第3話 陽炎と浮浪雲

「…悪くない人生だった」


 俺は今に至るまでを思い出しながらそう呟いていた。成る程、これが俗にいう走馬灯と呼ばれるものか。いかんせん内容が薄かった気がしなくも無いが、もとより大した人生を歩んできたつもりもなく、思い出したくもない話の方が多かったから思い出さなかっただけかも知れんが、こんなもので十分だろう。


「…あの~、もしも~し」


「もはや思い残すこともそうあるまい。強いて言えば能代がこの後ちゃんと幸せに生きていけるかは心配ではあるが、今の奴ならきっと大丈夫だろう。さぁ、思う存分、俺の体を好きにしろ!覚悟は出来た!」


 よもやこの目で七不思議を拝むことになるとは、ましてやそれが死因になるなんて夢にも思わなかったが、ここまで来てしまったら腹を括るしかない。案外俺みたいな学園に迷惑をかけ続けた悪童には相応しい最後かも、とまで思えてきたものだから実に不思議だ。


 しかし、当の本人は両腕を広げて潔く諦めをつけた俺を見て心底呆れたように溜息を吐いた。幽霊の体が浮いているため、見下されている感が否めない。


「あのさぁ…勘違いもそこまでヒドイと私泣くよ?第一、私が何をするっていうのさ」


「…取り憑いて誰かと心中?」


「そんなこと誰がするかーッ!」


廊下に幽霊の絶叫が響き渡る。声を上げたいのはこっちなんだが、と頭を掻きながら話を続ける。


「だってお前アレだろ?『桜に哭く少女』って七不思議の」


「…?何それ?」


何故か忙しなく足をパタパタさせながら首を傾げる橘。よく考えたら本人が七不思議の内容なんて知る由もなく、俺は七不思議の登場人物に七不思議の内容を説明するというよく分からない状況になっていた。


「なんか桜夏が咲くときに現れる幽霊は恋人に対する未練があるのか人に取り憑いてはそいつによく似た誰かと心中したがるって話だ」


「…えー、なんか一概に否定しきれないなぁ。なんでそんな怪しい七不思議が出来てるの?」


「いや、俺に言われても困るんだが。それに否定しないって事はもうじき俺は死ぬんだろ?因みに心中相手はもう決まってるのか?」


「いや、そこは違うから!そんな人様に迷惑かける真似はしないから!」


 冷静なツッコミを入れてくる目の前の自称幽霊。ではどの辺が否定しきれない部分なのか。もしやただ単純に自殺をさせられるだけなのか、それなら確かに人様に迷惑は掛からない。死人に口無し、という奴だ。自殺だけなら他人に迷惑はかけていない。


自分の中で納得して頷いている間に唸り声を上げながら一分ほど幽霊が頭を抱えていたが、突然ガバリと俺の方を向いてとある提案をしてきた。


「とーりーあーえーず!君は私の姿が見えてるし声も聞こえてる。間違いない?」


「ああ、見えているし聞こえている」


「OK!ならば誤解を晴らすためにも君とはちゃんと話がしたいのっ!それでここだと色々都合が悪いから場所を変えたい!早急に!」


「色々?」


 別にどこでも構わないのだが、と言おうとした所で、俺はある事に気づく。捲し立てるように喋っていた幽霊が先程から少しずつ、忙しなくバタつかせていた両手足の動きが激しくなっているる事に。何かあんな怪しい動きをしなければならない理由があるのだろうか。少し考えてみたが、もうさっぱり分からない。   


思えば、目の前の存在に対して何か一つでも分かる事があるわけでも無く、故に限りなく胡散臭いが、コイツの話を聞かなければ何も始まらないのかも知れない。分からないから聞いて判断すると言うのは詐欺に引っかかる典型的な考え方だと、俺は眉をひそめながら自嘲して、目の前で辛そうに唸っている幽霊が説明するのを待った。


「ま…まずはキミ!私は見ての通りユーレイなので普通の人には一切見えないの!そんな私と喋っている姿なんか他の人に見られたら変人扱いされちゃうよ!」


「その位なら一向に構わんがな。元より変人以上の腫物扱いだよ。俺は」


「え、そうな、の、おぉぉ…?」


俺の発言で気が抜けたのか、幽霊の空気を掴むようなバタつきがさらに激しくなった。顔も若干険しさを増す。


「それで?他にも理由があるんじゃないのか?その腕の振りとか」


 開き直りも過ぎた物で、俺はさっさと話しを進めるために自分から聞くことにした。


「や、私にも何が何だか…。なんか、屋上の方に引き戻されるイメージ…?さっきからずっと引っ張られてる感じがしてだんだんそれが強くぅ……。なんで?」


「いや、なんでと聞かれても…」


お前が分からないのに俺が分かるわけ無いだろう。そう言いかけたのをすんでの所で呑みこむ。ツッコミを入れた所でどうしようもない。一瞬、ここから逃げだせば相手も追ってこないのでは無いかと思ったりもした。屋上に引き戻されそうな感覚に苛まれながらもう一度俺を探しに来るとは考えにくい。そこまで労力をかける理由がないと思ったのだ。しかし、それでは結局明日からの学校に安住の地が無くなる事に等しい。明日があるのかどうかは分からないが、少なくともここから逃げ出すことにメリットを感じなかった。この時点で俺は、目の前の見た目がアホな幽霊に対する恐怖が少しづつ薄れて来ていたのかも知れない。肝が据わったか、或いは諦観か。どちらにせよ、ある程度頭も冷えた事で思考も回るようになっていた。


頬を掻いて、蒸し暑さで滴り落ちていた顎の汗を拭い水気を払う。とりあえず、この幽霊の言う事に従ってやるべきだろう。そう思える程度には目の前の幽霊がいい加減辛そうだった。


「分かった分かった。取りあえず屋上に向かえばいいんだな」


 俺の理解が得られたと思ったのか、幽霊は笑顔になってうんうんと首を縦に振る。


「そ…そうそう。あ、それとちょっとこっち側に寄ってくれない?」


「…何する気だ?」


「いいからはやく~」


 訝しげに感じながらも仕方なく奴の正面に立つ。すると突然、俺の髪の毛に向かって動かしていた手を伸ばしてきた。それを避ける間などなく、されるがまま髪を掴まれる。掴んだ途端、先程までプルプルと震えていた幽霊の体がピタリと止まった。


「おぉ、やっぱり」


 嬉しそうにキャッキャと俺の頭を越えて裏に回る幽霊。それとは対称的に俺はもう何が何だかついていけてなかった。


「……取り憑かれるのはもう諦めるから、せめて何が『やっぱり』なのか位は説明してくれないか?正に言って今の状況、思考放棄したい程についていけてない」


「いやいや、私の姿が見えてるって事はもしかして君に掴まれるんじゃないかなって思ってさ。基本的に何でもかんでもすり抜けちゃうからね、今の私。だから屋上に引き戻されないためのアンカーみたいな役割してくれそうって思いついたワケよ」


「…んで、結果は?」


「もう最高。引っ張られたりしないしなんか身長伸びたような気がするし言う事ナシだね」


 片手でピースサインをかます幽霊を見て、釈然としない気持ちを吐き出すようにまた溜息を吐く。元よりそこまで悩んだりする人間ではないはずなのだが、ここまでげんなりした気分になるのも久々な気がする。そんな俺とは正に真逆、頭上の幽霊は実に楽しそうにしているのだから悪態の一つもつきたくなる。


「…俺が今思いっきり首を振ったりしたら、お前も高速で振り回されるのか?」


「そんなことしたら上から華厳の滝が降り注ぐよ」


 恐らく吐瀉物のことを言っているのだろうが、七不思議の内容的にこの幽霊が華厳の滝とか口にすると洒落にもならない気がする。自殺したわけでは無いだろうけれども無念、と言う意味では通ずるものがあるはず。その辺りは、俺が死ぬ前にでも聞いて見ることにしよう。


その流れでふと俺は、華厳の滝で自殺した男の最も有名な句を思い出していた。藩士の家に生まれ、華々しい人生を約束されながらも厭世観によって華厳の滝にて身を投げた天才。エリートコース真っ只中の少年の死は、当時の社会に大きな衝撃を与えて後を追うものが続出したという。一体、彼は何故この世に見切りをつけたのか。巌頭之感を読んでもさっぱり分かることは無い。けれども、今一つだけ彼に共感できる事が存在していた。


「ホント不可解な事ばっかだぜ…世の中ってのはよ」


「んー?何か言った?」


「なんでもない。とりあえず屋上に向かうぞ」


 聞こえないようにと小声で洩らしたが、どうやらヤツには聞こえていたらしい。やれやれと肩をすくめながら、上で舵取りをする船長の如く廊下に指を指しながら、しゅっぱーつ!と威勢よく宣言する謎の幽霊の言う通り、俺はゆっくりと先程の屋上へと重い足を運んだ。


 先程まで走っていたせいか、時刻が昼に近づいたからか、屋上のドアを開けた時の熱風は比べ物にならないほど熱いものだった。顔に受けた際、思わずしかめ面をしてしまい一歩後退してしまう。一方、そんな暑さをもろともしない幽霊は気持ちよさげに屋上の中央に立つと、うんと伸びをして俺の方に手招きをしてきた。


「は~、やっぱここが一番だわ。気疲れとかないし人は来ないし、眺めは良いし昔っから変わってないし!もうベストプレイスって感じ~」


踊るようにくるくるとその場で回る幽霊を見ているだけで暑苦しいなんて心には思ったが口には出すまいと意を決して屋外に出る。バタンッ!と大きな音を立てて閉まるドアを他所に俺は先程よりも面積が少なくなっている日陰に腰を下ろす。そんなやる気のなさそうな態度の俺に対してムッとしたのか幽霊はふわりとこちらに寄って来て煽ってきた。


「なーにー?元気が足らんぞ~?今を生きる若人なんだからもっとシャッキリしなきゃ」


腰に手を当ててふんす、と鼻を鳴らす幽霊。そんな当てつけのように言われたのならば、俺も聞かずにはいられない。


「お前はこの暑さを感じないのか…?」


「うん、全然。てかそんなに暑いの?今」


 実に羨ましい、こちとら押し寄せる熱波に額から滝のように汗が湧きだしているというのに。残念ながら幽霊に吐いてもらうまでも無く俺は滝責めにあっていた。そんな姿を見て、幽霊も日向に行きたがら無い俺に合わせるようにこちらに寄って来て、本題を切り出してきた。


「うーん…にしてもどこから話をするべきかな……」


「とりあえず今すぐ殺さないなら自己紹介から始めないか?俺からすれば何をされるか分かったもんじゃないから諦観の念が強くなってきてるんだが」


「おぉっとそうだった!私ってば君の中で悪霊認定食らってるんだった!その誤解からさっさと解いたほうが良いね!」


 ゴホン、と咳払いを一つかまして自己紹介を始める目の前の幽霊。その元気な姿を見ていると色々と聞きたいことが出てくるのだがぐっとこらえる。まずはあちらに喋らせるべきだ。


「それじゃあ改めまして、私の名前は橘御影、アダ名はミカちゃん!1987年6月生まれの享年十八歳、留年はしてないから高三の夏で死にました!毎年死んだ時期になるとボワっとどっかから湧いて出てきて校内をいつもフラフラしているちょっぴりキュートなユーレイだよ!」


「自分でキュート言うか」


「五月蠅い!自信あるもん!…えーとどこまで喋ったっけな…。……そうそう!好きな花は桜!好きな言葉は屁理屈!スリーサイズは上から」


「そんな情報は要らん」


いらない情報までペラペラ喋りそうだったので適当に切り上げさせる。よほど自慢したかったのか膨れっ面してこちらを睨んでくるがそれを無視。俺は顎に手を置いて考え始めた。


取りあえず前提としてコイツの話を信じるとすると、元人間の死人ではあるらしい。動物とかの霊が人型とかになった、とかいう可能性もあるかも知れないと思っていたがそんな事は無く、そして先程からある程度分かっていたが、何となく意思の疎通はできそうである。


「………ん?」


奴――――橘御影の話を一つ一つ反芻しながら確認していると、面白い事に気が付いた。アイツは今1987年生まれの高三で死んだと言っていたが、もし生きていれば今年で三十六歳。うちの両親と同い年の計算だ。それに、逃げ出す前に奴が俺に向かって言った台詞「セイクン」これが何を指すかは知らないが、俺の顔を誰かと見間違えた事は間違いないと思える。


「一つ、質問いいか?」


「ん?どうぞ」


手を上げて質問をした俺に対して、校庭の方から意識をこちらに向けながら許可をした幽霊。私もすーわろっ、と言って俺の対面に座る幽霊を見ながらセイクンについて聞いて見ることにした。


「さっき俺に向かって言ってた『セイクン』って誰の事なんだ?俺と見間違えたって事は人なんだろ?多分」


 それを聞いた幽霊は、うーん、と首を捻りながら俺の事をじっと見つめてくる。そして、おずおずと小さな声で俺に聞き返してきた。


「…ねぇ?一応確認なんだけどさ、…本当に聖君じゃないの?」


「だから誰だよソイツ。第一、俺はお前みたいな奴と知り合いだった事は無い」


 少し強めの口調になってしまったが、幽霊は気にしないで、そっかぁ…と少し下を向きながら残念そうに呟いて話を続けてきた。


「いやね、とにかくスッゴイ君に似てる人なの。そのやる気の無いような目つきもやけに高い鼻もそのダレた感じの佇まいとか色々と。マジで生まれ変わりですか?って聞きたくなる位に似てるんだから困ったもんだよ。その人、名蔵聖人っていうんだけどね」


 その名前を聞いた時納得半分、本当に親父の知り合いかと言う衝撃半分で実に困惑した。


「いやー、でも知るわけ無いよね~。確かに学校ではちょっとした有名人だったけど卒業した後まで名前が残るような人じゃなかったからね~」


「…いや」


 幽霊に向かって手を突き出して話を遮る。何を言えば良いのかはあまり纏まっていないが、死んでからの世界について何も知らないコイツは、まず現実を知るべきだろう。


「よく知ってるぞ、その男の名前」


「え、マジ?何で知ってるの、どこで知り合ったの?もしかして今ここの先生だったり?」


「……俺の親父だ」


そう言った時の幽霊のアホ面や語るに及ばず。口をあんぐりと開いて焦点が合わず意識が体と一緒に飛んでいっているのではないかと思えるほど驚いていた。


「俺の名前は名蔵咲良。現在日ノ本学園の高校二年で部活は帰宅部。友達と呼べる人も一人二人しかいない所謂ぼっちだ。今お前の言った名蔵聖人は俺の親父に当たる人で…、ってか本当にアンタ親父と同い年だったんだな」


 橘、と自称した幽霊は気の抜けた生返事しか返すことができないらしく、俺の言葉を理解するために一分ほど首を小さく傾けてブツブツ何かを喋り始めた。


「……名蔵咲良…高二…聖君の息子さん……?」


 成る程、今ならセイクンの意味も理解できる。恐らくそれが、親父のあだ名だったのだろう。そう納得していると呆けた幽霊の呟きがポツリと聞こえてきた。


「………………ドッキリ?」


「俺から言わせてもらえば、お前の存在の方がドッキリであってほしいもんだがな」


 呆れるように吐き捨てる。放心したままの橘がまた黙ってしまったので次の復帰まで何を考えるべきかと思っていたが、次の静寂はすぐに打ち切られる事となった。


「…せ」


「せ?」


「聖君の、息子さんですとおぉぉぉぉぉ⁉」


 理解のキャパシティを越えたのか幽霊は鼓膜を突き破るかのような絶叫と共に後方へ飛びのく、俺は思わず耳を塞ぎながら3mは飛んだような姿を見て思わずしかめっ面をしてしまう。ふと、コイツの声は耳を塞いだ所で遮断できるものなのかと言う疑問が脳裏を過り、また相手はいくら叫んだり、今みたいに人間離れしたリアクションをしても誰にも驚かれたりはせず寧ろそれを見て驚いている俺は人に見られれば白い目で見られるという理不尽極まりない状況だと理解した。俺はコイツが何をしようとも、人の目がある時は顔に出してはいけないのだ。


 しかし、冷静に考えるとそもそもコイツは何がしたいのだろうか分からない。俺の前に現れた目的は何なのかは先程の自己紹介では何も語られずいらない情報ばかりあの口は垂れ流してきた。こんなものを聞いてもしょうがないのだがと考えていると、足を動かさずものすごい速度のスライド移動で幽霊がこちらに戻ってきた。しかもそのまま顔面をサムズアップされて実体が無いのに暑苦しい。


「え、マジで⁉確かに似てるなとは思ってたけど息子ってガチ⁉うっそ、聖君私っていう女忘れて誰と結婚したのさ⁉あ、そうだ。目の前にいるんだから聞けばいいジャン私!ねぇ君!お母さんの名前教えてくれない?」


喋りながら喜怒哀楽が一度に全部表れたり勝手に自問自答したりと、先程から思っていたが五月蠅い奴だ、と思いながら近すぎる顔を背けて答える。


「…親父と同い年だし、学生の頃から付き合ってるって言ってたから名前くらいはもしかしたら知ってるかもな。母親は名蔵雪根。旧姓は確か…」


「雪根ちゃん⁉藤宮雪根ちゃんなの⁉」


「あぁ、それそれ。藤宮だ。やっぱり知ってたか」


 教えてもらったのが大分前だったので中々思い出せなかったのだが、幽霊は知っていたのか先回りして答えてきた。すると幽霊はさっきまでの剣幕とは裏腹に、あったぼうよ!と言いながらまたも自慢げに立ち上がって胸を張ってきた。


