第24話 『薄闇とポップコーン』
映画のお供として、ポップコーンは今や定番中の定番となっている。
何故そうなったのか、その起源をはっきりと断定することは叶わないけれど、映画とポップコーンが切っても切り離せない関係にあることだけは確かだ。
映画と言えばポップコーン。
ポップコーンと言えば映画。
いや、映画だからポップコーンなのか。
それともポップコーンだから映画なのか。
冷静になって考えてみれば、食べるとボリボリと音がするポップコーンは、静謐な雰囲気が要求される映画鑑賞の邪魔になるのだ。
上映中はお静かに———映画のマナーの基本である。
だがしかし、それでも人はポップコーンを愛してやまない。
もはや映画の内容ではなく、ポップコーンを食べること自体を楽しみに映画館を訪れる人間だっているのかもしれない。
そのくらい、映画ウィズポップコーンの図式は完成されているのだ。
でも、だからこそ———そのポップコーンの『味』には細心の注意を払わなければならない。
塩とキャラメル。塩味と甘味。
決して相容れることのない、ポップコーン界の二大巨頭。
この味選び一つ取っても、その後の映画鑑賞のコンディションが左右されると言っても過言ではないのだから。
映画はポップコーン選びから始まる———これは映画のマナーの基本、ではない。
けれど、それでも、譲れないものはある。
それは、ここにいるカップルにとっても例外ではなく。
二人の周囲に漂う雰囲気は、どう好意的に見てもラブラブカップルのそれではない。
別に好き合っていないのだからそれも当然なのだが、何も原因はそれだけではなかった。
両者の瞳に宿るのは、抑えきれぬ敵意の感情。
智悠が先制攻撃を放った。
「ポップコーンと言えば塩味だろ」
塩。
塩化ナトリウムを主な成分とし、海水の乾燥・岩塩の採掘によって生産される物質。
小日向智悠は、ことポップコーンに限って言うなら、他の追随を許さない生粋のシオラーだった。
ちなみにそんな単語は存在しない。
「いやいやいやいや、何を言っているんだい小日向君。小日向智悠君。ポップコーンと言えば、十中八九どころか九分九厘、一つの疑いの余地なくキャラメル味だろう」
対する唯乃莉も怯むことなく、むしろ噛みつかんばかりに言い募る。
キャラメル。
砂糖や牛乳を煮詰めて作るキャンディ菓子や製菓材料。
水卜唯乃莉もまた、ことポップコーンにはこだわりを持つ少女であり、並々ならぬキャラメル味信者———通称、キャメラーだった。
ちなみにそんな単語も存在しない。
「おいおい、塩味を舐めてもらっちゃ困るな。塩だけど舐めてもらっちゃあ。シンプル・イズ・ベストって言葉を知らないのかよ」
何でも素朴なのが一番。
様々な業界で変わり種商品を販売して差別化を図っても、結局ニーズは王道に落ち着くのだ。
智悠の主張に、唯乃莉はやれやれと首を振る。
「はぁ……、出たよ。何でも『シンプル』って言葉で片付けて、考えるのを放棄する奴。人間は冒険心を失ったらお終いだ」
「いや、何かカッコいいこと言っているけれど、キャラメル味も割と定番だからな?」
「ならキャラメル味もベストじゃないか」
「シンプルと定番はイコールじゃない」
「大体、シンプルが一番と言うのなら、何の味もない、ただ炒っただけのポップコーンが一番ということになるよ?」
「ザ・正論!」
中二病患者に正論で諭されてしまった。
屈辱である。
「ポ、ポップコーンに甘味がいると、お前は本気で思うのか? 今一度自分の胸に手を当てて、内なる自分によく訊いてみろ!」
「もはや君の方が中二病っぽくなっているけれど……」
焦ってわけのわからないことを言う智悠に、唯乃莉が憐れみの視線を向けた。
焦り具合が中二どころか小学生である。
「女の子は皆、甘い物の奴隷なんだよ、小日向君」
「僕は塩味を食べるために生まれてきたんだ」
「君のポップコーンに対する甘い台詞の奴隷ではない」
今みたいな台詞はボクに向かって言うべきだろう、と唯乃莉。
「それに、キャラメル味ならではの楽しみ方もある」
「キャラメル味ならではの楽しみ方?」
「ポップコーンのキャラメルは、全てに均一に付いているわけじゃないだろう?」
「……まあ、それはそうだが」
