ヴァンピール―魔物の眷属

駿河 明喜吉

1.薫る夢の中で

 ああ、これは夢だわ。


 ショーコ・Aは、一面を白の闇に染め上げられた霧景色を眺めながら、ぼんやりとそう思った。

 身にまとっているのは、床に就く前に着ていたお気に入りのパジャマ。真っ白いワンピースのすそを縁取るように控えめにあしらわれたレース、ゆったりと膨らんだそでが、手首のあたりでキュッと締まっていて、手の甲を大ぶりなフリルが飾る。


 ショッピングモールの中に入った店でマネキンが着ていたのを見て一目惚れし、共にいた母に一生のお願いを使ってまでおねだりしたそのパジャマは、すべて綿で出来ていて肌触りがよい。学校から帰ってくるなり、ショーコはすぐさまこれに着替えて、夕飯までの時間をベッドに寝そべりながらお気に入りの小説を愛読するのが最近の何よりの楽しみだった。


 秋つ方の夜。吹く風にさらされる肌が些か肌寒さを感じさせる季節。

 ふと下に視線を落とすと、自分の足は何も履いておらず、冷たく渇いた大地の感触がじかに伝わってくる。


 ここはどこかしら……少し寒いわ。


 ショーコは、そっと両腕をさすりながら、ふっと白い息を吐いた。

 一メートル先も定かではない霧の中、彼女は今しがたまで潜り込んでいたベッドの温もりを求めて、ふらっと歩き始めた。

 右も左もわからないまま、ひとけのない夜霧の中を彷徨う様は、ホラー映画のワンシーンを彷彿ほうふつとさせ、さながら彼女は映画のヒロイン役である。よくある展開ならばこの後、霧の奥深くから仮面をつけた殺人鬼がナイフを振り上げて襲い掛かってきたり、黒衣の怪人が現れて異世界へと連れ去ってしまうのだろう。けれど、現実(とは言っても夢の中なのだが)は思いの他に平穏であった。うら若き乙女が深夜、このような寂し気な道を一人で歩いていても何も起こらない。それどころか、周囲には人の気配など一切しないのであるから、彼女を連れ去る者もいないのだ。


 ひたひたと、柔らかな足の裏が大地を踏みしめる音が微かに耳に滑り込み、それがなければ虫の這う音すら聞こえてきそうな閑寂かんじゃくとした世界が展開されている。

 まるで死の懐に紛れ込んでしまったかのような静寂に、ショーコは段々と心細さを感じてきた。夢だと理解していても、このままどこにも辿り着くことが出来ず、夢から出られないまま永遠に歩き続けなくてはいけないのかしら、と不安にならないではいられなかった。

 霧はというと、薄くなるどころかより一層深さを増している。辺りはすっかり白一色だ。左右どころか、上も下も定かではなくなるような感覚に足元が覚束なくなる。


 そうしてどれくらいの時間が過ぎただろう。ふと、ショーコの鼻腔を微かに触れるものがあった。

 とてもかぐわしい、梔子クチナシのような香りだ。深く吸い込めば、脳の芯がじんわりと温かくなって、眉間の奥の方がくらくらとした。心地の良い眩暈めまいを覚え、ショーコは一瞬立ち止まる。


 あら、素敵な香りだわ。一体どこから香ってくるのかしら……。

 ショーコはうっとりと梔子の香りを吸い込み、匂いの漂ってくる方向を探した。この匂いを嗅いでいると、頭がぼんやりしてきて、孤独による恐怖など一気に解消されてゆくようだった。

 どうしてもこの香りの傍へ行ってみたくて、彼女は再び歩き出す。その歩調は先ほどよりも急いていて、霧に取り囲まれた世界に大地を蹴る足音が響き渡った。


 視界が鮮明でない恐怖などすっかり忘れてしまったかのように、ショーコの歩幅は段々と広くなり、気が付けば腕を大きく振り、激しく息を切らしながら走っていた。

 近付いてくる香りが肺腑はいふを満たし、込み上げてくる幸福感に促され、全身の細胞がその匂いを求めて声を上げる。

 どうして自分は走っているのだろう、どうしてこの香りに強く惹かれているのだろう……ショーコは、己の理性の外で激しい欲求に悶え苦しむ本能の幻影を見たような気がした。


 頭が痛い。必死に走り続けてしまったせいなのだろうか?

