第6話 桜雲協奏曲
「あー違う違う、もう少し右側にズレて…そうそう。んでキャンバスを反時計周りに少し回して…」
午前十時半。あの後美術準備室に向かい、もはや毎日の如く会っている西村先生に頼み込んでキャンバスと道具を借りることに成功した俺は、一昨日西村先生が座っていた場所で、橘に言われながらキャンバスの微調整を行っていた。ここまで細かい調整が要るのかと思ってしまうが、なにせ今回は四季桜の模倣、構図を完全に真似つつそれに俺なりの味を出して完成させなければならず、奴らの目を欺く為にも細かすぎて困る事なんて何一つない。
「おー、よしよし!これこれこの角度だよ!毎日この桜を拝んでたから頭が完全に覚えてるものだね!間違いないよ!」
「よし、これでやっと始められるな…」
俺は目の前にでかでかと映る桜夏の頂点から根元までを何度も見渡す。今日も相変わらず季節感皆無で咲き誇る桜に溜息を吐きながら、今日も持ってきた二リットルの烏龍茶を浴びるように飲む。まだ過ごしやすい気温ではあるが、この後の事を考えれば水分は多めに取っておいて損は無いだろう。ふと後方の活気に耳を傾ければ、今日は男子野球部が元気な声を出して紅白戦を行っていた。いくら隅っことは言えグラウンドでこんなのを広げられては邪魔だとは思うが、俺だって好きでこんなことをしているわけでは無いので勘弁願いたい。せいぜい球が飛んで来ない事を祈るばかりである。
「にしても、随分とケージも気前良く道具貸してくれたね…。部員でも無い咲良に」
「前から交流があるからな。まぁ俺も流石に『桜夏を描きたくなったから』なんて言えばなんかしら言われると思ってはいたが…存外すんなりと貸してくれたな」
「いきなりフラッと表れて桜夏を描きたいの一言だからねー…普通だったら怪しまれるよ」
「まぁ借りられたんだから問題ないだろう。…んじゃ、始めるか」
軽く伸びをして目頭を押さえながら借り物の鉛筆を取り出す。一応筆箱自体は持ち合わせていたが、よもや絵を描く事になるなんて想定していなかったので濃さの違う鉛筆までは持ち合わせていなかったのでわざわざ借りる事となった。西村先生からは貸してくれた際に絵具も持っていくかと聞かれたが、家に帰れば教材として買わされた絵具がありそれ以上のものなど端から使う気も無い。それに、今日の進行がどこまで進むかは知らないが、少なくとも下書きを終えて本描きにまでは入らないだろう。そんな理由で断った為、今日の手持ちは鉛筆とキャンバスとイーゼル、そして座る用の折り畳み椅子。総体積は大きかったが絵具とパレットが無いだけまだマシなものであった。
「にしても咲良本当に絵なんて描けるの?割と自信ありげな態度だったしケージも完成を楽しみにしてるっぽかったから大丈夫なんだろうけど…、聖君と雪根ちゃんの息子が絵を描けるなんて余りにも信じられなくて…」
「……ま、黙って見てなって。そこまで酷い物にはならないと思うからよ」
未だに訝しむ橘を他所に、俺は夏の日差しに目を細めながら桜夏をまじまじと観察する。つい一昨日まではこんな事になるとは思わず、関係のない怪奇現象の一つだとしか思って無かったのに、まさかここまでまじまじと見る事になるとは、本当に人生は分からないものである。
とはいえ、流石はこの地域の名物になるだけはある桜。根元からの距離は20mはあろうが、とても一本の木とは思えない程の迫力がある。全長はざっと見る限り19m程であろう木には不自然な程に色づいてる桃色の花が溢れんばかりに盛られている。風が吹けば枝を揺らしながらその花弁を地面に振り撒くので、この二日間で足元にも桃色の絨毯が出来ている。だが、当の桜夏の花の数は減っているそぶりは見せない。咲き初めをあまり確認はしていなかったから確かな事は言えないが、少なくとも一本の桜の木が見ごろを迎えるのはせいぜい満開から一週間。元々蕾などの段階が無くいきなり花を咲かせると言う珍妙な桜なので、気に留めてなかった頃は考えてなかったが冷静に考えると夏の間ずっと花を付け続けるこの桜は凄まじいものだと再確認させられる。久しぶりの絵がこんな大作になり、しかも絶対に失敗は出来ない物となると距離感の確認や構図、完成系の予想などで最初の一筆が中々に決まらない。
「……だが、とりあえずはアレに似せないと始まらないか」
そう呟いて思い出すのは、居間に飾ってある四季桜。今回、表向きは桜夏を描くと言う内容だがその中身は俺なりの四季桜を描くというもの。いくら描く位置が一緒だからと言って下書きすら思うがままにやってしまっては完成図が大きく逸れてしまう可能性がある。橘的には別物になってしまっても良さそうな感じであろうが、どう転ぶかは分からないので今回の製作にあたり、常にイメージするのはあの絵でいいだろう。
だが、それでも一個だけ疑念が残る。あの四季桜の花部分には、どのような意味合いがあったのだろうか。所詮は花の部分、大元の幹を描く分には問題は無いがその先に筆が進んだらそれについて考える必要があるだろう。あの無駄に多く打たれた円状の点、何故か他の場所よりぼかされて消された左上の部分。あれの意味するところは一体何なのか。
「ま、あれこれ詮索しても意味は無い」
俺はそう呟くと大きく深呼吸をしてもう一度まっさらなキャンバスを睨む。そして右手で額に浮いた汗を掻き上げて、桜夏の幹を描き始めた。
絵を描くのは高校一年にあった美術の時間が最後だった記憶があるが、どんな状況でも絵を描くというのは良いものだと改めて実感させられる。先程まで色々と考えていたような気がするが今は目の前の白にひたすら四季桜を写し取ることしか頭に無い。後ろの野球部の歓声や橘の口うるさい声などの一切がシャットアウトされて自分と桜夏だけの世界が出来上がっていく。集中できているのが感覚で分かる。かつての自分にとって、絵は辛い現実から目を背けるための逃げ道であったが、今は随分と落ち着いて描けているものだ。西村先生は昔、絵には心象が宿ると言っていたが、ともすればこの絵は今まで描いてきた作品よりは幾分優しく仕上がるのではないか。
幹の外郭を大まかに描き、中の細部を描きながら全体の比率を調整していく。目では満開に咲き誇る桜夏を見ながら、居間に飾ってある絵を頼りに脳内で四季桜を重ね合わせる。花を付ける時期は違えど、十八年前から変わらず在るこの桜が様変わりする筈も無い。ならば、四季桜を意識しながらありのままを描けば本物とそう変わらない偽物が出来る筈だ。
見えない根っこの部分までを下段一杯に描き上段の方では大きく枝分かれしていきだんだんと細っていく幹の先端部分に鉛筆を走らせる。この辺りも本書きに入ってしまえば見えなくなってしまうのだが、見えない所で雑に済ます気はない。
――――――――あくまでも繊細に。
――――――――あくまでも大胆に。
花だけが木の雄雄しさでは無く、寧ろ真の活力と言うのは幹にこそあると言わんばかりの力強さで描く。本描きの時に花を描く際のハードルが上がってしまうがそんなものは気にしない。どうせ今回の一件、最低でも両親を黙らせられる物に仕上げる必要がある以上半端な作品は作れない。ブランクはあるが持てる力を出し切って、初めて土俵に立てるようなものである。ならば幹に全力を出し、花にも全力を出して、それで駄目だったらそれまでの技量だったと言う事で諦めるしか無いだろう。
描いて、消して、描いて、描いて、消して、少し構図を考えればまた描いて。
未だに思い浮かばない着地点を頭の隅で考えながら、滴る汗など気にも留めず一心不乱に下書きを進める。
それからどれくらい描き続けたであろうか、大まかな下書きに区切りがついたと言った所で俺は大きく息を吐いて目頭を押さえながら鉛筆を下ろす。そして首を回しながら少し引いて絵の全体を図を確認しようとした所で、急に悲鳴が上がった。
「わわわっ!急に頭動かさないでよ!気抜いてたから落ちちゃう所だったじゃん!」
「…なんだ、居たのか。静かだったから屋上に帰ったのかと思ってたが」
「話しかけても、咲良が、反応、してくれなかっただけですーっ!」
どうやら橘は何度も話しかけていたらしい。だが今の今まで反応が無かった事が不満だったらしく片手で俺の頭頂部を叩くような動きをしている。当然奴に当たり判定があるわけ無いのでこちらとしては痛くも痒くも、ついでに言えば何とか頭上に意識を向けなければ何をしているかすら分からない。
「最初に言ったろ、黙って見てろって。お前の為にわざわざこんな無茶苦茶な計画に手を出してるんだからな…。何とか成功させる為にも俺だって必死にはなる。お前と喋りながら下書きをするなんて器用な真似は出来ないし出来たとしてもやらん。半端な作品になりそうだからな。お前だって両親を黙らせるのに緩い気持ちで何とかなるわけ無いのは分かってるだろ?」
「うっ、それは…そうだけどさ……でもでも寂しいものは寂しいし…」
顔を逸らしながらどもる橘。寂しいなんて言われても知った事では無いが、これ以上虐めても可哀想なので俺も話を変える事にする。
「それにしても、俺の絵も捨てた物じゃねぇだろ。まぁ西村先生とかと比べられたら雲泥の差だろうけどな」
「いやいやいや、普通に学生だったら十分すぎるでしょ。聖君達の子供とは思えない位に上手いし、下書きだけでも咲良の実力が窺えるけど…誰に習ったの?ケージ?」
「いや?基本独学だが。小さい頃に雪根さんが色んな場所に連れてってくれて、その時に風景とかを描いてたんだ。最初は割と下手くそだったが描いてるうちに上手くなってきてな」
「あの画力底辺の二人からまさかセンスタイプの人間が生まれるなんて…!」
さりげなく両親を貶す橘の言いたい事も分からなくはないが、底辺とまでは言い過ぎではなかろうか。そう思う俺も両親が絵を描いてるところなど見たこと無いので否定しきれないが。あとセンスタイプと橘は言ったが、最初の手探りだった頃は酷かったものだと俺は思い返す。そんな思い出に浸っていると、橘は改めて桜夏の下書きを品評するように眺めて感想を口にしていた。
「にしてもこりゃスゴい…。木の迫力もそうだけどここまでに掛けた時間も早い。まだ五時間しか経ってないよ。まさか下書きを一日で終わらせにかかるなんて思って無かったから咲良の速筆ぶりにもビックリだよ」
何気なく漏らしたであろう橘の感想。しかし、俺にとってはそんな感想よりも聞き流せない一言がそこにはあった
「……五時間、だと?」
今の何気ない橘の一言で、俺の全身から先程までの外気の熱さから湧く汗とは違う冷たい汗が混ざって落ちてくる。今、橘は五時間しか経ってないと言ったが、恐らくそれは描き始めてから五時間。描き始めたのは十時半事だったので、そこから五時間だとすると、とんでもない事になっている気がした。
最早抜き手と見まがうばかりのスピードで鞄に手を突っ込み携帯を取り出す。黒一色の鞄の熱の籠り方は凄まじかったがそんな事を気にする余裕も無く画面を付ける。案の定、CODEにはメッセージが一件来ていた。
「?どったの咲良?急に険しい顔しちゃって」
全く関係のない橘は、俺がどれ程焦っているか露程も気にしておらず呑気な声で聞いてくる。一応聞こえてはいたがそんな相手をしている余裕はなく震える手でスライドさせて画面を開く。相手は能代、時間は約三時間前。文面は短くたった一言。
