第四章「はつ恋/イワン・ツルゲーネフ」

『わたし、こっちで上から見下ろさなくちゃならないような人は、好きになれないの。わたしの欲しいのは、向うでこっちを征服してくれるような人――』

 デートの前日、私はイワン・ツルゲーネフの「はつ恋」と言う小説のこの節を読んで感動していた。

 自分の心情をこれほどまでに表した台詞が今まであっただろうか。

 そう、私の手の平で踊るような男になど興味はない。

 恋をするなら――そう、ちょうど郁也のような私の心を振り回してかき乱してしまうような人がいい。



 思わずため息が漏れる。

 ヒロインのジナイーダは高慢ちきで嫌な女に見えるけど、私は彼女の考えに同調してしまった。

 そして彼女の恋する気持ちも私はわかるのだ。

 そう、私は征服して欲しい。

 有無を言わさず私を恋の奴隷にしてしまうようなそんな男と情熱的な恋をしてみたい――

 自分の年齢もわきまえず妄想にふけっていると、スマホが振動した。

 何気なく見るとそこにはLINEの画面で「岡本郁也」の字があった。

 私は思わずにやついてしまう。

 そう、デートに備えて私達は個人的な連絡先を交換していた。


 向坂若菜は郁也の連絡先を知っているのだろうか。

 そう考えかけてやめた。

 嫉妬はどこまで行っても止まらないと経験上わかっているからだ。

 わかっていることだらけなのに――何故だか少女のように心が浮き立っているのも自覚する。

 こんな恋は初めてかもしれない。

 私はスマホを抱きしめるとベッドに倒れこんだ。


 ああ…私はどうしようもなく郁也が好きだ。




 デートの当日になった。

 私は派手すぎないようになるべく地味な形のワンピースに、ストッキングを履いて挑んだ。

 髪の巻き方もいつもより控えめにしてある。

 向坂若菜の清楚さが眩しく見えたからって真似しなくても…と自分で自分に突っ込みを入れるが、空しくなった。

 待ち合わせ場所のバス停で足元を見つめていると、突然後ろから背を軽く叩かれた

「わっ」

「きゃあ」

 反射的に振り向くとそこには無邪気な笑顔を浮かべた郁也がいた。

「驚きました?」

「え、ええ…びっくりした」

 郁也にもこんな悪戯っぽいところがあるのだな。

 と言うか早くも翻弄されている。

 郁也からの初めてのボディータッチ。

 だめだこれは深みにはまる。



 デートの場所は美術館だった。

 文化系の郁也らしいセレクトだ。

 

 美術館では会話も少なく、お互いにじっくりと絵画を楽しんだ。


 そしてお昼時になり、私達は美術館の近くの公園でランチをとることにした。

 ベンチに二人並んで腰掛け、私は緊張しながら早起きして作った弁当を差し出す。


「ありがとうございます」

「い、いえ…お口に合うといいのだけれど…」

 正直普段自炊なんてしないから自信は全くなかった。

 郁也は嬉しそうに弁当箱を包んであるナプキンを解くと、勢い込んで食べだした。

 咀嚼する顔は、相変わらず何を考えているのかわからない。

 自分でも一口食べてみた。

 案の定不味い。と言うかやはり珍味の味がする。

「ご、ごめんね…いつも美味しくなくて…」

「そんな事ないですよ。美弥子さんの料理は個性的で僕は好きです」

 郁也の優しさに鼻の奥がつんとする。

 そんなに気遣ってくれなくていいのに。



「と、ところでさ」

「はい」

 弁当を食べ終わり、片付け終わると私は何気なく切り出した。

「郁也さん彼女いないのよね?私とデートしてるってことは」

 自分でも声が強張っているのがわかる。

 なんとも情けない。

 これが三十歳の女の台詞か。

「…まだ当てられないんですか?」

 郁也は意地悪そうに微笑んでいる。

 どうやら教えてくれる気はないらしい。

 私も意地になる。

「もう。そろそろ教えてくれてもいいじゃない。…あの…あの子じゃないわよね?」

「あの子?」

「あの…向坂若菜さん」

 郁也は一瞬押し黙るが、次の瞬間可笑しそうに笑い出した。

「な、なによ笑わなくてもいいじゃない」

「いやだって、美弥子さんらしくないなぁと思いまして。若菜さんはただのお客様ですよ」

 じゃあ私は――?

 聞きたい。聞きたいけど聞けない。

 喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。

 何故踏み込めないんだろう。


「…恋は罪悪ですから」

 郁也はふ、と寂しそうな顔で漱石の一節を口にする。

 私はその横顔に見惚れて彼の気持ちが推し量れないでいた。

 恋は罪悪――それはあなたは恋をする気がないってこと?


 どん、と突き放された気がして私はその後しばらく黙ってしまった。

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