「私、雪根ちゃん、聖君って言ったら当時じゃかなり有名なトリオだったんだから!学園祭や修学旅行とかのイベントでは私がやらかして聖君がそれを止めようと最初は躍起になるけど途中で私と一緒に弾けて雪根ちゃんが皆に謝るまでがワンセットで同学年の共通認識だった程度には有名だったよ?」


「見事に貧乏クジじゃなねぇか、雪根さん」


「まぁまぁ、なんだかんだ言って雪根ちゃんも当時は楽しんでくれてたよ。きっと。それにしてもそっか~、雪根ちゃんが聖君の奥さんかぁ~。他の女ならどうしてくれようか!って思ったりもしたけど雪根ちゃんなら親友として、おめでとう!としか言えないね!」


 言いながらなっはっはと愉快そうに笑う幽霊、それとは対称的に俺の疑惑は増して目を細める。そんな俺の怪訝そうな雰囲気に気づいたのか、おろ?と幽霊は首をかしげながら笑いをピタリと止めた。


「どったの名蔵君。なんか気になることでもあった?」


「気になるっていうか…」


 今の自分が考えている事をどのように言えば良いのか思いつかず眉間に皺を寄せてうまいこと言葉を纏めてみようと試みたが、この幽霊の正体について疑問は尽きることが無いので俺は今の話を聞いて率直に思った事をストレートに聞くことにした。


「…本当にアンタ、ウチの両親達の友達だったのか?」


 自分でも驚くほど怪訝そうな声で幽霊に投げかける。よほどこの質問は意外だったのか、幽霊は目を大きく見開いてすとん、と腰を下ろして神妙な顔になった。


「…何ゆえ、左様な事を?」


「何故って言われてもなぁ…。今、お前は自分で両親と在学時代に交友関係があったって言ったけど俺は今まで両親の口から橘御影なんて名前聞いたことないぞ。既に死んだ友人だなんて話し辛い内容だろうけどそれにしたって十六年間一度も聞いたことないってあり得るか?」


「ぬぬ?そう言えばさっき私の名前を聞いた時、初めて聞いたって顔してたよね。あの時はただ似ている人かなって思ってたけど…息子なのに私の事知らないってのは不思議な話だねぇ。よもやホントに忘れられちゃったとかかな?流石にそれはないと思いたいけど…」


「そんなに仲良かったのか?さっき親友とは言ってたが」


 親友と言えるほどならば、後で家を探せば何か遺品なりが出てくるかもしれないと思いながら話していたが、幽霊が俺に告げてきた両親との関係、正確に言えば親父との関係は予想の斜め上を行くものであった。


「恋人」


「………は?今なんつった?」


あまりに予想外だったもので、つい聞き返してしまった。幽霊はさも当然のように話を続けてくる。


「だーかーらー、聖君は私の高校時代の恋人だったの。高二の夏から私が死ぬまで一年ちょいの間だったけどね。あ~、懐かしいなぁ」


器用にフェンスに寄りかかりながら雲一つ無い快晴の空を仰ぐ幽霊。俺はそれとは真逆に下を向き、額を抑えながら頭を抱えていた。言われてみれば先程、私という女を差し置いてなどと言っていたような気がするが、要は親父が今結婚しているのが三角関係の余り物という事。よもや、うちの両親が三角関係をこじらせていたなんて思ってもいなかった。


しかし、そこまでの関係だと言われるとやはり最初の疑問が濃くなる。この幽霊の言葉を真に受けて本当に三角関係だったとして、元恋人と親友の関係ともなればこれまでの生活で話の陰くらい出てもおかしくは無い筈である。仮に話したくない内容だとしたら、この幽霊がこんなに懐かしそうに話すのも、妙ではある。残された側と先立った側では感じる物が違うのは当然ではあろうから一概にとは言えないが、良い思い出の欠片でもあるのならば、やはり話題に上がって当然ではなかろうか。判断材料が乏しい中ではこの当たりが限界だが、どうにも信憑性に欠けると言うか、なんと言うべきか。


それにしても困った。この幽霊は二人と親密な関係であったと言っているが所詮は自称。両親に確認を取らない以上疑惑が晴れる事は無い。だが仮に、本当に友人関係であったとしても両親にとって橘御影の話題がトラウマになっていたとしたら、それこそ藪蛇になりかねない。ましてや俺は、両親からしたら橘御影の存在を知ることはあり得ない存在。家に帰って世間話のノリで話を振れば何が起こるか分かったものではない。そう。この幽霊に一番近しい人にコイツの存在の確認が取れないのだ。


「……どうするか…」


「何が?」


 俺の呟きは、奴の耳に届いていたらしく聞き返してきた。俺は良く聞こえたな、と言わんばかりのため息をして、脳内会議の現状を奴に伝えることにした。


「…簡潔に言うと…、胡散臭い」


「?だから何が?」


俺は無言で幽霊を指さす。幽霊は指の刺された方向に顔を向けて、遠くの山に向いてるのを確認すると理解できなかったのか俺に聞いてきた。


「山が胡散臭いって言わなくない?」


「山を指してるわけ無いだろ…もっと近くにいる半透明の存在だ」


 俺は指で楕円を描きながらもう片方の手で頭を掻きあげる。幽霊はまだ理解できてないようで俺と遠くの方を行ったり来たりして見ていたが、不意に視線が自分の揺らいでいる足元に向いた時、ようやく気づいたらしく大きな声を上げて猛抗議してきた。


「なんで⁉私今めっちゃ分かりやすく自己紹介したじゃん!今の私の十割を喋ったといっても過言じゃない程の話を聞いといて胡散臭いですと⁉一体何が!どこが⁉」


「だってお前、それ全部自称だろ?」


 幽霊の憤慨は、俺の一言によってピタリと止んだ。静かになって話し合いの余地が生まれたことによって俺は話を続ける。


「一応、お前の存在は百歩どころか千歩は譲って認めることにするとしよう。俺の目にも見えてはいるし、そう仮定しないと話が一向に進まないからな。だからといってお前の言う事を何でもかんでも信じるわけでは無い。依然として幽霊なんて怪しい存在の奴の話を胡散臭いと言ってもしょうがなくはないか?」


千歩は譲ったと言ってはいるが、まだ心の中ではどこかで屋上で寝たまま見ている夢の中であったり俺の脳が勝手に作り出した幻影では無いかと願ったりはしている。幽霊など、目にして話をしていてもそう簡単に信じられる物ではない。


「ぬぐぐ…、で、でもなっちゃってるものはしょうがないじゃん。私だって幽霊になんてなりたくてなったわけじゃないし…。…一体どうしたら信じてもらえるのさ」


「そうだな…。誰かうちの両親以外にお前の話を聞けそうな人はいないのか?仮にお前が昔の人間だとして、その時代のお前を知っている人物とか」


 だがこの発言、自分で言っていて失言だと気づき、オチまで読めかねない話題であると瞬時に悟った。


「え、それならいっぱい居るよ。私達だいぶ有名人だったから教師に聞けば一発だし」


「例えば?」


「例えば?例えば…数学の高田とか?」


「高田って、高田伸久か?」


「そう、それそれ」


 やはり、予想通りであった。


「高田伸久なら四年前に転勤したぞ。どこの学校に行ったかまでは覚えてない」


「あれ?そうなの?じゃあ…倫理の葛谷とかは?」


 次に出てきた相手は聞くのもウンザリしそうな奴の名前が飛んできた。倫理の葛谷なんてヤツしかいないだろう。


「葛谷純夫なら二年前に教職免許を剥奪されて以来知らん」


「ふ~ん…ってうえぇ⁉きょ、教職免許剥奪って……。いや、確かに嫌味な先公だったけどさ…何したの?一体」


「さぁ?そんなの一生徒が知るわけ無いだろう」


 本当は知っているどころか奴から教職免許を奪ったのは俺と言っても過言では無いのだが、話す気も起きない内容なので知らないフリをすることにした。幽霊も、それ以上追及することなく次の教師の名前を考えていた。


「それじゃあ…物理の朝霧さんは?あの人なら不祥事とか起こさなそうだし居るのでは?」


 透けた頭を捻って絞り出した三人目。ここでようやくこの女は当たりを引いた。


「朝霧って朝霧知恵か?」


「そうだよ?」


「朝霧知恵なら去年定年退職したぞ」


ぶっきらぼうに俺が口にすると、流石に定年退職の単語には教員免許剥奪以上に引っかかるものがあったのか、はぇ?と気の抜けた返しを漏らしたまま、幽霊は固まった。


「て…定年退職……ですと?」


 俺が黙ってうなずくと、幽霊はみるみる顔をこわばらせていき口は死にかけの魚のようにパクパクさせた。


「…え~~っと、名蔵君?つかぬ事をお伺いしても宜しいでしょうか?」


「どうぞ」


「……今年は何年ですか?」


「2023年…ってか親友の息子って時点である程度想像できたものだと思うんだがな」


 何とかひりだした質問に俺は無慈悲な現実を突きつける。相変わらず幽霊の酸欠の魚みたいな顔は直らなかったものの、頭に酸素は行っているようで渋そうな顔で現実を咀嚼しているようであった。そして経つこと十数秒。


「…え、ええええぇぇぇぇぇぇぇえええぇぇえ!!!」


 本日二回目の幽霊の絶叫は、先程の四割増しはありそうで、学校全体に響き渡りそうな程の声量だった。





「……落ち着いたか?」


未だに耳鳴りが聞こえてきそうな耳を抑えながら幽霊に問いかける。けれども相手はアワアワと頭を抱えて丸まりながら心ここにあらずと言った雰囲気で独り言をこちらに聞こえる程の声量でブツブツ言っていた。


「あぁぁ…まさか私が死んでもう十八年も経っているなんてぇ……。そりゃあ建物の配置とか学校の制服とか変わってるな~とは思ってたけどさ…うぅ…。なんか時代に取り残された浦島太郎の気分……」


「まぁ、実際取り残されてるよな。亡霊だし」


「…人の独り言を盗み聞くのは良い趣味じゃないと思う」


「ならもう少し小さい声で喋れ。丸聞こえだ」


 膨れっ面をする幽霊を見て、こんな奴がうちの両親と友人だったのかと違和感を覚えながらも適当に流す。それを幽霊はぞんざいに扱われたと思ったのか更に期限が悪くなっていったが、何か閃いたのか急にニヤニヤしながらこちらに寄ってきた。行ったり来たりと大変な奴だと思う。


「そーだよ名蔵君。君さっきから証拠証拠ってうるさいけどさ、そっちだって何も証拠を提示してないじゃん!今が2023年なんて、私を騙そうとしてるんじゃないの?」


随分と息巻いていたから何か言い返せるような事が思いついたかと思ったが、ただの難癖だった。俺は半ば呆れながら、横に投げてある鞄から座ったまま携帯を取り出す。


「幽霊騙して俺にメリットがあるかってんだよ…ホレ」


 画面にはキッチリと、2023年7月21日を表示されていた。だが、幽霊はディスプレイの文字よりも俺が手に持っているもの自体が気になったらしく物珍しそうに見ていた。


「……何コレ?」


「何って…、あぁ」


それを言われてようやく俺は、十八年という歳月が織りなすカルチャーショックを実感した。確か享年が十八歳と言っていたのでスマートフォン自体はあった筈なのだが、いかんせん普及率が低かったのだろうか。


「お前の時代にもあった筈なんだがな、スマートフォン」


「…あー、何か聞いたことがあるかも知れない…程度かな?持ってる人近くに居なかったからさっぱりだけど」


 俺の想像した時代背景と合ってはいたが、かと言ってコイツになんて説明すればいいかを考える。しかし、良く考えれば別にそんな一々説明しなくてもいいだろうと気づき、説明を放棄して今の時代を覚えてもらうことにした。さながらそれは、今どきの子供に黒電話を見せて体で理解させる老婆の気持ちだ。


「要は、今はこれが携帯だ。先に言っておくけど玩具とかではないからな。立派な通信機器だ。インターネットも繋がる」


「へー、こんなちんちくりんがねぇ…」


 言いながら携帯の画面に手を伸ばす幽霊。驚いたのは俺の画面に手が届きそうな所まで近づいた時、画面がプルプルと反応したのだ。勿論、この時俺は触っていない。


「おわっ、な、なんか動いた⁉」


 幽霊も驚いた様ですぐさま手を引っ込めてしまう。すると、携帯の画面もピタリと止まったので、奴の体に反応したのは確実であろう。また一つ不思議な事が増えてしまったわけだが、もうこの程度では動揺しなくなってしまった。せいぜい、コイツの目の届く範囲に携帯を放置しないようにしようと言うのと、俺のパスワードはばれないようにしよう位のものだ。


「…なんでお前に反応したかはこの際置いといて、今の日付は見ただろう?十八年の歳月を受け入れろ」


携帯を鞄にしまい、シャツで仰ぎながら言い放つ。それでも幽霊は諦められず最後の足掻きと言わんばかりの難癖をぶつけてきた。


「で、でもでも。デジタルの時間なんてずらしちゃえば分からないし…!そうだよ!きっと私に慌てさせるため逃げている間に携帯の時間をずらしたんだよ、きっと!」


「そんなしょうも無い事のためにわざわざ時間をずらすか普通?それにあの時、お前とこうして話をしようものなんて考えるわけ無いだろ。逃げてる間はずっとお前の事を死神だと思ってたんだからな。俺が携帯の時計をずらす理由が見つからない。どうせならもう少しマシな難癖をつけてくれ」


 勝負アリ、と言った様子でぐぅの音も出なくなった幽霊。なぜか恨みがましそうにこちらを睨んでから、はーっ、と大きな溜息を吐いてから一言ポツリと。


「なんか聖君より弁が立ってそう…屁理屈が通じない……」


そう言って白旗を掲げた後、ごろりと屋上の床に寝転がり足をジタバタさせながら現実を認めた。


「あー、そうですかー。私が死んでもう十八年ですかー。そりゃ私が教えてもらってた先生なんていないワケですわ、校舎も変われば、人も変わるってやつですなぁ」


「その言葉の使い方は間違えてる気がするがな…後お前、そんな服装で暴れるとスカートの中見えるぞ」


「ユーレイだから見ーえーまーせーんっ!あ~あ、それにしてもな~、十八年かー。流石にケージもいないだろうしなぁ~」


「……ケージ?知り合いか?」


 幽霊=パンツ見えない、という謎理論も気になりはしたが、それよりも拾うべき単語が出てきた気がするのでそちらを優先して聞く。どうせあちらは、大した根拠はないだろう。


「いや~、美術の先生に『西村慶司』って先生が居てね。私これでも生前は美術部に所属してたしその先生ともだいぶ仲が良かったんだけど…ケージ、朝霧先生より歳食っちゃってるからきっと…」


「まだ居るぞ」


「うぇ?」


 成る程、と俺は幽霊の話を聞いて思った。確かにあの人は還暦を越えてもまだ教師をやっているし、前に親父達にも教えていたと言っていた気がする。盲点だった。


「西村慶司さんは今でもこの学園で美術の教師をやっている。俺も中学時代に教わったが…芯の通った誠実で良い教師だったな」


「ケージまだこの学校居るの⁉」


ガバリと幽霊は跳ね起きて顔をこちらに向ける。俺が頷くと目を輝かせて立ち上がり、鼻歌を歌いながらその場で小躍りを始めた。


「そっかそっか~。ケージまだこの学園に居るんだ~。だったら話は簡単だよ、ケージに会って『橘御影って知ってる?』って聞けば一発だよ!私、意外と気に入られてたし忘れられてるなんてことは無い!と思う」


「そこで断定できないのが、十八年の長さだな」


 ともあれ、これでこの後の指針が割と立った気がした。西村先生に会いに行けば、少なくともこの幽霊が昔、本当に実在したのかの証明ができる。ワザワザそんな事をしなくても分かりきっている気がしなくもないが、それはそれだ。取りあえず、当面は憑り殺されなさそうでなによりである。


 俺は大きく伸びをして、勢いを付けて立ち上がる。尻を叩きながら鞄を引っ掴みもう一度携帯を取り出す。先程は見てなかったが時間は十一時半を少し回った所。いい加減腹の虫も鳴き出す頃であり、能代の午前練習も終わる頃合いだろう。俺は別に菓子パンでも良いが、外で食べるというのは、外気を考えるとあまりよろしくない。それならば、学食の方に向かい、部活動の奴らより早く席を取っておくのもアリだろうと考えた。


 いつでも能代からの連絡が来ても良いようにと携帯をポケットに突っ込む。俺が移動する準備をしているのに気づいた幽霊は、西村先生に会いに行くと思ったのかワクワクを抑えきれずに俺の髪の毛を手綱の様に掴みながら頭に飛び乗ってきた。


「…いきなり何だ」


「え、だってケージに会いに行くんじゃないの?」


「……お前までついてくる必要はあるのか?」


「いや、だって私もケージの顔、一目見たいし」


勝手に会いに行けば良いだろう、と口から出そうになった所で、コイツは屋上以外では何かと不便である事を思い出す。同じ敷地内にいるのにも関わらずこんな手間がかかるなんてのも悲しい話だ。だが長い年月で変わった姿を見たいという気持ちも分からなくは無いので、俺が折れて連れていってやる事に決めた。


「…連れていくのは別にいいが、会うのは午後からな」


「なんか用事あるの?」


「お前さんには分からんだろうが、世間一般では昼飯の時間だ。腹が減った」


 それを聞いた幽霊は感心したように口を開く。


「おぉ~、お昼ご飯かぁ~。もう長らくそんなもの口にしてなかったから忘れてたよ。そうだよね、エネルギーが無いと基本動けないもんね。人間って」


 うんうん、と頷きながら納得してくれた幽霊、しかしそのあと、至極どうでも良い所に引っかかったのか抗議をしてきた。


「でもそれはそれとして、咲良!私を呼ぶときはもう自己紹介したんだからちゃんと名前で呼ぶこと!それか昔のあだ名のミカちゃんか」


「それは御免被る。…………わかったよ、橘」


俺がそう呼ぶと、橘は満面の笑顔で、よろしい!とご満悦な様子で足をパタパタさせた。幽霊なだけに掴み所の無い、と言えばいいのか。とにかく喜怒哀楽のツボが分からないまでも現状俺に害はさほど無い、と言うのだけは伝わる幽霊に対して俺は改めて名字で呼ぶことで少しだけ歩み寄れたような気がした。