『美術準備室で待ってる。区切りが着いたら連絡してくれ』
「……あーあーあーあー。なにやってんだか……」
一応、携帯のサイレントモードがついてないかを確認したが、そんな事は無く普通に通知が来れば音が鳴るように設定されている。単純に気づかなかっただけだろう。呆れて物も言えない。つい一昨日も能代を待たせたと言うのに、俺は何をやっているのか。もう既に待ちぼうけをさせているのだから一分一秒でも早く合流しなければと俺は橘に作業の終了を伝える。
「今日はここまでだ。と言っても下書きは大方終わってるから明日から普通に色を付けていくだろうがな」
「そうだねー、まさか今日中に下書きが終わると思って無かったからこの勢いで行けばー…ってどうしたの咲良?そんなに急いで」
「三時間前に能代から連絡があった。美術準備室で茶でも飲んでるってさ」
勢いよく立ち上がった事で橘がバランスを崩していたが無視。全身から流れる汗などを気にせず一気に道具を片付けて担ぎ上げ、キャンバスを服などで擦らないように運ぶ。
「あ~なるほどね~。能代ちゃんからのラブコールがあったんなら仕方ないね。まぁ切り上げるなら丁度いいタイミングだったし、今日はこんなもんなんじゃない?」
「むしろ待たせ過ぎだ。三時間も放置とか…我が事ながら呆れちまう。これ以上待たせるのは申し訳ない」
地味にデカいキャンバスの所為で速度が出ないながらも何とか早足で校庭の外周を回って焼却炉方面の裏口に急ぐ。
「…ちなみに、今日はこれ以上作業を進める気はないがお前も準備室に来るのか?」
「勿論。だって暇だし」
厄介者扱いしたような聞こえ方だったのか橘は若干不貞腐れたような声で俺の疑問に切り返す。先程までロクに相手をしてもらえなくて不満だったのだろうか。だが、美術室でも周りの目がある以上構ってやることなんてできないのは分かっているのだろうか。一応確認だけはしておこうと溜息混じりに話す。
「……どうでも良いが、能代や西村先生もいる以上お前と喋る事は出来ないからな」
念のため釘を打つと、橘も分かっているよとお気楽そうに返事をする。会話に混ざれないのに来る意味があるのだろうかと思うのだが、本人がそれで良いと言うなら良いのだろう。そんな感じで自分に言い聞かせて、俺は渋々取り憑かれた状態で能代に会う為に裏口に向かった。
持ち運んでいるキャンバスの関係上、横歩きにならざるを得ず極めて不自然な走り方で全力で走る。夏休みの人の入りでなければ確実に尾ひれがついて噂されること間違いなしであっただろうこの現状、俺の事を笑い飛ばすのは頭上の害悪だけで済むのは救いであった。コイツには後で塩を滝のように浴びせてやろうと心に決めながら息を切らせて汗を垂らしながら美術室の前に立つ。中に居るのは奥の方に二人、部員の可能性もあったがそれだったらそれだった別に構わないと言った気概で扉を一気に蹴り開ける。教室の扉より重いので開ききらなかったがキャンバスごと中に突入するには十分なほど開いたので一気に入る。すると、片や大きな音に驚いてこちらを振り向く大人が一名、片や特に気にする素振りも無くゆったりとした動きでシャーペンを置いてこちらを向く女子生徒が居た。俺は体中の熱を排出するような溜息を吐いて恨み文句を女子生徒の方に投げかける。
「待ってるなら一声かけてくれりゃいいだろ…能代」
「随分と熱心な様子だったからな。静観しているのも優しさだと思って待っていたんだ。だが一応声はかけたぞ。昼過ぎにな」
「反応しないような状況だったならぶん殴れっての…ったく」
切れ切れな息を整えながら、室内に居たもう一人に向かって頭を下げる。
「すみません西村先生、俺が背後の能代に気づかないせいで迷惑を掛けました」
「気にするなよ。今日は部員共も午前中で上がりやがったから暇してたんだ。寧ろ話し相手が出来ていい暇潰しになったぞ」
「そう言ってもらえると幸いですが…」
言いながら俺は腕に絡ませて持ってきたイーゼルを立ててその上に担いできたキャンバスを乗せる。一気に軽くなった両肩をぐるりと回して空になった手で汗を払いズボンの裾で拭う。
そして能代の二つ隣の椅子に腰かけた所で漸く一息つく事が出来た。
「…ハァ。桜夏描いてる時より疲れたぜ…」
「そんなに急いで来なくても良かったものを」
「お前を待たせてるって知って、急がないわけが無いだろ…全く……」
天を仰いで汗がひくのを待っていると、頭を傾けながらも上手い事バランスを取る橘と目が合う。そして、ふとコイツは後ろから来た能代の存在に気づいていたのでは無いかと思った。いくらコイツでも五時間ずっと俺の描いている姿を見ていると言うのは余りにも暇が過ぎるだろう。話にも付き合ってくれず、かといって俺の頭から離れる事が出来ないとなれば辺りを見回す事位しか出来なかった筈だ。そしたら、俺達に寄ってきた人だって当然見てはいるだろう。ならば能代が来た時点で橘も俺に能代の存在を気づかせようとしてくれれば良かったものを、と毒づきたくなってしまう。最も、それが能代の存在に俺自身が気づけなかった事への八つ当たりであるのも分かっているので何とも言えない。
そんな事を考えて仰け反った背中を一気に正して前を向くと、西村先生が俺の下書きを見て頷きながら独り言を呟いていた。そんな姿を俺が見ている事に気づくと、ニヤリと笑いながら西村先生が感想をくれた。
「相変わらず筆が早いなぁ。おまけに細かい所までよく書けてる。前から疑問に思ってたんだがお前さん、絵は誰に習ったんだ?まさか美術の時間だけでここまで描けるようになったわけねぇだろ?」
「基本独学ですよ。両親も描いてる俺には何も言ってきませんでしたからね。後はそれこそ西村先生に教わった位でしょうか?」
「…マジか。確かにお前の両親はどっちも絵はからっきしだったからそこは分かるが…、これを独学か…」
「私もビックリだよ…、てっきり小学校の頃から誰かに教わっててずっと絵をやってるのかと思ったくらい正確な下書きだったし…。これで趣味とか言われたら私泣いちゃうんですけど」
西村先生だけでは無く橘も驚いた様でうんうんと頷いている。俺としては気晴らし程度に描いていただけなので趣味ですらないのだが、美術部の顧問と元美術部の生徒に褒めちぎられると、何とも居心地が悪い。
「それにしても、絵を描いている名蔵を見たのは久しぶりだった。…三年ぶりだったろうか」
「中学以来描いてなかったからなぁ…と言うか今日は一日練習だと思ってたんだが、違ったのか?」
「あぁ、今日も午後は男子剣道部の番だったからな。今日も午前で上りだった」
「なら朝伝えてくれればいいものを…」
「昼間に連絡すればいいと思ったからな。それに連絡していたら絵を描いていた名蔵は見れそうに無かったからな。結果オーライというものだ」
「どう言う意味だっての…全く。俺の絵を描いてる姿なんてみても何の面白味もないだろう」
呆れながら俺が返した言葉に、そうでもないさと能代はすぐに否定して、絵の出来とは別口で俺の事を褒めちぎりだした。
「絵にしても剣道にしても、何をやらせても上手くこなす名蔵の様は見ているだけでも楽しい。ウチの妹がやっているゲームと一緒にされては困るかもしれないが上手いと言うのは魅せられてしまうものだぞ」
「絵は独学の範疇だし、剣道だって齧った程度なんだがな…」
「謙遜しなくてもいいだろう。ウチの男子部員にも言われたぞ、是非とも教えを請いたいから説得してもらえないか、とな」
能代の発言に思わず吹き出してしまった。能代にしてもそうなのだが、俺から『剣道』を教わりたいなんて笑い話にもならない。
「俺は剣道の教師には向いてないっての…ったく」
「なんだかんだ言っても夏休みまで那賀の練習を付き合ってる奴の台詞じゃねぇよな」
俺のボヤキに笑いながらツッコミを入れる西村先輩の言葉に同調するように笑う能代を見ながら鼻を鳴らして目を逸らす。
「あれ?もしかして照れてる?咲良」
そんな訳無いだろと言う意味合いを込めて首を左右に回す。上から全身が高速回転して悲鳴を上げる幽霊がいるが、無視を決め込む。
「それにしても、あれでもう完成なのか?名蔵」
幽霊の相手で口を閉ざした事を気を使ってか能代は話を変えてそんなことを聞いてきた。それに対して俺は首を横に振って否定する。
「いや、まだまだ下書きだ。あれに完成品をどうしようか考えながら色を塗ってかなきゃならないからまだ三割くらいの完成度って所か」
「これで三割なのか。随分細かく書いてあるから鉛筆画としてもう完成なのかと思っていた」
「寧ろここからが本番なんだよな…」
能代との会話の間で、これからの事を考えさせられて頭が痛くなる。確かに、この下書きは自分でもうまく描けている方だとは思う。だがこれではあくまで四季桜を浮かべながら描いた桜夏であって親父達を納得させられる四季桜にはならない。しかもこの桜夏の絵は問題だった花びらの部分や不自然な点などを棚上げして見た目通りの満開の桜を描いたものだった。ここから先は想像の世界だ。どれだけ橘と自分の言葉を絵に載せられるか。そしてそれが親父達に届くような絵に仕上げられるか。奴らが望む絵はどんな物だのだろうか。正直、この先の絵の行方は完全に未知でありどうすればいいのかが全く予想が付かない。何となくイメージしているものはあるがこれが正解とは限らない上に、謎の点とかについても当の橘本人もあの奇妙な部分について話を出す事が無いので分からずじまい。駄目で元々とは言えこの四季桜が駄作だから失敗した、なんて事だけは避けたい。どうしたものだろうか。
「何か色々考えているようだが、腹が空いては思考も纏まらないのではないか?」
俺の考えを遮るように、そう口にした能代は鞄の中から二つの弁当箱を取り出して片方を俺の前に差し出す。
「…お前、まさか俺が来るまで食うの待ってたのか?」
この疑問に対して、無論だと一言頷きながら言い切る能代。いつ来るか分からない俺を待って三時過ぎまで待たせた事が、俺に罪悪感を持たせる。飯を待っているのであったらそれこそ殴りつけてでも気づかせて欲しかった、そもそもいつ頃切り上げるか分からなかったのだから先に食べて置いてくれればよい物を。なんてどれも口にしては能代達を困らせてしまう様な言葉が浮かんでくるので頭を軽く振って雑念を消す。
「…今日で三日目だが本当に悪いな。だが待つ位なら先に食っちまってくれ。頭が上がらん」
「好きで待っていた事だ。気にするな」
そう言い切られてしまってはこちらも何も言い返すことが出来ず、俺は渋い顔で有難く弁当を頂戴する。その姿を眺めていた西村先生は愉快そうに笑い声を上げた。
「気立ても良くて見栄えも綺麗で息もピッタリ、おまけに胃袋まで掴まれちまってるんだから。これはもう決まったようなものか?名蔵よ」
「なにがですか?」
両手を合わせて弁当を拝みながら西村先生に聞き返す。中に入っていた能代の飯は食う服も相まって今日も実に美味しそうだ。
「なにがって…、お前らも高校二年なんだからそろそろロマンスの一つや二つがあっても良いと思わねぇか?俺が見てる限りでこれほどベッタリなペアは学内だとあと木ノ崎と湖宮位のモンだぜ。これだけ良い相手他に居るのか?なぁ那賀?」
「……そこで私に話を振られても困るのですが…」
