第29話 『強くなりたい少女たち』
昔々、あるところに——なんてお決まりの導入で始めなければならないほど、それは遥か昔の話ではない。
遡ることおよそ五年前、とある地区のとある小学校に。
一人の、どこにでもいる女の子がいた。
目立った特徴のない少女だ。
二つに結った長い黒髪を胸の前に垂らし、髪の色と同じ黒縁の眼鏡をかけている。
端的な言葉でその外見を表現するならば、『イモ』と言えばもれなく全員に伝わるだろう。
まさに特徴がないことが特徴。
性格は悪い意味で内向的、それに何よりも人見知りが激しく、両親以外の人間に心を開いたためしがない。
他人と話すのが苦手で、他人と距離を縮めるのが不得手。
幼い頃からかけている眼鏡も、まるで外の世界を直視するのを避けているかのよう。
——そんな少女が学校という空間で孤独になることなど、もはや必然の出来事だった。
誰とも話さず、誰とも遊ばず、ただ義務教育を受けるためだけに毎日通わなければならない場所。
少女にとって、小学校とはそんな場所だった。
朝のホームルームの時。
担任の点呼に対して数秒遅れて発する『はい』だけが、クラスの皆が少女の声を聴くことができる瞬間だろう。
彼女の名前を思い出す瞬間だろう。
もっとも、それで彼ら彼女らが少女を『認知』しているか否かは、あえて言うまいが。
そんな感じで孤独な学校生活を送り続けた少女は、時を経て小学六年生になった。
こんな自分も、もう最上級生だ。
どんな人間だろうが、成長というのは等しくやってくるものらしい。
去年まではあれだけ大きいと思っていた一学年上のお兄さんお姉さんの背中は、いざ自分がなってみると、大して大したことはなかった。
いつも通りの矮小な背中だ。
周りの大人は、最上級生になった自分たちは下級生のお手本にならなければいけないと言う。
果たして、自分にはお手本にしてもらえるような長所が存在するのだろうか。
周りの同級生は、六年間通った学校とおさらばすることを悲しむように、ことさら元気にグラウンドを走り回る。
果たして自分には、そんな感懐を抱くほどの感受性が備わっているのだろうか。
昼休み。
広大なグラウンドを埋め尽くす有象無象の生徒たち。
教室で恋バナに花を咲かせる、クラスメートの女子たち。
そんなキラキラした光景を隅で眺めながら、目を細めて少女は思う。
あと数ヶ月もすれば、中学校へ入学する。
何人かは別の中学校に進むのだろうが、大半の生徒はすぐ近くにある同じ地区の中学校へ上がるだけだ。
つまり、この人間関係もそっくりそのまま、これからも続くことになる。
「はぁ……」
知らず、深いため息が漏れた。
別に文句などない。あるわけがない。
全部が全部、こんな暗い性格をしている自分が悪いのだから。
それでもすぐそこに迫った未来のことを思うと、どうしても憂鬱な気分は晴れなくて。
「はぁ……」
再び、少女は重いため息を吐いたのだった。
* * * * *
——それは、ある日の出来事だった。
六年生に上がってから幾ばくかの時が経ち、されど少女の周りには何の変化もなく。
暗い日常を送っていたある日の、体育の時間。
その日の種目は、小学校体育ではお馴染みの器械体操だった。
今日はマット運動の日らしい。
少女はこの種目がすこぶる嫌いだった。
何故なら——、
「はい、じゃあ好きな人とペアになって柔軟体操ー」
出た。体育教師の仮面を被った悪魔の呪文。
何で先生という生き物は、こうもしきりにペアを作りたがるのか。さらさら理解できない。
大体『好きな人』ってなんだ。
何故わざわざこんな授業で告白せねばならぬ。
やはり体育は嫌いだ。
去年も嫌いだった。一昨年も嫌いだった。
だから、今年はもっと嫌いになる。
結局、最後まで誰ともペアになることができなかった少女は、先生の露骨な計らいにより、見知らぬクラスメートの女の子と組むことになった。
どうやらその女の子も、自分と同じように最後まで残ってしまった余り者らしい。
自分以外にそんな境遇に陥っている子の存在が意外で、その少女をついまじまじと見つめてしまった。
「——」
背丈は、自分より少し低いくらいだろうか。
肩口より少し上で綺麗に切り揃えられた、小学生らしい黒髪のショートボブ。
ぱっと見、お人形のような可愛らしい顔貌をしている。
