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 取りあえず大丸号を大型犬用のケージに入れると、博美は直ぐに居間に向かった。父、憲治に大丸号の話を聞くためだ。

 「お父さん?」

 見ると憲治はテレビの前に座って新聞紙を広げ、足の爪を切っている。パチンという音と共に親指の爪が飛んで、隣で一緒にテレビを観ていた院長の前に飛んだ。院長は目の前に転がった得体の知れない物体に鼻先を近付け、クンクンと匂いを嗅いだかと思うと直ぐに嫌そうな顔をした。一種のフレーメン反応だ。

 『院長! そんな汚いもん、触るんじゃないよ! ほらほら、そこどいて!』

 博美の強引な押しに負けて院長は立ち上がると、ふぁ~と欠伸をして、何処かに行ってしまった。博美は卓袱台を挟んで憲治の向かいに座る。

 「どぉしたぁ?」憲治は顔も上げず、足の爪に集中したまま呑気な声を上げた。

 そのやる気の無い感じが、どうも癪に障る。博美はむっつりとしたまま、卓袱台の上に伏せてあった自分の湯飲み ──そこには可愛らしい猫の模様が描かれている── を掴むと、もう冷めてしまった急須からお茶を注いだ。その渋過ぎるお茶をグィと飲み干し、気を落ち着かせる。

 「お父さん、大丸号って診たことある? オーナーがお父さんのこと、知ってるみたいだったけど・・・」

 「大丸? だいまる、だいまる・・ おぉ、あのハムか?」

 「そりゃ丸大ハム!」

 このどうでもいいオヤジギャグを経由しなければ、憲治との会話は始まらない。判っていても腹が立つ。ボケたのに突っ込まないと機嫌が悪くなるし。このままでは、どんな爺さんになるのか、はなはだ心配である。

 「わっはっは。ウケる~」憲治は自分の太腿を嬉しそうに叩いた。

 「ウケないから!」博美がピシャリと言うと、憲治はショボンとした。

 「あぁ、あの土佐犬だろ? 覚えてるよ。こんなに小っちゃくて・・・」と、両手を前に出して、バレーボール程の大きさを作る。

 それを見た博美が、両手をいっぱいに広げて言った。

 「今はこーーーんなにデカいけどね」

 「ほう、そうかい? そんなにデカくなったのか。そりゃ良かった」

 「良かった? それどういう意味? 病気でも有ったの?」

 「うぅ~ん・・・ そういうわけじゃないんだけどな。なんかこう・・・ 気が小さいんだよ、あの仔。他の犬とのオモチャの奪い合いでも、怖がって参加できないし」

 博美は目を丸くした。本当か、それ? 他の犬と間違えているんじゃないだろうか。

 「ホントに? よくそんなんで闘犬なんかやってるわね?」

 「闘犬だって!? 丸男の奴、本当に闘犬にしちまったのか、あの仔を? 確かに闘犬をやりたいとは言ってたけどな。俺は止めたんだぜ、『無理に決まってる』って」

 「丸男? あのヤクザみたいな人、そんな名前なんだ?」

 そこまで言って博美は、来院者が書くカードをちゃんと見てもいなかったことに思い当たった。確か職業は、ヤクザじゃなくて・・・ 大内土木工業、代表取締役・・・ だったかな? いわゆる土建屋の社長か。

 「そう、丸男。大内丸男。だからあの犬は大丸号なんだ。わっはっは、ケッサクだろ!?」

 たいしてケッサクでもない気もするが・・・

 「そっか・・・ じゃぁ、一応カルテは有るのね?」

 「えぇ・・と・・・ んん~、どうだったかな・・・」

 話の雲行きが怪しくなってきたのを敏感に察知した憲治は、そそくさと新聞を畳んで立ち上がろうとした。

 「あっ! チョッと、お父さん! 少しは手伝ってよっ! お父さんの下っ手くそな字で苦労してるんだからっ!」

 「今更、昔のカルテをパソコンに入れたってしょうがないだろ? 俺、パソコンなんて使えないし。だいたいマウスって何だ? そんな物、お前に任せマウス、なんちって! がーっはっは!」

 「クソつまんないわよっ! だって、大丸号みたいな例も有るじゃない! 昔のカルテが有用なことだって有るのっ!」

 しかし憲治は、それ以上カルテの話をするつもりは無いようだ。

 「さぁ~て、そろそろ風呂にでも入るかな~」

 「じゃぁ、カルテはいいから、その丸男さんって人について教えてよ。親しそうだけど、まさか本当にヤクザじゃないんでしょ?」

 「丸男か? アイツは俺より足が臭いぞ」

 「んなことは、どーでもいいのっ!」博美のこめかみに青筋が立つ。

 「アイツは俺の小学校時代のクラスメイトだったんだゼ」

 何故だか自慢げな憲治に、博美がひっくり返った声で聞き返す。

 「はぁ? クラスメイト!?」

 「あぁ、クラス一の悪ガキだったな。日光への修学旅行の帰りに、バスん中でウンコ漏らしちまったから、いまだにアイツのことを『ウンコ君』と呼ぶ奴もいるぞ。ウッシッシ」

 「貴重な情報、ありがとう」

 博美は片肘で頬杖を付くと、明後日の方向を向いた。

 「まだ有るゾ。あの当時の俺たちの担任は若い女教師でさ、生徒が寝静まった夜中に先生たちが大浴場に入ってる時に忍び込んだんだよ、脱衣所に。で、コッソリ下着を盗んだのはアイツだ。本人は誰にもバレてないと思ってるが、どっこい俺はお見通しってわけさ」

 「何それ? どうしょうもないクソガキじゃない」

 博美の頭の中で、あのヤクザなオヤジがシュワシュワと縮んで、手が付けられなさそうなガキ大将に変貌した。目に浮かぶようだとは、このことだ。

 「しかも盗んだのがお目当ての先生のじゃなく、一緒に入浴していた学年主任のオバチャン先生の下着だとさ! 翌朝の朝飯の前、生徒全員が集められてそりゃぁもう大騒ぎさ。んで、それが判明した時のアイツの顔ときたら・・・ クックック・・・ 今思い出しても笑えるぞ。両目と口だけ穴の開いた埴輪みたいでさぁ。わーっはっは」

 「もういいわ・・・ 聞いた私が馬鹿だった・・・」

 憲治は畳をバンバン叩いて大笑いだ。ついでに埃が舞い上がって、憲治がゲホゲホと咳き込んだ。それでも昔話は止まらない。

 「何だ、もういいのか? まだまだ、とっておきの話が有るゾ! がははは!」

 結局、そのとっておきの話とやらまで聞かされて、博美はため息を漏らしながら居間を出た。そして最近、自分がため息ばかりなのは父のせいなのでは、と思い当たったのであった。

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