19-2

 二年後。

 仕事にも慣れて、土木の資格もある程度取り、生活に余裕が出てきた頃。


 何気なくつけたドキュメンタリー番組を見てると、ふと、違和感を覚えた。


 「ALS」という病気。

 その初期症状が、彼女の「ドジ」に酷似していたんだ。



 ――――筋萎縮性側索硬化症(ALS)。

 筋肉がだんだん弱く細くなる神経変性疾患で、有効な治療法はなく、さらに、患者のほとんどが発症から五年で死ぬ。初めはこけることが多くなったり、よだれを垂らしやすくなったりする。ペンが持ちづらくなるため、字も下手になる。

 最終的に、呼吸筋が弱り、死亡する。



 まさかな、とは思いつつも、俺はいてもたってもいられなくなって、その週末に周辺の国立病院をまわった。広岡シズネという名前だけで、他には何も知らなかったから。


 そして、これで終わりにしようと思っていた、三つ目に訪れた国立病院。

 お見舞いなんてあんまりしたことが無かったし、何を持って行けば良いのかが分からなかったから「クマのぬいぐるみ」を片手に。本当にALSなら何も食べられないだろうし、仮にそうじゃなかったとしてもセンスのない俺ってだけで終わるから。


 病室に行く前は、少しドキドキした。

 もし違ったらすごく恥ずかしいし、本当に寝たきりなのならどんな顔をすればいいか分からなかった。俺がただ恥ずかしいだけで終わればよかったんだけどな。



 ――――本当に、居た。

 看護師さんに、隔離病棟に案内された時から覚悟はしていたけど、ここまでとは。



 俺の悪い推理は、全て当たってしまったんだ。広岡は本当にALSで、病室に訪れた時、空虚に天井を見つめることしかしていなかった。あの小生意気な声を、聴くことができなかった。

 あの時よりもやせ細り、清潔な空間にいるせいか、ニキビも無くなって髪も艶々。不謹慎で最低だと分かっていたが、可愛く見えた。過去が嘘だと思えるくらい。



「どちら様ですか?」


「え、と、上原基之、です」



 広岡の介助者は、浅川さんといって、四十代前半の女性だった。いかにも普通のおばちゃんだったが、微笑むときにできる目元のシワで、よく笑ってきた優しい人なんだと理解した。



「上原、君?」


「え、はい」


「……本当に!?」


「何か、聞いてるんですか?」


「シズネちゃんから、初めてできた友達だと、伺っています。何度も何度も、嬉しそうに教えてくれました」


「……」



 広岡とは、浅川さんを通して、眼球運動で会話をした。「きたんだ」「べつにこなくてよかったのに」、といつもの彼女らしいことを言って。それ以上は何も話さなかった。



「ごめんねぇ。この子、すごくうれしいはずなのに」


「……広岡の、ご両親は?」


「一週間に一度、数十分くらいしか、来ないわ」


「……」



 その声はすごく湿っていた。喉奥に引っ掛かる何かをぐっとこらえつつ、俺に彼女のいきさつを話してくれた。


 彼女はいじめで引き篭もるようになる前から、ALSと診断されていたらしい。そして、日常生活への支障が顕著にみられるようになってきたため、入院をし始めた。これがちょうど、卒業式の日。本当は二月半ばから入院するはずだったが、だらだらと彼女が引き延ばしたらしい。

 ……俺と、約束をしていたから。


 浅川さんは、彼女のいじめや自殺について知っていた。それを止めたのが俺だということも。「念力」のことは話していないらしく、話題には上がってこなかった。

 自殺を試みたのは、入院するとそこから抜け出せなくなって、死ぬことができなくなるためだ。当時、既に余命を宣告されていたし、自分がどうなるかも嘘偽りなく話されていた。


 「三年」「寝たきり」と。


 彼女は彼女なりに青春を謳歌し、いざ逝かんと、あの時、屋上から飛び降りた。たとえその青春が、人と比べて醜く惨めなものだったとしても。



「あらら、ごめんなさいね」



 浅川さんから不意に涙が零れた。その場にある絶望に、必死に蓋をするように明るく話す。

 確かに、彼女は嫌味な奴だった。ALSなしでも、人から嫌われるような言動や容姿をしていたから。でも、この二年間、彼女は絶望と戦い続けたという事実は変わらない。俺はそれを……。



「どうして……諦めなかった?」


「お ま え の せ い し つ こ く た す け て き た」


「……ごめん」


「あ や ま る な ば - か……シズネちゃん、『ありがとう』は?」


「別に言わせなくていいですよ。その方が彼女らしい」


「……聞いてはいたけど、上原君も変な人ね」


「こいつには叶いません」



 クマの人形を差し出すと、「いらないけどもらっとく」と答えた。浅川さんは代わりに謝ってくれたが、予想通りの返答だったから傷つかなかった。


 病室にいたほとんどの時間は、浅川さんとの話で潰れて行った。中卒で働いてると話したら、少し驚いた顔をしていたが、「上原君なら安心ね」と笑ってくれた。

 たった一か月ちょっとの出来事を、浅川さんは根掘り葉掘り照らし合わせてきた。その間、何度か広岡に意見を聞いたが、何も返すことは無かった。



 時は過ぎ、夜。浅川さんが帰ってしまうことに。普段は泊りがけで世話をしているが、この日から三日は外せない用事が出来てしまったらしい。明日の朝には代わりの介助者が来るが、それまで広岡は一人になってしまう。帰りたいなら帰っても良いと言われたが、なんとなく帰れずにいた。