が、そんなことよりも目を引いたのは、両の瞳が隠れるほどに長く伸ばされた前髪だった。
「……」
少女はじっと、伏し目がちにこちらを見ている——と思う。多分。前髪が邪魔で視線の行方が追えない。
その前髪の長さも相まって、第一印象は、とにかく陰気そうな女の子。
こんな子が、果たしてクラスメートにいただろうか。
頭の中で検索をかけるが、該当する人物は見当たらなかった。
この子の影が薄過ぎて気がつかなかったのかもしれない。皆から見た自分と同じように。
「えっと…………、よ、よろしく」
一応ペアになった礼儀として、そう遠慮がちに声をかける。
久しぶりに誰かと話したせいで、上擦った変な声になってしまった。
「……」
笑われるかと身構えたけれど、相手は何も返してこなかった。もちろん笑ってもいない。
黙って背中を向けてその場に座り、脚を広げる。
「……?」
突然の行動に首を捻るが、すぐに合点がいく。
そう言えば、今は柔軟の時間だった。
どうやら、さっさと背中を押せということらしい。
「……」
挨拶も返してくれないのに何様のつもりだ、と少しだけ思った。
けれど、そんな強い言葉を面と向かって投げつける勇気はない。
まあいい。どうせ行きずりのペアだ。
わざわざ仲良くなろうとする必要などないだろうし、そもそもの話、自分が誰かと仲良くなんてできっこない。
お望み通り、さっさと終わらせてあげるのが一番だろう。
と、思ったのだけれど——、
「ねぇ……、あなた、名前は?」
気がつけば、少女はそう口にしていた。
途端、前髪少女が弾かれたようにこちらを振り向く。
その拍子に長い前髪がはらりと揺れ、隠されていた彼女の瞳が露になった。
「——」
それはルビーの宝石をそのまま嵌め込んだかのような、鮮麗な紅の瞳。
その輝きが放つ美しさに、少女はしばし言葉を忘れた。
「——ッ!」
呆然と見つめていると、紅眼の彼女は目にも留まらぬ俊敏な動きで再び背中を向けてしまった。
酷く慌てた様子で前髪を弄り出し、再び瞳が隠されてしまう。
「……」
「……」
それから数十秒、お互いに無言の時間が続き。
「……どうして、隠すの?」
やっと呼吸を思い出した口から出てきたのは、そんな目的語が曖昧な質問。
「……」
「……」
そして、再び静寂が訪れる。
隣のペアから「痛い痛い!」と無邪気な笑い声が、やけに大きく聞こえてきた。
「……」
紅眼の少女は、未だ何も言わない。
相変わらずこちらに背を向けている。
何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。自分のコミュニケーション力がほとほと嫌になる。
一言、「気にしないで」と小さく声をかけ、黙って柔軟に移ろうとした、その時。
紅眼の少女は胸に手をやり、体育館のフローリングを見つめながら、ぽつりと言った。
「…………怖いの」
とても小さい、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどか細い声。
それが先の質問に対する答えだと理解するのに、数秒を費やした。
「……怖い? 何が?」
「……人の目を見るのが、怖い。だから、前髪、伸ばしてる」
まるで言葉を覚えたばかりの赤子のような、途切れ途切れの口調。
胸の前でギュッと手を握り、訥々と言葉を紡ぐ。
そんな彼女の姿に、少女は言い知れぬ既視感を覚えた。
同時に、何故人見知りの自分が自ら声をかけたのか、その理由にも思い当たる。
——私だ。私だからだ。
内気で、引っ込み思案で、人と話すのが何よりも苦手な、小学六年生の女の子だ。
いや、もしかしたら私以上かもしれない。
——そう思ったからだろうか。
普段なら絶対にしないようなことをしてしまったのは——話してみたいと、思えたのは。
「……私、押すよ」
言って、彼女の背中に両手をつける。
体操服の上からでもわかる、華奢な背中だった。
そのままゆっくりと前に押し込みながら、
「……人と話すの、苦手?」
「……うん」
「そう……私も、苦手。何か上手く話せない」
「……そう、なんだ」
それからも内気な子ども同士、時に無言の時間を挟みつつも、たどたどしく会話を繋ぐ。
「体育、好き?」
「……嫌い」
「私も」
やがて、両方の柔軟が終わり。
少女は、大事なことをまだ訊いていないことに気がついた。
「……そう言えば。あなた、名前は?」
