第二章「星の銀貨/グリム兄弟」

 私には父も母もいない。

 私が高校生の時に二人とも事故で亡くなってしまったのだ。

 以来私は、一人でも図太く生きていってやる、と持ち前の美貌を盾にして男に貢がせ、好き放題やってきた。

 でもそんなやり方が通用するのも若い内だけだ。

 与えられるだけで何も返さない私に男は大体愛想を尽かしてすぐに去って行った。

 私はきっと曲がって育ってしまったのだろう。

 三十歳になり、行き後れ、今ようやく実感している。



「――どうですか?『星の銀貨』は」

「短いのに身につまされるわ」

 私はいつものカウンター前の椅子に座り、クリーム色の表紙の本を読んでいた。

 薦められるがままに『星の銀貨』と言う作品を読むと、その主人公は私と同じで両親がいないのだが、とても健気だった。

 自分が持っているなけなしの物を通りすがりの人に次々と与えていくのだ。

 私だったらこんな事はできない。

 物語の中の少女にまで負けてしまった。


 こんなんだから結婚できないのだ――


 私は浅くため息をついた。


「買うわ」

「毎度ありがとうございます」

 郁也は私の提示した金額をレジに打ち込むと、いつも通り星空色の袋に詰めて丁寧に差し出してくる。

 その袋を両手で受け取ると、私は最近日課になりつつある郁也との会話モードに入った。

「ねえ、郁也さん」

「はい」

「郁也さんっておいくつ?」

「いくつに見えますか?」

 美形は不敵な微笑みも画になっている。

 正直な話郁也は年齢不詳だった。

 二十歳くらいかと言われればそうとも見えるし、三十歳を越えていると言われても納得できる程落ち着きがある。

「そんなのわかんないわよぉ」

「では、当たるまでトライしてみてください」

 にっこりと笑う郁也を見てみると、この人案外Sっ気があるのかもしれないぞ、と少しドキドキする。

 女性は「少しサディスティック」に弱い人が多いが、私もその類だった。

「じゃあ質問を変えてもいい?」

「どうぞ」

「彼女はいるのかしら?」

 我ながら勇気を出してみたと思う。

 沈黙が流れる。これは…がっついてると思われただろうか?

 すると、不意に郁也がくすりと笑った。

「それも当ててみてください」

「もー郁也さんずるい!」

 軽く腕を小突く。これくらいのスキンシップは許されるだろう。

 郁也はニコニコと笑顔を崩さない。



 ふと思い立った。

「ねえ郁也さんは星の銀貨好き?」

「好きですよ。少女の健気さには心が温かくなります」

「ふぅん…そうか」

 郁也は尽くす女が好き、と心のメモに書き込む。

「今日はこれで失礼するわ。ありがとう」

「こちらこそお買い上げありがとうございます」



 すっかり遅くなってしまったが、スーパーに寄って帰る事にした。

 目的のものがまだありますように。



 次の日曜日、私は小麦粉や砂糖、卵や牛乳を目の前にして、腕組みしていた。

 勢い込んで材料を買ったはいいものの、私はお菓子など作った事がない。

 クッキーってどうやったら美味しく焼けるのだろうか。

 脇には既に消し炭の失敗作が山となって盛られていた。

「今までバレンタインも買った奴のがおいしいと思って全部既製品だったしなぁ…」

 いよいよ困ったが、何度もトライして見る事にした。

 目指せ、尽くす女。

 せっかくだから星の銀貨に倣ってパンを焼こうかとも思ったがさすがに難易度が高いのでやめた。

 なんとか焦げていないクッキーが出来上がった頃にはすっかり日が暮れていた。

 午前中から焼き続けていたのに、なんたるザマだ。

「待ってろよぉ郁也」

 私は急いで身支度を整えて、念入りにメイクをする。

 髪も巻いてビシッと決めると急いで家を後にした。

 ピンクのラッピング袋に包まれた不恰好なクッキーを鞄の中に忍ばせながら。



「僕に、ですか?」

「そう、焼いたの。クッキー。よかったら食べて」

 郁也はきょとんとしている。

 いつでも余裕の笑みを崩さないのに、私の行動は予想外だったらしい。

「では早速いただきます」

 郁也がラッピング袋からクッキーを取り出し、一口かじる。

 咀嚼するその顔からは感情が読み取れない。

「ど、どう?」

「いいと思います。なんと言うか味わったことのない味がします」

 真顔でそんな事を言っている。

 味わったことのない味?

「ちょ、ちょっと私も一つもらってもいいかしら」

「どうぞ」

 そういえば味見をしてこなかった――そんな事を考えて慌ててクッキーを口に運んだ。

 その瞬間衝撃を受けた。

 しょっぱい。しかも生臭い。

 何故クッキーなのに珍味のような味がするのか?

 私は理解できずに呆然としていた。

「どうかしましたか?」

「…っごめんなさい!不味かったわよね、ごめんなさい!」

 私は慌ててクッキーの入った袋を取り上げようとするが郁也はひょいと腕を持ち上げ、それを拒んだ。

「ダメですあげません。僕がもらったものですよ」

 拗ねたような口調が可愛かった。

「で、でも不味いでしょう?無理しないで」

「無理なんてしてませんよ。美弥子さんが心を込めて作ってくれたんです。嬉しいですよ」


 ふんわりと微笑む郁也に私は胸が締め付けられる思いがする。

 ああ、ああこの人はなんでこんなに私の心を奪うのか。

 


 その時私は、もう引き返せない程にこの郁也と言う青年に惹き付けられているのだ、と悟った。

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