 インフルエンザが流行ってない時期でよかったと思う。でなけりゃ、長くは滞在できなかっただろうから。


 二人きりで、無音の病室。何も話す内容が無くなって、しばらくは無言だった。いや、本当は彼女は語り掛けていたのかもしれない。けれど、俺が文字盤を持つまでは、一切話すことができなかった。


 消灯。午後九時。

 そろそろ帰ろうかと思ったとき、ふと、文字盤を持って見様見真似で話してみることにした。



「えぇと、そろそろ帰るね」


「そ と に い き た い」


「……?」


「さ い ご に お ほ し さ ま が み た い」


「……無理だよ。呼吸器を外さないといけない」


「お ま え の ち よ う の う り よ く で」


「……」


「で き る ん で し よ」


「無理だ」


「お ね が い」



 呼吸器は、電源コードを抜いてもしばらくは独立で動くようになっているらしい。内部バッテリーがどうとか、ゆっくり説明された。

 ふと、外を見ると、雨が降っている。明日まで止みそうにない。だが、俺なら、彼女に星を見せてやることができる。



 すごく悪いことをしてると思いながらも、窓から外へ連れ出した。医者に怒られ、彼女の家族にぶたれる覚悟もあった。念力なら、雨に濡らさず、身体に無理もさせず、運び出すことはできる。

 身体に負担をかけないように、ゆっくり、雲を突き抜け飛び上がる。彼女の体が異様に軽かったのを覚えている。中身がすっからかんで、悔しくなった。


 黒雲を突き抜けた先にあったのは、満天の星。あの光は、何万年、何億年前の星の爆発。きらきらしているあの一つ一つに、神がいないのが不思議なくらい幻想的だった。



 なぜ人は、星を見ると夢を抱くのか。

 生にしがみつくのか。

 神を信じたくなるのか。



 「どうか彼女を救ってあげてください」と、名も姿も無い神に祈ったことは確かに覚えている。



 広岡は泣くことは無かった。表情一つ変わらなかった。

 できなかったのか、しなかったのかは、今となっては分からない。





 そんなに長くはいなかった。十分くらい。無事に帰ってこれて、一安心。

 そうして、星の感想を求めようと、文字盤を彼女の前に掲げた。



「こ ろ し て」


「……」


「こ ろ し て」


「……っ」



 だが、何度試しても、「ころして」の四文字に彼女は眼を動かした。

 何度も何度も何度も……。



「できるわけないだろ」


「お ま え に こ ろ さ れ る の な ら ほ ん も う」


「……だからって、できないものはできないんだ」


「ま つ て よ か つ た」


「何を?」


「う え は ら が く る と し ん じ て よ か つ た」


「……でもっ」



 結局、俺は何もせずに帰った。

 声も上げることのできない彼女を放って、背中を向けて、いそいそと。卑怯だとはわかっていた。でも俺は臆病者だった。





 三日後。とあるニュースが日本中を震撼させた。

 「ALS患者を介助者が意図的に殺した」というもの。被害者の名を「広岡シズネ」、加害者の名を「浅川アツミ」。この一件をきっかけに、「安楽死」についての議論がテレビでしばらく行われるようになった。


 その時の感情は、良く思い出すことができない。悲しかったのは憶えているのだが、それ以上に悔しさがあった気もする。


 確か、裁判では浅川さんに執行猶予が付いたはずだ。世にも珍しい殺人事件での執行猶予。ネットでも、彼女を批判する声は少なかった。広岡の両親も、そこまであいつを気にかけている様子は無かったし、寧ろ殺されてラッキーとでも思っていたのかもしれない。


 念力は病気を治せない。だが、そもそも念力が無ければ、彼女の命は出会った瞬間に終わっていた。終わらせるべきだったのだろうか?

 これだけ激震を走らせた出来事も、一週間たてばテレビが忘れ、一か月たてば話題にもならなくなり、一年たてば俺の記憶からも消えてった。



 ☆



「……っていう話だ」


「すんごい人生……。その、えっと、もっきゅんが親を殺したってのも初めて聞いた」


「あれ、言ってなかったか?」


「……大変だったんだね」


「広岡よりだいぶマシだし、君よりもマシ。それに俺は『忘れていた』んだ。結局、俺にとっては合計して二か月にも届かない出来事だったんだから。泣きはしなかったよ」


「私はそのニュースすら、思い出せないよ」


「……」


「ってか、恋バナ!? 全然違うじゃん!」


「……あいつとなら、ずっと一緒に居てもいいって思った。ただそれだけ」


「恋愛偏差値低すぎない!? 女心分からなすぎじゃない!?」


「うるさい」


「ねぇ、安楽死ってどう思う?」


「すごく良い案だと思う。合理的、道徳的観点から見ても、非の打ちどころのない素晴らしいモノだ。本人の希望通りに逝かせてあげられるし、無駄な医療費もかからない。でも、俺は大っ嫌いだ」


「……理由は?」


「ないね。ただの感情論だ」

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