それは最初に投げかけて、けれど有耶無耶になっていた質問。
それを受けた紅眼の少女は、何故か瞳と同じくらい頬を朱に染めて。
「……
彼女の口から飛び出したのは、何とも風変わりな名前だった。
みうらいのり。どんな字を書くのだろう。
脳内クラス名簿を検索しても、やはり引っかからない。
「……あの」
と、紅眼の少女——もとい唯乃莉が、そこでおずおずと手を挙げた。
「ん? 何?」
「えっと、その……、あ、あなたの、名前は?」
言われて、まだ自分の方が名乗っていなかったことに気づく。
久しぶりに自分の名前を口にすることに僅かばかり緊張しながら、少女は口を開いた。
「私の名前は、
——それが、水卜唯乃莉と桜井紗織の出会いだった。
* * * * *
どうやら唯乃莉は本当にクラスメートだったらしい。
初めて体育でペアを組んだ日以来、普段の教室の中にも彼女の姿を認めることができた。
と同時に、今までどれだけ自分が心を閉ざしていたのか、周りの人間を見ないようにしていたのかを思い知る。
教室の中の彼女は、いつも一人で俯いていた。
誰にも話しかけることなく、話しかけられることもなく。
ひっそりと、置物のように存在していた。
その姿を見る度に、紗織は思う。
——本当に、彼女は自分を映す鏡だ。
点と点で存在しているように見えて、実は同じ穴の狢。
それを無意識の内にお互いに認めていたからだろう——二人はその日以来、少しずつ交流を持つようになった。
週に二回ある体育の時間では自発的にペアを組み、身体の伸ばし合いっこをしながら取り留めのない会話をする。
これまで誰とも付き合えなかったのに、不思議と彼女にだけは心を開くことができた。
それは逆もまた然り。
そして一ヶ月が経過する頃には、二人は教室でも話をするようになっていた。
相変わらずどちらも口調はたどたどしく、贔屓目に見ても上手なコミュニケーションとは言えない。
天使が通りまくるのは日常茶飯事。
けれど、誰とも交われなかったこれまでを思えば、それは驚くべき成長だった。
中休みに昼休み。
皆が校庭を駆け回り、教室で談笑する中、唯乃莉と紗織は教室の隅で二人だけの時間を過ごす。
そんな奇妙な交流は、二人が中学校に進学してからも続いた。
中学校に入ると、勉強が本格化し、部活動なるものが登場するなど、これまでと環境がガラリと変わる。
それに何よりも——『人』が変わる。
思春期に突入して身体が『性』を形作るとともに、異性を強く意識するようになり——人間関係がより複雑化していく。
これまでの『クラスが仲間』から一転、『自分と近しい人間こそが仲間』という無慈悲な意識に変化する。
皆が皆そこかしこにグループを形成し、帰属意識こそが絶対の拠り所となる。
学校は社会の縮図。
この謂に則るならば、この残酷な変化もむしろ当然の帰結だと言えよう——ただし。
——『仲間』がいれば『敵』もいる。
それもまた、どうしようもない社会の真理であり。
——この場所で、二人に転機が訪れることとなる。
* * * * *
一体、何がきっかけだったのか。
それは今でもよくわからない。
小学生の頃から変わらない容姿だろうか。
周りの人間を拒絶する奥手な態度だろうか。
あるいは、その両方だろうか。
それとも——きっかけなどなかったのだろうか。
それはともかくとして、異変を感じたのは、中学校での生活も残り数ヶ月となった頃。
小学校から三年以上の時を共にし、何とお互いをファーストネームで呼び合うまでになった唯乃莉と紗織。
そんな中学三年生の二人が、教室で唯乃莉が好きだと言うホラー映画について話していた、その時。
——それは、唐突に聞こえてきた。
「ねぇ。——あの二人って、いっつも一緒にいない?」
純粋な疑問と呼ぶにはあまりに侮蔑の色を孕んだ、そんな声。
はじめに気づいたのは唯乃莉だった。
声がした方に視線を向ける彼女につられ、紗織もそちらを見遣る。
そこにいたのは、クラス内カーストでも上位に位置する女子グループ。
その党員たちと、ばっちり目が合った。
「え、何かこっち見てんだけど」
「うちらの会話聞こえたんじゃね?」
「こっわー」
そんなやり取りを交わす、彼女たちの視線の質——嘲弄の意図を、二人は本能で感じ取った。
「——ッ」
二人同時に、息を飲む。
