第22話 メエルシュトレエム(大渦巻)

 よせてはかえす、さざなみの音がしています

 海風がおしよせるたび、砂浜すなはまに上がった藻(アナアオサ)から、いそのニオイが鼻腔びこうみ入ります。

 サーとしおが引くと、ころあいを見計みはからっていたコメツキガニが、巣穴すあなから走りだしました。ちっちゃな甲羅こうらすすけて見えるのは、太陽たいようがまぶしいからではなく、もとからです。

 くぐもった音鳴おとなりは、かいがらを当てているように反響はんきょうします。現実感げんじつかんのとぼしい貧弱ひんじゃく耳触みみざわりと、った超微粒子ちょうびりゅうし液体えきたいみたいな青空。透明とうめいかいがらに閉じこめられているような、やわらかな圧迫感あっぱくかんにつつまれ、もやもや、くらくら、イデアいをさそいます。

 ときどき、ボヤケたモザイクに変じる砂浜すなはま

 しばらく、またされます。形がさだまると、マメつぶほどのすなダンゴが、巣穴すあなから放射状ほうしゃじょうらばっていました。

 なみしよせると、かいがらがゴロンところがり、小さな生きものの住処すみかに水がちます。くりかえし、くりかえし、やってきては、またかえってゆくのでした。


 スティーブンソン原作げんさく宝島たからじま制作委員会せいさくいいんかいによる、長編冒険活劇ちょうへんぼうけんかつげきアニメ「宝島」。今ホルスは、それを見おわりました。アニメと原作げんさくは、じゃっかんことなる部分がありました。アニメでは、地元じもと郷士ジェントリトレローニは女性で、医師いしのリブシーは黒人でした。

 彼は個別認証こべつにんしょうのない格安かくやすカンオンの、ニオイつき立体映像ホログラムを、かた手をはらってけました。コマーシャル動画どうがに切りかわり、5びょうまってから、わざわざ口頭こうこう停止ていしさせました。

 お兄さんのダイに買ってもらって、さいしょはウキウキのホルスでしたが、今やありがたみも消えうせ、はやくもそれを、ウザイと感じるようになっていました。

「ちゅん、ちゅん。ちゅん、ちゅん」

 電話でんわが、かかってきました。

「今、ヒマか?」

 ダイからです。

「うん。ヒマ」

「ちょっと、たのみたいことが、あるんだ」

 ホルスはダイにいわれたとおり、テンジン一丁目いっちょうめまでトーキン・メトロにゆられ、おつかいにいきました。

 くすりクサイまちにおり立ち、カンオンのナビをたよりに、雑居ざっきょビルへとみちびかれました。とちゅうまでしかないエレベーターをおりると、カンオンの明かりとともに、せまい階段かいだんをのぼっていきます。なにもない殺風景さっぷうけいなフロアの、のっぺりとしたドアに行当いきあたりました。

 全体がクリーム色でボタンが黒の、古くなった呼鈴よびりんをおしました。押幅おしはばあさく、音もなっている様子ようすがありません。どうせ、だれもでてこないだろうと、油断ゆだんしてると、ぬっと横顔よこがおが出ました。

 隙間すきまからのぞいたのは、ぐせに、うすい無精ぶしょうひげの男でした。やや口臭こうしゅうがあり、ホルスには、なじみのない食べもののニオイがします。まだわかいはずですが、子の彼にはオジサンに見えました。

 男はホルスを見ずに、彼の後ろを、うかがっています。のびをして目を細め、階段かいだんの下に注意ちゅういはらい、せわしなくキョロキョロしてから、あらためてホルスを見ました。値踏ねぶみするよう、上下を往復おうふくしました。

「ちっ」

 と、舌打したうちちしてから切り出します。これは他意たいのない、話しはじめる時の、彼のクセでした。

「これ、もってって」

 半袖はんそでをめくった、ワキ毛のチラつく片腕かたうでだけ出し、なにかをわたそうとします。反射的はんしゃてきに手をだすと、こうに当たって落としそうになり、グシャッと指先ゆびさきでキャッチしました。