「能代程良い奴はそう居ませんって。…だからこそ、俺なんてとてもじゃないが釣り合わない。能代に失礼ってものですよ。なにせ狂犬なんて呼ばれてる人間ですよ?こんな奴のためにわざわざ飯まで作ってもらっちまって…本当に何で返せばいいのやら」
卵焼きを口に入れながらしみじみ思う。西村先生に言われなくても能代がどれだけいい奴なのかなんて分かりきっている。だが、それでも俺にだって事情がある。あの日に誓った約束がある限り、俺は能代の幸せが拓けるまではアイツの傍で守る事は変わらない。だが、能代がその先に進む際には俺は隣には居られないだろう。能代が幸せになった時に、俺が横に並ぶ資格は無いのだから。
何となく感傷的な気分に浸っていると西村先生、そして何故か橘までもが呆れたような溜息を吐いて俺の事を睨みつける。そして能代の方に視線を移すと、二人して似たような事を語りかけていた。
「苦労してんだね…能代ちゃん」
「お前さんも苦労してんなぁ、能代」
二人して何を言っているんだと思ったが口にするのをすんでの所で飲み込む。橘には後で塩を撒けば良いだろうし、一々反応するまでも無い。
「…いえ」
二人の生暖かい目と言葉を、首を軽く振りながら能代は否定する。
「これ以上を望む気には、私はなれませんよ」
そう言って、能代も時運の弁当に両手を合わせた所でこの話題は打ち切りになった。橘も若干不満があったようだが西村先生がこの話を続けてくれない以上橘も聞きようが無いため追及はせず、最後にただ一言だけ。
「……なーんか怪しいよねぇ…」
そう呟くだけに留めていたのだった。
それからの話題は一学期のテスト結果や最近のクラス事情、休み明けすぐに始まる体育祭や文化祭と言った他愛の無い内容だった。後者二つについてはHRなどで話し合いがされていた気がするが参加意欲が無いので聞き流していたのだが、それを話すと溜息混じりに能代が教えてくれた。どうやら今年の文化祭は焼き鳥の屋台を出すらしい。あまりに安直だが堅実な所だったので何かコメントするのも難しいが、もう一捻り出来なかったのだろうかとボヤいたら三者から自分で意見を出せば良かっただろうと言われてしまいでぐうの音も出なくなってしまった。そんなどうでも良い一幕もありながら昼食を食べ終え、そのまま能代と二人で下校した。
そして、家に帰った後に諸々を終えて部屋に戻るとどっと疲れが押し寄せてきたのを体で感じて一気に布団へ倒れ込んだ。
「……やわな鍛え方はしたつもりは無かったが、存外夏の日差しは体に堪えるな…」
思わず誰に当てたわけでも無い恨み口を零しながらなんとか体を起こして窓を開けてもう一度倒れ込む。こんな事になったのはどう考えても絵画の制作中に水分をロクに取らなかったのが原因なのだが、あの時はいかんせん集中していたので気にならなかった。実を言えば美術室に走り込んだ時から割と体が悲鳴を上げていたのだが、能代の前で要らない心配をさせるわけにはいかなかったので平常を保とうと努力していたが、どうやら上手い事誤魔化せたらしい。帰り際には特に追及は無かったので一安心と言った所か。
「まぁ…楽しかったから良いけどな……、明日からは着替えを持ってくか…」
家に帰り雪根さんが真っ先に指摘したのは制服に付着した塩分であった。汗が蒸発して浮き上がった物なのは一目瞭然なのだが、今や学園での運動とは無縁の帰宅部生活を送っている俺がそこまでの汗を掻いた事、加えて一日で随分と黒くなった体を目にした雪根さんは何をしていたのかを当然聞いてきた。別段本当の事を喋ってしまっても良かったのであろうが、どう転ぶか分からなかったので適当に濁した。最も、色々追及されても面倒だったと言う本音もあったからではあるが、兎にも角にも追及されなかったのは幸いである。
「それにしても…本当にこれで良いのか……?」
寝返りを打ちながら、俺は何となく今後の事について考えてしまう。
今回の絵を描く事になった発端は売り言葉に買い言葉を重ねた結果である。橘は恐らくこの流れで行けば両親達が納得するような絵が完成すると疑ってないだろう。今日の下書きに対してだって何も口出しはしてこなかった。だが、描いている俺からすればあんなもので、と言うのも何だがあの絵で四季桜の代わりになるとは到底思えなかった。橘は太鼓判を押してはいたが、いくら息子が両親の為に描いたものとは言え、それだけであの凝り固まった両親の心を動かせるかと言われたら、正直に言って怪しい。自分の実力が足りないからとかそういう問題では無く、純粋に精神論的な問題の方が大きいだろう。
そう、言わば四季桜は両親にとってオンリーワンの存在である。製作者が死んでしまっている以上アレ以外の代替品など考えもつかない。そんな中で、あの絵をすり替えて尚且つ両親に納得してもらう方法なんて、どれだけ考えても橘御影の作品し成り得ない。分かりきっているのだ。
「だが、アイツは描く事が出来ない…」
本人が筆を持つ事が出来ない以上アイツが本当に作品を作ることは不可能。誰かが代わりに贋作を作り上げるしかないのだが、十八年以上橘の絵を見てきた両親の目を騙そうとするのは、どだい無理な話だ。絵とは別方向の外的な要因で誤魔化すしかない。
つまる所、俺がこれからやるべき内容は『四季桜の代わりになる絵を作り上げる』事と『その絵を橘御影が制作した事に仕立て上げる』この二つになる。ここまでは絵を描き始める前にも考えついていた。絵については既に手を付け始めているので残りは後者、要は演出の問題だ。
「……やはり鍵を握るのは雪根さんが漏らした手紙か…」
俺はもう一度体を起こして、昨日書きなぐっていた現状の図を机から持ってきて仰向けになりながら月明りを頼りに再度目を通す。様々な文字と線で埋められた中には手紙の文字も含まれていて視線がそこに集中する。色んな手段を頭の中で考えはしたが、一番現実的な方法なのは結局例の文通の手紙を回収する事だろう。演出面とするならば、灰色の絵から突然咲き誇った四季桜、その傍らには且つて恋人と文通していた頃の手紙が添えられていてそれを通じて両親に今の思いを伝える。今まで大事に取っておいた過去がすべて消え、未来が一通だけ残ると言う演出。狙い過ぎている気がするがその位の方が分かりやすいだろう十八年前に死んだ恋人・親友が今の自分達を案じてふらりとメッセージを絵と文章にして残す。分かりやすい美談だ。最早ファンタジーの域だが、ここ最近あんなのと一緒に行動をしているせいか、いかんせん耐性がついてしまったか、そんな事が起こってもおかしくないだろうなんて考えるような妄想脳が出来上がってしまった。少しばかり俯瞰的な見方が出来なくなっている自分が心配になるが、俺の絵と手紙の完成度の高さ、それと突発性さえあれば十分可能であると思っている。
そして、絵はともかくとして仮に手紙を捏造する場合、その為の道具も何の因果か手元にある。まさかこれを再び使う事になりそうとは当時は夢にも思わなかったが、とりあえず人生の汚点として処分しなかった自分を褒めたい。
「道具はある…とりあえずだが演出も考えた……後はそのための下準備を進めるだけだが…」
何をするにしてもやはりあの部屋に忍び込まなければ始まらない。だが基本的に買い物以外で家を空ける事が無い雪根さんの留守を狙って一気に回収しようにもそんな短く不定期な空き時間で回収が出来るかなんて言われたら不明だ。万が一侵入中に雪根さんが家に帰って来ようものなら言い訳のしようも無い。そんな状況になるのが怖くて計画が組めないのである。
「せめて両親が旅行とかに行ってくれれば…ってそんな都合の良い事は起きないか」
希望的観測に身を任せるのは本意ではないがこればかりはどうしようもない。もしやるとするならば、休日を一日家で引き籠って両親が不在のタイミングを狙い突入するしかないだろう。こんな不確定な状況を願い行動を起こさなければならない事に若干の嫌気が差すも、諦めるように溜息を吐く。ここ最近は溜息を吐く回数が本当に多くなってしまったものだ。
改めて今後についての方針が立った所で、無性に睡魔がやって来て欠伸を噛み殺す。普段ならまだ起きている時間だが、どうにも今日は疲れた。まだ色々考えることは多いが、偶には早く一日を終えても良いだろうと目を閉じる。
その時、部屋のドアからノックをする音が聞こえた。
「名蔵さん―、起きてるー?」
その声で意識が急激に覚醒していくのを感じて体を跳ね上げる。夜に部屋を訪ねてくるなんて一体何用かと先程まで握っていた紙を適当な所に投げてドアを開ける。
「あ、良かった。まだ起きてたのね。部屋の電気消えてたからもう寝たのかと思っちゃったわ…というか冷房付けないで暑くないの?あなた」
「慣れちまえば案外快適だ。文明の利器は客人が来た時以外はなるべく使わないようにしてるんだよ、体が軟弱になるからな」
「頼むから室内での熱中症だけは勘弁してよね…。まぁそんな事はどうでも良いとして、名蔵さんって今週の土曜日なんか用事ある?」
冷房を付けずに窓を開けるだけで我慢しているのは暑さに弱くなるのを避けたいだけでは無いと言いたかったのだが、それより先に雪根さんから突然予定を聞かれてタイミングを逃してしまった。
「…特には無いが。能代に呼ばれたら練習に付き合うし、その位だと思う。それがどうかしたか?」
「あぁ、予定が無いのなら何でもないの。私と聖人さん、今週の土曜日に旅行に行っちゃうから、夕飯はお金置いておくからいつものラーメン屋さんなり自炊するなりしてねってお願い。日曜日の昼には帰ってくると思うから」
「………なんだって…?」
雪根さんが簡潔に伝えてきた内容、それは計画実行に必要だった最後のピースだった。
この話を聞いてからの俺はとにかく狂った様に筆を動かし続けた。それこそ、桜に哭く少女に取り憑かれたのでは無いかと能代に若干心配される程度には鬼気迫っていたとの事だ。
まず翌日に能代との練習を済ませて急ぎ屋上に向かった。橘の奴は汗だくで走り込んできた俺に対して大層驚いていたが、俺としてはコイツと無駄な談笑をする時間など無かったので前日にあった雪根さんからの話とそれを踏まえた俺の作戦を端的に伝える。当然、橘は疑問を浮かべている様で難しい顔をしながら。
「……本当にそれ、私の手紙要るの?咲良の絵だけで十分じゃない?」
なんて宣ってくるのでこちらも予定通りの切り替えしで対応をする。
「何度も言うが家に飾ってある四季桜はあくまでお前の作品だ。当然うちの両親も俺の作品とお前の作品くらい一発で見分けがつくだろうし、俺が絵をすり替えた事にしたら意味が無いだろう。確実に俺が怒られて終わりだ。当然両親は俺がお前に引っ付かれてる事なんて露程も知らないんだからな。だからもうワンアイディア欲しかったんだ。俺の絵がお前からのメッセージに錯覚出来るような一推しが。それはやはりお前自身の言葉が一番効くだろう。幸いなのか今までの文通は取っといてあるらしいから手に入りさえすればその辺で色々細工も出来る余地がある。そして、それを回収するタイミングが天から降ってきたんだ。逃す手はないだろう」
「むむむ…まぁそう言う小細工が多いに越した事は無いんだろうけどさ…。でも雪根ちゃんの言ってた旅行の日程って今週末でしょ?それまでにあの絵完成させるの?厳しくない?」