「その代わり、俺の事も名前じゃなくて名字で呼んでくれ。その名前好きじゃないんだ」


「そうなの?でも響き良くない?咲良って」


「なんか女々しいだろ…もう少し硬派な名前が良かった」


 俺のため息に対して、橘の反応は、一応覚えとくよ、との事。あまり期待はするべきではないだろう。


俺は熱い屋上の空気で深呼吸を一つ、鞄を担ぎ、炎天下の屋上から出ようとする。すると、ドアノブを回そうと手に取った所で携帯が震えた。恐らく能代である事は間違い無いのだが、それにしては少し早いと思いながら通知を開く。メッセージの送り主は予想通り能代、しかし内容は俺の予想とはだいぶ違っていた。


『野暮用が出来た、昼は先に食べててくれ』


 文字を眺めながら、暑さに晒されて沸騰寸前の頭で考える。そもそも、俺達は最初から昼の約束などはしていない。もし連絡があるとしたら練習が終わった時に、その旨を伝える内容位しか送られて来ないはずだ。今から学食の席を取ろうとしたのも、あくまで予想であって意図が違った場合に屋上よりも幾分動きやすい程度にしか考えていなかった。だが、この文章では、俺が昼飯のために動くのをどこかである程度予測して、尚且つその予定に合わせる事ができない状況に、急になったと推測できる。要約すると、この一言に尽きる。


「……トラブったか」


「なになに?何かさっきのケータイっぽいヤツの画面見て固まっちゃって。どったの?」


 呑気そうな橘を無視して大きなため息を吐く。そして鞄の中身を手探りで確認。前日の終業式から荷物の入れ替えなどをあまりしていなかったのでたいした物が入っているかどうか不安ではあったが、カメラとビニールテープにワイヤー、包帯とバンドエイドに消毒液までは感触で確認できた。これだけあれば大抵の事は何とかできるだろう。俺は橘に予定が変わることを簡素に伝える。


「……予定変更だ。飯の前に、用事が出来た」


 恐らく、この時間に連絡が来たという事は部活絡みのトラブルであろう。とすれば、居場所は先程の剣道場。もし違った場合はまたその時考えることとしよう。今は何よりも、一秒でも早く能代の元に向かうべきだ。


「予定変更?それってなに、ってうわあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


俺は携帯をポケットに仕舞い息を大きく吸い込む。そして屋上のドアを蹴り開けると、橘が悲鳴を上げる程の全速力で剣道場へと走り出した。





 先程、橘から逃げていた時の俺は普段の三割増し程度の動きをしていたが、所詮は自分の為に動いた事。人の、それもとびきり大事な人の為となればそれよりも疾く動けるのは当然。今の俺は普段の五割増しのスペックを出しているだろう。階段を駆け下りる、と言うよりはもはや落ちると言った感じで俺は玄関口まで走る。あまりの速度に、もし人が登って来ようものならブレーキを掛けられる自信はなかったが、夏休みというのもあり人が通ることは無かった。


「ま、待って待って、早い!早いよ咲良ぁ!ふ、振り落とされる、私落ちちゃう、落ちちゃうから!速度落として!お願いだからぁ!」


お前の戯言に付き合っている暇はないと言わんばかりに、速度を落とすことなく玄関までノンストップで降りきり外に出る。流石に息も少しばかり切れてきたが立ち止まる気はなく、下駄箱で靴の履き替えすらせずそのまま出てしまった。どうせ道場内では靴を脱ぐし、別に良いだろう、なんて思ったりしながら正面の道場に向かう。その途中、校庭の端の方、桜夏の前に一人の教師がキャンバスを前にして熱心に絵を描いていたのが見えた。幸いにして橘は、ここまで来るのに随分と振り回されたのか目を回していてあの人の存在に気づいていないらしいので一旦はスルー。奴があの人に気づく前に体育棟に入る。靴を適当に脱ぎ散らかし、階段を一気に駆け上がる。踊り場で折り返した時に、上の方から人の言い争う怒声が聞こえてきた。片方の声の主は、顔を見なくてもハッキリしている。


「な、何か言い争ってる声聞こえない?大丈夫なの?」


「さぁ、な!」


 二階に辿り着いて息を切らせながら道場に突入する。靴下も脱がない礼儀知らずも良い所であったが容赦願いたいと神棚に心の中で謝罪をする。


「な、名蔵⁉どうしてここに⁉」


道場の中央で誰かとにらみ合いをしていた能代が俺に気づいて驚きの声を上げる。立ち位置的には、能代と言い争っていたと思われる竹刀を持った男四人組を挟んで俺がやってきた状況。その能代の後ろには、女子部員と思われる道着の女子三人震えながら固まっていて、さらに一人能代の真後ろに顔を抑えながら男子生徒から隠れるように蹲っている女子が一人居た。


「……手は出してるな、こりゃ」


俺の声にようやく反応を示した男子たちが後ろを向く。顔を見るまでも無くイラついている様子がひしひしと伝わってくる。敵意が肌に刺さって、痛い。


「あ?誰だテメェ。今取り込み中なんだよ、部外者はさっさと帰ってくれよ」


 あの中ではリーダー格だと思われる能代の真正面に立っていた茶髪の男が俺の方に二歩ほど近づいて威嚇してきたが、俺はそれを無視して能代の方に向かう。


「あ、オイッ―――――」


 男達の横を通り過ぎようとしたその時、男子の一人が俺を止めようと腕を伸ばそう(・・・・)と(・)してきた。それを感じ取って俺は、その男の右足を軽く払う。突然の反撃に反応できなかったのか男はそのまま踏み込む軸足を失い、男は竹刀を握ったまま受け身も取れず綺麗にすっ転んだ。顎からいったので舌を噛んでないか若干気になりはしたものの、そのまま歩を進める。


「遅くなって悪いな。これでも急いだんだが」


 何が起きたのか理解できていない様子の野郎共を置いて能代の前に辿り着く。案の定彼女は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。安堵三割、困惑六割、怒り一割と言った感じだろうか。


「…遅くなったも何も、何故来てしまったのだ名蔵」


「要らぬお節介を焼きにな。現状見る限り何かあったんだろ」


言いながら後ろの女子をちらりと見る。抑えている右手の下からちらりと見えた頬は赤くなっていたのを見て俺は大きなため息を一つ吐く。


「何があったのかは知らんが、怪我人が出てるのか。その子連れて保健室行って来いよ」


「な、何言っている!私が今ここから離れるわけには」


「おいテメェ!ウチの部員になにしやがんだ、アァ⁉」


額を抑えながら立ち上がった先程の男子に代わって、茶髪が能代との話に割って入ってくる。俺はその間もずっと頭を回して状況の落としどころを考える。とりあえずは、能代は安全の為にこの場を離れてもらいたい。


「ほら、相手も良い感じで俺の方に集中してるからよ、保健室行って、来いよ」


「だから、何を言って…」


二度目の台詞は、能代に意図が伝わるようにと少し区切りを入れて喋る。これで能代も反論をする前に意味を理解したのか、眉をひそめながら目を一瞬だけ逸らす。しかし考えてる時間も惜しいと分かったのか直ぐに顔を合わせた。


「………十分で戻ってくる」


「ゆっくりで構わないぞ。俺も久々に運動したいからな」


 冗談めかしてそう言うと、能代にもようやく少しばかりの余裕ができたのか口元がほんの少しだけ緩んでくれた。それから怪我した女子生徒を立ち上がらせると、俺に一言。


「すまないが、部員の事を頼む」


短くそう告げると、怪我をしていた子を守るような位置取りで道場の外側を歩き出した。


「オイ那賀ァ!テメェどこに行こうってン――」


「保健室に決まってんだろ鳥頭」


 見ればわかるものを一々言葉を荒げて聞かなければならない程面倒臭いものは無い。少し背が小さめの男が能代達に詰めよろうとしたため、奴が動くよりも早く俺はツンツンにセットされている頭を掴み、そのまま引き倒した。頭を打たないように床スレスレで勢いを殺して軽く押し付けながら少しだけ圧力をかける。


「威勢の良さは悪くないが、女性に対して罵声を浴びせるのは頂けないな。男なら大らかな心を持って然るべきだろ」


 そのままの体勢で約五秒、二人が道場外に出たのを確認した俺は一息ついて男の上から離れて二歩程下がる。流石に男四人に囲まれては気が疲れると言うものだ。


「……今のもそうだけど、さっきの足払いとかも大分おかしかったよね?なんか相手が動く前にやってたような気がするし…」


 俺の動きに何となく疑問を持ち合わせたのか話しかけてくる橘。だがそれに今応対するわけにはいかなく悪いと思うが無視を決めこむ。こちらとしてはそれより先にやらなければならない事が目の前で待ち構えている。目下のやる事は能代が戻ってくるまでこの男子達と適度に遊んでやることだ。


「さてさて、まずは色々と聞きたいことがあるんだが…」


「テメェに話すことなんざあるわけねぇだろ!ふざけてんじゃねぇぞ!囲め、お前ら!」


 話し合いでの解決を求めては見たものの、ヒートアップしてしまった男子達は収まりが悪いらしく茶髪のリーダー格が俺に倒された男を立たせながらそう号令をかける。取り付く島もないとはまさにこの事だろう。瞬く間に息の合った動きで俺を1m四方で囲む姿を見て、橘がアワアワと慌てて返答ができない俺に話しかけてくる。


「ど、どうするの咲良……囲まれちゃって。痛いのヤだよ?私」


 お前はそもそも殴られようがないだろ、とか、だったら手を離して屋上に帰ればいいだろと言いたいのをグッと堪える。ツッコミを入れたらこちらの負けだと無視を貫きながら俺はウンザリするような口調で男どもに言う。


「全く…女三人寄れば姦しいとは言うが、男四人だと輪をかけて酷いものだな。五月の蠅より煩わしい」


俺は身振りも含めて、なるべく男達を煽る言葉を選んで喋った。端から見ている女子部員からすればただの自殺行為にしか見えないであろうがこれにもちゃんと理由がある。一つは相手の意識が後方の女子達に向かせないため。もう一つは、相手・・の(・)感情・・の(・)振れ幅・・・を(・)上げる(・・・)ため(・・)だ(・)。


「ホラ。相手を囲んだのならやる事なんて一つなんじゃないのか?四対一なんだからやりようだっていくらでもあるんだし。それとも…囲んで吠えるだけの子犬か?お前ら」


 俺の後ろに陣取った短髪の男を横目で見ながら嘲るように鼻で笑う。それが限界だったのか、その男の敵意がグンと上がりきる。相手の竹刀を握る手にも力が入ったのを確認して、俺はその男の方に後ろ向きのまま一気に詰め寄る。


「ふざけんのも大概にしや―――――」


 竹刀を振りかぶり、こちらに突っ込もうとする男の右足を、中腰になりながら土踏まずで踏みつける。次に出そうとした足が押さえつけられてしまった為、男は喋りきる前に何かに引っかかったようにコけて、竹刀が宙を舞った。


「よっ、と」


一人が潰されたことによってあっさり崩れた囲いから俺は脱出しながら、その竹刀を空中でキャッチする。そして右手で鍔の辺りを握りながら宣戦布告をした。


「最も、俺はやられる気なんて毛頭ないがな、どちらかと言えば殺る気満々って所だ」


竹刀の中結で肩を叩きながら笑う。そして道場の後ろの方に下がったために女子生徒の距離が近づいてしまったのでそいつらにも帰ってもらう事にしようと決める。あまり俺も、人の目がある場所で暴れたく無い。


「あー。そこの女子達」


 なるべく優しい声を出したつもりだったが、後ろの女子達は大層俺の事を怖がっているのか、話しかけただけでビクン、と撥ねて縮こまってしまった。


「あ~あ、めっちゃ怯えちゃってんじゃん。かわいそ~」


 どうしたものかと頭を掻くと、悲鳴と共に橘が憤慨して俺に突っかかってくる。


「わーっ!急に触んないでよ!手の中通過しちゃったじゃん!」


 そんな事で一々騒がれても俺の方が困るというものだが、文句を堪えて目を細める程度にとどめる。俺に話しかけてくるな、の一言でも言えればいいのだが。前もってそういう取り決めをしておくべきだったと半ば後悔しながら、なるべく上からの雑音を無視しながら女子達に優しげに提案をする。


「なんか状況が分からないまま助けちゃってるが、見た感じそっち被害者側だろ?危害とか加えられてなかったら家に帰っちまった方が良いと思うぜ?多分、あと十分もしない内に能代が戻ってくるだろうし、面倒事に巻き込まれるのはイヤだろ?あとは能代に任せておけよ」


俺が念押しすると女子達はひそひそと話し合いを始めて、意見が纏まると立ち上がって俺に会釈を一つすると壁に沿って入口の方に向かい出した。


「さて……」


 漸く全部の不安要素の排除が終わり一息つく。欲を言うなら上のにもどいてもらいたいがこればかりは振り落としでもしない限り離れないだろう。仕方が無い。


「てっきり俺は喋ってる間に不意打ちでもしてくるかと思ってたんだがな。威勢が良いのは最初だけか?」


 勿論、相手方がそんな気でないことは言わなくても分かっている。もう明らかに、爆発寸前の気持ちを抑えられないのがビリビリと伝わってくる。やがて、リーダーの男がゆっくりと笑い出す。


「そんなわけ無いだろ?居てもらったら邪魔だったから帰ってもらうのを待ってたんだよ。目の前でリンチされてボロ雑巾のようになってく様を見せるのは、俺たちも偲びねぇからなぁ。倉内ィ!鍵閉めろ!」


 倉内と呼ばれた男は下卑た笑いと共に、道場の入口に向かい引き戸の鍵を閉めて、更に突っ張り棒を差し込んだ。


「これで邪魔者は入らねぇな、さっきから好き勝手やりやがって。無事に帰れると思ってんじゃねぇぞ、テメェ!」


 先程から威勢だけは十分な剣道部員の言葉を適当に流しながら話半分に聞いてやる。別に貶すつもりとかではないのだが、正直レベルが違い過ぎて話にならない。


 俺は右手で竹刀を仕舞い、左手で挑発するように人差し指を動かしながら話す。


「むしろ俺が言いたいな。その程度の実力で俺に一撃でも入れられると思ってるのか?おら、遊んでやるからさっさとかかって来いよ」


「どーしてそんな煽るかなぁ……」


 橘のボヤキとほぼ同時に、男四人が襲い掛かってきた。が、余りにも直情的かつバラバラで遅い。俺は奴らの飛び出してきた順番を瞬時に感じ取り、いの一番にこちらに向かってきた左側の男に向かい体勢を低くして突進する。


    一歩   


    二歩


 三歩目を踏み抜く瞬間に、右にこさえていた竹刀の柄を左手で握りしめて男の左胴めがけて居合の要領で一気に振りぬく。鈍い音と共に綺麗に命中したのを確認すると、続けざまに残心の構えに似た振り返りを高速で行いながら背中にも一打を加える。そして、最後には先程と同じように右腰に竹刀を収めて居合の体勢に戻る。


「っがぁ!」


 男の悲鳴が上がったのは俺が構えに戻った後で、その場で蹲り転がりまわっていた。少しやり過ぎただろうかと思っていると、橘が嘆息するように息を吐いて相手のできない俺に話しかけてくる。


「…咲良って実は結構強い?あんなの剣道の型に無いよね?私あんまりわからないけど」


そんなことは無い、と否定しようとしたが口では言えないので、どうだろうな、と言わんばかりに首をかしげる。そして一応転げまわっている相手を気遣う。力加減を間違えたつもりはなかったのだが、この痛がり様だと力み過ぎてしまったかもしれない。


「あぁ、悪ぃ悪ぃ。あまりに久しぶりなんで加減ができなかったわ。大丈夫か?そこの男子」


 よくよく考えれば、彼らは防具を付けてはいない。いつもよりも気をつけて竹刀を振るべきだったのだが、久々に技を使えると思うと気分が高揚してつい気を抜いてしまっていた。今のが「飛燕斬」だったからまだ良かったものの、「砕月影」や「流星突」などを打っていようものなら、確実に相手の体を壊していただろう。そのあたり気をつけなければならない。


 とは言え、今の俺の動きを理解できなかったのか、男子部員たちはその場で固まってしまった。一撃で実力差を理解してもらえるのは助かるが、余りにもあっけなくて悲しい。確か去年の夏休み明けの朝礼か何かで、男子剣道部は紫咲町内の大会で三位とかだった筈なのだが、それでこれというのは逆に驚きだ。もう少し扇動してみて、ダメそうだったら諦めるとしよう。


「なんだ?一発で動かなくなりやがって。降伏宣言するってのは構わないけどよ、一応この学校の剣道部って割と名門だったんじゃねぇのか?確か去年は団体三位とかだったか取ってた気がするが…それが素人一人にボロ負けとか、恥ずかしくないか?」


「絶対、絶対に素人じゃないよね……」


 頭上からのツッコミも無視。鼻で笑いながら男子部員を嘲笑ってみるが、奴らは恨み言を小さく言うだけで俺に刃向かってくる者はいなかった。もっと遊べると思っていたのだが、実に残念。これなら甲月とかの方がまだ戦いがいがある、などと一瞬思ってしまった。