 どっと冷汗ひやあせが出るホルス。視線しせんをもどすと、男はかおを引っこめた後でした。

 カラッポみたいにかるい、たたんだ茶封筒ちゃぶうとうでした。ほんのわずかな紙のようなあつみと、ナットかワッシャーのようなデッパリが、手ざわりで確認かくにんできました。

 みょうな緊張感きんちょうかんぎさって、もう用事ようじはすんでいました。三秒さんびょうほどドアを見つめた後、ホルスはきびすをかえしました。




 感覚的かんかくてきには昨日きのうですが、今日の未明みめいあたりから、エリゼは、あわただしくなってきていました。解放区かいほうく(学校)の大人たちが、契約時間外けいやくじかんがい召集しょうしゅうされ、待機たいきしていました。今からお客様きゃさまがやってきます。カンオンのヘルスチェックでは、大人たちの心拍数しんぱくすう血圧けつあつは上がり、サーモグラフィは、体は赤く、かおは青く、うつしていました。できればけたい来訪らいほうでした。

 最低限さいていげん生体反応せいたいはんのうをのぞき、カンオンの同期どうきがプッツリ切れたこで、四人の子たちは、行方不明ゆくえふめいというあつかいになっていました。カンオンがアラートをならし、関係者かんけいしゃ通達つうたつ通知つうちがいきわたりました。

 まっ先にかけつけたのは、心の医師いしと体の医師いしのそれぞれ二名ずつ、看護師かんごし四名のけい八人でした。それにジュリの母親ははおやと、ややおくれてニコライの両親りょうしんもやってきました。ほどなく、警察官けいさつかん二名と市役所職員しゃくしょしょくいん二名が到着とうちゃく。マリの母親ははおやがやってきて、さいごに二名の刑事けいじもくわわりました。

 すべての関係者かんけいしゃのPTSD対策たいさくとして、クララン社会保険協会しゃかいほけんきょうかいから、二名のカウンセラーも派遣はけんされました。こころの対策たいさくは、なにも当事者家族とうじしゃかぞくにとどまりません。今や常識じょうしきとして、当局者側とうきょくしゃがわにも配置はいちされました。解放区かいほうく警察けいさつ行政ぎょうせい医療従事者いりょうじゅうじしゃ、それに当の本人カウンセラーたちも対象たいしょうになります。もっと大きな事件じけんともなると、カウンセラーのカウンセラーが、マトリョーシカのように、歌のように、つつみこむように、増殖ぞうしょくするのでした。先々の先せんせんのせんをうち、もっとも守ろうとしているのは、加害者かがいしゃであらぬことの、わが身の人権じんけんでした。

 エリゼのTrustee(s)は、いつも不在ふざいでした。トラスティーは受託者じゅたくしゃという意味いみで、数名すうめいいました。校長先生こうちょうせんせいではなく、いわゆる理事りじというか、まあ学校法人がっこうほうじんとかの、えらばれた複数経営者ふくすうけいえいしゃみたいなものと思って下さい。一人のサブ・トラ (副理事、これも記載上数名いる) が一番あとにやってきて、手のひらにあせをグッチョリかいて、対応たいおうしていました。

 カンオンの仕事しごと(情報収集、状況分析と判断、最終決定)が、人の仕事しごとに対して確率的かくりつてきにまさっているのは、周知しゅうち事実じじつでした。なのに、なんでみんな早々とやってきたのかって? たしかに、まだ人手はいりません。ざっくりいうと、話合はなしあい談合だんごうのためです。アリバイとして、おもに当事者マイノリティーと、用心ようじんのために当局者マジョリティーもなぐさめ、みんなでりそい合うためです。事後じご、いかに有利ゆうりなヒガイシャになれるか、その布石ふせきをおくためです。かかわってしまうものは、そのつど、そのつど、おたがいの利害りがいグループに分かれ、ヒソヒソ話をしていました。多文化共生たぶんかきょうせいにもとづいて、全体で話し合いをもつことは、まれでした。もちろん、未成熟はんにんまえな子××には情報じょうほうは、ふせられたままでした。


