猫の姫様、人の探偵
重弘茉莉
猫人たちの王国『リシャーダ』
第1話
探偵。
時にはその聡明な頭脳を持って犯罪を突き止め。
時にはその強靱な身体を持って犯人を追い詰める。
それはある意味、RPGの勇者。”攫われた姫君を助け、魔王を
それこそが探偵。その探偵に憧れた男が1人。
闇に溶け込むような漆黒のスーツにこれまた黒のカッターシャツと皺の付いた青のネクタイ。そしてエイトポイントカバー、簡単に言えば軍帽。これらの奇抜な衣装が特徴的な
――2019年7月、日本。ツクモは新宿の雑居ビル3階の一室に構えた『RED RIVER探偵事務所』にて机を挟んで1人の老齢の女性と向かい合っていた。部屋には重苦しい雰囲気が張り詰め、ツクモは薄く伸びた無精髭を触り、女性は所在なく辺りを見る。
女性はヤニによって黄ばんだ壁紙、散らかった本棚。そして大人ほどの大きさの柱時計に視線を順に移す。その柱時計がちょうど午後の4時を鐘の音ともに告げた。
「あ、あのっ、赤川先生……」
今まで口をつぐんでいた女性が、ためらうように口を開く。
その様子を見ながらツクモは伸びた無精髭を擦り続けていた。
「う、ウチの主人は、その」
「ええ、市川さんの想像通りです。ご主人は浮気されていました。これがその証拠です。ああ、一応音声の記録もこちらにあります。裁判をされるなら、弁護士を呼びますが」
「ああ、ああ。そんな。そんな、嘘だって言って。あああああっ~!!!」
泣き崩れた市川を『このご婦人、早く話を聞いてくれねぇかな。紹介料も取りたいし』と思いつつ、ツクモは冷ややかな目で女性を見ていた。
「まあ落ち着いてください。優秀な弁護士を知っていますよ。離婚問題の帝王と呼ばれた男なんですが」
「……いえ、もう一度私、主人と話し合ってみます」
しばらく泣いていた市川は何かを決意したような眼差しでツクモを見やる。そして席を立とうとする女性。
市川が席を立つのをツクモは仰々しそうに手を動かして、ふらつかないように支えてやる。そして肩を貸しながら事務所の入り口へと誘導していく。
「そういえば、依頼料がまだでしたわね。赤川先生、お世話になりました」
「いえいえ、もし、まだ力になれることがあれば私に言ってください」
依頼料を受け取りながら、帽子を取って市川へと挨拶をするツクモ。
市川は力なく頭を下げると、そのままエレベーターへと乗り込んで事務所を去ってく。ツクモは完全に市川が去った後で事務所のソファーにドカッと大きな音を立てて身を下ろす。
「はぁ、今月の事務所の更新料どーしよ。やっべぇなあ……あんまり探偵って儲からねぇもんだな。いや、俺が優秀すぎるからか?」
助手もいない完全1人の『RED RIVER探偵事務所』で市川から貰った依頼料27万3000円を握りしめて1人呟く。確かにツクモは己で言うように優秀な男だった。彼のその知力は東京大学理科三類を主席で卒業し、その身体能力は幼い頃から空手やブラジリアン柔術、素手以外にも武器術では宮本武蔵継承二天一流やカンフーの棒術などを学んで身体を鍛え続けていた。
加えて探偵になる前は警視庁科学捜査班のチーフとして活躍しており、彼の研ぎ澄まされた洞察力と勘は群を抜いていた。悲しいかな、優秀すぎたために素行調査や浮気調査などが他の探偵事務所と比べて格段に早く調査を終えてしまうのだ。『探偵依頼料は実費+依頼日×日数』が基本である。優秀すぎるツクモはたったの数日間で全てを解き明かしてしまう。そのため依頼料も必然的に少なくなってしまい、常に金欠にあえいでいたのだ。
「はぁーあ、つまらん。俺は浮気調査をするために探偵になったんじゃないぞ。俺は明智小五郎やシャーロックホームズのような謎を解き、犯人を自分の手で捕まえる伝説の
ツクモは腐っていた。持て余した知力と身体力。それを振るうことが出来ないもどかしさ。