「なんのかんの言ってもそこまでキャンバスのサイズは大きくない。とは言え全力でやって間に合うかどうかだが…それはこっちの仕事だから何とかしよう。だからお前はその間にうちの両親へ伝えたい事でも纏めてろ。俺は今日から朝練が終わり次第時間の許すまで絵を描く」
実際、下書きまでは昨日の段階で終わらせているもののここからが本番。着想もこの時点ではロクに思いついていない状況下で今週いっぱい、更に言えば絵具を乾かすための時間が必要なので金曜、つまり明後日までには完成させなければならなかった。当然、こんなものを家にこっそり持ち込むなど不可能なので学園で進めるしかない。とにかく時間との勝負だった。
「とりあえず報告は以上だ。とにかく今日からは一秒が惜しい。何もなければさっさと美術室に行くぞ」
「え、特に私からの用は無いけど…朝練とかはさておきとして昨日とか一緒にお昼食べてた能代ちゃんとかはどうするの?そんなずっと描いてられないよね?」
「ぬかりない。今日の朝練の際に能代にも今週は忙しくなると話をしている。…色々あったがなんとか了承をしてくれた」
「…ん?なになに、どったの咲良。急に黙っちゃって」
能代との会話を思い出して口が止まる俺を見て橘が促してくる。
今朝方、能代にこの旨を離すと、能代はすんなりと快諾。朝の練習くらいは付き合うと言ったら能代は折角俺が自発的に物事に取り組むのを邪魔なんて出来ないとまで言ってきたのだ。流石にそんな言い方される程普段から自発的に動いてないつもりはなかったのだが、能代に色々言われている内にそうかもしれないと思ってしまったのが俺の悲しい所か。しかしこちらも一度頼まれた事をこちらの用事で切るわけにはいかないと抵抗し何とか朝練だけはやることにした。そんな一悶着があった結果、朝の練習だけは付き合い、九時の時点で昼を渡すとの事、しかも製作中でも食いやすい物に調整してくるとまで言われて、そこまでの手間を煩わせるわけにはいかないと俺が言えば、渡さなかったら昼も抜きかねないと完全に行動を読まれた発言によって押し付けられる事になってしまった。相変わらず良い線を突いてくる相方である。だが実際に、この酷暑の中で飯も食わずに描いていたら倒れていた可能性もあったので助かる申し出ではあったので、何度も頭を下げながら能代に頼む事にした。
「…何でも無い。取り敢えずは朝練が終わり次第こちらに来る。んでお前を回収したら美術室に行ってキャンバスとイーゼルを借りる。毎日借りるのが面倒そうだったら…最悪ここにでも置いておくか。西村先生に相談して」
「え、屋上に直で置いとくの?雨降ったらどうするのさ」
「流石に雨曝しには出来ないだろ。一応今日の天気予報では今週一杯は雨が降る予定は無いらしいが、一応そこの踊り場にでも置いておく予定だ。清掃員もこっち側までは一々掃除してないらしいし、でかでかと置かれてたら美術室に回収される事はあっても捨てられることは無いだろう」
正直、大分確信はあったが実際に踊り場に置いて帰った際、捨てられなくて良かったと翌日に絵を見に来た時はヒヤヒヤしたものだった。とにかく時間を描画に費やしたかった為に細かい所でも横着した。今にして思えばもう少しゆとりを持った動きをしても良かったのではと呆れてしまうものだ。
「話はこんなんで良いだろ。とにかくさっきも言ったが今回は時間との勝負だ。お前から質問があるなら移動しながらなり描いてる最中にでも相手してやる。ホラさっさと行くぞ」
その後、橘から細々とした質問をされたが西村先生からイーゼルと昨日のキャンバスを借りる頃には橘を納得させて黙らせる事が出来て、その後はただひたすらに絵を描き続けていた。
―――――――――そして、俺は今日も絵を描く。
今日の日付は七月二十六日の金曜日、桜夏の絵の締め切り設定日であった。
最初の真っ白なキャンバスには今や色づいた桜夏の姿が写しだされていて、未完成だった桜夏の描画作業は大詰めを迎えていた。この三日間で鉛筆での下書きをしただけだった白黒の桜は鮮やかな白桃色を纏い、その狭いキャンバスの中で存在感を日に日に高めていた。途中、能代や西村先生が制作中の桜夏を見に来たり、何故か木ノ崎が茶々を入れに来たりしたが絵の進行ペースは概ね順調だった。
「…………」
パレットに汗が滴り落ちて色が変わらないように気をつけながら今も無言で筆を振るう。照りつける太陽や気温にも四日も作業していれば慣れがくるものなのか、水分さえ適度に摂取していればそれほど気にならなくなってきた。いや、もしかしたら絵を描くのに集中し過ぎていたからかも知れない。最初の頃は橘もそこそこに話しかけてきてはいたが、昨日くらいから喋りかけてこなくなっている。完成が近いのが分かっているのだろう。
だか、俺は平静を装いながら内心で相当焦っていた。それはこの大詰めの局面まで来たにもかかわらず、未だこの絵の着地点が決まっていないからであった。
この四日間で桜夏の絵は、自分でもよく描けていると思える程度には出来栄えが良かった。鮮やかに咲いた花弁、皺一本一本まで丁寧に仕上げた幹。覗きに来た奴らにも言われたが綺麗に仕上がった。しかし、これではただの桜夏の絵であり何のメッセージにもなりはしないのは他でも無く描いている俺が一番分かっている。ここまで描く間に何かいい案が思いつかないかと思っていたが、現実はそこまで甘くは無く、今は細部を描き加えながら絵の完成図を絶賛思案中である。
ふと、前に絵を描いていた時に西村先生に言われたことを思い出す。絵は頭で描く物では無く心が筆を動かす物だと。昔から頭で先に考えてしまう傾向がある俺にはあまり向いてない趣味だと思う程度の感想だったが、今になって身に染みる事になった。
「………」
次第に手を付けるような箇所が無くなっていき、誤魔化すために動かしていた筆も止まる。パレットを膝の上に置き地面に置いていた筆洗バケツの中に投げ込んで熱い溜息を吐きだす。随分と目も乾いていたのか目頭を押さえると、じんわりと疲労が染みわたってくる。俺はゆっくりと瞼を閉じて、感じる眩しさと暑さに身を焦がしながらそもそも俺は何をしているのかという根本からもう一度考え直していた。
最初はただ橘の売り言葉に対しての反発であった。橘は俺の絵によるメッセージならうちの両親に届くなんて言っていたが、奴の言う通りに桜夏の絵を描いたとしても両親が四季桜の絵を通して追っているのはあくまでも橘御影の影であり、俺のメッセージでは意味が無いと思っていた、実際の所その見解は今も変わっていない。だからこそ、何とかしてこの絵を橘御影の作品として見せかける努力をこうやってしてきているわけである。だが、俺はこの絵をどうしたら橘御影の作品に見えるかを考えるあまりに橘御影が両親に抱く気持ちについて考えてこなかった事に、今更気づく。
そう思案した所で俺は大きな溜息を吐いて首を横に振って言い訳染みた考えを捨てる。所詮俺は名蔵咲良であり橘御影では無いのだから、橘御影がウチの両親に対して何を考えているかなんて本人に直接聞かなければ、いや聞いた所で完全に理解できるわけが無い。分からない物を描こうなんてのは無理に決まっている。では何故こんな考えに俺は固執していたのか。
要は、俺は橘の考えを絵にしようと言う建前の元、自分が両親に対してのメッセージを考える事を完全に放棄していたのだ。これでは橘の絵にも俺の絵にもならない半端な紛い物が出来て当然。実に滑稽極まりないものだと我が事ながら鼻で笑ってしまう。つまるところ、この絵は現状ただの抜け殻であり俺が今からしなければいけない作業はこの絵に『意味』を書き加える事。この間は下書きを終わらせた程度で三割なんて口にしていたが寧ろここから本番、今でやっと三割と言った具合だろう。
「……………」
だが、俺は一体この絵を通して両親に何を伝えたいのだろうか。橘は両親に対して自分の事ばかり想ってないで前を向いてほしいと口にしていた。それは死してなお親友を自称する十八年来の付き合いから出る嘘偽りない気持ちであろう。ならば俺はどうだろうか、前を向いてほしいと言った橘の台詞に共感したのは事実、でもそれは橘御影と言う存在を知ってから想像した両親への印象でありそれ以前に抱いていた感情はどんなものだったのだろうか、これがきっとこの絵を完成させるのに一番重要になる。意識と言うのは不思議なもので衝撃的な事柄があると一気に書き換えられてしまう、後から上塗りされたモノの下地を思い返すのは難しいものがある。それでも一つ一つこれまでの事を思い返していくと、根底にあるのを表す一つの単語が出てきた。
「……歪…」
そう、あの家は最初から歪な形をしていた。家族と言う体をしながら何か余所余所しさを感じるあの家に疑問を持っていた。その違和感について考え続けてきたが正体が何か分からないままこの夏を迎えて、そして橘と会い両親の気の持ち様について理解できた。そして、俺がずっと毛嫌いしていた歪さの正体についてもこれが分かれば理解出来たも同然であった。
ここまで頭が追い付いたのならば、俺が描くべきメッセージはその歪さに対するもの、そしてそれを表現する方法を考える事が桜夏完成への最後の課題だ。気が付けば、俺はこれまでの短い期間で拾い集めた会話の端々から取れる情報を思い返していた。
―――――学園から絵を盗むまでに至った親父の妄執。
――――――雪根さんが親父や橘に抱く遠慮。
―――――――その両親を繋いでいるかのような四季桜の存在。
―――――――――――――幸せの在り方とは――――――――――――。
ふと、目眩のような感覚を覚えて目を開くと、目の前には桜夏だけが存在した。
周りの喧騒や蝉の音が何一つ聞こえず、橘の存在も感じられない。俺と桜夏だけの白のセカイ。この光景を端から見れば対峙しているようにも見える構図であろうが、今俺が対峙しなければならないのは自分自身の出した答えであり、こんな櫻なんて只の飾りに過ぎない。
左手でそっと桜夏の根元を視界から隠す。そしてゆっくりと拳を握り、それを降ろしていくと、そこには一つのベンチとそれに座る一組の男女が現れた。それに俺はゆっくりと近づいて両手をポケットに突っ込みながら二人の事を眺める。
どことなく自分に良く似た二人は、とても安らかそうに肩を寄せ合いながら眠っていた。片や荒々しさの残る風貌の男子生徒と、対称的におとなしそうな女子生徒。そんな二人の傍らには、一匹の青い鳥が止まっている。その小鳥は二人の間で右往左往しながらも楽しそうに踊っていた。
「……三人で見る夢は、さぞ楽しかろうな…だが」
この二人が見ている夢など目にせずとも理解できる。だがその現状を維持できないのはこの二人だって分かっている筈なのである。にもかかわらず、その幻覚のような幸せが手放せない。まるでそれはシュレティンガーの猫のように不確かな代物。二人してそんなものを追い求めてしまうから、彼らは隣にある幸せに気づく事が出来ない。そして、この小鳥も自分が飛び立てば二人が追ってきてしまう事を理解しているのかも知れない。だからこそ、この二人の傍を離れられない。何とも皮肉な三角関係だと辟易しながら、俺は右手を二人の前に突き出す。
「もう十分だろ…?お前が過保護だとこの二人はこのまま朽ち果てちまう」
俺の言葉に小鳥がこちらを振り向き視線が交差する。そして、数瞬―――――。
バチンッッ!