「つまんねぇな…」


 思わず溜息をついて天井を見上げる。改築して間もない天井にはシミなどの汚れがなく、模様も無いので暇潰しにもならない。


「そんな暇そうにしてないでさ…、折角相手が戦意喪失してるみたいだし話でも聞いてみれば?」


 この幽霊にしては珍しくマトモな正論を俺に投げかけてきた。確かに今なら、奴らとも対話が成り立つかもしれない。俺は腰の辺りで竹刀を握っていた右手を下ろして、もう一度事情を聞いて見ることにした。


「さて、そっちからの攻撃が途絶えたから白旗掲げたと判断して改めて聞いてみるが、一体女子部員と何があったんだ?まさか何もなしに危害を加えたわけでも無いだろう。経緯なり言い分なりがあるなら、とりあえず聞いてやるから言ってみろよ」


 俺は竹刀を足元に置いて彼らの方に歩み寄る。すると男共は俺の方を向いたまま後ずさり、距離が一向に縮まらない。顔を見れば明らかに怯えきっている。先程、あれほどの啖呵を切っただけに何をされるか分かったものではない、と言った所だろうか。しかしこれでは、まるで俺が悪者みたいであまり見栄えがよろしくない。竹刀まで置いて和睦の構えを見せていると言うのに、一体何に怯えると言うのか。


「そんなにビビんなよ…、そりゃさっきまではそっちがやる気だったから相手してたけどよ。俺だって無抵抗の奴らボコすような真似はしないっての」


 言いながら、俺は朝に能代が言っていた事を思い出す。確か今日はどこの部活も道場を使う予定が無かったから能代は丸一日の使用許可を貰ったと言っていた。ならば、この場に男子部員が居るのはそもそもおかしいのではないか。いざこざがあったとすればその辺りが問題になっている可能性がある。そこから聞いてみることにしよう。


「そもそもだが、今日ってたしか女子剣道部が一日ここを使う事になってたんじゃないのか?それなのにお前ら男子剣道部が居るってのは…」


 おかしくないか?と言おうとしたところで、リーダー格と思しき茶髪頭が突然、声を荒げて反論をしてきた。


「んなわけ無いだろ!大会が来月に迫ってるってのに休んでられっか!今日は午前午後どっちも空いているって言うから午後から俺達が使う予定になってたんだよ!それなのに女子の奴らが『それはおかしい、今日は午前午後両方とも使用する許可を貰っている』なんて言うから…ついカッとなって…」


 徐々に語気が萎みながらもそう男は言った。そのしおらしい姿を見ても今の話に嘘は見当たらないように思える。だが、そうすると朝の能代との話に齟齬が生じてしまう。判官贔屓と言われるかもしれないが、俺の能代に対する信頼は相当高い。今のアイツが嘘を吐くなどあり得ないだろうし、第一あの場面でそんな嘘を言う理由が無いだろう。


「なーんかややこしくなってきたね…、見た感じ嘘ついてなさそうだし女子の方が怪しいって事は?」


「それは無い」


 頭上の存在の発言に、思わず声を出して反論をしてしまう。橘はまさか返事が来るとは考えてなかったのか驚きの表情を見せ、目の前の男達は今の話に反論されたのかと俺を睨みつけてきた。 やってしまったと反省しつつ、この事は後で文句の一つでも幽霊に言ってやろうと決めながら目の前の奴らにこっちの話だと誤魔化し、話題を少し変えて再び聞いてみる。


「ちなみに、今言ってた大会ってのは日剣一か?」


「……そうだよ、お前、那賀と親しそうだし聞いてるんだろ?」


 まぁな、と軽く肯定して俺は考え込む。確かに来月に大会が迫っているともなれば、空いている時間はなるべく練習をしたいというのは分かる。道場が空いててそこに予約して、いざ来たら別の団体が使っていたとなっていたら頭に来るのも、まぁ分からなくも無い。暴力まではいけないと思うが、責めるに責めきれない所である。


 俺は下を向いて、鬱屈なため息を吐く。要はただの伝達ミス一つが原因、にも関わらずよくもまぁここまで大事になったもんだと思いながら面倒臭くなってきて左手で目頭を押さえる。


ゾクリ


―――――次の瞬間、背筋が凍るような明確な敵意を感じ取り俺は瞬時に顔を上げた。


俺の形相がそこまで怖かったのか剣道部の面々は後ずさってしまったが、この反応を見て今感じた敵意の元がコイツらでは無いと言う事はすぐさま分かった。と言うより、こんなに肌で感じるような敵意を向けられるような強さでは無かったから分かりきっていたのだが。これは明らかに、建物の外から感じる気迫だ。しかも、徐々に近づいてきている。距離が近づくにつれて増していく敵意。恐らく能代が誰かを呼んで帰ってきたのだろうが、こんな人間がこの学園にいたのかと思うと、驚きと冷や汗を隠せない。


「…時間切れか」


 ポツリと言った俺の言葉に反応して男達が急に慌てだす。下の階からは玄関口のドアを派手に開ける音が聞こえ、瞬く間に足音で賑やかになっていくのも分かる。ついでに言うならば、敵意も濃厚だ。


「やべぇよ…風紀委員とか生徒会が来ちまったら、俺達大会どころじゃ……」


道場の入口の方を向いていると、ふと部員の一人がそんなことを仲間たちに言っていた。大会云々以前に自分の処分について考えるべきではないかと言いたかったが、そんな間もなく袴姿の女子が中に突入してきた。


「名蔵!無事か⁉」


見栄えも減ったくれもなく息を切らせて道着が少し着崩れているのも気にせず走ってきた能代。心配をしてくれていたのは素直に嬉しかったがもう少しゆっくり来てくれても良かったのだがとも思ってしまった。久しぶりに羽目を外していたから、もう少し遊びたかった。


「無事に決まってんだろ。俺を誰だと思ってるんだ」


「…この女の子は咲良よりも他の男子達の心配すべきだと私は思う」


 こちらの元まで走ってきた能代にそう言いながらも、目線だけは入口の方に向けてしまっていた。あの奥から武者震いを起こすほどの何かを感じ取り、俺の意識が勝手にそちらに集中してしまう。上の幽霊から出た戯言が気にならない程に。思わず足元に置いてある竹刀を構えたくなってしまう程だ。一体、あの奥に何が居るのか。恐怖とほんの少しの高揚感を覚える。


 だが、そんな期待と恐怖とは裏腹に、後ろの階段から現れたのは予想の斜め下を行く間延びした声で喋るちんまい後輩一人であった。


「あ~、こちら風紀員会で~す。そこで喧嘩してたと思しき男子―ズ、両手を上げて膝をつきいて許しを請いなー。お前達の罪は校内で暴力をしでかした事では無い、俺のトランプピラミッドを写真に取る暇もなく粉砕したことであ~る。もし降伏しないのであるならば容赦なく俺のストレス発散のサンドバックになってもらうのであしからず~。…俺個人としてはムシャクシャしてるから抵抗してもらえると嬉しいんですが」


 なんてふざけた事をメガホンを使い宣う男子生徒。身長やTシャツの胸の色で分かる通り俺の一個下の学年。自分で風紀委員と言っている割には腕の腕章が見当たらないが、恐らく能代に急かされて付ける間もなく来たのであろう。トランプピラミッドの所は謎だが。そもそも自分のストレス発散で取り押さえ相手に抵抗を要求する風紀委員など聞いたことが無い。どこにでも、風変わりな奴がいるということか。


「風紀委員って…、咲良怒られるの?私あんまり行きたくないんだけど風紀委員室。色々と嫌な思い出しか無いし……」


 俺が入口の後輩について考察していると、橘は大層嫌そうな声でそんな事を宣った。どうやらこの幽霊、生前は相当のワルだったらしい。屋上での話から何となく察しはついていたが。   


ともあれ、ここで何か起こすべきアクションなんてそう多くないだろう。


「……ふむ」


 とりあえず、抵抗する理由などあるわけ無いので両手を高く上げて降伏する。その頭の隅で考えていたことは、一つ。


―――――――面倒な事に、なったものだ。





後からやってきた数人の風紀委員に男子剣道部とセットで確保された俺は、一度風紀委員室に連れてこられた後一人一人担当を決められてワンツーマンでの事情聴取をされる事となった。俺の相手は、先程鳥肌が立つほどの敵意を感じた年下の風紀委員。他の奴らは場所を移動したが、俺はこの場に残されての取り調べ。冷房が少し効きすぎているような気がしなくもない程度の涼しさを感じる部屋の外からは、アブラゼミが自身の存在を残そうと必死に鳴き声を上げているのが聞こえてくるのが季節を感じさせる。


俺は机の上に出されたコーヒーに口を付ける。何故だか知らないが風紀委員室にはコーヒーメーカーが備え付けられており、聴取をする前に相手が出してくれた。こういう賄賂染みた行為は本来許されないのだろうが、出してくれたのならありがたく頂く。最初は夏場に出すものとは思えない程温かったのだが、今は実に冷たい。


「…はぁ、もぅ何なんですかこの人……」


 目の前の後輩は調書と思しき紙を見ながら大きな溜息を吐いて机に突っ伏す。声には疲れが滲み出ていた。


「溜息一つで幸福が一つ飛んでいくって聞いたことがある。若い頃からそんなだと先が思いやられるな」


「誰の所為だと思ってるんですか誰の…」


俺の方を見向きもせずに恨み節をぶつけてくる後輩。そんな姿を見て橘もやれやれと言わんばかりの口調で俺に文句を言ってくる。


「…本当にそれで通ると思ってるの?咲良」


 どうやらこの場において、俺の味方は皆無らしい。橘も、初めは中身が大分変っている風紀委員室を楽しそうに眺めていたが、流石に飽きてきたのか疲れた表情をしている。


 俺は二人纏めて返しをするために大きく頷いてピクリとも動かない突っ伏した石像に話しかけた。


「自分で言うのも何だが、俺ほど取り調べに協力的な男もそう居ないと思わないか?包み隠さず自分が悪いっていう自供しているんだからな。あとは調書纏めて終わりだろう?こんな十分で終わるような取り調べに一時間もかけることは無いと思うのは俺だけか?」


 少しだけ口元を吊り上げながら、俺はそう意見をする。そう、もう取り調べが始まってから一時間が経過しているのだ。


「…え~。ではもう一度、もう一度だけ確認しますけれども、名蔵先輩は七月二十一日の昼十二時ごろに同級生の那賀能代先輩を昼食に誘おうと剣道場に訪れ、その際男子部員と口論になっている姿を発見。ここで名蔵さんはムシャクシャしてやった、今は反省していると言わんばかりに男子部員に稽古と称した暴行を行う。この時に近くにいた女子部員の明石結衣さんに怪我を負わせてしまった、それを見た能代先輩が止めようとに慌てて俺達を呼びにきた。……間違いないっすか?」


「ああ、何の間違いも無い」


 そう言うと風紀委員は机の上で頭を転げるように滑らせて、間違いだらけですよぉ…と呟く。そしてガバリと顔を上げると話を少し変えて喋りだした。


「えーとですね名蔵先輩。俺ってこれでも結構いろんな人見てきたんすよ。なんで人を見る目にはちょっとばかし自信があるわけで」


「ほう」


「俺の見立てでは貴方がそんな身勝手なことをする人だとはどうしても思えない。寧ろ常に先を見据えて行動を起こす人だと思うんですよね」


「そうか、機会があれば良い眼科を紹介しよう」


 手前味噌な後輩の発言を髪入れずに一言で切り捨てる。全くもって見当違いも甚だしい、もし俺が先を見据えて動く人間ならあんな事はしなかっただろう。


「ぬぐっ…、と、とにかく。こんな調書を上に上げられませんよ!あからさまにおかしいじゃないですか!」


「そうだよ咲良。流石にこれは無理があるよ……」


「そうか。例えばどこがおかしいっていうんだ?」


 俺は鼻で笑うような仕草をしながらそう言う。俺だって勝算が無くてこんな事を言っているのでは無い。ある程度模範解答は考えている。


「た、例えば?たとえば…え~っと…、そうですよ!例えばあの那賀先輩の態度!あれおかしいっすよね!もし本当に名蔵先輩の言う通りならあの場面で心配になって駆け出すべきは男子剣道部員の方じゃないんですか⁉名蔵先輩の元に駆け寄る理由なんてないっすよ!」


「俺と能代は普通の友達関係じゃない。ややこしい関係だから説明は端折るが確実に言えるのは、能代は俺が不利になるような言動は絶対にしないって事だ。つまり、奴の証言は当てにならんって事だ。帰ってきた時に俺の方に来たのも恐らく咄嗟の演技だろう。全く、余計な真似を…」


「その言い方はあの女の子が可哀想じゃない…?なんか咲良って嫌な人間だったんだね…私ショック」


 上から本当に悲しそうな声で橘が俺に言ってくるが無視。俺だって能代を貶めるような発言をするのは、正直身を切るより辛い。だが、これが一番丸く収まるのだから我慢である。


「そもそも、真相に貴方が関与してないなら那賀先輩が嘘を吐く必要もないですよね?」


「さっきから言ってるが、関与してないどころか犯人だ。能代は当然嘘を吐くだろう」


「ぬわぁぁぁぁん……なんなんですか、この堂々巡り」


 ついに後輩は後頭部を抑えて机にヘッドバッドを始めた。そんなにまでして考えなければならない事なのだろうか、自分にはさっぱり分からない。目の前の餌にさっさと食いついてしまえば全員が一番ハッピーに終わると言うのに。


「私からも一個良い?と言っても答えてくれないだろうけどさ…。咲良の話って、そのー…、那賀ちゃん?が話す内容が当てにならないって言ってるだけでしょ?だったら、加害者の男子達が自分達から白状しちゃった場合矛盾しちゃうよ?」


 幽霊にしては割と考えているものだと感心しながら、折角だから答えてやろうと俺は咳払いを一つして前置きを付けて潰れた後輩に説明してやる。


「そうそう、男子剣道部員たちには『自分達が女子部員と口論になって暴力沙汰を起こした事にしろ』って圧力をかけておいたから奴らはそう言うだろうな。反抗出来ない程度には恐怖を植え付けたし、あれなら大丈夫だろうとは思ったが…いやはや、我ながら気分屋なのも考え物だな。ハハッ」


「もうそれワケ分かんないっすよ…。自ら犯行を隠そうとする工作してんのにそれを無に帰すとか…」


「だから気が変わったんだよ。ボコされた挙句濡れ衣着せられて怒られるとか流石に不憫だろ。いくら俺にだって情くらいはある」


気分屋ですまんな、と謝罪しながら上を見やる。橘は溜息一つで疲れた顔をして一言。


「よくもまぁ息をするようにそんな嘘を吐けるね……」


 橘に言われるまでも無く自分でもそう思っている。各所を守るために色々攪乱する言動をしているが、その中で先程他の女子部員を先に帰らしたのが功を奏している。あの時はまさか、こんなことをするとは思っていなかったが、彼女達から調書を取られなくて幸いだ。


 満足気に背もたれに寄りかかると、入口のドアがノックされて開かれる。外から大柄な一人の男が入って来て俺の担当と二人で話を始めた。内容は小声なので聞き取れない、と言うより聞き取る気が無いので分からないが、良い感じで揉めているようだ。


「……ふんがー!」


そして、数回会話を交わした後、ついに限界がきたのか俺の担当の方が俺の調書をビリビリと破いしまいそれを相手に投げつけていた。俺と相手が困惑しているとキレてしまった後輩がそのまま捲し立てる。


「オラ!調書が欲しいんだろ厳島!なら持ってけよこの泥棒がっ!言っとくけど俺はこんなの認めねぇからな!持ってく先が池上さんだか糀谷さんだが知らんがこう伝えとけ!『あと二時間は粘ってやる』ってなぁ!」


 八つ裂きにした調書を相手の胸に押し付けてそのまま不貞腐れてしまった後輩。厳島、と呼ばれた男は、こんなもの受け取れるかと言わんばかりの渋い顔をしてそれをセロテープで張り合わせた後頭を掻きながらこの場を後にした。バタン、と扉が閉まり、俺はジョーク混じりに後輩へと気遣いの言葉を投げかける。


「ストレスはため込むと体に毒だぞ。さっさと吐き出したほうが良い」


「そーっすね…。手頃にサンドバッグでもあれば壊れるまで殴りつけたいんですけどねー…」


 顎を机に突きながら沈んだ声で返事をする後輩。どうやらこの一時間でだいぶ疲弊してしまったらしい、無理もないが。俺でさえ、こんな問答をしていたら体力が持ちそうもない。良く頑張っている方だと思う。


 欠伸を噛み殺しながら窓の外を見やる。ここは二階なので先程咲いた桜夏の上の部分が見えているだけだが、相変わらず綺麗に咲いているのが分かる。頭上の橘も暇なのか窓の外ばかりを見ていた。こうして待ち続けること五分。机にて倒れこんでいた風紀委員の男がふと立ち上がり俺に話しかけてきた。


「名蔵先輩」


「なんだ」


顔の向きを男に戻しながら答える俺。次は何が来るかと少しだけ思考を巡らせていたが、彼の口から出てきた言葉は、俺の考えつく予想を大きく裏切るものであった。


「遊びましょう」


「……は?」


 何を言っているんだコイツは、と言わんばかりの反応を他所に目の前の風紀委員は一人でベラベラと喋りながら机の上の調書を横にどかして楽しそうに準備を進める。


「いや~、だってもう疲れましたもん自分。まさか名蔵先輩がここまで頑なだなんて予想外過ぎて辛い事辛い事。こちらとしてもこれ以上やる事なさそうなんで、後は他の人の意見を纏めて上の人がどう判断するのかを待つだけって感じですよ、ハイ。だから折角なんで、こんな形で出会えたのも何かの縁と言う事で、遊びましょうよってことです。俺って結構、一期一会を大事にする人間なんでね」


