第36話 『どうでもいいお話』

 ——その後。


 持てる限りのあらゆる手練手管をフルに使い、部活の先輩、それも女子にエチエチライトノベルの記念すべき第一巻を拝借する約束を見事に取り付けてみせた智悠ちひろは、達成感もそこそこに家路についていた。


 原因には皆目見当もつかないが——何だろう、学校を出てからというもの、妙に心が軽い。


 ウキウキ気分だ。

 浮き足立っているのが自分でもわかる。なんなら多分数センチ浮いている。


 形容するならば、遠足前日になかなか寝付けない小学生の男の子のような高揚感。


 名実ともに小学生だった当時は微塵も感じなかったあの興奮が、数年もの時を経て高校生になった今、こんな形で我が身に湧き上がってこようとは。


 人生とは、なかなかどうして数奇なものである。


 と、徐々に、されど確実に、黒髪痴女の猛毒にその身も心も侵されつつあるとも露知らず。


 小日向こひなた智悠は、鼻歌混じりに上機嫌で通学路を闊歩し——、


「——だってのに、なして君はそんな顔をしているんだい?」


 気味の悪い好青年口調で、隣を並んで歩く小柄な少女——真白ましろハナへと問いかけた。


「……」


 ハナは無言でこちらを見上げてくる。


 ——その瞳が、これまでに見たことがないほどに腐り果てていた。


 世に存在する数多の怨嗟の念を集めて煮詰めて初めて完成するであろう、昏く陰り濁った瞳。


 あの見る者全てを魅了する浅葱色の輝きが、今や完全に失われている。


 心なし、透き通るような金色の髪も、若干くすんでいるような気がした。


 ——何故、あの可憐な女神がこれほどまでにやつれた表情をしているのか。


 はじめは智悠の気色悪い好青年ムーブに魂を汚されたのかと思われたが、どうやらそうでもないらしい。


 というのも、ハナのこのやさぐれた顔は、校門前で待ち伏せていた彼女と鉢合わせた時からずっと続いているからだ。


 吐き気を催す邪悪が自分ではないとわかり安堵する智悠だが、ならば、果たしてその事実が意味することとは。


「——で。今日は部室来てなかったけれど、何があったんだ?」


 そろそろ飽きてきたので好青年ムーブを引っ込め、いつもの調子で軽く尋ねる。


 ハナはぼーっと前を向いたまま、「はぁ」と重苦しいため息を吐き、


「……言いたくありません」


 と言った。小さな唇を尖らせて。


 あの天真爛漫な彼女がここまで言うとは、どうやら相当滅入っていると見受けられる。


 智悠としても、ここまで憔悴している人間——否、女神に「いいから話してみろ」と迫るほど無神経ではないつもりだ。


 ここはあえてスルーしてあげる優しさを発揮する場面だろう。


 そう考えた智悠は、何も気にしていない風を装って、


「まあ、言いたくないってんなら無理には訊かないけれど……」


 と、『俺はわかっているぜ』感丸出しの安い演技を披露。


 それを聞いたハナは無理やりに作ったような苦い笑顔で、


「そうしてもらえると助かります。何せあんなに怒られたのは久しぶりなので……」


「言ってるじゃねえか」


 早々に化けの皮が剥がれた。


 どうやら誰かに怒られて凹んでいるらしい。


 口にしてから、ハナは気づいたように「あ……」と口元に手を持っていく。


 いつもの癖でつい反射的にツッコんでしまったけれど、別に彼女はボケたわけではなく、本当に失言してしまった様子。


「なるほど、別の意味でボケてたわけか」


「ぼ、ボケてませんっ!」


 うんうんと頷く智悠に、ハナが頬を膨らませて憤慨する。


 わずかだが常の活気が戻ったことで、完全に塞ぎ込むほど大事ではなかったと密かに一安心。


「……で? 怒られたって?」


 ハナの失言を引き取り、彼女が隠そうとしたであろう話題を蒸し返す。


 こんなキラーパスを空振りしてあげるほど、智悠は優しくはないのだ。


 スルーする優しさなんて存在しなかった。


「……」


 やはりハナは渋ったけれど、分が悪いことを感じ取ったのか、やがて観念し、


「……放課後、いつものように部室に向かおうとしたところで、ある先生に呼び止められまして。少しお話した後、そのまま職員室に連れて行かれて……」


 訥々と語る声はどんどん尻すぼみになっていき、そこまで明かしたところで、ついにハナは黙り込んでしまった。


 だが、その先は言われなくともわかる。


 職員室に連行された後、何かしらの理由でその先生にこってり絞られたのだろう。


 ハナの様子から見て、それがかなり激しめに落とされた雷であったことは想像に難くない。


「……何故、人はあんなにも怒れるものなのでしょう……」


 形の良い眉を曇らせて、無理解に唸る女神。


 とはいえ——これは妙だ。


 智悠の知る限りにおいて、『真白ハナ』という女子生徒は周囲の人間からの受けは良い。


 転入した当初は、天界と人間界の世界観錯誤から、見当違いの発言で周りを戸惑わせることも多かったけれど。


 徐々に学校の常識にも馴れた今、むしろそれが彼女の『味』だと手前勝手に解釈され、今ではクラスのマスコット的存在だ。


 そんな彼女が教師にこっ酷く怒られた理由とは。


 そこはかとなく気になるところではあるけれど——、


「……まあ、その、なんだ」


 と。


 虚空に視線を彷徨わせながら、智悠は呟いた。


 それは隣の少女に向けて言ったのかもしれなかったし、あるいはただの独り言だったのかもしれなかった。


 どちらにしたところで、そんなのは些末なことだ。


 兎にも角にも、彼は呟いた。


 人の怒りに無理解を示す『慈愛』の女神を、あるいは自分自身を、はたまたそれ以外の何かを——慈しむように。


 愛しむように——なんて気概などなく。


 ただ、何となく。

 彼女の零した言葉を聞いて、思ったから。


 人間らしく、ぼやく。


「……世の中にはさ、いろんな人間がいるよな」


 ちらと隣を見る。


 ハナは怪訝そうな顔をして、じっとこちらを見つめていた。


「本当に、下界ここはいろんな人で溢れてる」


「まあ、それはその通りだと思いますが……」


 言わんとしていることを測りかねているのか、ハナの声には戸惑いが混じっていた。


「うん、そう。だからさ、ハナが言う怒る人間ってカテゴリー一つ取っても、いろんな奴がいるんだよ。怒るのが目的の奴もいれば、怒るのを手段にする奴もいるんだ。——そんで、後者の場合は『怒る』ってよりも『叱る』って方が正しい」


「——」


 一瞬、少女の目が驚きに見開かれた。


 それに構わず、少年は続ける。何でもないことのように。


「今日ハナを怒った奴がどっちだったのかは知らないけど——大事なのは見極めだよ」


「見極め……?」


「そう、見極め。目の前の相手がただ怒っているのか、それとも叱っているのか……その見極めだ。そんでもし叱っているなら、一体そいつは何を叱っているのか、また見極める。見極めて、振り返って、内省する。まあ、そこに正しさがあるかはわからないけれど……少なくとも、間違っている可能性はあるわけだ」


