第8話

あれ以来エリックは相変わらず無愛想でいる。この話題が俺たちの間にのぼることも無くなった。エリックは調査官としての仕事があったからちょくちょく出かけていたが、俺はまだ調査官でないので、英語の勉強をしたりドラマを見たりしていたが、一日中暇な時もあった。エリックはまだ自分の家に他人がいるのが慣れないのか、家に3日も帰らないときもあったが、そういう時はチャックが無理やり連れて帰ってくれた。


「こいつ、いっつも図書館に篭ってるからなぁ。気がついたら図書館で死んでそうだ…」

青い顔をした弟がチャックに担がれて立っていた。ぼそぼそと何か言っているが、よく聞き取れない。チャックからエリックを受け取ると、そのままチャックを引きとめて、一緒に夕食をとったりもした。一日中暇な俺には、以前から興味があった料理ぐらいしかやることがなかったので、この三週間でメキメキと上達した。味を占めたチャックが、元気なエリックを連れて帰ってくるほどには。そうして、エリックと時々チャックを交えた俺の英国生活は順調に進み、現在へ至る。


気がつくとパディントン駅を通り過ぎていた。エリザベスタワー近くの駐車場へ、エリックから借りた緑のミニを停める。車から降りて人目を避けながら『うなじ』へと向かった。


11月のロンドンはかなり寒かったので新しく買った手袋をつけた。服を薄手のダウンから短いコートに変えてもなお寒い。吐く息が白くなるのを見ながら歩いていると、『うなじ』の玄関が見えてきた。正面へ立って、ジェイに言われたことを思い出す。

『ここは一応政府認可の組織だ。一般人が入れないように小細工がいっぱいされてある。正面玄関についたらこういうんだ、忘れたら入れないぞ、いいね?』

何度も念押しされたので忘れなかった、だが発音に自信が無い。英語はともかく、ラテン語は……

とにかく言ってみよう、と咳き込む。

「……インノーミネ、パトリス、エトフィリィ、エトスピリタスサンクトゥ」

たどたどしい発音で福音を唱える。扉は沈黙を守っていた。思わずため息をつく。

(…やっぱりか)

分かっていたことだがいざ拒否されると、思ったよりショックだった。自分の英語が伝わっていたのでいけるだろう、と変な自信を持ってしまったのがいけなかったのだろうか。助けを呼ぶためにエリックに電話しようとすると、急に扉がぎぎぎ、と音を立てて開いた。

「…おおお………」

感嘆の声を上げて扉が開くのを見つめていると、人影が見えた。

絹のようなセミロングのブロンドに、海のような瞳、俺よりもタッパのある美形。

「……エドガー」

名前を呼ぶと、にっこりと惚れ惚れするような笑みを返された。

「お久しぶりです、ケイ。」

「あ、ああ。お前が開けてくれたのか?」

「はい。マクレーン監査に『まだ一人で開けられないだろうから、助けに行ってやれ』と言われましたので。」

未来の上司からの言葉にがっくりと肩を落とした。

「…じゃあマクレーン監査は最初っから分かってたんだなー………俺が開けれないの」

「初めは皆さんそうですよ!心配しないでください。これから何度も唱える機会がありますから!」

輝かんばかりに美しいイケメンが慰めてくれてる。

「……ちょっと泣きそう……」

「え!?大丈夫ですか!?」

エドガーの優しさに涙しながら、俺は本部へと入っていった。



「Good morning,Key.気分はどうだい?」

目の前には相変わらず美しい老婦人が、細身のダークスーツに身を包んで座っていた。長いグレイヘアを肩に流し、緩やかな笑みを浮かべる彼女が今は憎たらしく見えた。

「Good morning,sir.…最高ですよ」

「そりゃあ良かった。これからもラテン語の勉強に励みなさい。」

にこにこと皮肉る姿は、ステレオタイプなイギリス人像にピッタリだった。イギリス人はもしかしたらみんな毒舌かもしれない。エドガーはキョトンとしているが。


「…で、君の弟は?」

ジェイに聞かれてギクリとなる。

「………寝てたので、その…置いてきました」

そう返事すると、ジェイはますますその笑みを深めた。これはまずいかもしれない。

「…ほう?あのキャンベルが、寝坊だって?」

「はい……」

冷や汗がダラッダラだ。ジェイの微笑みが心なしか怖い。命令違反にあたるだろうか。捻りに捻った皮肉が飛んでくることを覚悟していたが、

「え、エリックが寝てるんですか!?」というエドガーの言葉によってそれは免れた。

「…テイラー」

「すみません、でもあのリッキーが、眠ってるなんて!凄いことですよ!?」

目を輝かせるエドガーとは正反対にジェイは顔を覆った。子どものように喜ぶ彼を見て怒る気力も失せたのだろうか、ジェイは話題を変えた。


「キャンベルのことはひとまず置いといて……今日は君の認定日だ。これから、我ら英国超常現象機構の調査官に所属する君のために、いくつかのマニュアルを用意しておいた。」

そういうとジェイはエドガーに目で合図した。エドガーが何か資料のようなものを俺の目の前に出した。目の前に高く積み上げられた本へと目を通す。

「…『英国超常現象機構調査官専用書』、『怪異及び未確認生命体に対する行動指南書』、『緊急事態対応について』、……聖書?」

それぞれのタイトルを読み上げると、エドガーが咳払いをして、

「これは調査官になるための必要事項です。」と言ってくれた。

ジェイが頷いて続ける。

「調査官は、いわゆる『人ならざるもの』に対処していくわけだ。もちろんその中には攻撃的なものもいるし、君があったセイレーンのように神話に載るような強力な怪異もいる。とても危険な職業なんだよ、これは。」

ごくりと唾を飲む。改めて言われると確かにそうだった。

俺は先日も危険な体験をしたけれど、あれがこれからずっと続くことになるんだと思うと、肝が冷える思いだ。

「…だが命の危険に晒されるのは、我々調査官だけではない。民間の人々もそうだ。だから我々調査官は、怪異に対して正しい知識をもち、適切な対応をとることが望まれている。…そのマニュアルを読むことは、命を守ることと同じなんだ。」

目の前に置かれた本を見る。どれも分厚いものだったが、それだけ知識が込められているということだ。生存率を上げるにはひたすら調査と研究をしなければならない。

…『調査官』というだけある。

ジェイのブラウンの瞳を見つめる。

「……これを覚えるのはかなり大変だ。しかも実際に使える例は数少ない。それでも?」

「もちろんやります。」

そう答えるとジェイが微笑した。それを合図にエドガーが資料をもって俺に近づいた。

「では私についてきてください。この資料の説明と使用方法をお教えしますね」

エドガーがにっこりと微笑む。軽く会釈してからエドガーについて部屋を出ようとすると、ジェイにstopと引き留められた。

「はい、何ですか?」

「……ケイ・タキザワ。」

そう言うとジェイは押し黙った。薄い唇が開いたり閉じたりを繰り返している。やがて観念したように目を閉じると、

「…………あの子を、押し付けて悪かった」

そう言ってジェイは俺に背を向けた。

その背中を見ることなく、俺は部屋を出た。

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