最後の配達



 ウミネコ運送の退職……それは天梨にプロポーズすると決めた時とほぼ同時だった。

 そうでなくても頭の片隅でその考えはこびり付いていたのだが、切っ掛けらしい切っ掛けを挙げるなら、車中泊生活の折にあまなちゃんに泣き付かれた時が一番だろう。

 あれはかなり心に来た。 


 結婚して今後も同じ仕事を続けて行く場合、必然的に家族に割ける時間はあまり多くない。

 交流の切っ掛けが配達であるため、天梨とあまなちゃんはそれでも気にしないと理解を示してくれたが……正直に言えば俺の方が耐えられそうに無い自覚があった。


 慣れた職場と業務、体と家族……2つを天秤に掛けた時にどっちに傾いたかは言わずもがな。

 独身だった頃にはまるで考えもしなかった理由だ。

 それでも不思議と後悔は無く、むしろ誇らしい思いですらある。

 

「違う職場に行っても、たまに飲みに行こうぜ」

「えぇ。天梨さんとあまなちゃんとの生活も聴かせてほしいわ」

「……サンキュ」


 三弥と茉央は聴いた当初こそ愕然としていたが、事情を話せばある寂しげであっても気前よく労いの言葉を掛けてくれた。

 2人には本当に世話になったから、そう言ってもらえて内心感動してしまう。

 

 もう学生時代とは違う……どこかそんな確信めいた思いが芽生えた気がする。

 

 当然、上司である日乃本部長にも退職の旨を伝えた。

 切り出した直後はいつもの威圧たっぷりな物言いで退職理由を尋ねて来た……が、重い圧を前にしたにも関わらず何故だか緊張することなく『家族のためです』と告げることが出来たのだ。

 

 これまで結婚どころか恋人がいた気配すらなかった俺の態度に、日乃本部長は驚愕から目を見開いた。

 何気に初めて見る表情だ。

 やがて大きく息を吐いた後、今週だけは出勤、有給消化した後に今月一杯で退職する決定がなされた。

 

 4月に先輩が辞めた時から1年も開けずに俺が退職するため、同じ宅配員達からは絶賛ブーイングを受けてしまう。

 その理由が寿退社なんだから非難もあって仕方ないのかもしれない。


 ちなみに嫁の顔を見せろと言われたので、スマホにあった天梨の写真を見せたところめちゃくちゃ驚かれた。

 何せ彼女は超が一つじゃ足りないくらいの美人だ。

 ただでさえ結婚ってだけでもめでたいことなのに、その相手が物凄い美女なら驚くのも無理はない。 


 だが『激務で頭をやられて妄想に逃げた』とか『どこ所属のレンタル彼女でいくら貢いだんだ』とか、結構謂れのない誹りを受けた。

 まぁ俺みたいな地味な奴からしたら、接点があるだけでも羨ましいであろう相手だ。

 それが嫁になるんだから荒れる気持ちも分からなくはないが、少し言い過ぎじゃないだろうか?


 そんなこんなで今まで関わって来た多くの社員達に祝われながら、数少なくなった仕事に従事していった。

 いつもの配送車を運転するのも、あの家に配達するのも片手で数えられる程度だと思うと、激務で辛くても切ない気持ちになってしまう。


 けれども他でもない天梨とあまなちゃんのためだと、迷いを振り払って仕事に勤しんだ。


 =====


 そうして迎えた最後の出勤日、今日の配達分を終えたら俺は有給消化期間に入る。

 何の因果か金曜日なので、もはや我が家でもあるエブリースマイル184号室への配達もあった。

 

 荷台から取り出した食材の入った発泡スチロールの箱、この重さに触れるのも今日で最後だ。

 

 先輩から引き継いだ配達区域の一部にここが含まれていて良かった。

 もしあの人と親しくしていなかったら、別の場所へ配達をしていただろう。

 でなければ俺はあまなちゃんに会えず、天梨と夫婦になることもなかったのだ。


 それだけじゃない。

 あまなちゃんが初対面の相手にも心優しい性格じゃなかったら、普通の配達先と何も変わらなかった。

 天梨に信頼されていなかったら、別の区域を担当することになったかもしれない。


 そう思うと人の縁は何とも不思議だと実感する。

 どれか一つでも歯車がズレていたら、今の幸せを得られなかったのだから。


 そんな感傷も程々に、荷物を抱えて184号室のインターホンを鳴らす。

 軽快な電子音が部屋の奥から響いて来る。

 すっかり聞き慣れたこれも、押す側になるのは最後だな……。


『はーい!』

「ウミネコ運送でーす。荷物を届けに来ました」

『いまいきまーす!』


 スピーカー越しに聞こえる、愛娘の声。

 離れるどころか一緒になるはずなのに、どうしても寂しさを感じてしまう。


 切なさを押し殺していると、玄関のドアが開かれる。


「いつもごくろーさまです、おにーさん!」

「ありがとうあまなちゃん」

 

 最後にも関わらず、挨拶は至っていつも通りだった。

 不満とかは一切ない。

 むしろ宅配員の早川和と配達先のあまなちゃんとは、こうあるべきだと思う。


 仕事が終われば家族として過ごすのだから、特別なことはそっちでやればいい。

 そんなことを考えながら受け取り印を捺してもらい、荷物を玄関の脇へ置く。


 これで配達は終わり……。 


「おにーさん」

「ん?」


 とはならず、あまなちゃんに呼び掛けられる。

 目を向ければいつものひまわりのような笑顔ではなく、どこか切なさを滲ませたような、けれども嬉しさもある複雑な笑みを浮かべていた。

 

 見慣れない表情にどう返したものか戸惑っているうちに、あまなちゃんは俺の手を取る。


「きょーで、はいたつはさいごなんだよね?」

「あぁ。初めて会った時もこんな感じだったから、なんだか寂しいな」

「うん……でも、おにーさんがおしごとをやめちゃうのは、あまなとママのためだってしってるもん」


 そこであまなちゃんは言葉を区切る。

 経験則というべきか、俺はこの後どうすればいいのかなんとなく分かった。


 膝を折って屈み、目線をあまなちゃんに合わせる。

 そうすれば、自然と向こうから小さな手が伸びてきて……。


「よしよ~し……」

「……」


 慣れた手つきで頭を撫でてくれた。

 いつものなでなでだ。

 でもこれが最後だってわけでもないのに、心の奥底から熱い何かが込み上げてくる。

 

 それでも大人の矜持として涙は堪えた。

 今はまだ仕事中だ。

 いくらなんでも泣くのはまずい。

 

 やがて満足したようで、あまなちゃんはそっと手を降ろす。

 そして改めてこちらに目を合わせる。


「おつかれさまでした、おにーさん!」

「──……ありがとう」


 小さな口から紡がれた『おつかれさま』は、いつもの『ごくろーさまです』と違って、温かで確かな達成感となって心を波立たせた。

 その後の配達も順調にこなし、早川和は事実上の退職となるのだった……。

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