第四章 ピグマリオンの帰還 二

 落ち着いた陽向がリビングに戻った時、そこに巧望の姿はなかった。

 部屋を探索することに余念のないアルジャーノンの動きを見守っている森に尋ねると

「さあ。たぶん二階に行ったんじゃないかな」とぼんやりした返事が返ってくる。

 会社に連絡を入れるために席を外したのだろうか。陽向は足音を殺して、二階に続く階段を上っていった。

 何となく森と二人でいることに気詰まりなものを覚えたし、それに巧望の様子が気がかりだった。

(一方的に撥ね付けておきながら、そのせいで巧望さんが落ち込んでいたらと考えると胸がヒリヒリするなんて、どういうことなのよ)

 陽向が階段を途中まで上っていったところで、誰かと話している巧望の声が聞こえてきた。書斎の方だ。

「……馬鹿なことを言うなよ……なんで俺が、おまえのために、そんなことをしなくてはならないんだ」

 話しているのは巧望の部下ではないのだろうか。押し殺した声には険がある。

「……僕のためだけじゃない……陽向やおまえ自身のためでもあるんだよ……」

 また別の声がするのに、陽向は思わず、階段を上りきったところで足を止めた。巧望によく似ているけれど、もっと穏やかな口調で辛抱強く訴えている。sakuyaだ。

 一体、二人で何を揉めているのだろうと怪しみながら、陽向は書斎に向かって歩を進め、半分開いたままドアの隙間から中の様子を窺った。

「……おまえは、まるで兄貴の嫌な部分凝り固めて造られたようだ……いいか、朔也のふりをして、俺に指示をするのはやめろ……!」

 陽向はsakuyaの半透明の体越しに、巧望の顔を見ることになった。激しい怒りにかられて、威嚇するかのように相手を睨み付けているが、その瞳は動揺のあまり揺れ動いている。

「僕は別に指示も命令もしてはいない。ただ頼んでいるだけだよ。勿論、嫌なら巧望は拒むこともできる……おまえの『自由意志』でね」

 自由意志を持たないはずの人工知能が、人間相手にその言葉を使うとは何という皮肉だろうか。巧望だけではない、それは自分にも向けられた言葉なような気がして、陽向は怯んだようにドアから一歩身を引いた。その弾みに小さな物音をたててしまった。

「陽向なのか?」

 慌てたような足音が近づいてくる。大きく開かれたドアから顔を覗かせたのは巧望だ。

「ごめんなさい、森さんのことで相談したくて……どこにも行くところがないのなら、今夜くらいここに泊めてあげてもいいけれど、安全な宿泊先を手配してあげた方がいいとも思うの……」

 取り繕うように言いながら、陽向はとっさに目をそらした。あんなことがあったばかりで、とてもまだ巧望の顔を正面から見ることはできなかった。

「何だ、そのことか。……この家にあいつを泊めるなんてとんでもない。心配するなよ、今、会社の人間にセキュリティのしっかりしたホテルを探してもらっているところだ」

 巧望の声にも取り繕うような響きがあった。一体sakuyaと何を話していたのだろう。陽向には聞かせられないようなことなのだろうか。

 何となく気まずい沈黙が二人の間に流れた、その時、巧望のズボンのポケットの中でスマホが鳴った。

「ああ、噂をすれば、俺の部下からだ」

巧望は言い訳するように呟いて、スマホを手に陽向の脇をすり抜け、階段を降りていった。

「巧望は、陽向のことが好きなんだよ」

 いきなり声をかけられた陽向は弾かれたようになって、体ごとそちらを振り向いた。すぐ側にsakuyaが立っていた。

「ええ……そうね、知っているわ……」 

 sakuyaの顔にうかんだ慈愛に満ちた微笑みは完璧だった。

「そして、陽向、君も巧望に惹かれている」

 この言葉には、陽向も思わずむきになった。

「まさか。いくらそっくりでも、巧望さんは朔也さんとは違う……私が好きなのは、あなたなのよ」

 すると、sakuyaは両目を猫のように細め、陽向の真意を測ろうとするかのようにじっと見つめてきた。

「ありがとう、陽向」

 戸惑う陽向が次の言葉を発するより先に、sakuyaはごく冷静な口調で当たり前のことのように続けた。

「でも、僕にとって、何よりも優先されるべきなのは、君の幸せなんだ。残念ながら、肉体を持たない僕では、君の伴侶として生涯寄り添うには不十分だということも分かっている」

「私はそんなこと一度も言っていないわ」

 うろたえながら陽向が反論すると、sakuyaはまた、あの吸い込まれそうに黒い、深沈とした瞳を向けてきた。

「うん。そうだね。でも、僕には、君が口にしていないことも全部、分かっているんだよ」

 陽向が返す言葉もなく唖然としている間に、sakuyaは姿を消した。彼の考えていることは何一つ陽向には分からなかった。生前の朔也とそんなところまでそっくりだった。




森の身柄は当面、futeur life labsが預かることになった。滞在中のホテルから巧望の会社に併設されたラボ内の宿泊室に移ったと陽向が伝えられたのは、三日後のことだ。

