上げた、淡赤色の袋だ。その中からつまみ上げたのは、一粒の大きな黒真珠だった。金の金具が、朝日に照らされてきらりと輝いた。

「綺麗……」

 テルネラは顔をほころばせた。

「僕が零した中で一番大きいやつ。これはテルネラにあげるね」

 オログもつられるように笑って、テルネラの左の耳にそっと触れた。金具をパチンと留める時、指先が緊張で震えた。

 テルネラはおずおずと耳たぶの黒真珠に触れ、オログを見上げる。オログはテルネラの小さな手に指を絡めた。

「これで僕たちはだれが見てもつがいだろ。だから……これからも、僕と、ずっと一緒に居てよ」

 テルネラはわずかに体を震わせた。

「でも……こんなの、騙しだよ……だって、その耳飾りは……私の真珠じゃ、ない」

「誰も気づきやしないよ」

 オログは口の端を優雅に釣り上げる。

「だって、白真珠なんて、ありふれすぎてて。いいじゃない、お前が初めて零した白真珠。僕は嬉しくてそれで早々に耳飾りを作ったんだ。そうして僕たちは愛を交わした。そういう筋書きでいいじゃない。誰も何とも思わないさ。そろそろね、ごまかすのは難しいかなと思ってたんだよ」

「そ、んなの……でも、私、私たち、まだ子どもだよ」

「どうだっていいじゃない」

 オログは笑った。

「こうすれば誰もお前に危害は加えられない。お前に誰も触れられない。だってお前は僕のものだもの。そしたらお前が、コエナシモドキだってばれることもない。僕ならお前を守ってやれる。ずっとそうしてきただろう? だいじょうぶだよ。だって僕は黒真珠に愛された子どもだよ。誰も僕に文句なんか言えてないじゃない。今までだって。多分これからだって、そうだよ」

「たまに、あなたが怖い」

 テルネラは俯いた。

「構やしないよ」

 テルネラは迷うように目を泳がせた後、顔をあげてオログの目をじっと見つめた。

「……今思いついたみたいに言ったけれど、ほんとはずっと前から考えてたんでしょ」

「どうしてそう思うの?」

「だって、どちらも最初から耳飾りにしてあったし、それに、オログの瞳が揺れてない」

 オログは目を丸くした。

「そんなことないよ。今だってほら、心臓はどきどきしてる」

 オログはそう言ってテルネラを抱き寄せた。テルネラの耳が、頬が、胸に触れて僅かに温かさを滲ませる。

「……そうね」

 拗ねたような声。オログが笑えば、テルネラは口を引き結んだままオログの胸に顔を埋めた。ぐりぐりと頭を押し付けて、ぽつりと呟く。

「あなたの瞳は、露草色」

 その言葉を聞いた瞬間、オログの心は震えてざわめいた。瞳の紫色を花にたとえて伝えるのは、愛の言葉と同義だ。

「ふふ。いつか言えたらいいなって思いながら、ずっと温めてたの」

 テルネラは笑った。

「僕も、」

 オログは震える声で、呟いた。心許なく震える指先で、テルネラの頭を壊さないようにそっと撫でた。

 抱きしめたい。

 今の、僕の心のままに抱きしめたら、テルネラは壊れてしまうかもしれない。割れて、欠片になって、もう、戻らないかもしれない。怖い。嬉しい。知らなかった。愛おしいって、きっとこういうこと。

「僕も、ずっと言おうと思ってたんだ。言いたいと思ってた……」

 オログの瞳がゆらゆら揺れる。頬に熱が集まっている気がした。テルネラはまっすぐに見上げてくれている。

「お前の瞳は、紫陽花色だね」

 くしゃりと顔を歪ませ不器用に笑ってそう告げれば、テルネラはふわりと花が匂い立つような笑顔で頷いた。

「ありがとう」

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