右手に力を込めて指を鳴らす。この世界全てに行き届くような力強い音が鳴り響き、小鳥は怯えて上に避難する。
―――――――――そう、これでいいのだ。
小鳥はそのまま桜夏の幹に止まり、俺達の事を注意深く観察するようにこちらを見下ろしていた。まだこちらの事が気がかりなのだろう。
ふと、一陣の風が吹き流れ、桜夏の木を揺らす。雄雄しい音を立てながら花弁を撒き散らし存在感を強調してくる。そんな音に起こされたか、二人の瞼がピクリと動いてゆっくりと開かれた。まだ意識がハッキリしていないのか、二人して緩慢な動作で俺の方を見てきたので、俺はそっと一言、彼らに俺の偽りない気持ちをぶつけた。
「まだ眠たければ好きなだけ寝ると良いさ。起きた時最初に映る存在が本当の幸せだって気づけるのならな」
意味が伝わったかは分からない。しかし俺の言葉で安心したのか、二人はまたゆっくりと目を閉じて夢の世界に戻っていった。今度は青い鳥を含まずに、二人で。
そう、人の世界とは、気づけない幸せに満ちている。生きている事、仲間がいる事、普通の食事を三食とって気を緩めて眠りにつける事。何気ない日常の端々に幸せは転がっているのにそれに見向きもしない。そして手を伸ばすのはいつだって手が届きそうで届かない少しばかり遠目の幸福もくひょう。分相応なんて言葉を投げかけるつもりは毛頭ないが、自覚はするべきだろうと今の自分なら口にできる。そして、それが二度と手に入らないものだと言うのなら、なおさらそれから目を逸らす勇気を持つべきだ。現実を直視するのが辛いのならば、周りに窒素のように転がっている幸せを甘受して生きて往く。それが人間の在り方ではないか。
そうこうしている内に、だんだんと風が止んで桜夏のざわめきも穏やかになる。二人から寝息が聞こえてくるのを確認して、俺は先程の青い鳥の姿を探して上を見上げる。そこでは、届くはずの無い幸せの体現者が先程から変わらない場所で見守っていた。
「今なら誰も見ていない。…あぁいや、俺だけが見ているか。だが俺の事なんてどうでも良いだろ。この二人がお前を見ていない事だけで十分だろう」
大切な思い出、あったかもしれない未来の話、幸せに浸れるそれらは麻薬にも等しい瞬間がある。次第にそれは体を蝕み、やがてそれなしでは明日が見えなくなる。雁字搦めで動けなくなり立ち止まれば、正しく人生を歩む事が出来なくなる。
「だから、俺が断ち切ってやる」
誰に言う訳でも無い言葉を呟いて、俺は左手を振って筆を出す。これが最後の一筆だろう。
「さらばだ、青い鳥よ。お前の存在は目の毒だ」
―――――――その台詞と共に、俺は青い鳥めがけて筆をダーツの如く投げつけた。
綺麗な直線の軌道で自分に向かう筆に危険を察知したのか、小鳥は今度こそ桜夏の木から完全に飛び去った。もう木の下で眠る二人の前に届かない幸福が目に映る事は無いだろう。そして、これからの未来には身の丈に合った幸せがある。これが、俺の描きたかった事だった。
文字通り、全てを出し切った。抽象的な言葉でしか表現できなかった感情をここまで仕上げられたのは、偏に橘が発破をかけてくれたからかも知れないなんて事を考えながらこの場を立ち去ろうと桜夏から踵を返す。その時、ふと上を見上げると空からひらひらと何かが舞い落ちてきた。先程待っていた桜夏の花びらかと思いそれを空中で掴む。手を開くと、そこにあったのは櫻の花弁では無く青い(しあわ)鳥せの(の)羽かけら。飛び去った際に偶然か撒いていったのかは分からないが落として行ったのだろう。こんなものを拾ってもどうしようもないのだが、捨て去るのも気が引ける代物だと考えあぐねていたが、最後は溜息を吐いて一言。
「…ま、俺の記憶に残る程度なら問題ないよな」
当然、奴らの記憶の中からアイツが消える事は無い。ただ今までより偲ぶ思いの量が減るのならば、もう一人くらい偲ぶ人が増えた所で丁度良い塩梅では無いだろうか。そんな感傷に浸りながら、俺は落ちてきた羽を握りしめた手をポケットに突っ込んで、今度こそこの絵から歩き去った。
「…………」
どれだけ無意識に筆を振るっていたのだろうか。気が付けば空は夕暮れを通り越して若干暗がりを見せていて、濃橙とも農藍とも言えない色をしていた。最早キャンバスに描かれた絵は輪郭しか見えず細かな配色までは分からなくなっている中で、俺は筆を下ろして両肩から力を抜いた。
「……咲良?」
急に動きを止めた俺に対して不安とも期待ともつかない声で名前を呼ぶ橘に、俺は脱力したまま一言告げた。
「……完成だ」
ここまでの余韻を残すような息を吐きながら呟いて橘の方を見やる。コイツの為にわざわざ完成させたような絵だから、五月蠅いコイツなりに何かしらのアクションを起こしても良いだろうと思ったのだが、暗くて絵が良く見えないのだろうか俺への呼びかけの後、声が聞こえてこない。そんな事を考えていると、俺の背後から突然明かりが付いて俺の求めていたような歓声がイメージより低い声で背後から飛んできた。
「オオォォォーッ!流石名蔵先輩ですね、話に聞いてた以上の完成具合!いやー顔も良くて勉強も出来て絵まで描けるなんてちょっと理不尽過ぎませんかね神様ってヤツも!俺にもせめて一個くらい才能譲って欲しいものですよマジで」
気を緩め過ぎていた所為か背後の気配に一切気づく事が出来ず、驚きを隠せず勢いよく振り返ってしまう。そこには今しがた声を上げた木ノ崎の他に、片手に持ったライトで完成した絵を照らす美術教師と俺の相棒が少し後ろで並んで立っていた。
「ははぁ、相変わらず良く描けてやがるよな。下書きが上手くても本書きが苦手って奴もいるんだがコイツにその心配は無用ってもんだったな。美術の評定5は固いぞ。なぁ那賀よ」
綺麗に整えた髭を弄りながら俺の絵に感想を述べて能代に話を振る西村先生。それに対して能代も呆れたような口調で答える。
「昔から名蔵の絵が上手いのは知っているでしょう先生は。そんな心配は露程も思って無かった癖に」
「まぁな。だが美術部員でも無い人間がいきなりあのサイズのキャンバスに絵を描くなんていうから、教員の俺としては若干のミスの一つや二つあってもおかしくないと思って指導する予定だったんだが…口の出し様が無いってのはこの事かね?」
「さぁ…?私も美術は名蔵に教えてもらってばかりですから…」
「……美術教師から見れば粗だらけでしょうに…」
二人して言いたい放題だったのを聞いていた所で漸く口が動く。思った以上に反応が遅くなっている事が自分でも理解できて連日の疲れを実感した。
「相変わらず自虐が過ぎるなぁお前さんも。偶には自信を持ったらどうだ?中学時代のお前の絵なんて未だに飾られてる程度には出来が良いんだからよ」
「生憎と自信を持って歩けるような人生を送れていませんからね…。上を見上げればキリが無いのを知っていればそりゃ卑屈にもなるって物です」
「これだけなんでも出来てどこ見上げりゃ上がいるんだろうな…全く」
どこか皮肉っぽく漏らしながら二人は絵の前に寄ってきた。それとほぼ同時かどうかと言った所で木ノ崎が俺の横腹に突進しながら捲し立てる。
「そーですよー!もっとドヤ顔して自慢してもいーじゃないですかぁ。中田もビックリの完璧超人ですよ!逆に何が出来ないんですかこの人?うらやましいわー、俺みたいな落第パンピーじゃ想像もつかないような人生歩んでるんでしょうなぁ?てか飾ってある絵ってどれですかね?授業で美術室は言ってますけど名蔵先輩の名前が付いてる絵なんて見たこと無いですよ?」
「俺の絵なんてそれこそどうでも良いだろ…ってオイこら、引っ付こうとするな離れろ。こっちは汗で全身ベタベタなんだ。暑苦しくなるだろ」
木ノ崎の頭頂部を左手で押さえつけながらあしらっていると、何を思ったのか能代が横から口を出してきたのだ。
「暗夜行路と銘打たれた絵があるだろう。黒板上のスペースに飾ってある絵だ」
「おい、能代お前」
「暗夜行路……?…あぁ!あの黒メインで描かれた街を人が奥に向かって歩いていく絵!マジっすか、あんなクソ陰鬱なの描いてたんすか名蔵先輩!キャラじゃないでしょうに」
「キャラじゃないって…。お前そんなこと言えるほど俺の事知らないだろ…」
「それがそうでもないみたいだぜ、名蔵よ」
俺の発言を即座に否定してくる西村先生。たかが出会って一週間程度の人間が何を知っているのだか、なんて思っていると木ノ崎は急に焦って西村先生の口止めをし始めた。
「ちょ、西村先生!ストップ、ストーップ!駄目っすよそれ以上言っちゃ!守秘義務ですよ守秘義務!折角色々口止め料として教えてあげたんだから秘密は守っていただかないと」
「……口止め料?」
木ノ崎の口から出た単語を不審に思い聞き返すと、奴はバツが悪そうな顔をして目を逸らし吹けない口笛を吹こうとしていた。態度で嘘の付けない奴だと思いながらも睨みつけていると、愉快そうに笑った西村先生が委細を教えてくれる。
「お前さん随分と気に入られたらしくてな、どこでかは知らねぇが過去について調べてたらしいぜ?」
「俺の過去だって…?」
思わず殺気が一瞬だけ出てしまったが、冷静に考えてコイツが俺の過去を調べたと言って中学時代の事まで調べていれば能代や西村先生がこんなに落ち着いている筈がないだろう。コイツが俺のどの辺に興味を持って調べたのかは分からないが、あの時期に辿り着いてないのならば、俺の人生など大した面白味もない。俺はすぐに気を落ち着かせて溜息と共に鼻を鳴らす。
「…一学生の過去なんざ掘り返しても面白くもなんともないだろうに…案外風紀委員ってのは暇なのか?」
「えー…あんな幼少時代送っといてつまんない人生とか嘘八百も良いとこでしょ。寧ろそれだけの経験積んでてそんな言い方されるんじゃマジで謙虚越えて卑屈ですよ」
「だからさっきも言っただろ…俺は卑屈なんだよ。それに、サイコロの出目を一つ見ただけで全部の面の数字まで分かるって言うのはただの欺瞞だ」
「おや、名蔵先輩が比喩表現で喋るなんて意外ですね。でもそれなら俺はこう答えますよ。それもサイコロの出目だとは分かるってね」
「………」
