第一章:大丸号(土佐犬♂)

追想 1

 暗く沈んだ谷底に凛とした空気が忍び込んできた。このような空気が、今までどこに潜んでいたのだろう? 幾重にも重なる葉影や下生えの合間に、それらは潜んでいたのかもしれない。日が傾き、西側の斜面が色を失うのに併せそれらが徐々に集結し、目に見えない大きな生き物となって、この谷筋に舞い降りて来たかのような錯覚が襲った。その透明な意志は怖ろしくもあり、また優しげでもあり、博美はその大いなる力の前に自分の無力さを痛切に感じていた。自分のちっぽけな命が他の何物かの手に委ねられているという感覚は、むしろ心を落ち着かせるのだということを博美は幼いながらも意外な気持ちで受け止めていた。それは、その何者かに殺意などは無く、ただ圧倒的な自然の力によって必然的に失われる命と、必然的に存続する命が存在するだけであるからかもしれない。その大きな生命の脈動に自分が、自分の命が、自分の存在の全てが取り込まれたのを知った瞬間、博美は野生の一部と化した。


 谷の東側斜面も今や、微かに青みを残す夜空にその稜線を曖昧に描くのみで、日中の青と緑のコントラストは失われている。幾億もの蝉が創り上げる巨大な音の壁は姿を消し、風が吹く度に揺らぐ木々が葉を擦らせる音が取って代わった。それは、壮大な協奏曲の第一幕が終焉し、厳かな第二幕が始まったかのような劇的な変化である。明るくて軽快なテーマは影を潜め、重厚で沈痛な旋律へと移行したのだ。チリチリと鳴く虫たちの声が優しい。時折、遠くの何処かで羽を休める鳥が奇妙な声を上げ、博美をドキリとさせる。その度に顔を上げて辺りを見回しても、彼女の目には何も映らない。諦めた博美はブナの大木の根元に座ったまま、またその頭を樹皮にもたせ掛けた。そうしていると、この巨木の内部を血液の如く流れる水の音が聞こえる様な気がした。それはきっと、母なる大海を泳ぐクジラたちが聴いている音と同じなのではないか。そんな夢想が博美を眠りの淵に引きずり込もうとしていた。


 その時、遥か彼方から近付く邪悪な意志を感じた。それが博美を幸せな眠りの深淵から引き摺り上げる。何だろう? 得体の知れない何者かが、明らかな意図を持ってこちらに向かって来ている。それも複数。そしておそらく、それらの意志が目指すものとは・・・ 博美は飛び起きると、脱兎の如く駆け出した。邪悪なる者たちは、下流側の枝沢の向こう側に切り立つ尾根を越えてこちら側に迫ろうと、急峻な土手の背後を駆け上っているようだ。博美は彼らとの距離を保つため、上流に向かって藪を漕ぎながら走った。しかし真っ暗な森の中では何も見えない。木々の隙間をぬって差し込む月明かりが、所々を薄ぼんやりと浮かび上がらせてはいるが、とても走り抜けられるような視界は得られなかった。元々、道など有ろう筈も無く、障害物を掻き分けながら進む博美の足は遅々として、いずれ追っ手に追いつかれるのは時間の問題であった。そして遂に、追っ手たちが下流側の尾根筋を越え、こちら側に身を躍らせた。

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