 真夏の太陽の下で、思いっきり汗をかいた日の夜のような耐え難い頭痛。

 血液が太い血管を流れて全身に回る度、側頭部がずきずきと音を立てて痛んだ。


 彼女は頭を押さえながら走り続けた。時折足がもつれて転びそうになりながらも、なんとか堪えて、ただ前進することに努めた。

 その瞬間、ショーコはこの一呼吸のうちに見た光景に、新鮮な既視感を抱いた。

 以前にも夢でこの香りを追いかけて、彷徨さまよい歩いた記憶があった。以前、というほど昔ではない。……昨日だ。彼女は昨日も、同じように深い霧の中を一人で歩き、同じ香りを辿って走っていた。

 ……否、昨日だけではない。一昨日も、その前の日も――何日も前から、彼女は夜眠りに就く度に、同じ香りを辿ってこの濃霧の中を歩いていた。


 ああ、私ったら、今日も同じ夢を見ているのね。

 疲労と酸素不足で朦朧とする意識の中心でそんなことを考えていると、今まで以上にその香りは強くなり、それに伴って、耳の奥できぃぃぃん、と耳鳴りがした。


 耳鳴りはあまりにも大きく、脳を揺さぶるほどに重々しく響いた。思わず足を止めないではいられなかったが、彼女の足は尚も前に前にと進み続けた。己の意思では立ち止まることを命令しても、身体はそれを無視して前進する。

 まるで催眠術にでもかかったみたいに、己の意思が通常の状態から遠退いてゆくようで――ショーコは異様な不安を覚えた。

 浅い呼吸を幾度も繰り返す度、一緒になって香りも吸い込む。一呼吸、二呼吸と吸い込んでゆく度に、甘い香りが全身を溶かして、胸が熱くなるような気がして、やがてはそれが心地よく思えてきて、後戻りを考えることはなかった。


 もう、とても走れないわ、とその場に立ち止まって息を整えている間、梔子の香りはショーコの周りを取り囲むかのように濃くなり、視線の先にある無限の靄の先へ向かって「このまま真っ直ぐ行きなさい」と指をさしている幻まで見えてくる始末。

 まだろくに息も整わぬまま、ショーコは再び前進した。今度は走らず、全身を引きずるような感じで、はやる心に抗うかのような足取りで一歩一歩進む。


 やがて息が落ち着いてくると、コクン、コクン、脈拍が控えめなノック音のように響き、音一つ存在しない霧景色の中を横切ってゆく。


 ふいに濃霧が薄れた。微かに吹いた風によって流された靄の先には、闇の中にぼんやりと浮かび上がる赤い血のようなものがポツリ、ポツリと辺りに散らばっていた。目を凝らしてよく見てみると、それは、真っ赤な薔薇だった。


 ショーコはいつの間にか周囲を薔薇に囲まれた庭園のようなところに迷い込んでいた。先に道はなく、背後には今まで自分が歩いてきた一本道がずっと遠くまで続いているばかりであった。道の左右を深い常盤木ときわぎが群れを成して、視界のほとんどを濃い緑が埋め尽くした。


 徐々に頭痛が収まり、激しい息切れからも解放されると、彼女は一番近くに咲いていた薔薇のもとへ、何気なく近寄ってみた。


 あら……?


 ショーコは、不思議そうに辺りを見渡した。ここに咲いた真っ赤な薔薇たちは、もれなく全て手折られ、深くこうべを垂れていたのだ。

 どうしてかしら、勿体ないわ。こんなにきれいに咲いていたのに。


 ショーコが折られた薔薇の一つに手を伸ばしたその時、あの深く馨しい香りが噎せ返るほどの強さを伴って彼女の鼻を突いた。

 薔薇の香りではない。もっと穏やかな――なんとも筆舌に尽くしがたい、心地の良い香りだ。抗いようのない安心感に包まれているような感覚になる。

 ショーコは、誘われるようにして、香りのする方を振り返った。

 その先には見知らぬ男が立っていた。いつからそこにいたのか、まるで煙のように音もなく現れ、運命の導きによって視線が絡み合ったうら若き乙女の顔を、さながら愛おしい者へ向ける優しげな瞳で見つめている。


 ショーコは、熱烈とも言えるその眼差しを受けて、胸の高鳴りを覚えるとともに、全身の力が徐々に抜けてゆくような感覚に襲われた。


 男は、夜の海のような漆黒の髪を緩やかに波打たせ、病的な、それでいてどこかミステリアスな魅力のある青白い顔に、宝石のような赤い瞳を二つ、影が落ちるほどの高い鼻梁、紅を引いたように赤い唇を乗せ、その美しい造形を隠すようにして長く垂れ下がった前髪がこれまた浮世離れした艶っぽさを演出する。


 まるで人気のステージに立つ役者のような整った顔の一方、その身にまとう布はお世辞にも上品とは言い難く、よれた薄手のカッターシャツにダメージ加工過多な黒のレザーパンツ、足元には重そうな革のブーツを履いて、袖口から覗く白く頼りなげな手首には古い腕時計を巻き付けていた。

