真実と偽りの境界
杜都醍醐
第一話 その少年の名は霧生嶺山
霧生と[リバース] その一
ニ〇一ニ年。一人の少女はこの年、信じられない出来事に遭遇することになる。
そんな彼女であるが、このゴールデンウィークは最悪であった。宿泊客の一人の四十代と思しき男性に、追い回されるとは夢にも思っていなかったのだ。
「はあ、はあ…」
捕まったら何をされるかわかったものじゃない。男の目は完全にイっている。理性が本能に飲み込まれてしまっている状態がアレであることを芽衣は逃げながら理解した。
「待ってよう、ねえったらぁ」
声を聞くのも不愉快だ。何で実家でこんな目に遭わないといけないのだろうか。相手の感情以上に理解に苦しむ。
掃除道具をガチャンと蹴っ飛ばしてしまった。
「あっ!」
同時に転んでしまう。
(ここで転倒はマズいって!)
自分でそう思いながら這いつくばる。立ち上がろうとしても焦りと緊張でか、力がちゃんと入らない。
「そこだねぇ、はあはあ」
迫り来る中年男性。尻餅状態で後ろに下がる芽衣。神にも見放されたのか、近くには投げれそうな物すらない。
その時であった。
「おやおや、これが紳士たる者の行うことか? こんな夜中に見過ごせないね」
少年と思しき声が近くで聞こえた。
「誰だ?」
男性もキョロキョロして探す。
「外道に名乗る名前はないね。俺は安くはないからさあ」
結構な総髪の少年が、こちらを覗いていることに芽衣は気がついた。
「何だお前? どっから出て来やがった? 俺の邪魔をするな!」
「へっ、ほざいてろよ盛大に。俺に敵うわけがないんだからやぁ!」
そう言うと少年は、和紙だろうか? 懐から一枚取り出した。
「さあ出ろよ、[リバース]!」
目を疑う現象が目の前で起きた。
なんと少年の後ろの何もない空間に、青龍のようなものが現れたのだ。
「えええ?」
中年男性には見えていないようだが…とにかく芽衣には見えていた。
「お前には何も見えないだろうね。でも俺の[リバース]はな、物体の真実の姿を呼び覚ますのさ」
少年は左手に消しゴムを持っていた。それが次の瞬間、なんとそれがスズメバチに変化した。
(一体何をしたの?)
ついて行けていないのは芽衣だけじゃなかった。中年男性も、
「おいお前? 何だその虫は?」
「消しゴムは偽りの姿さ。消すっていう強い意志がどうやら、攻撃的な個性を引き出したようだな」
翅を羽ばたかせ、スズメバチは本物のように飛ぶ。
「おい気をつけた方がいいぜ? アゴを鳴らし始めた。これは攻撃するぞって意思表示だ。逃げるんなら今のうちだな」
「な、何を!」
中年男性は拳を振った。中々に素早い動きである。だがスズメバチはそれをかいくぐり、鮮やかな軌跡を描きながら男性の首筋にたどり着いた。そして腹の先にある針を立てて、
「い、いでー!」
刺したのだ。
「終わりだな、これで」
だがまだ、男性は立っている。
「ちくしょう痛え。腫れ上がってやがる。体温が上昇していやがる…。だがまだ終わってはない!」
「いいや。最初の一撃は毒を入れるだけだ。それに人間の体は、スズメバチの毒に負けるほどヤワじゃないだろうさ。だがな、もう一度刺されたら免疫系が暴走するんじゃねえの? お前の体で試すってのもアリだな?」
「うぐ…」
スズメバチはまた、針を立てる。そしてもう一度刺そうとする。
「く、くそぉ!」
中年男性は気負けし、その場から逃げ出した。
「フッ。さすがにそこまではしないぜ?」
スズメバチは少年の方に戻って行く。そして手のひらに着地すると、元の消しゴムに戻った。
「全く、あんな奴がこの町にいるのか。これは一苦労しそうだぜ。おや?」
少年が芽衣を見ると、左手を差し伸べた。
「おやおやお嬢さん。怪我はないかい? 良かったら俺がフロントまで案内してあげよう」
今の発言で少年の性格を、芽衣は大体理解した。
「だ、大丈夫です。私はこの旅館の娘ですから…」
「遠慮しないで。また暴漢に襲われちゃあ大変だろう?」
芽衣は向けられた手を拒み、一人で立ち上がった。
「わお、強いんだねえ、君って」
少年の言葉は完全に女たらしのそれで、芽衣は助けられたのに感謝の意が生じなかった。
「その前に答えてよ。あなたの後ろのソレは、一体何なの?」
「ソレ…? もしかして君、俺の[リバース]が見えるのかい?」
コクンと頷くと、
「驚いたよ…。俺以外にも見ることができるだなんて!」
「だからソレは、何なの?」
「実は俺も良く知らないんだ。幼い頃[リバース]を実家の蔵で見つけてね、念じればこの札から出すことができるんだよ。でも他の人には見えない」
指をピンと鳴らすと、
「これは運命だよ。絶対さ、君と俺は出会うべくして出会ったんだ!」
「……」
少年の話はオーバーヒート寸前で、聞いているこっちが恥ずかしくなってきた。だから芽衣は、
「とにかく、さっきはありがとう。でも今日はもう遅いから…」
「あ…」
逃げるように立ち去る芽衣。少年は少しそこに立っていた。
「なあ[リバース]…。お前、あの子だけが特別って思うか?」
青龍のような何者か、少年は[リバース]と名付けているそれは、
「ガルルルルル…」
と唸り声を相槌がわりにした。
不思議で奇怪な少年のおかげで、芽衣は無事に自室に戻って来られた。
「何だったんだろう、アレは」
一番不思議なのは、中年男性には見えていなかったのに自分には見えていたこと。そして少年にも見えているから、幻覚とかではない。
まだある。消しゴムがスズメバチに変化した。どのような手品を使えば、そんなことが可能なのだろうか? しかもスズメバチは、少年の言うことを聞いているようにも思えた。
「少し話でも聞けばよかったかな?」
この時間にここにいるということは、この旅館の宿泊客であるということだ。ならば明日探してみようと彼女は思った。
だが次の朝、いくら探しても見つからなかった。
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