八割方、ニートとして暮らしている。

村瀬ナツメ

1年くらいで仕事をやめた

 就活は失敗した。何百社受けたのに落ちました!とか大層な話ではなくて、ただ単に、平凡に失敗した。二、三社受けて、公務員試験も受けて、失敗した。その程度で諦めるからだと言われればそれまで。そう言われてみればそうかもしれない。でも、「その程度」で私はいともたやすく心身を壊してまともに就職活動することをやめた。短大は一位で卒業して立派な記念品もいただいたが、それを帳消しにするくらいの勢いで「就活の失敗」は重い。教育ローンと奨学金と亡くなった祖父の貯金を使って、やっとの想いで勉学に励んだ私の功績は、世間的に何の価値もないと証明されてしまった気分だった。半分くらいは今もその証明に間違いはないと思っている。事実、Fラン文系短大をトップで卒業したところで大した意味は無いのだ。私にとってそれがどんなに大切で、有意義な時間であったと感じようとも。先生方にもう二年研究のために残って欲しいと言われたことだって私の中では大切な誇りだけれど、社会的に価値は無い。なんだってこんなに生きづらいのか。全部私の努力不足といわれれば本当にそれまでで、なんの反論もできないのがまた悲しい。


 それはそれとして、私は鬱屈とした気分で、金さえあればもう二年研究に勤しめたのにという気持ちで、それでも偶然適当なところに拾われた。今思うと強迫観念的な思いで働き始めたと思う。口下手でオタクで電話が嫌い。――そんな人間に飛び込み営業はまず無理だろうと当時も思ったが今考えても無理がある。死ぬ気でアルバイトでもしてもう二年学校に通った方がよかったのではないかと度々思わないこともない。きっとそれはそれで心身を壊していただろうけれど。

 その就職先では、なんだかんだと言ってもわりと面白い経験をさせてもらったと思う。いろいろな意味で。体質的に酒が飲めないのに飲み会で誰よりも先に雰囲気で酔っ払う上司や、若年性の認知症で、ヘリコプターが頭上を通ると監視されていると思い込んでいる人。他にたびたび思い出すのは、自分と同い年くらいだろうと思った人が自分の倍生きていた上に、同い年だったのは彼女の娘だったことだろう。あの日私はノンフィクションの美魔女にはじめて出会った。本当にいるのだ。そういう人は。小柄で細身。ぱっちりと長いまつげに縁取られた丸っこい瞳。下手をしたら老け顔の私よりも幼く見えたかもしれない。正直に同い年くらいだろうと思っていたと話したら満面の笑みで大変喜ばれた。ちなみに営業の成績も良くて優しい彼女のことを私は数少ない頼れる人だと思ってたし、彼女も私を結構かわいがってくれたが、彼女はすこぶる女性受けが悪かった。枕営業なんて時代遅れの響きが大きな契約を持ってくるたびに必ずつきまとっていた。私がそれをなんだか損してるよなぁ、と他人事のように思えたのは、当然他人事そのものであったからで、なによりも私自身の営業の成績が悪かったので他人に構っている暇は無かった。


 どうにかして首を繋げようとしてくれる上司に申し訳なくて、しかし上司が頑張ってくれれば頑張ってくれるほど私のやる気は無くなっていった。その上司が夜中に送ってきた心温まる長文のメッセージは、読んでいるだけで不思議と恐怖で涙が溢れて止まらなかったのを覚えている。あまりの恐怖に削除してしまったので今はその内容が分からない。記憶に刻み込まれていなかったのがせめてもの救いだと感じるほど怖かった。きっと上司は私を勇気付けて頑張らせるための言葉を送ったのだろうけど、「絶対に逃さない」というメッセージとして受け取った私は、おかげで退職の決心を固めた。ちなみにこのメッセージを友人に見せたところ、その友人も当事者でないにも関わらず恐怖に打ち震えていたので、私の感性が取り返しのつかないほどおかしいというわけではないはずだ。