 なーににしよっかなー、と喋りながら棚の中に所狭しと収納されていた遊び道具を取っては置いてを繰り返して悩んでいる後輩。その姿を二人して見ながら橘が相談をしてくる。


「…何か良く分かんないことになったね」


「だな…、どうしたものか」


「相手もああ言ってるんだし遊んであげれば?どうせ咲良の態度がこれじゃ取り調べも進まないでしょ?」


 俺は肩をすくめた仕草で返事を返す。そもそも、この流れは完全に予想外であり、場所が場所なだけに相手の出方を窺いながらでしか動くことは出来ない。相手がどんな内容を提案してこようが、基本的にイニシアチブは相手にある。ならば、この場では遊ぶ以外の選択肢はないのかも知れない。アホな事を言うな、と一蹴するのは簡単だがそれではまた膠着状態に戻ってしまう。諦め所だろう。


 そうこう考えている間に、後輩は右手にトランプを握って席に戻ってきた。そして慣れた手つきでカードをシャッフルして俺達の間に机に置く。


「ま、さっきあーだこーだ言いましたが要は暇なんですよ。時計の針と蝉の音しか聞こえてこないような一時に興味は無いワケでして。タイムイズマネー!大事な青春の一秒を停滞することは神が許しても俺が許さないって事ですよ、ええ」


 ニヤニヤ笑いを浮かべながら力説してくる後輩に、俺は諦めた旨を伝えてやる。


「……俺は一向に構わないが。だが一つだけ言っとくと、俺は言う程トランプ遊びのルールに詳しくない。知っているので頼むぞ」


「ポーカー位は流石に知っているでしょう?」


 俺は数秒考えて頷く。ポーカーは昔、相手の心理を読み取る練習と称してとある人とやっていた時期があったので最低限のルールは恐らく知っている、と思う。即答できなかったのはポーカーのルールが多岐に渡ることを知っていたからだ。自分の知らない―ルを相手が用いてくる可能性も無いわけでは無い。とは言え、その場合はルールを聞いて適当に対応すれば良いと、この時点では思っていた。所詮は遊びだろうと無意識に高を括っていたのかも知れない。


「ルールは分かりやすいドローポーカーで一回勝負。チェンジは一回。ジョーカーは無し。役の強さはロイスト、ストフラ、フォーカード、フルハウス、フラッシュ、ストレート、スリーカードツーペアワンペアの順番で。ベッドのタイミングは手札の交換前と交換後で一回ずつ親から。どちらのタイミングでもそれぞれレイズは一回まで。こんな感じでよろしいでしょうか?」


「ベッドって…賭け金なんて持ってないぞ」


「まさか。学生の内から金なんぞ賭けてちゃアカンでしょ流石に。学生云々もそうですが自分、これでも風紀委員なんで」


自分から乱すことは出来ませんよ、とへラヘラと笑う後輩。だとすれば、ただ漫然と手札の優劣だけを競う気なのかと聞こうとした所で奴はルールの説明を続けてくる。


「俺達が賭けるのは『権利』お互いが自分で責任のとれる範囲での権利を賭けていきましょう。お金賭けるより全然健全でしょ?」


「ワケが分からん…。お前の賭けれるものと俺の賭けれるものが一緒とは限らない。もっと言えば、互いの価値観が全く同一ではないとその賭けは成り立たないだろう。お前からすればどうでも良いものかも知れんが俺にとっては大事な物の可能性だってある」


「その場合は降りてくれても構いませんよ。その場合は…そうですね。それまでに自分が賭けていたものを相手と相談しながら払うって感じで良いですかね?まぁ、所詮俺達は学生っすからそんなおおそれたモノ賭けれませんよ。どこまで行ったって遊びは遊びですから、ルールの穴がありそうならその都度進言してく感じで良いじゃないっすか。何か他に質問とかはありますか?」


 あくまでも只の遊びを推してくる奴に対して俺は何となく違和感を覚えたものの、それが何かはわからずそのまま曖昧に頷いてしまった。


「なんかよく分からなかったけど…結局は遊びって事でいいんだよね?」


 橘もあまり理解できなかったようで俺に確認を求めてくる。俺だってどう言えば良いのか判断出来ないような状況であるが、ここから能代に危険が迫るような事になるとは考えつかなかった。だから俺は橘の方を一瞥して、首を軽く縦に振り発言を肯定する。


そう。この時までは。


「んじゃ、質問も無いようなので始めていきましょ。最初は俺が親で良いっすか」


「あぁ」


 特に異存はないので頷く。後輩は流暢な手つきで交互に五枚のカードを配り、そして中央に山札を置いて、男は賭ける権利を口にする。


―――――この瞬間、初めて俺は罠に嵌められたと知った。


「俺が賭けるのは『名蔵先輩が真実を話さないとこの部屋から出ることの出来ない権利』です。乗りますか?」


 この発言を聞いた時に、俺はやっとこの『遊び』の目的を理解した。少しは頭を使ったのだろうと心の中で舌打ちをしながら、一応奴に確認を取る。


「……仮にも風紀委員がそんなもの賭けていいとは思えないんだが」


「別に良いんじゃないんですか?そもそも、どうせ名蔵先輩は本当のことゲロったって言い張るんでしょ?だったら別にこんなもん賭けたって意味ないのは百も承知です。要するにこれは俺が納得するのに必要な手順なんすよ。俺頭固い人種ですからねぇ、どうかご容赦ください」


 目の前の後輩はさも愉快そうに笑いながら流暢に喋る。口ぶりでこそ下手に出ているように聞こえるが、その実は俺を試す節のニュアンスが滲み出ている。敢えて俺の退路を予め作っておいているのが実に癪だ。これによって思考の幅を狭め、俺がこの逃げ道を後で利用したら、俺は奴の掌の上で最初から最後まで踊り続ける事となる。元から握れていないものではあるが、相手の提案してきたこの勝負内ですら主導権を握れなくなれば、後々ボロが出やすくなり先程までの証言が崩される可能性がある。黙殺と言う案もあるがなるべくならそれも避けたい。こんな遊びの相手を許した時点で、翻意するのは負けを認めるようなもの。今この場にて、自分が行える最善の行為は賭けに乗るであり、誘導させられているようなもので真に厄介だ。誰かの入れ知恵かもしれないが、もし自分でここまでの作戦を考えたのならば大したものだと感心する事しきりである。


 俺は幾分か目を閉じて思考を巡らせ、最後には溜息を吐いて後輩に結論を伝える。


「手札を確認してからでもいいか?」


「えぇ、勿論」


「どうも。それともう一つ」


 まだありますか?と言わんばかりの男に、最初の方から聞きそびれていた事を問いかける。


「名前」


「…はい?」


「お前の名前だよ。自己紹介もしないで調書取り始めたから聞いてなかった」


 今までの会話を思い返しているのか、後輩は首を数度傾けながら頭を捻り、やがて「おぉ!」と声を上げて俺の方に向きなおる。


「いやぁこれはこれは。すっかり名乗るのを忘れていましたよ。自分、木ノ崎徹って言います。よろしくお願いしますね、名蔵先輩」


 如何にもうやうやしく手を腹の辺りに置いて座りながらお辞儀をする様に、どこか胡散臭さを感じながらも、俺は配られた手札を手に取る。内容はハートとクローバーとスペードのA、クローバーの9にダイヤのJ。交換前からAのスリーカードが出来上がっていた。これには頭上の幽霊も大興奮で触れられない肩をバシバシ叩きながら話しかけてきた。


「お?おおぉぉ!凄いじゃん咲良!豪運だねー。なんかテキトーにやっても勝てちゃいそうな手札だよ、これ。ササっと勝ってこんな場所おさらばして、早くケージに会いに行こうよ」


 勝ちを確信した橘の燥ぎ様。確かにこんな手札が来れば大抵の人は勝ったと思い浮かれるだろう。だがそんな橘とは対称的に俺はこの手札に作為的なものを感じ取り疑念を抱いていた。


 自慢ではないが、自分は基本的に運が悪い。今この状況や朝から幽霊に取り憑かれている事、他にも過去を思い返せば運が良いと言える経験など片手で数えられる程度には悪いのだ。運で誤魔化しの効くような人生では無かった為に、実力で解決できるように様々な小技や知識を身につけたし、無理と判断した事柄は一切触れないようになった程だ。そんな人間が、この一発勝負でこれほどの引きが出来るのか。自分の事ではあるが、こと運においては一番信用できない存在であるが故に、どうしても穿った考えをしてしまう。そもそも、木ノ崎は最初に遊ぼうと言ってきただけでその遊びの最中にイカサマをしないとは一言も言っていないのだ。俺が山札を切らなかった怠慢もあるが、奴がこの手札を送りこんできた可能性も十分に考えられる。


 とはいえ、どのような思惑があっても遊びに乗ってしまった以上奴の誘いに乗らなければ何も始まらない訳で、俺は渋々宣言する。


「……コール」


「随分と長い間考えてましたねぇ。そんなに悪い手札でしたか?別にその時は降りても良かったんすよ?」


「そうだよ咲良、別にそんな深く考えるような事無くない?」


 いけしゃあしゃあとよくもそんなこと言えるもんだと悪態を吐きたくなるのをグッと堪える。そして幽霊の方には、少しは人を疑えと声を大にして言いたい。


「じゃあ賭ける物が決まったんで、親の俺から交換しますね。三枚チェンジで」


 鼻歌交じりに手札を裏側で捨て、木ノ崎が山札から三枚引く。おぉの一言と共にした表情で手札が良いのは一目瞭然であった。ポーカーフェイスの欠片もない。だが、これすらも演技だとしすれば、たただ純粋にポーカーを楽しんでいる体を見せて、イカサマなんてしていないというアピールだとしたら大した役者である。風紀委員よりも演劇部の方を勧めたいものだ。


「一枚だ」


 俺は少し悩んだ末にクローバーの9を捨てて一枚引く。手元に来たのはハートのJ、フルハウスが出来上がっていた。


「うぉぉぉ、スゲー!一発勝負でここまで言い引き出来るって凄いよ咲良!こりゃ勝ったも同然だね!」


 最早、若干五月蠅く感じる程に騒ぐ橘。だが、これで確定した。この勝負、確実に仕組まれていたと。先程、木ノ崎引いた三枚は恐らく全て同じ数字のカード、恐らく6辺りだろうか。それに加えて残していた二枚の内どちらかが引いた数字のカードのラスト一枚であろう。俺の手元にAが三枚、Jが二枚ある事から、奴の役はフォーカード。山札の上を積み込んでいるのならどんな役でもあり得そうだが、イカサマだと突っ込まれにくい役として考えればそれが妥当だろう。どうやら奴は意地でも俺から真実を口にして欲しいらしい。こんな勝負までかこつけて、本当にご苦労な事だ。お陰で俺は要らんことに頭を回す羽目になった。


「なんかずっと難しい顔してますね名蔵先輩…、ダメですよ暗い顔してちゃ。人って笑ってる方が人生長生きできるらしいっすよ。ホーラ笑って笑って」


 どの口がほざくと睨み返して、俺はこの状況から持っていける最善の選択肢を考える。奴がイカサマをしている以上、勝てる見込みは無いに等しい。ならば考えることは一つ、如何に理想通り負けるかである。踏み込みを間違えれば返って大事になる。綺麗な負け方、俺の要求を綺麗に飲ませることの出来る負け方。そんなものを短い時間で色々考えたが、一つしか思いつかなかった。


「んー、さてさて。名蔵先輩の考えもいろいろ決まったっぽいですし後半のBETタイムに移りましょうか。俺はこのままでいいんですけど、名蔵先輩はどうっすか?」


木ノ崎の目的は俺から今回の一件の真相を白状させる事。そう言う意味ではこのポーカー勝負に俺を乗せた時点で九割方達成してると言っても良い。こんな勝負は消化試合。俺の出方をゆるゆると窺うだけで良い上に、勝ちも確信しているのであろう。だが、折角なのだ。俺で遊ぼうとするとどうなるかと言うのを身をもって知ってもらおうと、俺は口角を上げながら宣言した。


「……レイズ」


「…え?」


 気が緩んでいたのか聞き取れなかったらしい木ノ崎に、俺はもう一度告げる。


「聞こえなかったのか?レイズだ。こんな主導権を握られたワンサイドゲームじゃ割に合わん。遊び一つとっても、やるなら徹底的にだ」


 よほど予想外だったのか、きょとんとした顔をした後にしかめっ面になって無言で口元を抑えだした木ノ崎。そして、呻く様な小さな声で俺に質問を投げかける。


「……これ以上賭けるって、一体何を賭けるってんですか?もうそんな賭けれるものなんて無いっすよ。自己責任で」


「あるだろ?もっとヤバいのが」


 多少勿体つけるように咳払いをして、俺は奴に言い放つ。





「俺が賭けるのは、俺達のクビだ」





 かなり真面目に言ったつもりだったのだが、どうやら木ノ崎にはうまく伝わらなかったらしくネタにとらえられてしまった。


「首って…いやいや名蔵先輩、それは流石にやりすぎでしょう…。たかだかポーカー一つでそんなバイオレンスな展開になるのはちょっと……」


 上手く伝わらなかった木ノ崎に対して橘の方はちゃんと理解できたらしく、正気か、と言わんばかりの怪訝な視線を送ってきた。俺はそれを見ないフリをして木ノ崎に説明をする。


「こんなゲームで命張るような真似はしないっての…。俺が言いたいのは学校の退学って意味だ。この勝負に負けた方が、この学校を去る。この程度なら、自己責任で払えるもんな。さぁどうだ。乗るか。降りるか」


 俺の話を聞いたのち、木ノ崎は驚いたような顔をして下を向く。その際に橘が俺に話しかけてきた。


「……何でそんなもの賭けたの?退学なんて普通は学生から言っちゃいけない単語だよ。咲良の事だからあの子にイラッと来たからって事では無いと思うけど、撤回したほうが良いよ」


 口調から察するに怒りと言うよりも理解できないと言った感じか。だが俺から言わせてもらえば、たった数時間共にしただけでのお前が、俺の何を知っていると言った所か。俺は肩をすくめるリアクションで答えると、橘も溜息一つ。喋らなくてもある程度コミュニケーションが取れるのだと感心しながら、木ノ崎の方に意識を戻す。


「なんか難しい顔してんな。人間笑ってた方が寿命延びるんじゃないのか?」


 先程アイツに言われた言葉をお返ししてみる。頭上からは「うーわ、スッゴイ嫌味」と言われたが気にしない。勝ちにしろ負けにしても、さっさと終わらせたい。


そして待つこと十秒、俺が欠伸を隠そうと背筋を伸ばしている時に、急に奴の肩がプルプルと動き出した。顔は手で隠しているが、あの体の震えは間違いなく笑っている。


「え…、なんか怖くない?彼。壊れちゃった?」


 そう言った橘も少しばかり引き気味である。まぁ急にあんな笑い方をされれば誰だって怖いだろうと思う。


「どうした、恐怖でイかれたか?」


「恐怖?まさか。あぁでも、イかれたってのは当たってますね」


 壊れたような笑みを浮かべながら口を動かす木ノ崎。この発言の直後、ピシリとこの部屋の空気が引き締まるのを肌で感じ取る。先程までは快適だったエアコンが、今はほんの少し肌寒く感じた。理由なんて言わずもがな。飄々とした口ぶりは変わらないが、奴の雰囲気が先程までと明らかに変わったのだ。


「それがお前の本性か?風紀委員よりその辺のチンピラの方がよっぽど似合ってるぜ」


 状況がさっぱり分かっていない橘を放置して、俺は無意識のうちに腕を組んでいた。


「あ、分かります?名蔵先輩はこういう微妙な変化に分かっちゃう系男子ですか。てことは相当お強いんでしょうねぇ…是非とも手合わせ願いたい所ですが、まぁ今は職務の方を優先しないとなんで置いといて、俺も不思議ですからねぇ。自分で言うのも何ですが結構なワルなんですよ?それがなんでこんなまっとうな役職についてんでしょうか…。まぁいいですよ。それが転じて、こうして名蔵先輩に出会えたんですから。これを運命と言わずになんて言えば良いんでしょう!今最っ高にハッピーですよ!」


 先程よりも饒舌になった木ノ崎の顔は、目をぎらぎらとさせて笑っている。何がそこまで楽しいのかさっぱり分からないが、まだ奴は喋りそうなので聞きに徹することにした


「いや~見誤った見誤った。俺、最初は適当に遊んでもらって時間潰せればいいかなってスタンスだったんですけどコイツぁ予想外ってもんです、ここまで楽しめる人だなんて思いもよらなかったっすよ。一応聞いておきますけど本気なんですよね?こんなゲームで人生投げようって正気じゃないですよ?今ならまだ取り下げてもらっても構いませんが」


「誰がそんなことするか。それに、俺はお前を楽しませるためにこんな事を言ってるんじゃない。これが一番合理的だと思っただけだ」


「ハハッ、自分の進退賭けるのが合理的ですか!イかれてやがるのはどっちでしょうかねぇ!何が先輩をそこまでつき動かすのかサッッッッパリ分かんない、だがそれが良い!いつだってそうですが、自分の理解の範疇を越えた人を見るのは実に楽しい!見識が、こう、グイッと広がる気分ですよ!」


 机をバンバン叩きながら語る木ノ崎。テンションが上がるにつれて徐々に口調が悪くなっているが、歩み寄りだと思う事にする。色んな人を見てきたなんて言ってた気がするが、俺みたいな人間はそうお目にかかれないだろう。