 そして、どちらにしたところで。

 あるいは両成敗だとしても。


「それを自覚することが成長の第一歩なんだろうよ。だからまあ、人が、大人があんなにも僕たちを怒れるのは——叱れるのは、何かしら、伝えたいものがあるからだろうさ」


 奴に心で怒る。

 その心を力にできるよう努める。


 ——何て言えば、幾分聞こえは良いだろうか。


「まあ、知らんけど」


 中途で猛烈に恥ずかしくなり、最後はそんな風にお茶を濁すことで締めくくった。


 全く、何を言っているんだか。


 いくら何でも、先の今で影響を受け過ぎだ。


 恥も躊躇いもなく、この頭を優しく撫でてくれた、あの人の。


 ついさっきまでエロ本でウハウハしていた男子のものとは思えない発言を受けて、ハナは感心したような吐息を零す。


「……智悠さん、良いこと言いますね」


「どうでもいいことを言ったんだよ」


「……ふふっ」


 ハナは笑った。

 大きな瞳を、可笑しそうに細めて。


 薄い藍色が、その美しい輝きを取り戻している。


 たったそれだけのことで言って良かったなんて思えてしまうのだから、まったく男という生き物は単純だ。


 調子を取り戻したハナが、こちらの顔を覗き込みながら訊いてきた。


「智悠さんも、叱られた経験がおありで?」


「そんなもんしょっちゅうだよ。叱られる毎日だ。その度に反芻して、反省して、反駁してる」


「反駁しちゃってるじゃないですか」


「今朝だって朝ご飯のサラダについてきたプチトマトを残そうとしたら、真綾まあやにこっ酷く叱られた」


「ああー……、言われてみれば、何か揉めていましたね」


「『好き嫌いしないで残さず食べなさい』だってさ。まったく、あいつは僕のお母さんかよ。トマトはナス科だからナス食ってりゃ大丈夫って言ったらミドルキック食らったし」


「ナスじゃなくてミドルキックですか」


「そこはいいだろ」


「トマト、嫌いなんですか?」


「嫌い嫌い。無理無理。もうね、あの『グジュッ』って食感が駄目。何だよ、『グジュッ』って。この効果音、トマト食う時にしか使わないだろ」


「そうでしょうか? 私は美味しくいただきましたが……」


「世の中にはさ、いろんな奴がいるよな」


「……ぷふっ」


 上手い具合に落ちたところで、トマトの話題はこれにて終了。


 さっきの今で話の落差が激しかったし、これ以上続けると今朝味わった嫌な食感がぶり返してきそうだった。


 それからしばらく、言うに及ばないくだらないやり取りを交わしながら、二人は並んで通学路を歩いて行く。


 西の方角に沈む太陽、夜の色に変わりゆく空の下。


「——あ」


 そして気がつけば、二人は左右遠方まで田畑が広がる田舎らしい風景の中にいた。


 自転車で通っていた頃は、この風景の中、風を切ってペダルを漕ぐ気持ち良さを楽しんでいたものだ。


 ——だが、智悠にとって今やここは、ただそれだけの場所ではなく。


「——智悠さん?」


 唐突に立ち止まった智悠を訝しみ、ハナが振り返る。


 智悠の視線は彼女ではなく、横を走る道路上に向いていた。


 そう、ここは——自分が、死んだ、道。


 確か飛び出した犬を助けようとして——そのまま、トラックに。


「……あれから、もう一ヶ月か」


 懐かしいようなそうでもないような、曖昧な感慨のままに呟いた。


 別に、あの日以来ここを通ったのは今日が初めてというわけではない。


 何なら毎日通っている。


 それなのにどうしてだろうか、ふと、今日は足を止めてしまった。


 この命が一度は潰えた場所。

 何の変哲もない、どこにでもある道路。