「食べていると、あまりキャラメルがついていない物は甘さが薄かったりして、何だか物足りなくなってくるんだ」
でも、と唯乃莉は続ける。
艶かしく、桜色の唇を震わせて。
「そうやって徐々にフラストレーションが溜まった時、ふいに来るんだよ———キャラメルがたっぷり付着した、暴力的な甘みのポップコーンが」
———今。
彼女の言葉を聞く智悠の口内を、確かな涎が蹂躙した。
それすなわち、シオラーの敗北を意味し。
「……いや……、でも……」
だが、智悠も既の所で食い下がる。
暴力的なまでにコーティングされたキャラメルの艶やかな光沢から、必死に目を背ける。
絶対に負けられない闘いが、ここにはあるのだから。
観る映画は譲れても、ポップコーンは譲れないのだ。
そして、だからこそ。
その負けられないシオラーの矜恃が、智悠にあの禁断の台詞を言わせた。
「———カロリー」
それは、たった四文字のありふれた言葉。
しかし、それはこと女の子に対して発した時、絶大な威力を発揮する禁忌の単語だった。
もちろん、数センチの距離にいる唯乃莉が聞き逃すはずがない。
「……なるほど」
静かだった。
静かに、ゆっくりと、水卜唯乃莉は———女の子は、戦闘態勢にはいった。
「どうやら君は———戦争がしたいらしい」
禁忌を破った愚かな男子高校生を断罪するべく、唯乃莉が構えをとった。
片方だけ覗く紅の瞳は、燃え盛る炎を思わせた。
全てを焼き尽くす憤怒の炎。
「———」
その鋭い眼光に、智悠は真正面から対峙する。
言葉は重い。
言ってしまった言葉は取り消せない。
なれば、自分の発言に責任を持って、この少女と闘おう。
とことんやり合った果てに、このデートを見事完遂させてみせよう。
そうして、今まさに擬似カップルが熱々になろうとしていた、ちょうどその時だった。
「……あのー」
二人の間に割って入った、控えめな声。
その主———レジの店員は、素敵な営業スマイルをヒクヒクとひくつかせて、言った。
「当店には、ハーフ&ハーフという物がございまして……」
* * * * *
目的のホラー映画の開場を知らせるアナウンスが、館内に響いた。
エスカレーターで二階に上がり、半券をもぎってもらう。
「向かって左側、スクリーン1での上映となります」
係員の案内に従い、スクリーンへと移動する。
公開から何週間も経っているため、館内の混雑に反して、劇場内にはさしたる客は見当たらなかった。
疎らにぽつねんと中高年と思しきおじさんが座っており、その他、智悠たちと同じような若いカップルが少しいるくらい。
カップルは劇場内が薄暗いのをいいことに、これ見よがしにイチャイチャしていた。
「あーん」とポップコーンを食べさせ合い、飲み物のストローを噛ませ合っている。
「……いや、ストローを噛ませ合うはおかしくないか?」
「世の中には見てはいけないものがあるんだよ、小日向君」
カップルの異様な光景にツッコミを入れる智悠と、そんな彼を諫める唯乃莉。
何だろう、キスマークのようなものだろうか。歯型をつけて、このストローは私のものですよ、というアピールなのだろうか。
よくわからないし、多分わかる必要もない。
キャラメルよりも甘ったるい光景を尻目にしつつ、智悠と唯乃莉は無言で階段を上った。
二人の座席はH13とH14。
ちょうど後方の真ん中あたりだ。
一つ一つ座席番号を確認しながら歩き、程なくして自分たちの座席を発見。
二人揃って腰を落ち着ける。
そして智悠は、持っていたトレイをちょうど二人の真ん中に置いた。
トレイには二人分のドリンクと、Mサイズのポップコーン。
ハーフ&ハーフのポップコーンである。
バケットの中央に仕切りが設けられ、それぞれに塩味とキャラメル味のポップコーンが山盛りに入っている。
お値段は通常のMサイズと同じく五百円。
同じ値段で二つの味が楽しめる、ポップコーン好きにはたまらないサービスだ。
ちなみに唯乃莉のドリンク代もあわせて、費用は全て智悠持ち。
それだけ、乙女の逆鱗に触れた罪は重い。
とは言うものの、唯乃莉も別段自身の体型を気にしていたわけではないらしい。
むしろ小柄な彼女には余分な肉などついていないように見えるし、単に、無神経な発言それ自体が許せなかったようだ。