「さっきまでと打って変わって随分と喋るな。お前は一生理解できないかも知れないが、俺は『世捨て人』なんだよ。自分の人生程軽いものは無い」


「はーたまんねぇな!本当に愉快な人だアンタ!俗世界を捨てたんじゃなくて自分を捨てた事を世捨てなんて宣うのか!まぁ、間違った語法だが単語の意味合い的にはあながち間違っちゃいないんだろうけどなぁ。それにしたって捨て過ぎだろ!」


そう言うと、木ノ崎は大きく息を上に向かって吐く。そしてもう一度俺の方に向きなおった時には、先程までの調子の良さはだいぶ落ち着いていた。


「いやー、失礼しました失礼しました。余りに名蔵先輩が面白すぎてつい口調が素になっちまいました。反省はしていますが…、いや。反省すらする必要もないか。恐らくこの後も貴方と喋っているとちょくちょく素が出ちまいそうだ。それならいっそ、歩み寄りとかも含めてフランクに行かせてもらいたいんですが、どうでしょうか」


「好きにしろよ。俺に敬語を使う奴なんて、元よりこの学校にはいない」


「では有難く!いや~、にしても本当にいいな。血沸き肉躍るってのは正にこの事。まさかポーカー勝負でポーカーをを放棄してくるなんて、とんだクソゲーでさぁ。もう少しゆったりした気分で出来ると思ってたんだが、いやはやまさかねぇ…」


 堪えきれない笑いを抑えながらなんとか喋る木ノ崎はこの勝負を本当に楽しんでいるように見える。しかし、俺としてはサッサと終わらして帰りたかった。腹が減ったのだ。


「どうでも良いが賭けはどうするんだ?俺としては、降りてくれても構わないんだが」


「冗談でしょ。こんなに盛り上がってんのにその選択肢はないっすわ。ここまでやったんだから最後まで上げて行くに決まってるってもんでしょう」


 俺の提案を鼻で笑い飛ばす木ノ崎は大きく息を吐いて、吸って、また吐いて。十秒ほど時間を使って自分を落ち着かせた後、誰に向けたか分からないような声でボソリと言った。


「……俺の師匠が言うには、奥の手は三つくらいは隠しとけって話です。一つだけじゃ破られる可能性がある。三つあれば二回までなら対処できると」


「良いセンスだな。俺とは考えが合わなそうだが」


「それは残念。ま、どうでもいいですけどね、…この勝負、勝たせてもらいますよ」


 言い終えるや否や、奴の雰囲気がまた変わった。先程までの冷たい緊張感とはまた違う、狂気を孕んだ様な空気に思わず鳥肌が立ったがとしたが、このゲームにおいてほぼ最大のBETをした時点で、奴がイカサマをしているならばコール。ヒラならば降りるだろうと。どちらにせよ俺の計画通りに事は進むと、この時は思っていた。


 故に、木ノ崎の次の発言には驚きを隠せなかった。


「上乗せです」


「……なに?」


「え?上乗せ?」


 これには流石の橘も面くらって、二人して間抜けな声を出してしまう。俺の反応が予想通りだったのか、楽しそうに木ノ崎は笑いながら鼻息を荒くして話を続ける。 


「そんなに驚いてもらえると冥利に尽きるってモンですね。でも俺にだってまだ上乗せの権利はあるんですから。権利はあるなら使わないといけませんよねぇ?」


「…これ以上何を賭けるっていうんだ。自分の進退賭けてんだ。これ以上大事なものなんて…」


 言い終える前に自分の発言にハッとする。現時点で俺達が賭けているものは、学生と言う身分からすれば恐らく最大級。自分の事だけで言えばこれ以上賭けれるものなんてそれこそ命くらいしかないだろう。そして奴はそこまでは取らないとまで言っていた。命まで取れば他の関係各所に迷惑が掛かるのは避けられない。だが、逆に言えば、自分で責任がとれる範囲ならば賭ける事が出来るこの勝負。自分の事でこれ以上賭ける物が無いのならば、自分以外で責任が取れる者を――――。


「名蔵先輩は言いましたよね。『自分は世捨て人だ』って。確かに貴方は凡そ自分の事なんか気に留めないでしょう。恐らく…命だって捨てれるはずだ。だから俺は試させてもらいますよ。先輩は、何をどこまで捨てれるかを」


「…お前、まさか」


 俺の背筋に冷たい汗が流れる中、木ノ崎は勿体つけるように一拍置いてから人としての禁忌とも呼べる内容を口にする。


「名蔵先輩も察しがつきましたか。ええ、多分あってますよ。自分で賭ける物がもうないなら他人を賭ける。…俺が追加で上乗せするのは『一番近しい人の退学』俺は、そうですね…。この内容ならば湖宮会長の退学を賭けましょう。なので名蔵先輩も誰か適当に賭けて下さい」


 まるで明日の朝飯を決める程度の気楽さで、サラッととんでもない事を口にして笑う男を目の前にして、世界が完全に止まったかのような錯覚を感じた。


「……正気か?」


「無論」


 やっとの事で喉から出た問いかけにも、憎たらしい笑みを崩さず即答する木ノ崎。コイツは本気で只の遊びで他人の人生まで賭けるという。正直、この夏の暑さで頭が沸いたとしか会考えられないものだった。そしてそれは橘も同様らしく、顔を真っ赤にしながら憤慨して声を荒げていた。


「な、なーにさこのガキンチョ!たかがこんな遊びで他人の人生まで賭けちゃうなんて!こんなの相手にする必要ないよ咲良!頭おかしいよこの子!」


 木ノ崎に指を指しながらキレている橘だが、俺の感想は少しばかり違ったものだった。


「……大した野郎だな。ここまで計算通りってか?」


「…え?」


 大きくため息を吐きながら木ノ崎に向かってそう吐き捨てる。ここまでの計画を遊びに誘った時点で考えていたとしたら、良く練られた計画だと感心したのだが、奴は俺の問いに、さぁどうでしょうか。と言うだけで肯定しなかった。恐らく突発的に考えたのだろう。どちらにしても頭のよく回る後輩な事だと感心した。


「少し考えてもいいか?」


「えぇ、好きなだけ考えてください。時間はまだまだありますからね」


「ちょ、考えるって。咲良ってば何を考える必要が…」


あるのかと言おうとしていた顔だったが俺を見て口を止めた、俺も今コイツに説明をしてやれる状況ではないので無視して頭を捻らす。


そう。奴の考え通りの俺ならば、今の俺は降りられない状況に置かれているのだ。万が一ここで降りた場合に自分に待っているのは『自身の退学』と『本件に対して真実を語る義務』この二つだ。大半の学生であるならば、退学なぞしたくはないので相手と交渉。真実を話すから退学だけは勘弁してくれ。と言わざるを得ず喋る流れになってしまう。ここで無言を貫けばこの勝負を捨てたものとみなされてもおかしくは無く、暗に先程の証言は嘘であると認めているものとなる。あげく自分か誘いに乗っておいてそんな無様を晒せば舐められてしまう、目に見えるリスクと目に見えないプライドを同時に攻める。そう言う意味で木ノ崎の作戦はだいぶ成功していると言える。プライドと自白を貫き通すためならば、この勝負は乗るしかない。


そしてこの勝算の無いポーカー、俺の勝利条件は勝負に勝って自白内容を木ノ崎に無理やりでも認めさせることだが、木ノ崎の勝利条件はあくまでも俺に口を割らせることの一点のみ。つまる所今上乗せした賭けの対象はおまけに過ぎず、もっと言えば相手にプレッシャーを与えるための口実に過ぎない。だが俺は真面目に退学を賭けているし、となると木ノ崎の方も大真面目に賭けていると考えるのが妥当だろう。イカサマがある時点であり得ないが、仮に負けるような事があれば本当に即日退学届を書きかねない。あまりにも馬鹿らしいと思うが、目の前のコイツからは本気だと感じられるほどの気迫、というより狂気を匂わせている。


俺はもう一度だけ自分の手札を確認する。何度見ても変わることの無い、見事なフルハウス。見事すぎるフルハウスである。これが公平な状況下での勝負であるならば笑みを堪えきれず勝ちを確信するのだが、このトランプは木ノ崎の私物、カットをしたのも木ノ崎、そして場所も風紀委員室と完全なアウェーであり、口では先程からズルはしてないと言ってはいるものの、不正をしてないかなんて俺には分かる由もない。


更に言えば木ノ崎が口にしたもう一つの台詞、自分は勝てる勝負しかしない。と言うのも気になる。奴はもう、この時点で勝利を確信しているのだろうか。もし、この時点で勝ちが分かっているというのならば、それはイカサマをしているという何よりの証拠ではなかろうか。ここまでの話を纏めて、手札交換前のBETにコールをした時点で俺の負けは十中八九決まっていたと言える、悔しいが完敗だ。


―――――――だからこそ、俺は負け方に拘ったわけだが。


俺はニヤリと笑い、手札を閉じながら観念するように両手を上げた。


「降りだ」


 俺が短くそう告げると、木ノ崎も笑顔で、ありがとうございますと頭を下げて饒舌に語りだした。もう奴から、先程までの狂気を感じることはない。


「さ、咲良⁉何で降りちゃうの⁉こんなにも良い手札滅多にないよ!絶対勝てたって!」


 橘はよほど俺の判断が気に食わなかったらしく、頭上でギャーギャー騒いでいるが、蝉の鳴き声と同様に目を閉じて無視をする。


「いや~、良い判断だと思いますよ、ハイ。自分、一応イカサマはしてないんですけど疑われる程度にはハンドが良かったんで。この一発勝負でこれ引けるとはな~って我が事ながら感心してましたもん。ハハッ」


 そう言って俺に見せてきた奴のハンドは、クローバーの3、4、5、8、Q。フラッシュであった。そのハンドをまじまじと見ていた橘が、首をかしげながら俺に質問をしてきた。


「…?ねぇ咲良。フルハウスとフラッシュってどっちが強いの?」


 フルハウスだ、と教えるように左手で俺の方を指さすと橘は溜息を吐きながら呟いた。


「なーんだ、咲良勝ってたんじゃん…」


 やれやれと言わんばかりのあきれ顔をする橘、だがこの発言は見当外れである事にコイツはまだ気づいていない。


まず、このポーカー勝負で勝っていたのはあくまでも結果論であり、相手のハンドが分からずイカサマの可能性も捨てきれない状況では、いくら自分の手札が良くても負ける可能性の方が圧倒的に高かったと言う点。そして、イカサマが無い純粋な勝負であったとして、負ける確率が0.1%だろうとそれ以下であろうと、勝てる確率が100%ではない勝負で、能代を賭けの引き合いに出すなんてもってのほかである。


 付け加えてもう一つ。勝負に負けたからと言って、俺が負けたわけでは、無い。


「いやー、ここまでマージで長かったっす…。たかだか自白一つ吐かせるためにこんな大勝負になろうとは、でもこれでお終いですよ名蔵先輩!賭けの約束守ってもらいましょうか!」


 木ノ崎は全身で喜びを伝えるかの如く机をバン!と叩いて立ち上がりながら俺の方に顔を寄せてくる。この時点でもうそちらが負けたと言うのにまだ気が付かないとは、本当に甘い。


「…そうだな。約束は守ろう」


 俺は下を向いて溜息を吐きながらそう言って、席を立つ。


「あ、あれ?咲良、何しようとしてるの?」


 突然席を立ったために驚いている橘と木ノ崎を無視してそのまま入口の方まで鞄を持ってスタスタと向かう。その辺りで呆気に取られていた木ノ崎がようやく慌てて俺を制止する。


「ちょ、ちょっとどこ行くんすか先輩!賭けの内容を守ってくれるんじゃないんですか⁉ちゃんと喋ってもらわないと!」


「何言ってるんだ?俺は賭けの内容をきっちり守るぞ」


 話が噛み合っていない様子の木ノ崎と橘。このまま煙に巻いてしまっても良いかとも思ったが、ここまで付き合ってもらったのだからと、俺は木ノ崎の方に振り返って説明してやることにした。


「大体、俺はここにいつまで拘束されるんだ?ここで取り調べを受けるのはこの学校の学生だけだろ。部外者はもっと別の場所、自治会の詰め所とかで取り調べを受けるっての」


「ハァ?部外者って、先輩何ホザいて……」


 怪訝な顔をしながら話す木ノ崎の口がピタリと止まって何か考え込むように右手で口元を隠す。ここまで言えば、誰だって流石に気づくだろう。


「あのー、咲良?私もう話しについていけてないんだけど…、結局どう言う事?どんな状況なの?今」


 訂正。頭に脳味噌があれば、誰だって気づくだろう。


「……?……………………あぁッ!」


 木ノ崎が目を見開いて、と言うより俺を睨みつけてくるような目をして理解したと思われる声を上げた。それを聞いた俺は、仕方なく橘に説明をしてやるために、木ノ崎に解説をしてやるような口調で話す。


「俺は勝負に負けたからな。約束通り退学してやろうじゃないか。だから俺はこれから校長室に行くんだよ。退学の申請をしにな。俺の場合ならなんも理由が無くても奴さん達、諸手を上げて俺の自主退学を認めてくれるとは思うが…、折角だし『剣道部員に対して俺の身勝手な行動で怪我をさせてしまった事に対して罪悪感を持ち、風紀委員の木ノ崎に促されて自主退学を進言。』なんて感じで、どうだ?」


「い、いやですよ!そんなの俺完全に悪役じゃないですか!!」


即興で考えた割には随分と良いこじつけが出来たので出来栄えを木ノ崎に聞いてみる。だが木ノ崎には勘弁してくれと言わんばかりの声で否定されてしまった。


「そうか?学園で無闇に暴れるような悪を追い出したって事になれば高く評価されると思うんだが。俺は基本、この学園じゃ嫌われ者だからな。もし退学って事になれば校長達、明日は二日酔いになる程度には祝宴を開くだろうよ。前に大層もめたからなぁ、奴らとは」


 ははっ、と乾いた笑いを漏らして上を仰ぐと、怒り心頭と言った様子の橘の顔が見えてそっと目を逸らす。たかが俺の退学一つで何をそんなにカリカリする必要があるのだろうかと思ったりもしたが、触らぬ幽霊に祟り無しという所か。


「ま、待ってくださいよ!百歩…じゃ譲り足りないですけど八千歩くらい譲って名蔵先輩が退学するのを理解したとしても、せめて今回の事件の真実を話してって下さいよ!」


「真実なんて最初からずっと言ってるだろう?俺が男子部員を蹴散らした際に女子部員に怪我させちまったって、それが全てだ。それを認めたくないっていうのは勝手だが、真実を話せと言われても、俺にはどうしようもないな」


 ポーカー勝負で俺に真実を吐かせるという発想は悪くなかったが、俺と面の皮の厚さで勝負をしようと言うのは余りにも無謀だったと言う他ない。俺が自身の退学をBETして奴が乗った時点で、俺の勝ちは限りなく決まっていたようなものなのだ。


「それで、言いたいことはそれで終わりか?だったら早い所校長の奴に退学の話をしに行かなきゃならん。昼飯も食ってないから腹も空いたしな」


 明るくこれからの予定を口にして、今言ったことに加えて、能代に学園を辞めると言う話もしなければならないし頭上の幽霊のご機嫌も取らなければならないと思いつつ、ちらりと時刻を見ればもう二時を回っていた。随分と長い間、この部屋にいたものだ。もう能代達の調書は取り終わっているのだろうか。


 木ノ崎の方はと言えば、苦虫を噛み潰したような顔をして唸り声を出すのが精いっぱいと言った様子。奴が黙っている隙にこちらは退散してしまう事にした。


 俺は席を立って手荷物を持ち、何か言われる前に部屋を出ようとドアの前に急ぐ。


「…一つだけ聞かせてよ。何でそこまでしてあの子たちを庇うのかはどうでも良いけどさ、明日から一体どうする気なの?」


 出際に、引き留めるかの如く聞いてきた橘を俺は適当にあしらう。


「んなの、明日になったら考えるさ」


何も考えてい無いわけではないが、これだけ言われたら雑に人生を歩んでいると思われるだろうか。能代には何やっているんだと小言を言われるかも知れない。だが、こういう生き方しかできないようになってしまったのだからしょうがないものだと我が事ながら呆れてしまう。


もう橘も何も言わなくなったのを確認して、俺はこの場を後にしようとドアノブに手をかけ――――――ようとした。


 次の瞬間、ガチャリとドアノブが下がってドアが勝手に開く。


「キーノー?そろそろ終わったー…、って名蔵君。何してんの?ドア前で」


 俺の道を塞ぐように首を傾げて聞いてきたのは、茶髪のロングヘア―の女。身長は俺より少し下くらいで、端正な顔立ちのわりに何か腹に一物抱えているような怪しい目つき、シャツの胸元の校章の色は俺と同じの赤。この暑い中黒のタイツを履いているのは趣味なのだろうか。夏場という免罪符を片手にわざと若干緩く結んでいる胸のタイや蝶の髪飾りなど全体的に自分を魅せる事が得意な雰囲気が漂うこの女、ハッキリ言ってお近づきになりたいタイプとはとても言えないのだが、残念な事にこの女とはクラスメイトと言う繫がりがあり、そうでなくてもこの高校で知らない奴はいないというくらい顔が知れ渡っている有名人である。俺はタイミングの悪さに呆れながら、出口を塞いでいるそいつに話しかける。


「……何しに来たんだよ、会長」


 俺に会長と呼ばれた女――――湖宮水那は手をヒラヒラさせながら当然の如く言い放った。


「キノに会いに来たに決まってんじゃん」


「!ナイス会長!そのままその人押さえて、押さえてぇ!」


 押さえて、と言いながら後ろでうなだれていた木ノ崎は会長の登場で跳ね起きてこちらに飛びかかり、俺の左足首をがっしりと掴んできた。そしてそのまま捲し立てるように口を回す。