 まるで路地裏の悪ガキみたいだわ、という第一印象が持ち上がりつつも、ショーコはこの異様な風体から滲み出る不可思議な魅力に目を奪われないではいられなかった。


 静寂を人型にしたような女性的な美しさの一方で、それらとは相反するように燃えて煌めく双眸が、激情を含んだ熱っぽい潤みを帯びてショーコを見つめている。

 まるで、将来を誓い合った愛しい恋人同士のような視線の交わりに、ショーコは焦がれるような激しい愛おしさを感じた。


 見たところ、背丈はどちらかと言えば小柄な方だが、痩せた体系に、肩を開いたような立ち姿ゆえか、それほどその点が印象深いとは思わなかった。

 物静かな顔立ちの中に、喜びとも悲しみともつかぬ曖昧な表情を浮かべながら、男はただただショーコに熱い視線を送り続けた。


 どうやらこのうっとりするような香りは彼自身から放たれているようで、一歩、また一歩と彼が近づいてくるたび、その香りは強さを増して、ショーコの頭を甘く、優しく抱きしめた。


 彼は目の前で立ち止まると、荒れたなりとは裏腹に、人の良い笑みを浮かべて、「よく来たね、ショーコ」と言った。

 女性的な見た目のわりに、彼の唇が紡ぐ声音は耳に心地の良いバリトンで、ショーコはくらっ眩暈を覚えた。開いた口から覗いた四本の犬歯が、人間にしてはやや鋭いな、などということにも気が付かぬほど、彼女の注意力は散漫になっていた。


「どうして私の名前を知っているの? あなたは誰?」

「俺はずっと前からお前のことを知っていたよ。ショーコ、俺の名前を知りたい?」

「ええ、是非、教えてくださらないかしら?」


 もっともっと、その喉が奏でる美しい声を聴きたくて、すがるように懇願こんがんする。

 彼は、己が大層熱心に求められるものだから、つい気を良くして微笑などをもらしつつ、上品に口を開いた。


「俺はエドワード・モーリス。お前がここに来るのを、ずっと待っていた」


 エドワードはそう言い、ショーコの両手をとって、己の胸の中で握りしめた。その掌の冷たいことと言ったら。ショーコは雪だるまにでも手を突っ込んでしまったのかとびっくりして、肩をびくつかせた。


「まあ、なんて冷たいのかしら、あなたの手。まるで氷だわ」

「ああ、ごめん。つい。俺は白くて美しい、小さな手を見ると、どうしても触れてみたくなるんだ」


 エドワードは形の良い眉を八の字にし、彼女の手をパッと放した。

 ゾッとするほど冷たく、さながら死人を思わせる手であったが、ショーコは何故か、彼の手が自分から遠ざかってゆくのが寂しくてならなかった。思わず後を追うように浮かせた手にはっとして、照れたように後ろに隠す。


「ねえ、エドワード。ここにある薔薇はみんな首が折れてしまっているのね」

 照れ隠しにと選んだ話題だ。不思議そうにショーコが言うと、

「ああ、そうさ。俺は薔薇が苦手だからね」

 と、エドワードは自分たちを取り囲む薔薇たちを冷めた目で見渡しながら頷いた。

「あら、そうなの」

「ショーコは? 薔薇は好き?」


 彼が伏し目がちにそう問えば、長いまつ毛が下まぶたに濃い影を落とした。まるで天上の画家が手掛けた肖像画に描かれた人間のような美貌に、一気に頬が熱を持つ。


「嫌いじゃないわ。けれど私が一番好きなのは、ジャスミンの花。家の近くの公園にたくさん咲いていて、今の時期なんかは風が吹くととてもいい香りなのよ。部屋の窓を開けておくと、部屋中がジャスミンの香りに包まれるわ」


「そう。俺もジャスミンは好きだ」


 柔らかく微笑んで彼女に同意すると、エドワードはまだうっすらと霧のかかった景色の中を、すっと指さして、

「行こう。向こうには君の好きなジャスミンの花がたくさん咲いているんだ」


 誘いの言葉に首を振ろうという意思など存在しなかった。

 ショーコはまるで彼の美しさに自由を奪われてしまったかのように、夢見心地で「ええ」と一つ頷いた。


 その瞬間、白い霧に沈んでいた景色が、深い海の底を思わせる暗黒に飲み込まれた。

 首の折れた薔薇も、辺りに立ち込めていた霧もすべて消え失せ、ただ、目の前の美しい男と、息苦しいまでの甘美な香りだけが唯一の変わらないものとしてショーコの傍に寄り添っていた。


「ショーコ」


 エドワードはそっと手を差し出した。


「さ、俺の手を取って。向こうへ行こう」


 死人のように冷たいその手。

 ショーコは白光でもしているみたいに白い彼の手に、自分の温かなそれを重ねた。

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