第45話 平穏な日常
私はとある歌詞の書いてる楽譜を手にしていた。
ごくりと生唾を飲み込み、あーあーの声の調子を確認する。
いける……今日こそはちゃんと。
私は一度喉を鳴らしてから、スーっと息を大きく吸って、意を決して声を出そうとする。
しかし、無情にも深呼吸のように息を吐く音が聞こえるだけで声の音色は出なかった。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
もうかれこれ1年以上出ていない。ライブ会場のステージにたって歌っていたあの頃が懐かしい。
「あと1か月か……」
もう無理やりにでも何とかしないといけない。しかし、気持ちが焦るほど、私は余計に空回りする。
◇
『それじゃあ、行ってきます』
『行ってらっしゃい。待ってるよ』
『うん、ありがと』
西城さんとLINEでそうやりとりをして、スマホをポケットにしまった。
西城さんは今日から地元へ帰省する。
あの後、みんなにもちゃんと大まかな事情を説明したので、ひとまず事故とかに巻き込まれていなくて良かったと、皆一安心していた。
これで、無事に問題を解決して西城さんが帰ってきてくれればいいんだけど……
だが、心の中でこれでよかったのだろうか何度も問い続けている自分がいる。
ただ、自分が理想にしている世界を作り出そうとしているだけなのではないか?
自分の思う通りにしようとしているだけなのではないだろうか?
そんな思考が頭から離れないでまとわりついている。
ダメだ、ダメだ!
今は西城さんがこれでよかったんだと思わないと!
俺は首を横に振って忘れることにした。
頬を両手で叩いて、気合を入れ直す。
「ヤバイ遅刻遅刻!」
リビングでは朝から寝坊して遅刻しそうな弥生が、バタバタとあっちへ行ったりこっちへ行ったりと慌ただしかった。
「弥生ー! 遅刻するわよ!」
廊下から母親の声が聞こえる。
「分かってる!」
そう返事を返しながら、急いで制服のリボンをつける。
「お父さんが車で駅まで送ってくれるらしいから急いで!」
「はーい!」
鏡の前で身だしなみチェックを終えると、駆け足でリビングから玄関へと向かおうとする。
「弥生カバン」
「おっとっと!」
俺が指摘して、慌ててソファーに放り投げられていた鞄を手に持ち、弥生は俺の方を向いて敬礼ポーズをとる。
「ありがとうお兄ちゃん、それでは! 行ってきます!」
「おう、行ってらっしゃい」
弥生は満足したようで、元気よく家を飛び出していった。
「ごめんお待たせー」
「ほら、さっさと靴を履く」
玄関から弥生と母親のやりとりがかすかに聞こえる。
「それじゃ、戸締りよろしくね!」
「はーい」
母親から玄関越しにそう声を掛けられ、俺は届く声で返事を返した。
それと同時に、ガチャリと扉の開く音がして、すぐにバタンと閉められた。
直後、ブーンという車が走り去っていくエンジン音が聞こえてくる。
親父が車をかっ飛ばして弥生を駅まで送り届けるのだろう。
そのアクセル音からも、張り切っているのが分かった。
ガヤガヤと喧噪に包まれていたリビングも一気に静寂な空気になる。
こうやって、妹に行ってきます! っと可愛らしく挨拶されて、両親からも色々と用件を頼まれて……いつもなら何とも思わないような日常が、他の人には幸せに見える時もあるだろう。
おそらく西城さんだって……
っていかんいかん!
一人の静かな時間が訪れてしまうと、他にやることがなく、勝手に思考が働いてしまうものである。
だから俺は、優雅に朝食を取りつつも新聞を開いて、余計なことを考えないように文字列を読んで他の思考を停止させた。
◇
今日は雨こそ降ってはいないが、空は雲に一面覆われ、どんよりとした空気が辺りを包み込んでいた。
もう少しで梅雨も明けて、季節はついに夏本番へと突入する。大学生の夏は長いが、その前に期末試験が待っている。
まあ、大学の試験なんぞ持ち込みOKなものもあれば、ほとんどが論述式でそれっぽいことを書けば大体は点数がもらえるので、そうそう単位を落とすなんてことはないだろうと思いたい。
大丈夫だよね?
鬼畜な問題とか出さないよね?
俺無理だよ?
そんな心配をしながらも、いつも通り教室へと到着つくと、いつもの場所にいつものメンバーが待っている。
こうやって出迎えてくれる人がいるって素晴らしいことだよね。つまり、俺は絶対に素敵な嫁さんを手に入れる。
「よっす弥起!」
「おう」
「西城さんの件、よかったな」
「あぁ……みんなに迷惑かけてごめんねって伝えてくれって言われたよ」
「まあ、なんか事件とかに巻き込まれてなくて安心したよ」
「そうだな」
船津と橋岡たちと西城さんの事について会話をしてから、俺は後ろに気配を感じて振り返る。
そこんは、頬杖をついてどこか前の方をぼおっと眺めている乙中がいた。
「羽山は凄いね。なんでも解決しちゃってさ」
「そうか? 別に解決したつもりはない」
「そんなことないよ。それに比べて……」
まるで、自分は全く誰も助けられていないとでもいうように、乙中の表情はどこか哀愁が漂っている。
何かあったのかな?
と首を傾げていると、背後から声を掛けられた。
「おはよう、羽山くん」
その聞き覚えのある透き通る声に振り向くと、そこにはその美しい笑顔を振りまいて、俺を見つめている野方莉乃がいた。
「浜……野方先輩」
「ちょっと相談があるんだけど、いいかな?」
可愛らしくおねだりするようなその仕草は、普通の男子なら胸が締め付けられるような感覚に陥ってしまうくらいに破壊力抜群に可愛い。
ほら、橋岡とか船津なんてもう視線釘付けだし。
「はい、わかりました……」
俺は荷物を持って立ち上がると、野方先輩はそのまま後ろの方へと歩いて行ってしまう。
追うようにしてついていく。一瞬チラっと後ろを振り向くと、橋岡と船津が『おい羽山、誰だよあの美少女は!?』というような顔をしていた。
だから、俺は少し鼻が高いような顔で、キラッっとウインクをしてやった。
すると、二人の表情がみるみるうちに悔しそうな表情に変わる。
それを見て満足した俺は、急いで野方の歩いて行った後を追っていった。
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