「いやー!やっぱりゲームで遊ぶにしても結局大事なのは対話の意思ですよねー!話し合いこそ人類が選ぶ道!勝負事で無理矢理あーだこーだしようってのは以ての外っすわー!ハッハッハッハ!ね?と言うわけで話し合いましょ名蔵先輩!早まっちゃダメですってまだ人生長いんですからこんな所で棒に振っちゃあかんとですよ!」


「そもそも対話を最初に放棄したのお前だろうが…」


「床に必死で転がって…そんなに私のパンツみたいのキノ?言ってくれればいつでもとは言わないけど見せてあげるのに」


「この状況でそんなこと言います⁉俺この状況でそんな奇行に走れる変態じゃないっすよ!」


 必死に俺を止めにかかる木ノ崎とは対称的にマイペースな湖宮水那は鼻歌を歌いながら奥の席の方に座って木ノ崎が書いていた調書を読み始めた。


「風紀委員でもないのにそんなものに目を通すのか」


「一応生徒会長だからねー。夏休み中の問題については私も概要を知らないといけないからキチンと確認するのさ。…それにしてもキノー?二時間弱も話を聞いてこれっぽっち?ちょ~っと職務怠慢が過ぎるんじゃないかな?」


「その人が強情すぎるんですよぉぉ…本当に勘弁してほしい位に強情だし」


 よよよ、と泣きそうな声で言う木ノ崎。地べたに這いつくばってそんな声出して恥ずかしくないのか、と思いながらも足を掴む力だけは一向に緩むことなく、寧ろ締め付けが強くなっていている気がしなくもない。足首が鬱血しそうな程の、大した握力である。


 そんな中で足元に気を回していると、楽しそうに木ノ崎の書いた書類を見ていた湖宮がポロリととんでもない事を呟いた。


「ま、こんなのもうどうでもいいんだけどね~。名蔵君、もう帰っちゃっても大丈夫だよ。君がただ能代ちゃんを助けに入っただけの第三者だって裏が取れたから」


「…は?」


「え?」


「はい?」


その内容は木ノ崎や不機嫌の極みであった橘にとっても驚きを隠せない物で、片や訝しげに、片や半ば理解できていないような阿呆面で俺と木ノ崎は同時に湖宮に聞き返していた。そんな俺達の内心など歯牙にもかけない様子で、湖宮は詰問探偵の如く背もたれに背中を預けながらのんびりとした口調で語り始めた。


「ん?だからもう終わったんだって。今回の原因は男子剣道部と女子剣道部で剣道場のダブルブッキング。これの原因は顧問の内田先生のミスだね。話を聞いたらただの記憶違いだったって言うし、まぁそれについてはやっちゃったねーって感じだけど。その結果、道場の使用権を求めて女子と男子が口論。その際ヒートアップしちゃった男子側の部長の郷田君が女子部員の一人の顔を平手で叩く。内容はどうあれ顔はよくないよねー、顔は。そして女子部員を庇うために能代ちゃんが男子部員とにらみ合っていた所に名蔵君が乱入。なんでそこに来たのかについては…まぁ聞かないでおいてあげよう。今は夏休みだしね~、私もそこまで規則に拘る気はないのさ。何がともあれ、道場にやってきた名蔵君が女子部員を纏めて避難させて残った君は男子部員を一人で相手取る。その間に能代ちゃんが風紀委員達に連絡してきて道場に向かってあの状況で取り押さえて今に至る…、よくもまぁただの練習スペースの取り合いでここまで大事になったもんだと感心しちゃうね。私体育会系の部活は入ったこと無いから分かんないや」


 足をプラプラさせながら湖宮が説明した内容は、まさにこの一件の全てを完璧に把握していると言えるものであった。俺はこの事件の真相を喋ってしまいそうな関係者に対してはある程度の予防線を張った筈だった。その為にわざわざ能代を見送った後に女子部員を帰らしてあるのだ。つまり、この話は能代か男子部員の取り調べの内容であろう。そのどちらか、または両方であったとしても木ノ崎に喋った内容で押し通せなくも無い。俺は突き付けられた真実に心の中で舌打ちをしながら、あくまで顔には出さないようほくそ笑み木ノ崎にしたように湖宮にも反論しようとする。


「誰が言ってた調書の内容かは知らないが」


「その調書は間違いだ、能代だったら俺のために平気で事実を曲げるし男子部員は恐喝しておいたから俺の言った通り俺を庇う話しかしない。でしょ?」


「……」


 俺が言わんとしている事を先取りして遮る湖宮。何故、そのことを言おうとしているのが分かったのか訝しげに目を細めると、どこ吹く風と調書をヒラヒラさせて木ノ崎の方を見て説明を始める。


「う~ん、たしかにちょっと…ていうか結構無理があるけれど名蔵君からしか話を聞いてなければゴリ押せそうな内容だね。でも残念だな~、この話には三つの見落とし、ミスがあったんだな、これが」


 フフンと得意げに語る湖宮は、随分と堂に入った探偵の雰囲気を醸し出している。すれば、今の俺は犯人。こういう時、窮地に陥った犯人は大体その場から逃げ出したり人質を取ったり、要は他人を使って助かろうとするものだと自分は勝手に考えていて、俺もその例に漏れず何となくであったが頭上の橘に目が向いてしまった。しかし橘は俺と目が合うと、鼻を鳴らして顔を背けてしまう。先程から分かっていたがしばらくはこんな感じだろう。それならいっそのこと俺から離れてくれればいいものをと内心で愚痴ったりしながら、仕方なしと結論付けると、ちょうど湖宮は俺に対してミスの内容を解説する。


「まず一つ目、この話は名蔵君の知らない部分の話があった事。キミは事件の当事者だから道場内で起きた事件に対してはある程度話を作ることができたかもしれない。でもそれ以外の場所で起きた事は話を作ることができなかった」


「……何が言いたい」


 聞き返してはみたが客観的に見ても今の俺は実に滑稽だろう。湖宮がどこまで分かっているかは知らないが、あのタイミングでここに来たのだから少なくとも今回の一件の全容は掴んでいるだろう。みなまで言われて恥をかくのは俺なのにも関わらず敢えて聞くのであるから我が事ながら救いようが無い。


「この調書だと名蔵君は純粋に能代ちゃんとお昼ご飯を食べるために道場に来て、そこで男子部員と女子部員のにらみ合いをしていたのを見たってのが最初の所。この供述でも…まぁ苦しいけど通らなくもないだろうさ。けどね、名蔵君はこれより前、どうして男子部員と女子部員がにらみ合いになったかをこの時点では知らないんだよ。ここで君は頭が良いから、適当な嘘を吐いて周りの供述との齟齬が出るのを危惧したキミはその辺りの話を誤魔化した。この辺はキノの落ち度だね~、この当たりの話を聞いておいてくれれば私達の帰る時間が三十分は早まったんだけど。まぁいいや。とにかく、そこが第一のミスだね」


「…ちなみに俺がその情報を最初から知っていて話してない可能性は」


「0だね。そこが二つ目のミス、名蔵君は物的証拠を一個だけ残しちゃってるって所。あ、勿論指紋とかじゃないよ?そんなの確認する方法も時間も無かったからね。もっと目に見て分かりやすいもの。君は残しちゃってるんだよ」


湖宮が喋っている間に、俺は奴に言われた事について今日を思い返す。今日俺がやったことと言えば、朝の日課、能代との朝練、訳のわからない幽霊との遭遇、そして剣道場でもめたことくらい。大方俺が何か変なものを残しているとは思えなかったが、ふと、先程湖宮が言っていた台詞を思い出す。奴は最初俺の事を乱入と言っていて、そのタイミングは男子部員が平手した後と時系列がしっかりと把握されている。となると、湖宮は俺が道場に来るタイミングを正確に知ることの出来る証拠を持っているという事になる。そんなもの一つしか存在しない。


「…能代の携帯か」


 その可能性に気づけなかった自分が情けなく舌打ち交じりで口にすると、湖宮は良く出来ましたと言わんばかりに明るく話を続けた。


「ピンポンピンポーン。その通り。もうちょっと詳しく言うなら能代ちゃんと名蔵君のCODEの履歴だけどね。名蔵君が能代ちゃんの状況を知ったのは恐らくCODEが来た十一時五十七分頃、そのあとに道場に来たのが十二時前後、相当急いだんじゃない?もしくは案外近くにいたか。でも、それまで君は能代ちゃんの置かれている状況は分からなかった。多分、事情に関しては後から知ったのかも知れないけど…、…いや、違うね。きっと男子部員辺りから全部聞いたんじゃないかな?キノ達が道場に到着するまでに。でもそこで聞いた情報を安易に喋ったら周りとの供述と矛盾が生じる可能性がある…までは考えてたどうかは知らないけど。だから適当な事を言うのを避けてたんじゃないかな」


 多少の違いはあるが、大方合っている。上手いこと誤魔化したつもりではあったが、やはり能代に協力されると隠しきれない。なにせあちらは最初から最後までの当事者だ。当然本当のことしか言わない。さらに、なまじ付き合いが長いだけあって、俺の考えを完全に見透かされている。


 俺が湖宮から目を逸らすと、足元にへばりついていた木ノ崎が彼女に質問を投げかけた。


「少し疑問なんですけど…、名蔵先輩は能代さんからのCODEで道場内の状況を聞いてなかったんですか?何も知らないであんな場所に向かうとは思わないんですが」


「少なくとも名蔵君は何も知らなかったと思うよ。あの文章を見るにお昼を一緒に食べる約束はしていたっぽいけど待ち合わせ場所とか決めてなかったのかな?だから名蔵君は能代ちゃんを迎えに道場下まで来ていたと私は読んだけど、その辺はどうなの?名蔵君」


「……少なくとも、今回の一件には関係ないだろうな」


 面倒がって黙秘の構えをすると湖宮は「まぁね」と軽く流した。どうやら木ノ崎が聞いてきたから答えただけで特に興味のある話でもないらしい。その辺は有難いと思う。俺もそんなどうでも良い事まで根掘り葉掘り聞かれるのは御免だ。


「ちなみに、その能代さんとのやり取りは?」


「やり取りじゃないよ。能代ちゃんからの送信が一回だけ。名蔵君からの返信はナシ。…ていうかこの一文見ただけで飛んでくるとか、どんだけなのさ」


「何かあったのはあの文面を見るだけで明白だった。それだけだ」


「?どんな文章だったんですか?」


「『野暮用ができた、昼は先に食べてくれ』だったかな。確か。…というか名蔵君、今の発言は


あの文章を見て道場に着いてから事態を知ったっていう自白と取ってもいいんだよね?」


 湖宮に薄ら笑いを浮かべながらそう言われて、迂闊な発言だったことに気づく。今のCODEについてうまく誤魔化しきれれば話のペースを戻せたかも知れなかったが、今の話にケチを付けなかったせいで、少なくとも午後になるまでは完全に部外者だったことを認めてしまった。流石は学年主席、俺の足元で枷の如くしがみついている奴とは比べ物にならないくらい厄介極まりない。


「なんすかその文章…、普通の遅刻するときの文章と変わらないじゃないですか。そっから厄介事をイメージするとか、ホントどんだけですか名蔵先輩。まぁ野暮用って言い方がちょっと怪しいですけど…そんなもんでしょ?」


「怪しかったから向かった。それだけだ。…やれやれ」


 俺は肩をすくめながら前髪を掻きあげる。ここまで言いこめられたらもはや足掻く位しかやることが無い。ここまでやったのだから最後まできっちりやりきろうと、俺は半ば開き直って、先程までの供述を多少曲げて話を続ける。


「そうだ、確かに俺は能代からのCODEが来るまでは事情を一切知らなかった。あの文面を読んで、能代に何かがあったと思った俺は道場に向かった」


「だろうね」


「……おぉぉ!スゲー、流石会長!俺が二時間かけて崩せなかった供述を十分弱で変えさせるなんて!流石会長、俺にできない事を平然とやってのける!そこに痺れる」


「だが、それだけだ」


 足元で騒ぐ木ノ崎をぴしゃりと黙らせるように俺は言い切った。テンションが上がってた奴がそのまま固まったのを見て、俺は言い訳を続ける。


「元々の事情を知らなかったからどうした?俺がやったことには変わりはないだろう。俺は能代からのCODEで何かがあったと思い道場に飛んでいった。だが俺が駆け付けた時にはまだ剣道部員同士が睨みあっていた状態だった。そこで俺は道場の使用権で争ってるのを聞いた俺は男子部員に多少稽古と称してシゴいてやろうと思ったら、女子部員の一人が止めに入って来て怪我をさせてしまう。そんな状況になって能代が俺を止めるために…何だったか?明石ってやつだったかなんかを保健室に連れてった後お前たち風紀委員を呼びに行った。その間に多少男子部員もシバいたがな。以上が真実だ」


 俺が欠伸と共に喋り終えると、足元の木ノ崎はげんなりとした表情に、椅子に座っていた湖宮は口角を若干上げながら笑っていた。頭上の存在はどんな顔をしているのだろうか。確認しなくても大方予想はつくがあまり見る勇気がない。目でも合わせようものなら呪われかねん。そんな阿呆な事を考えていると木ノ崎が疲れ切った声で反論をしてきた。


「……いやいや、流石にそれは無理がありすぎでしょ、名蔵先輩。第一、貴方が到着した時点で何も起きていなかったとしたら名蔵先輩が剣を振る理由が無いじゃないですか」


「めんどくさかったんだよ、たかが一日程度の道場の使用権程度でネチネチ言ってくる男子部員が。だからお前らには道場で竹刀を振るよりももっと基礎的な所が足りないから出直して来いってのを分からせてやろうと思ってな」


 鼻で笑いながら口にしたがこの発言だけは流石に心が痛んだ。心にも無い事、とはよく言ったものだ。今度詫びに男子部員には何か持って行こうと思ったりして、話を締める。


「ま、そういうこった。お前が気に入った人間ってのは気分一つで人を蹴散らすような畜生だったわけで、これからは人を見る目をもう少し養うこったな」


「………」


呆然、と言うよりは何か考え事をしているような沈黙の木ノ崎を尻目に、俺はさっさと畳みかけようと口を回す。


「ま、人がなにかする理由なんてそんなものだ。衝動一つで動くのが人間なんだからこんな事だって…ってなんだよ、湖宮。さっきからニヤニヤしやがって」


 木ノ崎の方から顔を上げて話していると、先程よりも明らかに笑いを堪えきれずに口を隠している湖宮と目が合う。話しかけると、口元を抑えていた手で肩にかかった髪を掻きあげるようにしてニヤついた笑みをこちらに向けた。


「いやいや、悪あがきもここまで行くと立派なもんだって思ってただけだよ。こりゃキノも苦戦するわけだ。それにしても粘るねぇ名蔵君。クラスメイトだから多少は君の事は知っていたつもりだったけどここまで強情だったとは。咄嗟の言い訳にしては頑張った方じゃない?」


 あくまでもこちらの勝ちは揺るがないと言った様子の湖宮だった。まだ奴には何かあるのかと不安に思いながら俺は軽口で答える。


「俺が強情だ?冗談はよしてくれ。俺ほど柔軟な人間なんてこの学校はおろか紫咲町全体でもそういないだろうに」


「おや、そっちの否定からするんだ。まぁいいけどね。どの道私はまだ手札を残してるから、その苦し紛れも論破可能なわけだし」


 そう言うと、湖宮は俺に視線を合わせてきた。整った顔立ちで綺麗だとは思うが、気恥ずかしさよりも見透かされそうな目力の方にほんの少し恐れを抱いて俺は鼻を鳴らして目を逸らす。それで満足したのか湖宮は咳払いを一つ、話を戻す。


「さっきの話に戻そうか。私は君が残した三つのミスの内二つを提示した。時系列と携帯の履歴だね。そこを突いたら君は意見を変えた。その機転の良さは驚いたけど、残念ながら君の話は三つ目のミス、証人によって瓦解するのさ」


「証人?それ無駄だって名蔵先輩にさんざん言われましたよ?自分。那賀先輩はどうなっても自分の味方をするだろうから意味はないだろうし男子部員は全員恐喝まがいの事をしたから俺の言った通りに自供をするだろうって」


 考え事をしていた木ノ崎は湖宮に対して口を挟むと、湖宮は呆れたように額を抑えながら話を続ける。


「キノ…流石にそれを全部信じてるわけじゃないよね?まぁそういう所も可愛い所なんだけど……。まぁそういう風にキノが言うならその人たちは証人から除外しよう。でもね。まだ残ってるんだよ。名蔵君に介入される余地もなく、かつ公正な証言が出来る人がこの学校に一人だけ残ってたのさ。これが三つ目のミスってわけ」


 俺は前髪を軽く弄りながら促されて考える。ミス、なんてものは基本的に他者に言われて初めて気がつくもの。自分で気づける場合はそもそもミスなんてしないものだ。俺は湖宮に言われてそれに気づかされる。彼女は、証人はこの学校に残ってた、と言った。それならば答えは一つしかない。俺の舌打ちと共に湖宮は続きを話しだす。


「分かったようだね。そう、君が能代ちゃんと共に保健室へと移動させた明石結衣ちゃんだよ。他の部員には全員帰らせた際に口止めしたのか知らないけど電話してもあまり協力的に喋ってくれないし、男子部員や能代ちゃんの証言が信用に足らないとしても、この子だけは絶対に公平な立場から証言をすることができる。理由は単純、時間軸を考えて彼女は君と何も話して無いから。いくら君でもなんも接点のない他人が自分の事悪く言う、なんてことは言えないよねぇ。最初は平手を貰ったショックで軽く混乱してたけど十五分もあれば纏まった話が聞けたし、能代ちゃんのCODE履歴と証言を合わせて整合性が取れたから、それを真相として話を進めたってのがこの二時間の話なのだよ、キノと名蔵君の外野でね」