剣呑な目で木ノ崎を見るが奴は怯むどころか口元をニヤリと笑わせながらそう答えてくる。どちらも抽象的な表現で他の人には分かりようのない会話だったが、この一瞬で頭を回して即座に回答してくるあたり、意外と頭は良いのかも知れない。そして、一面を見ただけで人を判断しないような人間なら、俺の過去を知られようがどうでも良い。どうせ核心は誰もこの男に語らないだろう。
「どうせ徒労に終わるぞ?」
「世の中無駄な事ってないんですよ?名蔵先輩」
俺が釘を刺してもこの反応。どうやって俺の事を調べたのかは分からないがそこまで言うのならばこれ以上水を差すのも無粋だろうか。俺は大きく溜息を吐いて口の渇きを若干感じながら認めてやる事にした。
「なら勝手に調べればいいさ。何度も言うが、俺は大した人生は送ってきてないからな?」
俺がそう言ってやると、木ノ崎はガッツポーズで喜びを露わにして小躍りをしだした。この男のテンションに付き合ってやるほど今の俺に元気は無く、口の渇きを覚えて砂利の上に置いていたペットボトルに手をかけた時、思わず顔をしかめてしまった。暗がりで中身を見ていなかったが明らかに軽い。どうやら無意識の内に飲み切ってしまっていたようだった。
「名蔵」
そんな俺の顔色を窺っていたのか能代が俺の名前を呼ぶ。木ノ崎の相手をしたせいで更に緩慢になった動きで能代の方を振り向くと、彼女の右手にはスポーツドリンクが握られていてこちらに向けていた。
「あの炎天下の中でそんなペットボトル一本で足りるわけが無いだろうと思ってな。買っておいて良かった」
どこまでも気が利く奴だと感心しながら、俺は有難くそれを受け取り一気に煽る。600ミリリットルの水分が乾ききった体に染み渡るのが感じ取れ、一気飲みをした所で漸く一息入れられたような気分だった。空になったペットボトルを鞄の中に仕舞いポケットの中を手で探る。都合良く朝買った飲料の釣銭だった五百円玉が指先に引っかかったのでそれを能代に放物線を描くようにやんわりと投げる。外も大分暗くなっていたので能代が見えるかは分からなかったが、何とか反応して飛んできたそれをキャッチした。そして、飛んできたものを見て能代は眉を潜めて渋面をしていた。
「釣りは要らん、いつも世話になってるしな。どうしてもってんなら矢矧にでもくれてやれ」
「そんな事をしたらアレはまたつけあがるだろう…全く」
憎まれ口を叩くもそこは付き合いの長い能代。突き返すだけ無駄だと分かっているので仕方なくポケットに突っ込んでくれた。日頃から礼になっているのだから、これくらい受け取ってもらわないとこちらも困るというものだ。
能代が代金を受け取ったのを確認して、ふと先程から一切の反応がない頭上が気になった。絵の感想は他の三人からは貰えたが橘からはまだない。そろそろ何か感想の一つでもくれても良いだろうと思って上に気を向ける。すると、彼女が一度も喋らない理由が分かった。
―――――――橘は声を押し殺して泣いていたのだ。先程は気が付かなかったが、完成を宣言した時からずっとなのかもしれない。俺の髪を離せば屋上に戻されれてしまうから片手で口を抑えて涙が零れそうになると一瞬だけ目元に動かし、また口を隠す。幽霊なのだから涙なんて拭かなくても零れ落ちたりしないだろう、なんて無粋な事も一瞬考えてしまったが、何がともあれこれだけ感極まってくれたのならば俺としてはもう感想は貰ったようなものだろう。いくら他の人達から好評を貰ってもコイツからダメ出しがあったのでは描き直しも辞さない予定だったので一安心と言った所か。
とりあえずの安堵の息を漏らすと、おもむろに西村先生が絵について俺に聞いてきた。
「……メーテルリンクか?この青い鳥は」
流石は美術の教員と言った所か。俺の絵を一目見ただけでイメージした内容を言い当ててきた。この一言に木ノ崎と能代が西村先生の方を向いて言葉の内容を聞きたがっていた。
「一発で分かりますか。昔の俺を知っている西村先生ならマザーグース辺りでも連想すると思ったのですが」
「こんなメッセージ性の強いマザーグースがあるかよ。背景に櫻なんか添えやがって…まさか桜夏を描くなんて言ってた時からこの構図をイメージしてたのか?」
「まさか。この完成図は桜夏をほぼ描き上げた辺りで必死に構想してたものですよ。無我夢中で描いてたら……まぁ思いのほかうまく描けてしまった感じです」
「ぶっつけ本番でこれか…。良くやるよなぁホントに」
全くですね、と俺が他人事のよう口にすると二人して笑い出す。西村先生のこの笑いはきっと絵の出来具合だけでは無く絵に込めたメッセージについても笑ってくれたのだろう。この人のようなマトモな人生を送っているのならば、この反応が普通である。
「めーてるりんく?まざーぐーす?なんすかその占いの館みたいなの」
一方で、一般教養が足りてないらしい木ノ崎は怪しいイントネーションで俺達に説明を求めてくる。子供の頃に読んだことは無かったのだろうかと思いながらも、俺は皆に軽く解説をすることにした。
「……昔々、オリーブの枝を咥えて帰ってきた鳩がいた。やがて鳩は現代社会において平和の象徴と呼ばれるようになったんだが、とある作家が書いた話で鳩は違う象徴として書かれた」
「その象徴って?」
「青い鳥って童話くらいは聞いたことが無いか?」
俺が聞くと木ノ崎は何かを思い出したように曖昧に頷く。さしものコイツでも童話くらいは知っていたかと一安心する。流石にそこまで丁寧に説明する気力は今の俺には無い。
「二人の兄妹は幸せの青い鳥を探して様々な場所を冒険する。だが結局はどこでも青い鳥を捕まえられずにやがて自宅に戻る。すると自分達が飼っていた一匹の鳩の体色が青くなっていて、幸せは近くにあるものだと言う教訓を教えてくれる……ここまでが童話の青い鳥だ」
「ほぉー成る程。てことは先程名蔵先輩が口にしたもう一つの象徴と言うのは幸せって事ですね。メチャメチャいい話じゃないですか」
「そりゃまぁここまで児童文学だからな。だがこの話にはまだ続きがある」
「あれ?そうでしたっけ?俺のイメージだとそこで終わって完全に美談なんですけど」
首を捻って拙い記憶を探ろうとする木ノ崎。恐らく絵本かなんかで読んだのだろう。ならばこの後の話を知らないのも頷ける。
「青い鳥は元々戯曲形式で書かれたものでな。絵本とかの場合は家で飼っていた鳩が青くなっていた所で終わるんだが、戯曲の場合は最後に二人の飼っていた鳩が籠を開けた途端飛び去っちまうんだ。幸せの象徴だった青い鳥が自分の家で見つかりそれがどこかへ行ってしまう、この最後の解釈は実に多様だ。幸せは届きそうで届かないところにあるものだと言う先程の話とは真逆の教訓だとも考えられるし、青い鳥が幸せの象徴では無く青い鳥を追う過程こそが本当の幸せだった。とも考えられる。注釈なんて付け加えようと思えばいくらでも付けられる。それこそ読んだ人の数だけな」
俺が一息つくと木ノ崎は感嘆したような声を出しながら率直な感想を口にする。
「……あれ?児童文学ですよね?それ。中身深すぎません?」
「さっきも言ったが元々戯曲形式で書かれた本だからな。劇とかで見るとまた違った側面を見ることも出来る良い話だぞ。今回の絵も、どちらかと言えば劇の方をモチーフにして描き上げたくらいだ」
「これ以上話を深くされても…もう沼の底ですよ。掘りたくないっす」
木ノ崎的にはお手上げの様子だが、この絵を解説するならば是非とも戯曲としての青い鳥も知ってもらいたいので俺はシャツの胸元を扇ぎながら説明を続ける事にした。
「戯曲での青い鳥は最後にチルチルが観客に向けて飛び去ってしまった青い鳥を探して欲しいと叫んで幕を引く。これを叫んだチルチル達は何を伝えたかったのか。或いは言葉を額面通りに受け取って本当に青い鳥を心の底から欲していたのかも知れない。たった一言が物語に追加されるだけで様変わりしてしまうのも青い鳥の良い所だ。そして、それに対する俺の中での回答がこの絵には込めた…つもりで描いた」
そこで一度話を切って絵の方に視線を向けると、木ノ崎も俺の目線を追って絵を見る。まず初めに意識が向くのはキャンバス一面に鎮座する桜夏。花弁は鮮やかな桃色で描き、幹の部分は少しだけ色彩を薄くしたそれは、とある物をイメージして描いた。勿論、この桜夏もまた別の文脈をなぞり描いたものだが、こちらはこの際気が付かなくたって構わない程度の遊び心。何となく符号が合った二つの存在に対しての俺がイメージしたものを描いただけだから、両親に対してのメッセージには無関係。どうでもいいとさえ言ってしまって良い。この絵の大事な所は、桜夏の根元に描かれたベンチで健やかに寝る一組の男女と上空に飛んでいった青い鳥だ。
「人ってのは分かりやすい幸せが一度目に移れば他の幸せに気づけなくなる。少し周りを見渡せば幾らでもあるのにな。…息を吸う事、目が見える事、夢を持つ事、そして自分を想ってくれる人がいる事。それこそなんだって良い筈なんだ。幸福なんて感じようと思えば歩いてるだけでも感受出来る。でも、何故か、人はより遠い幸福を追い求めてしまう。届きそうで届かないそれは、まさしく青い鳥のような存在。幸福の青い鳥ってのは目には映れど手には届かない遠い幸福の事なんだよ。ならば幸福は人の手に届く事は無いのか?そんな事は無い。なぜなら、ほんの少し視野を広げる事が出来れば身の丈に合った幸せの存在に気がつける。ならば遠い幸福から少しは目を背けるのも悪い事じゃねぇんじゃないか?ってな。俺が言いたかったことは…まぁそれだけだ」
気が付けば一人で大分喋っていた。日も暮れてきた時間にもかかわらず口を開きっぱなしだったせいかカラカラになってしまった喉を唾で誤魔化す。自分でも柄では無い事を口走ったような気がしなくもないが、とりあえずこの絵についての解説はざっと終わった。桜夏の下で眠りこける一組の男女、軌跡だけを残して飛び去った青い鳥。色々と難産だったが無難に完成したのではないかと思える出来だ。橘の反応もまずまずな所だったので客観的に見ても十分だろう。
肩の凝りを感じて背筋を伸ばしながら肩を回す。バキバキと気持ちの良い音が鳴りホッと一息を吐き、ふと静かになってしまった周りを見ると、皆が俺の事を凝視していた。
「……何だ?キャラじゃないってか。んなの自分でも分かりきってるから勘弁してくれ。笑い飛ばしてくれてもいいんだぜ」
茶化す感じで肩をすくめてそう言うと即座に西村先生と能代が否定をしてくる。