 そしてなんとか首が繋がってしまった後で、上司とは別の、私のことが嫌いな先輩から「目上にここまでさせて辞められると思うな。死ぬ気でやれ。」との激励のお言葉を頂戴した。――こんなところにいられるか!俺は部屋に帰らせてもらう!そんな気持ちになった。

 正直、今でも何かと面倒を見てくれた上司には悪いことをしたと思わなくもない。前述の気に入らない新人に厳しい先輩の言うことにも、まぁそれくらい言いたくなるわな、と頷かないでもない。しかし、退職するにあたって理由は他にも色々あった。

 なによりもまず報酬が少ない。給料ではなく報酬である。そこにどういう差があるのか、未だに不勉強故によくわからないが、今世間でも話題になっている(らしい)勤務形態がその名称に影響しているのだろうと思う。そう――「個人事業主」だ。一企業の支社で営業として勤めているように見せかけて、その実個人事業主の集まりだったのだ。残業なんていうのは概念ごと存在しない。お客様の都合で夜中の取引になっても契約に対する報酬しか支払われない。それを知ったのは入社してから三ヶ月ほど経った頃で、確定申告の手続きをする準備段階になってからやっと他のいろいろな事が分かった。もしかしたら他の皆は分かっていたのかもしれないが、社会に唐突に放り出された若輩者はよく分かっていなかった。とはいえ今いろいろと話題になるのを見ていると、私が特別に何も知らなかったというだけではないのかもしれない。


 脇道にそれたが、個人事業主だのなんだのという話はついでである。私は朝から晩までカレンダーに沿って働いて、月に交通費込みで六万円しかもらえないという環境が自分に合わないと感じた。周りの先輩方からも何度か言われたが「若い人のやる仕事じゃない。」とも感じた。ついでに言うと先述の厳しい先輩には「時給制の仕事では分からないやりがいがある。」と熱弁された。やりがいを感じて厳しい環境でも頑張る、ということに嫌悪感はない。むしろ尊敬する。しかし私にはできない。どんどん溝は深まっていった。こんなにやりがいのある仕事はない。もっとがんばれ。なんでできないの。努力が足りない。向いてないんだから人一倍努力しろ。――そう(ほぼ一人の人に)言われ続けて、人生初の円形脱毛症を経験した。

 こう言ってはなんだが、自分一人では何もできずにいつも力のある先輩に着いていくだけの人と、適当に仕事ができるようになったおかげで一ヶ月後に入った後輩を連れて歩き回る私や同期とで、前者の方が確実に稼げていたのにも、思わず眉間にシワを寄せてしまった。どちらが「上手く」やっているかと問われれば恐らく稼げている方だ。努力ってなんだろう。やりがいって、なんだろう。


 退職を決意した後、私は心療内科で軽度な病気の診断を受け、それを盾にする形で入社から一年ちょっとで退職した。そうでもしなければ辞めさせてくれそうになかった。お盆休みと称して消化させられてしまうなけなしの有給休暇は消費させてもらえなかった。「病気の診断が出た以上、有給休暇中に何かとあると……あのあのえっとえっと。」とまごついた話し方の支社長に呆れ気味に「迷惑ってことですね。それならもう結構です。」と格好つけて生意気な口を利いて辞退してしまったのである。ギリギリそれを全て消費できればボーナスももらえる、と計画していただけに残念だったが、ほとほと疲れていたのでもうどうでもよかった。

 仲良くしてくれていた人にだけお別れと謝罪を告げた。先輩方も大半は親身になってくれる良い人だったし、歳上の後輩たちも私と仕事をするときは安心すると言ってくれた人が多かった。だから本当に申し訳なくて、真剣に謝った。皆少なくとも表面上は残念がって送り出してくれた。もうなんだかそれだけでいいや、と思った。


 皆、どうしてるかなぁ、とたまに思う。私と間を開けずに退職した同期も、そろそろ三人目が生まれる頃だろう。おすすめのお酒を誕生日にくれた先輩は今も飲んだくれているだろうか。お互いに先の見えない人生で、ほんの一瞬すれ違っただけのような人たちだけれど、あまり悲しい目には遭って欲しくない。最近、やっとそんな風に思うようになったのであった。

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