「メイワクをかけて、いなければいいが……」

 ニコライの父親が、ぽつりといいました。

「なにいってんの、人命救助じんめいきゅうじょが先でしょ!」

 母親が食ってかかりました。

人命じんめいって……まだ早いだろ。事故じこがおきたら、それこそ、とっくに分かっているはずだろ」

「どこにいるか、わからないのよ」

正確せいかく位置いちがわからないだけで、生態反応せいたいはんのうはあるんだ。台風たいふうもきてないし、うんもいいことに、ずっと晴れがつづいている。それに、みんなといっしょだ。きのうの今日で、一日しか立ってないんだから、まだまだ、ぜんぜん、だいじょうぶ」

「なにいってんの、その正確せいかく位置いちが分からないのが、いちばん問題もんだいなんじゃない。なんの保障ほしょうもないでしょ」

「……」

 彼は、コトバにつまります。

生体反応せいたいはんのうがある場合の生存率せいぞんりつは、ほぼ99%って、みんなしってるだろ」

「どんなケガをしてるか、わからないじゃない。のこりの1%だったらどうするの!」

「どっちの可能性かのうせいも低い!」

「どうして、そんなことがいえるの!」

確率かくりつ……」

絶対ぜったいじゃないでしょ。保障は?」

「……」

 そんなもん、あるかよ。と思いつつ、また、だまりこんでしまいました。

「……やっぱり、ムリがあったんだ。だから、ここに入れるのは反対はんたいだったんだ」

「なに、きゅうに話題わだい変えてるの。今さらなに? あなただって、同意どういしたことでしょ」

 彼女は、あきれがおでいいました。

「してないよ。したところで関係かんけいなかっただろ? 君が強引ごういんし切っただけだ。それに、どうせ自分のしたいこと、するだけなんだから」

「なんで、そんなこと今さら言うの? 卑怯ひきょうよよ」

「すくなくともニコライの意志いしじゃなかったろ? イヤがってたんだからな。君の願望がんぼうなんだよ。うちの子は、その気になりさえすれば、人なみに、なんでもできますっていう」

「けっきょく努力どりょくしたって、ムリなものはムリ。できないものは、できないんだ。みんなに、他の子に迷惑めいわくかけてまで、やることはなかったんだよ」

「そんなこと思ってません。かってに一人でめつけないで。ちゃんとみんなで話し合ったでしょ? こちらがキチンと対応たいおうしてくれるっていう、了解りょうかいがあって、入れたんですからね」

「ね、そうですよね」

「――え? ハイ」

 ビクッとなる、キャッチャー(教師)のシュザンヌ。

「ほら、おとうさん。ちゃんと話し合ったじゃないですか(笑)」

 しどろもどろにこたえます。他のアルバイトを休み、今までオーラを消していました。

「そりゃ、そういうよ。ショーバイなんだから。オレでもいうよ」

 苦笑にがわらいするシュザンヌ。

「口でなら、なんとでもいえるさ。そういことじゃなくって、わざわざ高い金はらってまで来る価値かちが、ニコライにあったのかが問題もんだいなんだ」

「アナタはむかしっからそうね。お金のことばっかり」

「よくゆうよ、自分だろ!」

「あたしだって、お金はらってるんですからね!」

「ここただけな! 他は?」

 日ごろからニコライをめぐって、二人はケンカが、たえませんでした。しかし、しょうがいのある子を背中せなかにひかえ、世間せけんという共通きょうつうてきをもつことで、かえってこの夫婦ふうふは、分かれずにいたのかもしれません。今いじょうに、おたがいがき合わずにすむからです。