「そんなこと誰も思ってねぇだろうよ。寧ろお前さんの言葉ってんなら含蓄深いって思うぜ?俺は。あんな地獄を過ごしてきた人間がそんな幸福論を語るなら、それも真理だろうってな」
「ああ、誰よりも人らしくあった名蔵の発言だ。思う所はあれど笑う所は何もないさ」
二人の発言に俺が安堵の息を漏らしていると、木ノ崎もそれに続いて擁護してくれた。
「そうっすよ。名蔵さん程に学がある人ならそんくらいカッコつけたって良いじゃないっすか、人間だもの、みつを。ってかあんな地獄って何の話ですか?」
何故か乗っかってきた木ノ崎もテキトーな言葉を並べて俺のメッセージについて肯定をしてくる。それ自体は悪い事では無いし括弧つける事に関しては聞き流しても良かったが、一点だけ今の発言で気になる節があった。それを確認するべく木ノ崎の方へ目線を向ける。
「……俺に学なんて無いぞ。今回の絵だって一般教養程度の知識で描いたものだしな」
俺としてはかなり雑に鎌をかけてみたつもりだったが、そもそも木ノ崎は隠す気が無かったようで嫌らしそうに笑いながら否定してきた。
「またまたご謙遜をー。今回の期末試験、学年トップだったって聞きましたよ?会長から」
「…今回の定期試験はあの女がトップだった筈だが?学報に書いてある限りではな」
「会長権限にもなると色々書類見せてもらえるらしいですよ?その中で今期試験の結果を見る機会があったらしいんですけど、いやはやまさかその書類を……っと。これ以上は流石に会長の面子もありますから黙っときましょうかね。とーにーかーく。俺も見ましたよーソレ。確かにあの点数取っといて大した奴じゃない~なんて謙遜されればそりゃ俺みたいなアホはどうなるんやねん、ミジンコですかそうですかってなりますもん。学年トップだーって持て囃されてる会長も超絶道化ですし大分ヘイト溜まってましたよ。寝首を掻かれないように注意してくださいね?」
ビシッと俺に人差し指を向けて言う木ノ崎。その手を横に避けながら俺は苦言を漏らす。
「どうしてそんな書類がお前の目に映る場所にあるのか甚だ疑問だが…はぁ」
木ノ崎の口から語られる内容に驚きと呆れが隠しきれずに溜息と共に出てしまう。先程西村先生が、木ノ崎が俺の事を調べているとは言っていたがまさかそんなしょうも無い所まで調べていたとは。正直、どんなに頑張ろうが大した事なんて分からないだろうと高を括っていたが、侮っていると痛い目を見るかもしれない。
「……まぁでも、別にいいだろ。実際は違えど現実は湖宮が学年トップで俺は平々凡々ってもんだ。次アイツに会った時は言っとけ。公表されてない以上お前がトップ何だからどうでも良いだろってな」
「うーわー。滲み出る強者オーラ、そこに痺れる憧れるゥ!でも言ったら絶対会長切れそうだから胸の内に仕舞っときますわ。あーでもそれはそれで見てみたいかも…?うーん悩ましい」
何か良く分からない事で悩んでいる木ノ崎を見て、話を切るように背筋を伸ばす。ちょうどその時、校内の街灯が一斉に点灯をしたのを見て、ふと疑問を皆に投げかけた。
「……そういや、なんで皆こんな時間まで学校に居るんだ?能代には今日は遅くなりそうだから先に帰ってくれって言ったはずだったが」
俺がそれを聞くと、三人とも目を見開いた後に三様のリアクションをしてくる。溜息だったり苦笑いだったりとだが共通しているのはやっとかと言いたげなものであったという所。どう言う事かと考えていると、木ノ崎が右手で額を叩きながら俺に聞いてきた。
「そりゃ寧ろ俺たちの台詞ですよって話ですよ名蔵先輩。こんな時間って言いましたけど、今実際に何時だか分かってます?」
「…いや」
電灯が点いたのと空の明るさから大分遅い時間だとは思っていたが、そう言われると久しく時計を見ていない。促された気がしたので鞄からスマホを取り出して画面を付ける。
「風紀委員の前でソレ取り出しますかフツー?」
「夏休みくらい別に良いだろ。それとも没収するか?」
「まっさかー。言ってみただけですよ。どーせ俺は職務怠慢な風紀委員ですからねー」
圧力をかけるまでも無く職務放棄をする木ノ崎。奴の不貞腐れ方を見ると何かあったのかも知れないが気にせず時間を見ると、十九時半を過ぎた所だった。もう一般生徒はおろか教師陣だって帰っていてもおかしくない時間だ。
「理解しました?うちの学校、本来なら部活動でも十八時までには帰宅せにゃならんのですよ。そして風紀委員は警備員ケビンに頼まれて日替わり交代で下校時間過ぎて生徒が残ってないかを確認するなんてクソ面倒な役目を池上先輩が持ってきちゃったから毎日見回りをしているワケですよ。んでもって今日は…まぁ色々あって俺が見回り当番だったんですが、強制帰宅時間になっても呑気に絵なんて描いてる学生が居たんで注意せななーって思ってたら毎日描いてた名蔵先輩じゃないですか。なので俺はケビン達に一人残ってますが俺が見張っとくんで無視してお勤め終わらせちゃって良いっすよって説得したんですよ。良い仕事したと思いません?自分」
「……まぁ助かりはした。その時間じゃまだ完成してなかっただろうからな」
確かに、夏休み中の校内での過ごし方が書かれたプリントが学期末に配られていて、そこには十八時以降の在校を原則認めない旨の趣旨が書かれていた気がする。となると、俺はコイツのお陰で無事絵を完成させられたと言う事になる。少しは感謝しないといけないだろうか、なんて殊勝な態度を取ろうとすると西村先生が呆れたように今の話を修正する。
「おいおい、それで警備員の説得に失敗して取っ組み合いになりそうだったのはどこのどいつだって話だよ。俺達が名蔵の絵が完成するのを待ってなかったらお前さん、間違いなく拳で解決しようとしてただろ。えぇ?」
「あ、ちょっとちょっと!折角俺良い奴ムーブ出すのに成功して先輩へのイメージアップしようとしてたのに、ネタ晴らししないでくださいよ!」
「……俺の感謝すべき所はコイツじゃなくて二人だったんですね。ありがとうございます」
深々と西村先生達に頭を下げると二人して気にするなと言ってくれた。とは言え木ノ崎にも実際こんな時間まで付き合わせたようなものなのだから本当に迷惑をかけたものである。
「お前の絵はちょいちょい見に行ってたからな。今日ぐらいで仕上がるとは踏んでたんだ。んでもって万が一遅くになっちまった時の為に教師陣には予め届け出を出しておいた。名目は…名蔵には悪いが『一学期の提出物提出の為の居残り』って体にしちまった。それが一番楽だったからな。許せ」
「別に描き上げられれば何と言われようと良かったので問題ないですよ。成る程、だから来た時にそんな事言ってたんですね。…でも、じゃあ能代はなんでこんな時間まで居るんだ?もう夕飯時もとうに過ぎちまってるだろ、矢矧に文句とかいわれるんじゃないのか?」
家では炊事を担っている能代がこの時間まで残っていると言う事は、名賀家の夕飯がまだとなる。まさか一旦帰ってから学園に戻ってきたなんて事は無いであろうが、帰ってないとなれば矢矧が黙っていない筈だ。だが、先程見た携帯の画面に奴からの通知は無かった。
「心配はない。既に家には遅くなると連絡はしてある。西村先生から今日あたりが山場と聞いていたからな。今頃は母さんが作ったご飯をみんなで食べているだろう」
「……芳子さんにまで迷惑をかける事になるなんてな」
「母には偶には学生らしく甘えろ、なんて言われてしまった。本来なら一度昼に帰って作り置きをしようかとも考えたのだが…折角なら完成に立ち会いたかったからな。学園に居ない間に完成してしまわれては、と思いお願いしてしまった。……でもそれだけのお願いをした価値はあったな。良いものを見れた」
途中、何か含んだ様な間があったが最後には優しい笑顔を見せて俺の絵を褒めてくれた能代。そんな事を言われてしまってはこちらとしても言えず、手持無沙汰で待たせた相棒に感謝する他なく、けれども口にするのは何となく気恥ずかしいので伸びをしながら代わりの悪態を一言吐き出す。
「物好きな人達だよ、皆揃って」
そう言うと三人、正確には四人とも吹き出しながら同じことを俺に言ってくるのだった。お前には言われたくない、との事。俺は多数決に押し切られる形で閉口させられてしまうと、西村先生はそう言えばと話を変えて俺に聞いてきた。
「この絵にはなんて付けるんだ?あんだけ絵のイメージ語っといて何も考えてないわけじゃねぇだろ?」
「まぁ…そうですね……」
実の所を言えば一発描きの作品なのでなにも思いついていない。しかし、完成した絵を見ていると、自然と口が絵に銘を打っていた。
「『櫻の大樹下暗し』とかですかね……灯台よりも明かりが無いこの桜夏の下で、見つけて欲しい幸せが見つかる事を願って」
昔、西村先生には絵の題について画竜点睛なんて言葉を聞かされたがこの絵についてはあの三人の為の絵である。ならば、ここで俺が題を付けた所でどうでも良いかも知れない。言うなれば俺が付けたのは一つの指標。伝えたかった事を一言に纏めたものであり、これがあの両親が感じた事とのズレが大きかった場合は失敗であり、小さければ成功。その程度のものである。そして、この絵の本当の題名は両親が思った事がそれになる。そんな俺の考えを知ってか知らずか、西村先生は大きく頷く。そして最後にこんな質問をしてきた。
「成る程なぁ…ちなみにそれを言うお前さんの幸せは傍にあるんだろ?」
「当たり前でしょう。気の利きすぎる相棒に話の分かってくれる教師、喧しいけど局所的に頼りになる後輩に…最近は俺の事をあれこれ調べてるストーカー気質の後輩も出来たが…その他諸々も全部ひっくるめて幸福です。これ以上求めれば罰が当たりそうだ」
迷いなく自信をもって答えられる。俺は首の後ろ辺りを掻きながら晴れた顔でそう答えた。
気が付けば大分喋っていたと汗が引いてきた体で風を感じながら気づく。これ以上皆を引き留めておくのは申し訳ないし警備員の人にも大分迷惑をかけているだろうと思い首を軽く鳴らして話を終わらせる。
「さて、何か皆には遅くまで残らして申し訳なかった。待っててもらった能代には悪いが俺はこの絵を片付けなきゃいけないから先に帰って…」
帰ってくれ、と言おうとした所で西村先生が俺の言葉を遮って口をはさんでくる。