人付き合いが苦手な唯乃莉と紗織は、それを自覚しているからこそ、これまでわかり合える同志として仲を深めてきた。
そして、自分たち以外の人間と関わることなく、周囲に自分たちしかいない学校生活を送ってきた。
極力目立たないようにして、自分たちがその他大勢のモブキャラとして扱われるようにひっそりと過ごしてきた——それなのに。
その女子の一言で、二人は目をつけられてしまった。
これまで誰にも認識されてこなかった少女たちが、認識されてしまった。
それも——本人たちに望まれざる最悪の形で。
その日を境に、クラスの雰囲気は一変した。
これまでずっと影が薄いクラスメート程度にしか思っていなかった内気少女二人を、その女子グループがネタとして扱い出したのだ。
二人が会話しているのを遠目に見れば、たちまち始まるひそひそ話。
数秒おきに漏れ出る忍び笑い。
意図的に滲ませた、『お前らを馬鹿にしている』と喧伝するような意地の悪い視線。
廊下で一人すれ違う時には、ぼそりと「今日は一緒じゃないんだ(笑)」なんて呟かれたりもした。
そして女子グループが生み出したその空気は、やがてクラス中に伝播していき。
程度の差はあれど、二人が一緒にいるだけで面白がる視線に晒されて。
いつからだったろう——唯乃莉と紗織は、どちらからともなく関わるのをやめるようになった。
根が内気な二人は、その空気に耐えられなかったのだ。
挨拶をしなくなり、会話をしなくなり、目を合わせるのもやめた。
カースト上位組を筆頭に、周りからの視線に怯えて、数年前の誰とも話さない二人に逆戻りしてしまった。
苦しい。辛い。恐い。
次々と押し寄せる負の感情が、彼女たちを蹂躙した。
けれど、これで終わる——この空気から解放される。
と、思っていたのに——、
「……結局、変わらなかった」
高校への進学が決まり、入学式を数十日後に控えた三月某日。
桜井紗織は、自宅の姿見の前で自嘲的に呟いた。
あれからも、二人を取り巻くクラスの空気が変わることはなかった。
卒業するその時まで、彼女たちは嘲笑の的となり続けた。
何がいけなかったのだろう。
二人でいることはやめたはずなのに——原因は、断ったはずなのに。
鏡に映る自分を見つめる。
そしてもう一度問う——何がいけなかったのだろう。
この黒髪だろうか。このお下げ髪だろうか。この眼鏡だろうか。この膝下まであるスカートだろうか。それともやっぱり、この性格だろうか。
「……変わらなくちゃ」
気がつくと、そう呟いていた。
このままだと、高校でも中学の二の舞になりかねない。
不幸中の幸い——とは思いたくないが、始まりが卒業間近だったから何とかやってこれた。
けれど——もう、あんな思いをするのは嫌だ。
あんな苦しい思いをするのは。
「……強く、ならなくちゃ」
そう決意してからの行動は早かった。
話しかけられるのが嫌で行ったことのなかった美容室に生まれて初めて行き、髪を染めて、髪型も変えた。
ずっとかけてきた眼鏡を外し、コンタクトにした。
見たことのない美容雑誌を漁り、見様見真似でメイクも練習した。
駅に行く時は女子高生を観察し、制服の着こなし方を覚えた。
これまでの引っ込み思案が嘘のように、精力的に『可愛い』を追求した。
そうして着々と自分を作り上げながら、ふと思う。
——あの子は、どうしているだろうか。
自分と同じように、必死にあの空気に耐え続けていた、あの子は。
卒業してから彼女とは一度も会っていない。
携帯も買ってもらったけれど、そもそも連絡先を知る手段がない。
それに——たとえ連絡先を知ったところで、今更連絡なんてできっこない。
進学先が同じでなければ、彼女とはもうこれっきりだ。
「——」
目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、あの真紅の瞳。
あの日あの時心を奪われた、彼女の瞳だ。
結局、それが日の目を見ることはなかったけれど。
——いつかあの子も、何にも遮られることなく、その瞳に世界を映せるようにと願いながら。
「——」
ゆっくりと目を開く。
姿見に映った像を見つめる。
——そこにいたのは、見たこともない女の子で。
こうして、桜井紗織は——JKは、新たな舞台に降り立ったのだ。
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