 口ゲンカをしている二人の前には、ジュリの母親がいました。彼女には、目の前のわかいカップルが、少しだけうらやましくうつっていました。ニガイ過去むかしを思い出しながらも、ケンカをする相手あいてがいれば、今の不安ふあんまぎらわすことができたからです。でも、なるべくそうは思わないようにしていました。それより彼女が気になっていたのは、さっきから、ずっとだまったままの、おとなりでした。ふくのせいかもしれませんが、マリの母親は、じぶんよりかなり年上に見えました。他のエリゼの保護者ほごしゃたちと、だいぶ毛色けいろがちがう感じがしました。なんというか、その、自由民DQNっぽいというか……。

 やっと仕事しごとを思い出したのか、カウンセラーの一人が、わって入りました。


「みなさん、おはようございます」

 コモンがまず、あいさつをします。

「さっそくですが、緊急きんきゅうをようすることなので、本題ほんだいに入りたいと思います。それでは副理事ふくりじつとめます、ジョーシマからはじめさせていただきます。ジョーシマさんどうぞ、おねがいします」

 コモンはサブ・トラスティ―ス(副理事)と、外来語がいらいごではいいませんでした。現場げんばではそんなモンです。コモンは学年主任がくねんしゅにんみたいな立場ですが、リーダーがありえないのと、学習がくしゅう警備けいびなどの、外部ソフト会社がいしゃとの折衝役せっしょうやくもかねるので、そういわれています。教師きょうしの立場であるキャッチャー、ほんらいは学年主任がくねんしゅにんであるコモン、理事りじであるトラスティ―ス、じつはみんな、エリゼに正式せいしき帰属きぞくしているわけではありません。みな外部から委託いたくされた、契約期間けいやくきかんのきまった派遣はけんでした。けっきょくのところ、だれがほんとうのエリゼの主体者しゅたいしゃで、最終責任さいしゅうせきにんうものなのか、みんなよく分かっていませんでした。役員名簿やくいんめいぼ記載きさいもなく、数社すうしゃ迂回うかいした代行だいこうでした。わすれていましたが、コーディネイターはきていませんでした。

「ゲホン、ゲホン、ウォホン、ゥン」

「えーなにぶん、サマーホリディ中におきましたことなので、えーワレワレといたしましてもぉ、はなはだ不本意ふほんいではありますが、現段階げんだんかいにおきましては、えー今回おきました事態じたいのぉ、全体的概要ぜんたいてきがいようはですね、把握はあくしきれていないのがぁ、実情じつじょうでございます。はい」

 ちらっと、コモンを見ます。

 コモンはまっすぐ前を見たまま、かるく会釈えしゃくしました。照射角0度しょうしゃかくぜろどの、まわりには見えないプライベートモードで、危機管理対策ききかんりたいさくアプリを見ていました。いそいで言いますが、これは失礼しつれいにはあたりません。今やみんな、やっていることですから。親子の間でさえ、その会話かいわメソッドが使用されたりしていました。そうしないとかえって、公的責任こうてきせきにんを問われ、ばあいによっては、社会的責任しゃかいてきせきにんをまぬがれても、世間せけんから私刑しけいに合いかねませんでした。