「こんな夜遅くに女子一人で帰らせるってのかお前は?この甲斐性無しめ」
「…もう八時近いですしこれ以上遅くなると那賀の家の人達も心配するでしょう。ここに絵を置きっぱなしと言うわけにもいきませんし」
「絵を乾かしておけばいいんだろ?俺が準備室で預かっといてやるよ。だからお前は那賀と帰れ。…てか名蔵、お前これまでどこで保管してたんだよ」
「屋上に繋がる扉前の踊り場で…。えっ、と言うより良いんですか?」
呆れながら口にした西村先生からの提案は、正に渡りに船と言ったものであった。基本的に寄り付かない屋上とは言え清掃員の人達が不審に思い絵を回収されたりしないだろうかと毎朝肝を冷やしていたりしていた。それ以外にも湿度などの環境があまり良くないと言う問題もあったが、美術室ならば安心して置いていける。
「そんな場所に隠してたのかよ…お前にしちゃ不用心が過ぎないか?」
「基本誰かが来ているような跡はありませんでしたからね。とは言え不用心だったのは承知ですが…あそこ以外マトモな置き場が無かったので」
「なら最初から俺に頼めっての……ったく」
そんな悪態を吐きながら、西村先生は近くの排水溝に筆洗の水を捨て、上手い事小指でぶら下げながらパレットと筆を脇に挟み、掛け声を入れながら俺の絵をイーゼルごと抱え上げる。
「因みにこれ、いつ頃まで置いとけば良いんだ?」
「明日の昼二時過ぎには回収したいと思っているんですが…いらっしゃいますかね?」
「おう。明日は一日居るからいつでも良いぞ。昼飯以外なら準備室に居るから適当な時に来てくれ。まぁその頃にはギリギリ絵具も乾いてるだろうさ」
最後にそれだけ確認をすると、西村先生は帰りの挨拶だけを残して美術室の方に向かってしまった。その気づかいに感謝して頭を下げた所で、ふと先程から頭上から声がしなくなっていたことに気づいて上を気にすると、橘はまたいつの間にか居なくなっていた。相変わらず気儘な奴だと思っていると、木ノ崎の方も帰り支度を始めていた。
「さーて、それじゃ俺もこの辺でお暇しますかねぇ。先輩達も早めに帰ってくださいね?方面が逆なんで自分は裏門の方から失礼しますけれども、帰り際にケビン共に一声かけてくれるとモアベター。んじゃそう言う事でお願いしますねー」
「言われんでも挨拶位はするさ。それよりも、今日は遅くまでつき合わせたな。家の人になんか言われたら性質の悪い先輩に絡まれてたと言っといてくれ」
何気なく言った言葉だったのだが、木ノ崎はきょとんと首を傾げながら俺の言葉を反芻するように首を左右に揺らして、漸く得心がいったのか頷いて言葉を返す。
「大丈夫っすよ、ウチの親基本放任主義なので帰りが遅い程度でとやかく言ってきませんし、気遣いどうもっす。そのデレ期ついでに先程の地獄云々の下りについて教えてもらっても…」
「おら、さっさと帰りな後輩。ガキはもう寝る時間だ」
適当に切り上げると木ノ崎はケチ―!と叫びながらも帰路に着いた。しかしアイツ、裏門から帰ると言っていたがこの時間に警備員のいない裏門が開いている筈が無い。乗り越えて帰るのだろうがそんな事を風紀委員がしてもいいのだろうか。監視カメラにはキッチリ写るはずなので怒られるのは確実なのだが。さりとてそこは俺には無関係な話である。きっと池上先輩辺りが叱りつけるだろう。そんな事よりも隣に残った能代の方が重要である。俺は能代の方に体ごと向けて帰りを促した。
「…気を利かせてもらったし、とりあえず帰るか。」
「そうだな。折角の厚意、甘えさせてもらうとしよう」
こうして、校門を出る際に警備員の人に挨拶をした後、二人して帰路に着く。家に着くまでに二人でずっと話していたのは完成した絵の事であった。この辺りが良く出来ていたとか、この部分はこんなイメージで描いたなどの細部の評価や説明。四日間と言う短い期間での濃密な時間の掛け方など取り留めも無い会話をしていた。
「それにしても、今回はどう言う風の吹き回しだったのだ?」
「何がだ?」
道半ばにて絵の着想部分から話を変えてきた能代。思わず聞き返してしまったが何を聞きたいかなんて分かりきっている。言われてみれば、能代には絵を描くとしか言っておらず理由も聞いてこなかったからそのままだった。よくもまぁ一週間も何も聞かずにいてくれたものだと彼女の俺に対する信用の高さに感心してしまった。
「いきなり絵なんて描き始めて何も無いなんて事は無いだろう。…ふむ」
そう言うと、能代は一歩分前に出た後に立ち止まる。それに合わせて俺も立ち止まると能代は俺の顔をじっと見つめてきた。その間約十五秒。暗がりのお陰で多少は耐えられた気恥ずかしさも限度を感じて目を逸らした所で能代も満足したのか頷いて翻す。
「……何がしたかったんだ?今のは」
見つめられて嫌と言うわけでは無かったが流石に今の行動は気になる。無意識に言葉が口から出た後に、一週間何も聞かなかった能代と比べて何と堪え性の無いものかと自己嫌悪が脳裏を過ったが、そんな俺の気分とは裏腹に、再び横に並んだ能代は校門を出た時よりも楽しそうな顔をしていた。
「何でもない、名蔵の顔を堪能しただけだ」
「…面白味の欠片もねぇだろうに」
「そうでも無いさ。それに今回の一件がそこまで切羽詰まった事情があるというわけでは無いと言うのも分かった。だが、本当に困った時は相談して欲しいものだな」
「……表情だけで確認できるのか。そこまで顔に出やすい人間ではないと思ってたんだがな。ちなみにどんな塩梅だと読み取った?」
「そうだな…『厄介事、されど身に危険の迫る事は無し』と言った所か」
能代の的確な表現に諸手を上げて降参の意を伝えると、得意げに頷き最後にこう付け加えた。
「そこまでの脅威が無いのならば、名蔵が今話す必要の無いと判断した事を無理に聞き出す事も無いだろう。気が向いた時にでも話してくれ」
「…そうだな、最後までキッチリ終わったらその時にでもって感じか」
懐の深い能代と器の狭い俺の対比を内心感じ、こんな事を考える自分にまた嫌気がさすと言う負の連鎖に苛まれながら曖昧に言葉を返す。本当に能代には様々な事で気苦労をかけていると申し訳なくなってくる。
「ん?絵は完成したのだろう?まだ何かやる事があるのか?」
「あぁ、あと一つだけな」
今の計画は竜の目抜きに過ぎない。最後の一手は本人の十八年分の思い次第と言った所だろうか。一度キッチリ釘は刺しておいたので何かしら考えているとは思うが。
「そうか、ではそれが終わった後にでもまた聞いてみるとしよう。先程の絵を明日回収して、やる事があと一つと言うのならば名蔵の用事も終盤、さほど時間は掛からないだろう?」
「ああ、週明けには終わってるだろう。話してもつまらん内容だがそれでも聞きたいってんなら話してやるよ」
気が付けば俺の家がすぐ傍という所まで来ていて、立ち止まりながらそう言うと能代は朗らかに笑う。
「あぁ、楽しみにしている」
最後に一言、手を振りながら別れた。俺もそれに返しながら能代が家に入るまで見送り、溜息を一つ吐く。
「楽しみにするなっての…ったく」
一人言を呟きながら、橘の話を抜きに今回の一件を話すとなると一体どういう流れを作れば話が通るだろうかと考える。相当無理矢理話をでっちあげなければ難しいだろうと思いながら家の扉を開ける。
玄関に入ると、鍵の音で帰りに気づいたのか靴を脱いでいる間に雪根さんがひょっこりと居間のドアから顔を出す。いつもなら帰りを気にする事は無いのだが今日は特に時間が遅くなったから気になったのだろう。
「お帰り名蔵さん。最近は帰りが遅かったけど今日は殊更だったわね。なんかあったの?」
「いや、まぁ色々とな。……良く分からん後輩に付き合わされていただけだ。今日でやっと終わりだけどな。来週からは普通の時間に帰ってくるよ。まだ飯って残ってるか?」
「遅くなった所で下げたりなんてしないわよ。温め直す物とかあるからちょっと待っててね」
「どうも。あ、悪いけど先にシャワー浴びさせてくれ」
連絡も無しにこれだけ遅くなれば片付けられててもおかしくはないと思い晩飯抜きは覚悟していたのだが、残しておいてもらえたらしい。その事に感謝しながら靴下も脱ぐと、洗面台の方に向かう時に雪根さんが首を傾げながらこちらを見て、ふとこんな事を口にした。
「あなた、どうしたの?ニヤついちゃって。何か良い事でもあった?」
「…ニヤついてる?俺がか?」
俺が聞き返すと雪根さんは頷いて相槌をする。自分では全く分からないが雪根さんが一目見て気づく程度には顔が緩んでいるのだろうか。とすれば能代との帰り道もずっとそんな調子だったかも知れない。ならば顔を見て確認をしていた時点で指摘して欲しかったものだ。
「……まぁ、良い事はあったな」
ニヤついていると言う単語に若干引っかかりはしたものの、少なくとも今はあの絵を仕上げたという達成感がまだ余韻として残っている。顔から笑みの一つや二つ零れてもおかしくはない。そう思えたので雪根さんの言葉に肯定する。
「そう、何か良い顔してるから聞いてみたけど学校で良い事があったって言う台詞、あなたから久々に聞いたわ」
「そりゃ今までロクなことが無かったからだろ」
「それはそうなんだけれども…。とりあえずご飯温めちゃうわね」
話が嫌な方に逸れそうな気配を感じたのか雪根さんは居間の方に引っ込んでしまった。ドアの音と共に俺は大きな溜息を吐いて気を落ち着かせる。やはり両親と学園の事を話すとどうしても恨み言が口から出そうになってしまう。折り合いはつけたつもりだったが、もう一年半も経つと言うのに未だに根に持っているのは自分でもどうかと思うのだが、整理が付くような話でも無いので一生引きずるのだろうと心の底では思っている。
「…ま、それはそれだな」
マイナスの思考になりそうなものを振り払う。とりあえず昔からの禍根より目下の問題解決の方が考える事を優先される。絵は何とか期限までに完成させた。後は明日次第である。
「……今日は飯食ったらサッサと寝るかな」
なんだかんだ言ってこの五日間の疲労が溜まっているのが調子で分かる。こんな様では明日作業に支障が出かねないと感じた俺は今日はサッサと寝てしまおうと心に決めて、洗面所に入った。
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