第4話 ある記憶

『おはよう、モトヒコ』

「むふっ……むにゃ、むにゃ……」

『おーい、モトヒコ! お・は・よ・う!』

「お……おはよう、リトル……」

 ボクの生活は一変した。もちろん悪い方にではなく良い方にだ。まず目覚まし時計がいらなくなった。なぜって早起きの友だちができたから。でも寝ぼけまなこで今でもベッドから時々落ちたりもする。なんでも慣れるまでは少し大変だってことかもしれない。

               *

「ごちそうさま」

「最近、早起きして、よく食べるようになったわね」

「いつも朝食は、あまり食べてなかったっけ、モトヒコは?」

「野菜のことよ、お父さん」

「『野菜もしっかり食べろ』って、リトルが」

 ボクの返事に怪訝けげんそうな様子の両親を尻目に、ボクは、まだ眠そうな姉より先に「行ってきます」の言葉を残して家を出た。早く家を出て学校に着くまで、リトルとおしゃべりするためだ。学校までの、たった15分の道のりが、こんなにも色鮮やかだったなんてボクは今まで思いもしなかった。

 地面の上でチュンチュンと鳴くすずめたち。駐車場の車の下からこちらの動きをじっとうかがっている猫の親子。顔に吹きつける風とその匂い。固まりのまま空を旅する大きな雲。朝の太陽のまぶしさをしっかりと受けて立つ土手の木々。

 そして別の日には別の顔。

 道路のアスファルトを叩く雨音。湿った香りの中、土手の草の上で雨宿りしている蛙。低く垂れこめた雨雲のキャンバスに散りばめられた大小様々なビル。見慣れた風景のはずなのに一日一日が違う匂い、違う肌触りをボクとリトルに運んでくる。

 そして、しばらく前から道ですれ違うようになった、あのときボクと級友をおそってきた2匹のシェパード犬。犬たちはいつも太ったおばあさんを引っ張るように土手沿いを散歩している。おばあさんは、ふぅ、ふぅと息つぎをしながら遠くの方からボクらに軽く会釈する。

「おばあさん、たいへんそうだね」

 ボクはおばあさんに対する感想を初めて口にした。

『おじいさんが亡くなった後、朝と昼に、ずっとあの2匹の散歩をしてるからね』

「おじいさんが亡くなったの?……」

『うん、そうだよ。あの2匹に恐竜の姿を送ったとき、あの犬たちの頭の中にいたんだ、やさしそうな顔をしたおじいさんだったよ』

 いつの間にか分厚い雲がぼくらに降り注ぐ朝日をさえぎっていた。

『あの犬たち。あのとき、おじいさんが亡くなって、どうしたらいいかわからなかったんだ。寂しくて、イライラして、それでも答えが見つからなくて。だから代わりに散歩に連れてってくれた…』

「おばあさんの手を振りほどいて、おじいさんが、まだどこかにいるんじゃないかって探そうと思ったんだ。でも……」ボクはリトルの言おうとすることを引き取った。「おじいさんはいなかった。だから、どうしたらいいかわからなくて。寂しくて、イライラして。そして……。そしてボクや大森君たちに襲いかかっちゃったんだね……」

『コモンとコリン。小さな仔犬の頃から、2匹合わせて、「コモコリ、コモコリ」って、すごく可愛がられてたんだよ』

               *

 にわか雨がザーっという音とともに頭の上から降り注いだ。ボクは土手に掛かる電車の橋脚の下まで雨に叩かれながら力なく歩いていった。リトルは、なにか言いたそうだったけど黙っていてくれた。雨に混じってボクのほおを伝う涙を感じ取ったからだろう。リトルの心づかいがありがたかった。