「夏休み中におきたことだから、カンケイないってことですか?」

 だしぬけにニコライの父親がいうと、まわりがこおりつきました。

「えー……、そういうことでは、ありません。はぁい?」

 コモンにふりむくと、無反応むはんのうでした。

「ワレワレといたしましてもぉ、できるかぎりの手はですね、うたさせていただく所存しょぞんにございます。つきましては、保護者ほごしゃの方みなさまのぉ――」

「ことがおきる前に、どうして兆候ちょうこうなり、なんなりを把握はあくできなかったのですか?」

「ちょ、ちょっとあなた」

 母親が止めに入ります。

「えーそうですね。ワレワレといたしましてもですね、最善さいぜん努力どりょくをしてきたつもりですが、なにぶん、前例ぜんれいのないことがらでございまして――」

前例ぜんれいがないと、なにもできないんですか?(笑) いや、じょうだんですけど」

「はは(笑)、そうでございますねぇ……。いえ、そんなことは、ございません(キリッ)。われわれの自動契約じどうけいやくいたしております、レームダックしゃ警備けいびソフトならびに、GUMONしゃ、ストレイシープしゃ(前者は学習用、後者は主に私生活管理)の共有きょうゆう(学習や教育のこと)ソフトは、つねに最新さいしん最高品質さいこうひんしつのものを毎秒単位まいびょうたんいでアップデート――」

「聞くところによると、その男の子は、すでに一度、夜中にもけ出したことがあったそうじゃないですか。どうなんです、そこんとこ。これ、さいきんの話ですよね ?」

「ですから、そこのところはですね、ただ今、警備会社けいびがいしゃ早急そうきゅうにですね、問い合わせをしているところなんです。はい」

「そっちは後でいいですから、ここの体勢たいせいはどうだったんですか?」

「なにぶん、ワレワレといたしましてもぉ、ぜんれ……」

 もおー、やめてよ。と母親はあたまをかかえます。彼女は度重たびかさなる空気をよめない彼の発言はつげんに、ニコライの個性(障がい)の遺伝的いでんてき素因そいんをうたがいました。

「――でもそうなる前に、だいぶ時間てき余裕よゆうは、あったわけですよね?」

「えー……そう言われましてもですね、ある一員いちいんがタクシーを利用りようしたりといった、われわれにも予測よそくのつかない――」

「ちょっとそれ、どういうことですか」

 ジュリの母親が、をのりだしました。

「うちの子が、原因げんいんとでも言いたいんですか!」

「いえ、ぜんぜん、ぜんぜん。そぉーいうことではありません。はぁい。」

 副理事ふくりじがコモンの方をふりむくと、コモンははなをすすり、こしかけ直しました。




 しつこいようですが、当局者とうきょくしゃが集まっているのは、現実げんじつ対処たいしょするためではありません。情報収集じょうほうしゅうしゅうも、状況分析じょうきょうぶんせきも、最終判断さいしゅうはんだんも、すべてカンオンのお仕事です。じっさいの人手をかりるのは、すべてが決まった後なのです。ではなぜ、みんなであつまっているのでしょうか? 見ばえのためのていです。「いやし」といっても、かまいません。蒸気機関車SLが光りより早く宇宙うちゅうをゆく、むかしの漫画アニメみたいに。それを老害ろうがいのための回顧主義レトロしゅぎと、けなす一部の中年世代ゆとりもいましたが、おおむね社会的同意コンセンサスられていました。

 でもホンネを明かせば、カラオケとおなじ、かわりばんこの承認欲求しょうにんよっきゅうでした。プロ(カンオンのはたらき)にくらべ、ヘタクソどうしのシロウトげい黙認ガマンできるのは、いずれは自分も、その檜舞台ひのきぶたいに立ちたいからです。それをもふくめ、当局者パーソンたちがいることは、人心じんしんのための保全要員ほぜんよういんなのでした。

 ちなみに、これらの視点パースペクティブは、利益局外者ナカマハズレもしくは非上級国民ビンボーニンからのものです。


「――ことに、ことに、最優先さいゆうせん細心さいしん注意ちゅういをはらわねばならないのは、マリとみごもった子の生命せいめい母子双方ぼしそうほうの心と体の健康けんこうのことでございます。おわかりのことではございましょうが、みなさまにつきましても、くれぐれも、くれぐれもぉー、そのことだけは――」