 ただ、それだけ。それだけのこと。


「……お辛いですか?」


 顔を見て心情を察したのだろう、ハナが隣に立って、気遣わしげに訊いてきた。


 視線を前に固定したまま、小さく頭を振る。


「んや、別に。もう終わったことだし」


 強がりではない。

 今更引きずることなど何もないのだ。


 息子の重傷を聞きつけ、病院に駆けつけてくれた両親によると、トラックの運転手とはとっくに話がついているらしい。


 犬命救助のためとはいえ、勝手に飛び出したのは智悠自身。


 過失責任がどうなったのかはわからないけれど、そこは『大人の話し合い』——子どもが入り込む余地はない。


 だから後は智悠自身の問題だ。


「——」


 そっと、胸に手を当てる。


 心臓はちゃんと動いている。痛みはない。


 そもそも痛みを感じた記憶がない。即死だった。


 だから思い出すのは、耳鳴りのようなブレーキ音と、誰のものかもわからない悲鳴だけ。


 それらを聞き届け——、


「……うん、大丈夫だ」


 乱れていない自分の心に安堵の息を吐き、智悠は隣を振り向く。


「行こうか、ハナ」


「はい」


 彼女は何も言わずに、ただ頷いてくれた。


 そして二人は歩みを再開し、その場を後にした。


 やがて家のすぐ近くまでやって来たところで、


「……先程」


 と、ハナが囁くように言った。


「ん?」


「智悠さんは『もう終わったことだ』って言いましたけれど……それは違いますよ」


「違うって、何が?」


「終わったのではありません。始まったんです」


 女神は言う——慈しむように。


 愛しむように。


 終わりではなく、始まり。

 それをくれたのは、目の前にいる少女で。


「……そっか」


「はい。そうです」


 短い相槌に、ハナは笑顔でもって返す。


 わずかに身を捻って、下から覗き込んでくる浅葱色の瞳に、心臓をギュッと掴まれる錯覚を覚えた。


 ああ、まったく。

 さっきまでの落ち込んでいた少女はどこへやら。


 変に格好つけて講釈垂れていた自分が恥ずかしくなってくる。


「本当、慣れないことはするもんじゃないな……」


 口の中だけの自戒は誰に聞かれることもなく、夏の夜空へと溶けていった。






 * * * * *






 ——違和感を感じたのは、家に帰ってすぐのことだった。


「……あれ?」


 眼前に広がる異様な光景に、智悠は帰宅早々に眉根を寄せる。


 ドアを開けて中に入ると、玄関に女子高生のものと思われるローファーが二足、揃えて置かれていたのだ。


 一足はおそらく真綾のものだろう。

 となると、もう一足の方は——、


「友達でも来てるのか……?」


 妹が家に友達を呼ぶのは珍しいことではない。

 むしろ日常茶飯事だ。


 けれど今の時刻は二十時を優に過ぎている。

 高校生がこんな時間まで遊んでいるとは到底思えない。


「泊まらせる時はいつも事前に言ってくるしな……」


 しかし今のところ、智悠の元にそんな連絡はきていない。


 訝しみながらもハナをリビングに残し、智悠は二階へと上がって行った。


 そして自室の向かい側、『♡まあや♡』とプレートが掲げられた妹の部屋の前に立ち。


「真綾、入るぞー……」


 今朝のプチトマトの件の仕返しか、ノックの礼儀などお構いなしにドアを開け——、


「ちっひろせんぱぁーいっ!!」


 ——瞬間、耳慣れない女の子の甲高い歓声とともに、その身を鋭い衝撃が貫いた。

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