『びしょ濡れじゃないか。カゼひいちゃうよ、モトヒコ』

「うん。わかってる」

 橋の下で雨宿りするボクの頭の中にリトルが静かに語りかけた。

『ぼくも大切なものを亡くしたことがあるんだよ』

「リトル……」

『あの2匹の犬たちや、モトヒコと同じように』

「知ってたの、リトル?」

『うん』

「いつから?」

『ついさっきだよ。君が急に元気をなくしたから。悪いと思ったけど、少しだけ頭の中をのぞかせてもらったんだ。ごめんよ』

「いいよ、謝らなくて」

『ねぇ、モトヒコ。目をつぶってみて』

「どうして?」

『いいから、つぶってみて』

 ボクはリトルの言う通りにした。

 そして目をつぶった瞬間、ボクはどこまでも澄み渡る真っ青な海の中にいた。太陽の光がカーテンのひだのように降り注ぐ中、見たこともない魚たちがのんびりと泳ぎ回っている。

「す、すごいや! なにこれ?!」

『驚くのは、これからだよ』

 リトルがボクの隣にいた。海の中で髪の毛が気持ちよさそうにユラユラと揺れている。ぼくは突然、泳ぎが苦手なことを思い出した。そして、

「い、息が……」

『心配しなくたって大丈夫』

 リトルの温かな手がぼくの手をにぎった。リトルの言う通りだった。ぼくたちは真っ青な海の中にユラユラと気持ちよく浮かんでいる。息苦しい事なんか、これっぽっちもなかった。

『行くぞ、それ!』

 リトルの掛け声とともにボクたちは、ものすごいスピードで海の中を突き進んだ。まるで自転車に乗って坂道を突っ切るみたいに。

『おーい! どけどけ!』

 魚たちはボクたちが近づく瞬間にパッと四方八方へ散っていく。この海の景色は、いったいなんだろう。

『モトヒコと知り合うずっとずっと前に、ぼくが友だちと経験した景色さ。ほら友だちの仲間も泳いでいるよ』

 ボクたちと並んで大きなイルカが泳いでいた。いや、よく見るとイルカに似てはいるけど別の生き物だ。あれは……。

『イクチオサウルス』

 そうだ。図鑑で見たことがある。確か……。

「海竜?……」

『そうだよ。この友だちは暖かい海で泳ぎ回るのが大好きだったんだ』

 ボクはリトルの記憶の中で海竜といっしょになって泳いでいる。海竜と友だちだったなんて、すごいや。

『ぼくは、ずっとずっと昔から多くの友だちの頭の中に住まわせてもらって、いっしょに生きてきた! これからもそうだよ!』

 いきなり目の前がまぶしい光に包まれた。イクチオサウルスが古代の太陽が照りつける海上に大きくジャンプしたんだ。

 そしてボクとリトルは大空をユウユウと舞っていた。吹きつける風が2人の体をさらに大空へ押し上げ、服がバサバサと大きな音を立てる。風に乗って海と陸の上をどこまでもすべっていく。やがてモクモクと煙を吹き出す大きな火山の近くまで行って急旋回。眼下には家もビルも街もない。ジャングルが広がっているだけだ。いまボクはリトルのまた別の友だち。翼竜の目を借りて誰も見たことがない数千万年前の地球の姿を見ている。火山の中では鈍いオレンジ色のマグマがグツグツとわきたち、そのふもとに広がる森林のあちこちでは、なにかがゆっくりと動き回っている。

「あれはなに、リトル?」

『行ってみるかい』

 ボクたちはグングン高度を下げて、その動き回るものに近づいていった。どんどん、どんどん高度が下がっていく。空気が目を開けていられないくらい激しく顔を打つ。

 森の中に突っこむと、今度は背の高い木々を見下ろす視点を手に入れていた。

 周りを見ると、背の高い木々のてっぺんから突き出す、数々の長い首が見える。ボクが一番好きな恐竜、アパトサウルスだ。アパトたちは巨大な体で、のっしのっしと木々の間を進むと、まだ大きな葉が残る枝から、それを噛み取り、象のようにゆっくりと噛みはじめた。視線を近くの草原に転じるとガリミマスの群れが騒々しく駆け抜けていく横で、パラサウロロフスとトリケラトプスが仲良く河の水を飲んでいる。すごい風景。まるで夢みたいだ。夢みたいにすばらしい現実。のんびり悠々ゆうゆうとした過去の世界。