 ここだけは、かならずわすれず、力をこめてしゃべるよう、コモンにいわれていました。彼は脂汗あぶらあせをながし演説えんぜつします。かじつりついてでも、老害ろうがいあつかいされても、彼はまだ、現職げんしょくうしなうワケにはいきませんでした。年老いたつまむすめをかかえた経済的窮状けいざいてききゅうじょうが、退職リタイアをゆるさなかったからです。どうせ年金ねんきんをもらえるのは、氏んだ後でした。

 となりで下から見ているコモンにとって、老害ろうがいにはオーバースペックの、高級こうきゅう危機管理対策ききかんりたいさくアプリが、副理事サブ・トラの前でまたたいていました。


 たしかに、もっとも懸念けねんされるのはマリの体調たいちょうですが、医師いし看護師かんごしには、当面とうめんなにもすべきことがありませんでした。前もった情報じょうほうもないし、体という物体モノがない以上いじょう、どうすることもできません。この段階だんかいでは、だれより無責任むせきにんかつ、のんきでいられました。しかし、もっともな対人接触たいじんせっしょくサービスぎょうなので、いちばん訴訟そしょうリスクが高いのは、この人たちでした。そのため、かなりの高給こうきゅうとりでしたが、強制加入きょうせいかにゅう任意にんい保険ほけんに、サラリーの五分の三が消えていました。

 今はあらしの前のしずけさです。医師いし看護師かんごしたちは、これをささやかな役得やくとくによる、休暇きゅうか心得こころえていました。ともどもスキをみては、カンオンをなぶっていました。じつは、手もちぶさたなのは、みんないっしょです。警察けいさつ行政ぎょうせい解放区かいほうく(学校)、そして親たちもまた、人目をさけ、おなじように内職ないしょくにはげんでいたのでした。




 ホルスの家のちかく、スモウ川のつつみわきの公園こうえん


「ハイ、コレ」

 ホルスがさし出すと、ダイはうばうようにつかんで、むねポケットにねじこみました。うっすらヒゲが、うかんでいました。

「わすれろ。今日おまえは家にいたことにしろ。いいな」

「……」

「だれにも、いうなってことだ」

「あとコレ」

 そういってダイは、セカンドバックを、さし出しました。ホルスはその場で開けて見ませんでしたが、中にはゴムでしばったプリペイドカードのたばが、たくさん入っていました。全国コンビニ、ガソリン共通きょうつうカード。飛行機ひこうきふね鉄道てつどう、タクシー等の乗物のりものチケット。家電かでん図書としょ、スーパー、食品しょくひん、ビールけんなどの商品券しょうひんけん。それに、いちばん金額きんがくの大きい、通販会社つうはんがいしゃ国内外こくないがい信販会社しんぱんがいしゃのギフトカード。さまざま組み合わされ、乱雑らんざつくくってありました。

「れいのとこに、かくしとけよ」

分散ぶんさんしとくんだぞ」

 うなずくホルス。

「今さら言いたくないが、とうぜん分かってるだろうが、だれにもいうなよ」

絶対ぜったい絶対ぜったいだからな! いいな、わかったな!」

「今から、どっかいくの?」

「へんじは!」

 と、声をあらげます。

「……うん」

 間をおいて。

「……ちょっとな」

 そういってダイは、じぶんの大きなサングラスを、こづくようホルスにわたしました。

「じいちゃん、じいちゃんだからな。ボケたことしないよう、ちゃんとみてろよ」

「いらんよ」

 ホルスが返そうとしますが、ダイはわらって、うけとりません。

「おまえも、エリゼにいけたかもしれんのに、クソッ」

 ペッと、ツバをはきました。

「はぁ? いきたかねーし」

「今はな。あとで、そう思うよ」

「おもわねーよ。あんなとこはクソだ」

 ふふっと、ダイはわらいました。

 それから後ダイは、こまごまとした雑事ざつじを、ホルスにつたえていました。

「また、なんかあったら、すぐ連絡れんらくするから。じゃあ」

 そういって、彼は大きなカバンをかたにかけ、足早に立ちさりました。

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