彼岸より

雪風摩耶

本作は夏目漱石作『夢十夜 第三夜』より着想を得ました。


 

 いつか、どこかで嗅いだ匂い。

懐かしい。

何の香りだったろう? いつか確かに嗅いだ香り。

そう、蓮華、蓮華の香り。

華やか過ぎず、落ち着きがあって、それでいて土の香りも混じる。

春の田んぼでよくこの香りに包まれた。

 私は蓮華の花のいっぱいに咲いた田んぼの中に佇んでいる。

実家の田んぼ、家から歩ってすぐのところにある、子供のころよく遊んだ田んぼ。

でもなぜ、私はこんなところに立っているのだろう?

ああ、そうだ。もう一月も前から家に帰ってきているのだった。

そして子供のころを懐かしんでここへやってきた。


そうだったかしら。


いつか、どこかで聞いた音。

懐かしい。

なんの音だったろう? いつか確かに聞いた音。

そう、せせらぎ、川のせせらぎの音。

騒がしいわけではなく、無音でもなく、それでいて心の奥深くに染み込む。

夏になると、川に足までつかり、この音に耳を傾けた。

 私はどこまでもどこまでも深い透明色の音のする川の辺に佇んでいる。

実家から見下ろせる川。田んぼの脇を流れる川。

でもなぜ、私はこんなところに立っているのだろう?

ああ、そうだ。さっきまで田んぼで遊んでいて、ここまで駆けてきたのだった。


そうだったかしら。


私は白いワンピースを着ている。子供のころのお気に入り。誕生日に母に買ってもらった、とても大事なワンピース。

私はあのころから比べたら、ずっと大きくなってるはずなのに、この服は今でも私にぴったり。

なぜかしら。


 さわさわという川の音に混じり、不可解な音が聞こえる。

何だろう?

声?

赤ん坊の泣き声?

なぜこんなところで赤ん坊が泣いているのだろう?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る