 長々と高説を垂れた湖宮が、さてと椅子から立ち上がって話を纏める。


「今、私は君に三つの矛盾を示した。本件の時系列、能代ちゃんの物証、そして証人。これら全部を覆せるような『真実』を、君に出せるかな?」


 俺は顎に手を置いて考える。口元に人差し指を当てて勝ち誇った笑みを見せる湖宮は、恐らくこの後俺がどんな言い分で逃げようとしても確実に穴を塞げる自信があるのだろう。無い知恵を回しても今の話で聞き苦しい言い訳を続けられそうな場所は一箇所しかなく、しかもそれはワザと言わなかっただろう。わざわざ罠に嵌るような真似をする気も無い。


「そういえば、能代ちゃんから聞いたけど名蔵君が顎を手で擦りだしたら基本的に悪あがきを考えてる時らしいね。話半分に聞いてたけどまさか本当にやるとは。で、どう?何か思いついた?」


 思い出したように喋る湖宮の話を聞いて、俺は眉間に皺を寄せながら顎から手を離す。流石は唯一の相棒。俺の事を良く分かっているものだと感心する。今更であるが、能代が敵に回った場合、俺が勝てる筈はなかったのに随分と無駄な事をしたものだと思う。これ以上は本当に意味がないと、俺は両手を上げて白旗を振ることにした。


「降参だ。これ以上何か言える余地がねぇ。全く…素直に俺の所為にしとけば良かったものを。暇人かお前ら」


「まぁ夏休みに学校来てる程度にはね。生徒会長も大変なのさ。変わってくれない?名蔵君」


「こんな悪童に生徒会長が務まるわけねぇだろ。能代にでも頼むんだな」


 湖宮の軽口に辟易して俺が下を向いて大きくため息を吐くと、足元には未だに片足に引っ付いたままの木ノ崎が真剣な面持ちで地面に顔を向けて考え事をしていた。俺は右足を軽く揺すりながら足元の後輩に早く立てと促す。


「オイそこの引っ付き虫。もう全部終わったぞ。お前の怠惰を生徒会長が全部背負って投げ捨ててくれたんだから後で感謝でもしとけよ」


「そうだよ~キノ。この借りは今度の日曜にデート一回で手を…」


「いやいやいや、まぁそれくらいならいつでもいいですけど。それよりも名蔵先輩に聞きたいことがございまして」


「…まだ何かあるのか?」


 マジで?と言わんばかりの湖宮の阿呆面を見られただけで多少の溜飲が下がったというもので、まだ話があるという後輩に対応をしてやる。これ以上何を聞きたいのか、俺にはさっぱりだったが。首を捻っている間に木ノ崎は聞きたい事を口にした。


「さっきの会長の話で名蔵さんが道場に駆けつけて女子部員を守った理由は何となくわかりました。でも一個だけ分からないのがここまでの証言内容の理由です。名蔵先輩は単純に那賀先輩を守りに行ったわけじゃないですか。そしたら彼女を保健室に遠ざけた時点で目的は達成されたわけでしょう?その後の女子部員を帰らせたのも、あくまでついでだと思うんです。だからここまではいいです。理解できないのは何で名蔵先輩がワザワザ男子部員の罪を被ろうとしたのか?これだけは全く分からない。だって彼らは那賀先輩にあわや危害を加える所だったんですよ?それを庇うのはワケが分からないでしょ?その辺どうなんです?名蔵先輩。ぜひご教授頂ければ」


 何が聞きたかったかのかと思えば、実に他愛も無い内容であった。至極どうでも良い。そんなことを聞いて何になるのか、と言おうとした所で。呆れた笑いを漏らした湖宮が口を挟む。


「この人に限ってそんな理由ないと思うよ。ね、『狂犬』さん?」


「キョウケン?なんですソレ?」


 この流れだといらん事まで喋られるかもと心の中で思いながらも、第三者から見た俺のイメージを聞かせる良い機会だと思い湖宮を制せず続けさせる。


「彼の教室でのあだ名。基本無口だし人寄せ付けない雰囲気があるし、何考えてるか分かんない癖していつも考え事してるような感じだし授業も割とサボったり寝たりしてるのに当てられると普通にすらすら解くし、そもそもサボりを教師陣が注意しなかったりと中々にミステリアスな不良なの、彼。そんでもってそんな彼の事を誰かが『狂犬』って呼び始めたら、これが意外と浸透してね。そう呼ばれてるってワケさ。かくいう私も、今日初めて名蔵君と喋るんだけどね。能代ちゃんから偶に話だけは聞いてたけど、…まぁ百聞は一見に如かずってヤツだったね。因みに名蔵君的にはこのあだ名、不服?」


「どうでもいい。誰が呼ぶんだか知らんが好きにしろ。どうせお前の『歩く自白剤』には勝てないからな」


 鼻を鳴らしてそっぽを向きながら吐き捨てると木ノ崎が噴き出して笑いを堪えようと必死だった。


「ヤ…ヤッベェ……めっちゃツボった…ククッ。歩く自白剤だってよ…これ程分かりやすいあだ名なんてそうねぇだろうよ……ヒヒヒッ」


「キーノー?あんまり笑うと私怒るよー?第一私、そんな風に呼ばれてないし。名蔵君もテキトーなこと言わないでよね?」


「さてね、知らぬは亭主ばかりなりってか」


 煙に巻くような仕草で俺は話を打ち切る。蛇足だがこのあだ名、決して俺が付けたものでは無く、前に偶然風紀委員室の近くの廊下をフラフラしていた際に取り調べを受けて出てきたと思しき男三人がぼやいてた名前である。割と適当に言ったつもりだが、案外本当に陰ではそう呼ばれているかも知れないと思うと、若干気苦労も慮られると言うものだが、どうせコイツはそんな周りの評価を気にするようなタマでは無いだろうと結論付ける。この女ほど神経が図太い奴なんてそう居ないだろう。


 すっかりむくれてしまった湖宮が、じゃあ、と話を切って先程否定した話題を自ら掘り返しだした。


「結局名蔵君には今回の一件で話してた一連の流れに何か意味あったの?私の事そんな風に貶す位なんだからきっと大層な理由があるんだろうなー、私聞いてみたいなー」


 後半は完全に棒読みである。絶対に聞く気なんてなさそうだ。もはやこれは木ノ崎の質問に答えさせようとする体の意趣返しだろう。適当な答えでも引っ張り出させて辱めるつもりだろうか。実に面倒な女である。こんなものにまともに付き合ってやる必要なんて無い。そう思った所で、今度は今の今まで黙りこくっていた橘が暗い声で俺に囁いてきた。


「私も聞きたいな~、咲良がこんな無駄な事で躍起になってた理由。今この場で聞きたいな~。今、この場で」


 嫌味の如く強調されて、しかもそんな呪われそうな声で言われてはこちらとて嫌でも気にせざるを得ない。上下と前方から挟まれ、後方への撤退は恥となるなら、文字通り四面楚歌という奴ではなかろうか。俺は半ば諦めの面持ちで頬を掻きながら確認を取る。


「先に言わせてもらうと本当に大した理由じゃないぞ。それでも聞きたいってのか?」


 この問いかけに、三人とも大きく頷いて。


「是非とも」


「まぁここまで引っ張ったんだしねぇ?」


「聞かせてくれなきゃ、呪う」


 と三者三様の返しで肯定されて、仕方なしと観念して白状する事にした。


「……大会」


「はい?」


あまりに口に出すのも憚られる事の為、決心したにもかかわらず声が小さくなってしまって木ノ崎が聞き取れなかったかのように聞き返してくる。


「だからアレだよ。奴ら来月に大会があるだろ。道場のスペース使用権でこんなに揉めるって事は奴らなりに真面目に取り組んでいただろうし、それが不祥事で出場停止とかになっちまったら可哀想だな…って」


 言い終えても何故かシンと静まり返った風紀委員室。強要されたから渋々話したというのにリアクション一つ無いのは余りにも酷い、完全に晒し者だ。そしてこの部屋の空気は辛すぎる。耐えかねて俺は三人に促す。


「何だよお前ら、そんなに聞きたいって言ったから口を割ったってのにだんまりか。生殺しが過ぎるんじゃないか?笑い所だぞ、ここ」


「………」


「…」


 依然として唖然と言った様子の湖宮と橘、その二人を交互に見ていると突然右足の方がプルプルと震え出した。勿論片足だけなので地震とかそういうものではないし、自身が震わしているわけでも無い。湖宮の登場からずっと俺の右足を掴んで、そろそろ本格的に壊死するんじゃないかと思う程離さなかった木ノ崎が小刻みに震えているのである。


「……クッ」


「?」


先程笑いを堪えていたのよりも明らかに震えが大きい。決壊寸前のダムの如き危うさだ。そしてそれは予想通り四秒ともたず爆発し、木ノ崎は俺の足から手を離し、盛大に床を転げまわった。


「フ…フヒャ、ハハッ、ハハハッ、ハハハハハ八!ヒッヒヒヒヒヒヒハハハハハハ!ヤ、ヤベーよそりゃ!冗談キツイゼ名蔵先輩!ハー、ハー、ハァー…。はぁ苦しい、息続かねぇよそんなの。だって…だってよぉ…フヒヒ。え、先輩。それマジで言ってるんですか?」


「大マジだが?これ以上の理由はない」


「大マジ!これっほど下らない理由でこれ以上の理由が無いなんて言ってのけるんですかこの人は!ハッハハハハハハハ!いやいや、俺に役者勧めるくらいだったら自分が芸人始めた方がまだ儲かりますよこんなの!あぁ、いや。成る程ね!ソレゆえの世捨て人か!合点がいった!アッハッハッハッハッハハハハ!」


 床を平手でバシバシ叩きながらまさに爆笑と言った様を見せる木ノ崎。流石に見かねたのか湖宮が片手で額を抑えながら彼を諫める。


「キノー。床掃除したいならモップ使いなー?君、制服一着しか持ってないんだからあんまり汚れがヒドイと翌日に響くよ?」


「いや、湖宮。そんな止め方で良いのか」


「?」


 何かおかしい事を自分は言ったか?と言わんばかりの仕草に思わず呆れてしまう。えらく皮肉がかった言い方にもかかわらずなんの疑問を持たないとは。なまじボキャブラリーが豊富だと相手を言いきかせる台詞にも違いが出てしまうのだろうか。一応、彼女とはクラスメイトなので友人間での談笑が聞こえてくる時があり、その際に多少ズレた奴なのかという印象を持っていたが、想像以上だ。


 だが、そんな皮肉が大して効いてないのか木ノ崎はひとしきり笑い飛ばした後、息を整えて体を軽く払いながら立ち上がった。奴が地面にへばりついてから、実に十五分越しの起立である。


「いや~失敬失敬。柄にもなく大笑いしちまいましたよ。久しぶりに腹筋いてぇや。にしてもこんな人が本当に『狂犬』なんて呼ばれてるんですか?どう考えても僻みでしょ。あだ名付けた人の。俺なら一発で惚れますよこんなの」


「寄るな、気色悪い」


 俺の方に飛びかかってきた木ノ崎の頭を片手で抑える。木ノ崎の口から工事現場の舗装機械のような声が漏れてきたが顔は笑顔だ。まさか本当にそちらの気があるわけでは無いであろうが初対面の男が飛びかかってくるのは流石に気持ち悪い。俺はそのまま気を取り直して湖宮の方にも感想を聞いてみる事にする。


「そっちはどうだ。噂の狂犬がこんなもんでがっかりしたか?」


 投げやりに聞いてみると、湖宮は口元を抑えて表情を隠しながら一息ついて感情も抑えて口にする。


「さっきと変わらず。百聞は一見に如かずってところかな」


 その言葉がどう言う意味か、までは聞く気にはなれなかった。俺が他人からどう思われていようとそんなのは人の勝手であり、俺が変わる義理もない。せいぜい俺は悪童らしく生きるだけなのだ。


 溜息を吐きながらそう心で締めくくると、木ノ崎は突然思いついたように大きな声を上げて、俺にある提案をしてきた。


「そうだ名蔵先輩、良い事思いつきましたよ~。さっきのポーカー勝負での取り分、俺まだ貰って無いじゃないですか」


「そうだな。別に今から退学申請をしてきても俺は構わないが」


「俺が構いますよそんなの!大体、もう名蔵先輩の計画は崩れたんですからそんな意地張らなくていいでしょうに…」


 やたらとテンションの高い木ノ崎に、俺は若干辟易しながら問いかける。


「じゃあお前は一体何が欲しいんだ?口にするのはタダだが俺が出せる範囲のもので頼むぞ」


「自分の進退賭けた人がなーにホザいてんですかねぇ…。俺が名蔵先輩から欲しいのはー…『名蔵先輩が俺の事を無視する権利』です!」


「……は?」


 木ノ崎が提示した内容が余りにも訳が分からず間抜けな聞き返しをしてしまう俺に対して、奴は駄々っ子のような口調で説明をした。


「だってだって~、こんな風にでも言わない限り先輩ってもう話してくれなさそうなんですもん。俺ってば先輩の事、超気に入りましたよ。ホモって呼んでくれてもいいすよ。な~の~で、これからもすれ違ったり会ったりしたらよろしくお願いしますね!名蔵先輩!」


 なんて、一方的に纏められてしまった。まさか初対面の人間にここまで懐かれるとは思わず、何か裏があるのではと勘ぐってしまうのは俺の悪い癖だろう。もちろんそれは、俺の心が汚れきっているからなのだが、その辺りはコイツに対して申し訳ないと思う。だが、それとこれでは話は別だ。俺はだいぶ疲れた声で湖宮に助けを求めてみる。


「オイ、良いのか湖宮。お前の連れが悪い男に引っかかってるぞ。保護者としてどうなんだ」


 何故だか知らないが、木ノ崎に対してベタベタな態度を取っている湖宮ならきっとこの状況をどうにかしてくれると思っていたのだが、奴の口から出たのは俺の予想とは大きく外れた内容だった。


「う~ん。…まぁいいんじゃない?キノって人に興味は持つ癖に人に寄ってくことはあまりないんだよね。基本受け身な子なの。確かに相手が相手ってのもあるけど…それを差し引いてもキノにとっては良い事だとは思うし、止める理由はないかな。なんだかんだ言ってキノ、人を見る目はあるしね」


 まさかの肯定だった。友人が俺みたいな人間についていくなんて宣ったら基本は止めるだろうと思ったのだが。よもやコイツも木ノ崎を通して俺に嫌がらせでもしたいのか。なんて思考が悪循環しだして、今の俺には正常な判断ができそうも無かった。


「…………気が向いたらな」


 言うことに窮して俺が口から出したのは、灰色の回答。だがこれで十分だったのか、或いはおめでたい頭をしているのか。木ノ崎は拳を握って三秒ほど溜めた後に高らかに掲げた。


「ッ~~~~イーイェェェェイ!勝ーった勝った、大勝利ィ!」


「良かったねキノ。遊び相手が見つかって」


「誰が遊び相手だ。まったく…」


つくづくマイペースな奴らだと心の底から思いながら、俺はふと思い出した事を湖宮に確認する。


「なぁ湖宮、男子部員の中で怪我した奴とかいなかったか?明日以降に響きそうな」


「いや?そもそも怪我なんて誰もしてなかったよ。なんか一人だけ胸と脇の辺りを抑えてた若松君も一度保険室に連れてったらちょっと赤くなってただけで特に外傷ナシって言ってたよ。他はみんな無傷。…え、名蔵君ってもしかして内蔵とかに直接攻撃できるタイプの達人?」


「んなわけないだろ。重傷者が居ないようなら何よりだ。…ああ、そうだ。それともう一つ、奴らの処分はどの程度になるんだ?」


「どうだろうね。これがもし外に漏れたら何かしらの謹慎処分とかが必要かも知れないけど、この学校って隠蔽するのだけは上手だからね~、明石ちゃんの怪我も大して酷くないし、と言っても顔は良くないけどね。跡が一週間も残るような感じじゃないから、…まぁ反省文程度で済むんじゃないかな。内田先生にもある程度非はあるし、落とし所としてはそんなもんだと思うけど、その辺りはどうなの、キノ?」


「でしょうねぇ。女子生徒の方から訴えがあると厳しいかもしれないですけど何とかなるんじゃないでしょうか。てかもし大事になろうものなら権力振りかざしてでも全力で俺が止めますよ」


「それでいいのかお前は…」


 笑顔で語る木ノ崎に若干呆れながらも、一抹の不安も消え安堵の息が漏れると無性に腹の具合が気になってきた。思えば自分は昼を食べようと能代を誘いに行くところだったのだ。それがこんな時間まで引っ張られるとは、随分と回り道をしたものだと呆れ半分、感心半分である。俺は大きく伸びをし、肩を回して骨を鳴らして最後の確認を取る。


「んで、俺はもう帰っていいんだったか?」


 どちらに言ったかは大分曖昧だったが、俺の問いに湖宮が頷いてくれた。


「結局、名蔵君を崩せればこの一件は終わる所まで進んでたからね。君が白旗を掲げた時点でお終い。後はキノ達が頑張って纏めるだろうからもう君の出番はないよ。能代ちゃんが先に終わって待ってるって言ってたから早く会いに行ってあげな」


「…それを先に言え」


 このクソ暑い中、アイツを待たせるなんて言語道断。せめて図書室や自習室などの冷房が効いている場所に居てくれればと願いつつも、アイツの性格的にそんなことは絶対に無いだろうと、こんな自問自答をしている時間すら申し訳が無い。


 俺が鞄をひったくって扉から駆け出すと、後方から木ノ崎が大声で何かを言ってきた。


「名蔵先輩!約束、忘れないでくださいよ~!」


 それに対して俺は、何か返事をしてやる余裕もなく左手を振るだけで風紀委員室から走り去った。


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