つちひさ

改札口が人混みを次々と吸い込んでいる。その改札口まであと少しのところで、少し歩速をゆるめた若い女性がいる。他の人はみな、すでにカード入れを手にし、少しもスピードを緩めることなく改札を通りすぎようと構えながら歩いている。


 その若い女性は改札口まであと数メートルのところでやっとカード入れを手にした。ホームまでの登り階段でも何人の人に追い抜かされる。ホームにはまだ電車がいたがその若い女性は乗らなかった。次の電車を待つのだろう、次列の先頭に立っている。


 このままホームに落ちたら死ねるのかな。このまま死ねれば会社も行かなくていいのかな、でも、死んでも楽になれなかったら最悪やな。あーあ、どこかに一億円落ちてないかな、そしたら会社も止めて、奨学金も払って、お母さんに新築の家建てて、あたしはなにもしないで暮らすのに。


 アナウンスが響き、左手に電車が現れた。先頭車両が前面を押し出しながら迫ってくる、次の瞬間、電車がレールの継ぎ目を越える声がこだました。そして、ベルがなる。


 その若い女性はまだそこにいた。ドアが開くと当然のように乗りこんだ。


 会社についたら、机の片付けか、えーでも江島さんにはあの書類早くて言われてるしな。えーでも、リーダーが徳ちゃんの机を綺麗て誉めてたのは当て付けよな、はー。徳ちゃんみたいに誰にでもニコニコできたらな。ああいう子は得だよな。


 駅を越えるごとに車内の密度が高くなる。その車内で若い女性の斜め後ろに、もう五十は過ぎているだろうか一人の男性が立っている。浅いブルーのジャケットを羽織り、淡いチノパンを着こなしたその小綺麗な様はどうもサラリーマンには見えない。


 突然、その男性が握りしめた右手を若い女性のスーツの左側にちかづけ、当てたのかねじったのかした。次の瞬間、バネが戻るかのような速さで手を戻した。


 電車が接続している地下鉄に入り、暗くなった車窓に人々の無表情が写り込む。二人は別々の駅で降りていった。

 

 あれ、左のポケットになんか入ってる。ん、飴、b、u、t、t、バター、か。


 結局、机の片付けを優先させ、分類した書類の前で若い女性は袋を破り飴を口の中に入れた。


 あれ、どこでもらったっけ、あれ、さっきの電車の中で左のポケットになんか当たったきがする。あれ、入れられたのか、あれ、なら食べても大丈夫なのかな。ヤバイかな。でも、なんか懐かしい、前にも食べたことあるな。


 次の日も次の日も、彼女のポケットにバター味の飴が入っていた。もう、彼女はホームに降りてすぐ飴を口に入れる。飴が入っていた袋をポケットにねじ込んで彼女は改札口に向かって歩いて行く。その足取りは早く、もうカード入れを手にしている。


 最初は毒入ってるのかなって思ったけどな、毎日誰だろう。この飴なめると落ち着くな。今日はリーダーにプレゼン資料見せる日やな、よし、頑張るか。




 「ごめんごめん、遅くなっちゃた。なんか食べた。」

壮年の女性が重そうな買い物袋をさげて玄関に入ってきた。

「まだ。帰ってくるならご飯作るからって言ったのお母さんじゃん。ご飯は炊いたよ。」

若い女性が答える。

「だから、ごめんて。ちょっと荷物取りに来なさいよ。打ち合わせが長引いちゃって。最近の若い子は真面目なのはいいんだけど打たれ弱くって、泣いちゃって話にならないのよ。」

「なにそれ当て付け。」


テーブルに置かれた買い物袋から次々と食品が冷蔵庫に運ばれていく。壮年の女性はスーツの上着を椅子に掛けるとエプロンを着けた。それなのに若い女性は椅子に座り直し携帯を手に取ろうとしている。


 「ちょっと、手伝いなさいよ。料理できる訳じゃないんだから、覚えなさい。」

 そう言われた若い女性は大きくため息をして不機嫌を演出した。

 「だから彼氏いないのよって言いたいんでしょ。」

 「そんなこと思ってないわよ、ちょっと、上着ぐらい脱ぎなさい。」 


 若い女性はのらりと立ち上がるとスーツのジャケットのポケットに手をいれ、くしゃくしゃのレシートと飴の空袋を取り出した。三歩向こうのチリ箱に投げようとするも飴の空袋はひらひらと床に着地した。


 「ちょっと、一歩けば投げなくていいじゃない。」

 壮年の女性は飴の空袋を取り上げチリ箱に入れた。

 「あら、この飴、覚えてる。あの人がよく舐めてた。あなたにもあげようとしてよくケンカしたわ。」


 若い女性は脱ぎかけたジャケットを肘にかけたまま振り返った。目を見開いて壮年の女性を凝視している。


 「あの人って、出てったお父さん。」

 うわずった声がリビングな響く。

 「そうよ、ほかに誰がいるのよ。覚えてない。まっ、覚えててもしょうがないわよね。どうしたの、なにかあるの。」

 「う、ううん、なんでもなあい。」


 それから、二人は何事もなかったように台所で食材を広げ始めた。


 そっか、お父さんか、うん、お父さんだ。きっと私が暗い顔してたから、励まそうと思って。いやいやいやいや、もう別れて何年になるよ、わたしが小学校低学年の頃やったやん、出ってたの。でも、お父さんやったらいいな、実は大金持ちで私、もう働かなくて良くなったりして。


 寝息をたてている母親の横で、若い女性は何度も携帯を見ている。闇夜に浮かび上がる彼女の顔は興奮しているのかいつまでも寝付けづにいた。



 

 その日、若い女性は通勤電車のドア側に位置どりガラスを凝視していた。


 飴はいつも地下鉄に入ってから入れられる。なら、今、ガラスに写っている人の誰かが飴を入れているはず。あっ、あんまり睨んだら目があっちゃいそう。


 ドアのガラスに写る人影は男女同じくらいの人数で、若い女性の左斜め後ろには壮年の男性が立っている。若い女性がバッグを左肩から右肩に移した瞬間、その壮年の男性の視線が下に動いたように見えた。そして、確実に若い女性のジャケットの左側に触れたようだった。


 どうしよう、男の人だ。50代かな、う、うんそれくらいかな。あっ、降りちゃう。


 壮年の男性は若い女性より三つ前の駅で降りた。若い女性は降りたホームの端で呆然としている。そして、意を決したのか突然あるきだした。まるで誰かに聴かせているのか大きな足音をたてて。


 次の日も若い女性はドアの近くに立っていた。バックの紐を握りしめ、ガラスに写る人影を凝視している。駅に着きドアが空く度に周囲を見渡している。


 不意に、彼女の視線が一点に止まった。スピードが落ち体が傾いても視線を外さないでいる。浅いブルーのジャケットが暗いガラスに映えている。


 駅のホームの光が車内にも入り込んできて電車はますますスピードを落とす。ドアが開き皆がホームの方を向いて歩いて行く。若い女性も浅いブルーのジャケットを着た壮年の男性もホームにでた。刹那、若い女性が壮年の男性の腕を掴んだ。


 「お父さん。」


 その声は周囲に響き膨らんだ。周囲の人がギョッとして若い女性を見た。それに怯んだのか若い女性のての力が少し弱くなった瞬間、壮年の男性は袖をねっじって女性の手を振りほどいた。壮年の男性は一度も振り向くことなく階段の向こうへ消えていった。


 立ちすくむ若い女性のをよけて人が流れて行く。やがて、彼女も電車に乗ってホームをさった。若い女性はその日、飴を大事にハンカチに包んで持ち帰った。

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