第162話 『Watching the night view』

隆二のマンションで落ち着きを取り戻した葉月は、そのくつろぎの空間で聞かされたそれぞれの思いに胸を熱くした。

隆二の優しい眼差しに心がほぐれていくのを感じながら、葉月はそのゆるやかな時の中で心を癒し、食事を楽しむ。

その間も何度か隆二に連絡が入り、時には彼が席を外す局面もあった。

トーマかあるいは裕貴か……

いずれにしても、今回の件についての話であると推測できる。

また呼び出し音がして、返答した隆二が一旦スマホから耳を離して葉月を振り返った。


「あ……ちょっと話が長くなりそうだからさ、葉月ちゃんは気にせず休んで」


「はい」


一人リビングに残された葉月は、後片付けをしてテーブルを拭いた後、隆二が用意してくれた部屋に入った。

壁にはいくつものギターやベースがかけられてあり、それらの美しいフォルムと色調が、まるでウォールアートのようにも見える。

部屋の奥のシステムデスクには多くの機材が並んでいて、シンプルモダンで統一されているこの家の中で、唯一この部屋だけがミュージシャンらしい空間だった。


葉月は寝支度を済ませてから、そっとドアを開ける。

薄暗く消灯されたリビングに隆二の姿はなく、廊下を隔てたはす向かいのドアが少しだけ開いていて、そこからかすかな光が漏れているのが見えた。

誘われるように近づいた葉月は、ドアの隙間から中をそっと覗く。

シックな彩りの壁紙に囲まれた落ち着いた雰囲気の部屋にはほとんど何も置かれておらず、だだっ広い空間の一番奥に大きなベッドが見えた。

その向こう側には全面の天井まで切れ込んだ大きな窓があり、そこから煌々さんさんとしたパノラマの夜景が全面に広がっていた。


「わぁ……すごい……」


思わず声を発してしまい、慌てて口を押さえる。

しかしベッドの上のあるじはピクリとも動かなかった。

そっとドアを押し開けた葉月は、その夜景に吸い込まれるように足を踏み入れ、息を潜めてベッド脇まで進んだ。

爪先までガラスになっている窓に足がすくむ。

まるで天空を漂う雲の上にいるかのような感覚に襲われ身震いする。

視界いっぱいに広がるきらびやかで幻想的な光に、葉月はうっとりとした表情でしばらく見惚れていた。

そして改めて、そのそばに横たわる隆二に視線を移す。

葉月はその場にゆっくりしゃがんで、その端正な顔を覗き込んだ。

この美しく繊細な顔を間近で意識したのは、何度目だろうか。

いつもはすごく上の方にあって遠いその顔が、こんなにも近くで安らかな寝息をたてていることが不思議に思えて、葉月は更に見つめた。


「目が開いてたら、こんなに近づけないのに」


そう静かにつぶやきながら、葉月は足元にあったブランケットを静かに広げて、そっと隆二の身体からだにかけた。

そして吐息混じりの小さな声で、ゆっくりと話し始める。


「急いで帰って来てくれて、私を探してくれて……ありがとうございました。いつも助けてくれるリュウジさん、ホントに感謝してます」


そう囁いた葉月はそっと立ち上がって、もう一度夜景を目に焼き付けると、安らかな寝顔の隆二に微笑みかけて部屋を出た。


パタンとドアが閉まると同時にパッと目を開けた隆二は、おもむろに起き上がる。

そして、ため息混じりの大きな息をついた。


「フッ……〝感謝してます〟ってか? 他の言葉を期待した俺は……バカなのかもな」


隆二がそのままベッドでたたずんでいると、ドアの外からうっすらと葉月の声が聞こえてきた。


「はあっ?! また電話してんのかよ! 今度の相手は一体どこのどいつだ?! ったく……気の多いオンナだな!」


自分の言葉が馬鹿馬鹿しくて笑い出した隆二は、そのままブランケットにくるまって遠巻きにその声を聞いていた。

彼女の明るいトーンに心地よさを感じながらも、いつまでたっても途切れないその様を疑問に思う。


「もしかして……眠れないのか?」


隆二はまた身体を起こした。

今回の件で、人の視線がこれほどまでに不安感や恐怖心をあおるものなのだと、彼女のみならず自分も改めて実感した。

情報は操作されるということも、それが悪意に満ちた攻撃と化する驚異も、今更ながらずっしりとのしかかってきて自身の非力さを突き付けられたような気持ちになる。

そしてその矛先ほこさきは当事者のみならず、周囲の大切な人間をも付け狙い、卑劣な手段で傷付けながら大きな渦となって、気を抜けばいつでも飲み込まれてしまうのだと。

眼下に見えるあの公園で発見した時の彼女はまるで捨て犬のようで、その憔悴しょうすいぶりは単に雨に打たれたからだけというわけではなかった。

常に監視され、いつ危害が加えられるかもしれないという恐怖の中に彼女は一人でいた。

その心中しんちゅうを察するといたたまれず、今日目にした葉月のあらゆる表情を思い出した隆二は膝に両肘を置いたままうつむいてしばらく考えを巡らせた。


「ん……早く寝ろと注意しに行くか、朝まで話に付き合うか……さて、どうする?」


隆二はしばし夜景を眺めたあと、くうを仰いで大きくため息をつく。

首を横に振りながら、長い足をまたブランケットに差し込んで、ごろんと寝転んだ。


「ダメだ。今夜の俺は……この部屋を出ちゃいけない気がする」


そっと目を伏せると、壁越しに微かに聞こえる彼女の笑い声が妙にいじらしく思えた。

泣きたい気持ちに蓋をして、明るく明日へ踏み込もうとしている若い彼女の苦悩を取り去り、心から後押してやりたいと思いながら、隆二は眠りに墜ちていった。


第162話『Watching the night view』- 終 -

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