 でも突然、空が暗くなり、周りの空気がびりびりと激しく震え出した。今まで幸せそうに過ごしていた恐竜たちが、不安そうに空の一点をふり仰いだ。空にはもう翼竜たちの優雅な姿は1頭も見えない。

「なにが起こってるの?」

『………』

 リトルがボクの手をギュッとにぎった。ボクはそこから恐怖の感情を読み取った。

『隕石だよ……』

「えっ?!」

 小高い丘の上に立つボクたちが見上げると、冷たい暴風が吹きすさぶ空の一点に血のような真っ赤なシミが現れた。そのシミは耳をつんざく轟音とともに、みるみる大きくなってくる。

 痛いほどリトルはボクの手をにぎった。

 そして両手を広げても足りないくらいにまで成長した真っ赤な隕石が太陽の光を飲み込んだ。

「そんなっ……そんなー!!……」

               *

 いつの間にか頭を抱え込んでいたボクは、固く閉じていた両目を開けてみた。頭の上では陸橋を通る電車の音が割れんばかりにゴーゴーと響きわたっている。しばらくして、ボクはリトルの記憶の世界から現実にもどってきたことを理解した。

「あの恐竜たち……」

『生きてるよ』

 リトルの声が頭の中に静かに流れた。ボクはリトルの言うことが理解できなかった。

「でも……でも、あの大きな隕石の衝突で、みんな……」

 目の前に白い服のリトルいた。

ぼくが忘れない限り、ぼくの中で、みんな生きてる』

 リトルは人差し指で自分の頭を指し、そしてその手を胸に当てた。

『忘れない限り、いつもいっしょだ』

「………」

『元気に生きてる。そして、ぼくの記憶の中で、いつまでも元気に遊んでる。会いたくなれば、いつでも思い出せばいいんだ。だから……』

               *

「ジィジも生きてる……」

 ボクは昨年、田舎の祖父を亡くした。大好きな祖父だった。ある朝、釣りに出かけようとして倒れ、そのまま帰らぬ人になった。両親からは心臓の病気だったと聞かされた。それを思い出すと今でも心が痛くなる。

『田舎の川に何度も釣りに連れて行ってもらったろ。どうだった、モトヒコ?』

「朝早かったから、ちょっと眠かったかな」

 いつの間にか隣に腰を下ろしているリトルにボクは力なく微笑んだ。

『大物が釣れた?』

「ジィジがね。ボクは一匹も釣れなかった。でも……」

『でも?』

 ジィジと過ごした日々が次々とよみがえった。田舎の村祭の夜店の賑やかさ。蚊に食われながらやった昆虫採集……。

「すごく楽しかったな」

 となりに座っているリトルの顔を見ているうちに、ボクは突然あることを思い出して陸橋の下から駆け出した。

 にわか雨がやんだ道を同じ学校の生徒たちが学校へと急いでいる。虹がかかった空の下、ボクはそれとは反対方向にどんどん走っていく。そのボクの姿を見た学級委員のイクミちゃんが目を丸くして声をかけてくる。

「モトヒコ君、学校は?!」

「雨で濡れたから着替えてから行くよ!」

 イクミちゃんとまともにしゃべれたこともそっちのけで、家に帰るなり、ボクは居間の本棚に置いてある、表紙がボロボロになった古いアルバムを引っぱり出した。そして猛烈なスピードでページをめくりはじめた。その中でジィジやバァバが笑っている。ボクや両親、姉もしばしば登場した。みんな若かった。ページをめくるスピードが遅くなるにしたがって、写真が古くなり白黒に変わっていった。アルバムの中でジィジやバァバはどんどん若返っていった……。

 これだ!

 一枚の古い写真をアルバムから見つけたボクは思わず小さな声を上げた。

「やっぱり。やっぱり、そうだったんだ……」

 そこにはボクと同じくらいの年だった時のジィジがいた。

 白い服を着て、リトルと瓜二つの姿で。

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