既にあの時のような怒気を孕んだオーラは霧散している。
唯乃莉はお気に入りのキャラメル味のポップコーンに手を伸ばしながら、
「それにしても、まさかハーフ&ハーフなんてサービスがあるなんて知らなかったよ。映画館も日々進化しているんだね」
「いや、多分僕たちが好みの味以外に見向きもしてこなかったから、気づかなかっただけだと思うぞ」
智悠は映画を観る時のポップコーンは塩味と心に決めている。
映画を一緒に観に行くような友達がいなかったので、他の誰かの好みに合わせるようなことをしてこなかった。
たまに妹である
「これを最初に発明した人は天才だね。アカデミー賞をあげてもいい」
「アカデミー賞はそういう賞じゃない。僕たちがこれから観るものに与えられる賞だ」
「これでこの世から戦争がなくなる」
「紙製の仕切り一つ程度でなくなるか!」
むしろゴミが増え、清掃が増えるまである。
そんなやり取りを交わしている内に時は過ぎ、上映開始の時刻となった。
間接照明以外の照明が落ち、CM、次いで近日公開となる映画の予告編が流れる。
それが終わるとゆっくり全ての照明が落ちていき、劇場内は真っ暗になった。
いよいよホラー映画が始まる。
それは、現代日本を舞台にした作品だった。
主人公は都内にある高校に通う男子高校生。
ある日を境に、クラス内で『他人を呪うことができるアプリ』が流行し始める。
クラス内の人間関係のしがらみから、とあるクラスメートがアプリをインストールし、使用してしまったことから物語は一気に恐怖へと加速する。
彼を筆頭にして、クラスの人間関係は崩壊———呪いの連鎖。
深夜、呪いの対象となった生徒の元に、青白い顔に真っ黒な目をした少女が現れ、クラスメートが次々と謎の不審死を遂げていく。
その少女は、あのポスターにも描かれていた、ニタリと嗤う顔がおぞましい少女だった。
物語自体はサスペンス調でありながら、ジャパニーズホラー特有の、静かで今にも何かが出てきそうな薄気味悪い雰囲気も随所に感じられた。
特に、少女の怨霊が現れる時は、音響や生徒役のキャストの迫真の演技も合わさり、否が応でも恐怖心を煽られる。
流石、『シリーズ史上最恐』を謳うだけはある。
高校にスマホのアプリと、身近なものを題材にしているのも、いやにリアリティがあって恐怖心を倍増させる良きスパイスとなっていた。
「———ッ、……おお……ビックリした……」
正直なところ、智悠は割と自分がホラーに耐性のある方だと思っていた。
だが、テレビでやっているような恐怖映像や実録ドラマとは違い、映画館の大画面で観るホラーは迫力が違う。
ホラー映画には馴染みの薄い、ホラー映画初心者の智悠にとって、この映画は少々刺激が強い。
絶叫まではしないけれど、幽霊少女が迫る度に小さく息が漏れ出る。
智悠がそうやって一人、湧き上がる恐怖心と闘っていると、
「———ヒッ」
右隣で、そんな小さな悲鳴が聞こえた。
何事かと視線を向けようとすると、服がちまっと握られる感触。
水卜唯乃莉が、智悠の服の袖を控えめに握っていた。
あくまで視線はスクリーンに固定したまま、しかしその紅い瞳は不安げに揺れ。
幽霊少女が現れる度に息を飲み、微かな悲鳴を上げる。
華奢な肩がビクッと揺れると、握る感触がより一層強くなる。
おそらく無意識の行動だろう。
彼女が意図的にこんな行動をとるとは到底思えない。
しかし、だからこそ、普段の不遜な態度からは想像もつかない、天敵を前に怯える小動物のようないじらしい姿に。
———不覚にも、ドキッとしてしまった。
(って、僕がドキドキしてどうする……)
心の中だけで、愚かな自分に悪態をつく。
有志部の目的は、唯乃莉を恋に目覚めさせ、痛々しい中二病から脱却させること。
それなのに智悠の方が彼女に見惚れるなど、ミイラ取りがミイラになるもいいところ。
一人だけ別の意味でドキドキしている自分を誤魔化すように、智悠はなるべく右隣を見ないようにして、ポップコーンの入ったバケットへと反対側の手を伸ばした———彼女の手を振り解かないよう。
一つ摘み、口の中に放り込む。
暴力的な甘みが、口の中に広がっていった。
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