現実は”つまらない事件”ばかり。警察に所属していた頃からくすぶっていたこの思いが、ツクモの心を焼いていた。
(……金が貯まったらアメリカに行こう。そこなら、俺が求める事件があるかもしれん)
そんなことを考えながら、胸ポケットから『マルコボーロ』と書かれたタバコを取り出すと、ジッポで火を点けて紫煙をくぐらす。
『事務所の光熱費、更新料、車検。金ばっかり出て行くな』そんなことを考えながら、ツクモは天井に立ち上る紫煙を眺めていた。
ドンドンドンッ。
ツクモの咥えたタバコが半分ほどの長さになった頃、突然事務所のドアが乱暴に叩かれる。
ツクモは急いでタバコをもみ消すと、換気扇をつけてドアへと歩み寄る。
「ようこそ、『RED RIVER探偵事務所』へ。ご依頼で?」
「ええ、1つお願いしたいことが」
ツクモはその依頼主――陰気な男を見ながら事務所へと招き入れる。
前歯が口を閉じていても顔を覗かせ、人を品定めするような眼光。そして平べったく潰れた耳は、どことなく”ネズミ”を連想させる男であった。せわしなく身体を揺らしながら、その男は自身を
「それで、
「ああ、それは。これはワタシにとってそれはそれはとても重要なことでして、はい。火急かつ速やかにお願いしたいのです」
「……?」
「これを、これ。見てください。
鼠雨はスッと、はがき程の大きさで1枚の絵をツクモに差し出したのであった。
*********
しとしとと小雨の降る夜。眠らない街、新宿で猫とツクモの追いかけっこが続いていた。
レストランの裏のゴミ箱を飛び越え、ブティックの中を走り抜け、走るトラックに飛び移る。どこまでも、どこまでも、ツクモは訓練された猟犬のように白猫を追いかけ続ける。
(くそ、このお転婆猫はどこまで逃げる気だ?)
とうとう暗い暗い、路地裏へと逃げ込んだ1匹の猫とそれを追うツクモ。大都会にある闇の中。
逃げる真っ白な白猫とは対照的に、追跡する真っ黒なツクモ。
「ハァ……ようやく追い詰めたぞ、このお転婆猫め。てめぇを捕まえれば今月分の事務所の支払いが出来るんだ。観念して捕まりやがれ!」
袋小路に追い詰められた白猫は怯えたようにツクモへ向かって視線を向ける。その白猫は右目が緑、左目が青のオッドアイが特徴的であり、ツクモと白猫の視線が宙でぶつかり合う。
逃げる隙を窺う白猫と逃すまいとするツクモ。お互いに動けない張り詰めた空気。だがその均衡は大きな揺れによって崩された。
「ぬおっ!?」
地面が揺れ、ビルは軋み、窓は悲鳴を上げる。咄嗟にしゃがみ込むツクモ。そして白猫もまた揺れに耐えるように身を屈めていた。
その猫の身体に揺れに耐えきれなかった窓ガラスが降り注ぐ。
「危ないっ!」
ツクモは身を投げ出して白猫を守るべく、飛びかかる。
白猫を胸に抱きかかえ、その背に窓ガラスが降り注ぐ――はずであった。ガラスが降り注ごうとしたその瞬間、ツクモの視界は真っ白になる。思わず目をつぶってしまったツクモ。
「えっ……?」
次にツクモが目を開けたとき、周囲の景色は変容していた。先ほどまでは灰色の空にコンクリートジャングル、どぶと排気ガスの混じった臭いが鼻についていた。
だがツクモが現在居るのは澄み切った青空の下、辺り一面に咲く花畑。遠くにはヨーロッパにあるようなお城に小さな城下町が見え、腕の中には暖かくて柔らかいものの感触。
「えっ、えっ……?」
腕の中に居たのは先ほどまでは白猫であった。だが今居るのは純白のドレスに身を包んだ美しい少女――綺麗な黒髪から覗く獣の耳と頬から伸びた”猫ひげ”が特徴的な気品のある少女が居た。
ツクモは気を失ったその少女を腕に抱えながら、現実離れしたこの状況を上手く飲み込めないで居たのだった。
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