「本来なら、森の所属する汎用型人工知能研究所が彼とその研究を保護するのが筋なんだが、あいつは職場での人間関係がうまくいっていなかったらしく、難色を示している。まあ、それならそれでアメリカのロボット関連の研究機関に恩師がいるから紹介してもいいと思っているよ」

 仕事が終わってからすぐにここに足を向けてくれたらしい巧望は、少し疲れた顔をしていた。精力的な彼にしては珍しいことだが、仕事以外にも陽向のせいで様々な課題を抱え込ませてしまったのだから、それも無理はないのかも知れない。

「あなたの会社に、森さんの研究は貢献できるのではないの?」

 ダイニングのテーブルについて首をもみながらあくびをかみ殺している巧望に、熱くて濃いコーヒーを出しながら、陽向はおもねるような口調で尋ねた。

「それについても、本社とのネット会議で話し合ったんだが……現状では、森の研究は面白いが、会社がビジネスとして投資できる実用的なレベルには達していないんだ。与えられた命令に正しく従うわけではなく、知能レベルもせいぜい猫並みのロボットなら、人間にとっては本物の猫の方がよほど可愛い」

 陽向はマグカップを手に巧望の向かいの席に腰を下ろしながら、控えめに反論した。

「今は猫並みでも近い将来には人間に近い知能を持つに至るはずだと森さんは言っていたわよ。sakuyaが彼の研究を手助けしているのなら、おそらく、あのロボットの進化のスピードは私達が予想している以上のものになるのではないかしら」

 巧望はふと顔を曇らせた。

「またしてもsakuyaか……天才を模して作られた人工知能は、そいつ自身も人間を遙かに超える能力を持っている……森の扱いに関して本社で揉めたのもあいつのせいなんだが――まあ、いい……」

 陽向が不安げな眼差しを向けると、巧望は大丈夫だというように微笑んで、頼もしげに頷き返した。

「ともかく、森については俺が責任を持って面倒を見るから任してくれ。兄貴の遺志でもあるしな。……面倒を押しつけられた気もするけれど、俺自身、あいつの研究がどんなふうに発展していくのか興味もある。決して悪いようにはしないから、安心してくれ」

「そう……ありがとう、巧望さん」

 ほっと胸を撫で下ろしながら、陽向は礼を言った。それから、苦めに煎れたブレンドを巧望がうまそうに飲む様子をじっと眺めた。

「どうかしたのか?」

 無精ひげが伸びかけているのが気になるのか、顎のあたりをしきりに撫でながら、巧望が不思議そうに顔を向けてきた。

「ううん、私、考えてみたら、あなたに頼ってばかりね。この間も私が不審者に追いかけられているという話を聞いて、血相変えて助けに来てくれたのに、ちゃんとお礼も言っていなかった」

 陽向がふいに改まった態度になって深々と頭を下げると、巧望は照れたように頭をかいて、視線を何もない部屋の空間にさまよわせた。 

「ああ、あれな……そう言えば、陽向が本当に拉致でもされるんじゃないかと肝が冷えたな……それが、いざ捕まえてみたら、あんな――」

「あの頼りない森さんですものね」 

目を細めるようにして思い出し笑いをする巧望につられて、陽向もくすくす笑った。

「ねえ、まだ何も食べていないなら、冷凍のピザがあるから、それを焼きましょうか……?」

「それはありがたいな。昼にサンドイッチをかじっただけでこの時間だから、正直腹が減っていたところだよ」

「もっと早くに言ってくれたら、ちゃんとしたものを準備したのに……」

 もうすぐ九時になる時間だったし、陽向は既に夕食を終えていたが、腹ぺこの巧望のためにピザと残り物の野菜で作ったサラダ、スープを用意すると、彼は喜んで貪り食った。

「……こんなまともな食事、久しぶりだよ」

 別に好きな訳でもないのに、自分以外の誰かのためにする料理なら楽しい気分になれるのは不思議だ。

「冷凍のピザくらいでそんなに喜んでもらえるなら、次はもっとちゃんとした料理を作るわよ」

巧望がどんなに自分を好ましく思ってくれていたとしても、陽向には応えるつもりはなかったけれど、彼が側にいてくれることには素直に感謝を覚えている。

(感謝、だけじゃない……巧望さんがいてくれて、どんなにか私は安堵している。この人のことは、欠点も含めて、たぶん自分のことのように分かるから……)

 しかし、その時、陽向の頭の中に、全てを見透かすようなsakuyaの透徹した瞳がうかびあがった。

(いいえ、私は、巧望さんに恋をしているわけではないの)

そっと手で押さえた胸の内で呟く。陽向は、食事の後にまた新しいコーヒーを出しながら何気ない口調で尋ねた。

「そう言えば、巧望さん、あなた、またsakuyaと喧嘩でもした?」

「喧嘩?」

 持ち上げたマグカップの中を見下ろして、巧望はぶっきらぼうな口調で聞き返した。

「この間、二階の書斎で彼と言い争っていたじゃない……?」

 なるべく軽い調子で尋ねるが、巧望の眉間に皺が寄ったのを見て、これはまずい話題だったかと後悔した。

「……喧嘩なんかしてないさ。むしろ仲直りしようと努力しているところだよ。そもそもAI相手に喧嘩も仲直りもないんだが……いや、そんなこと、別にどうだっていいな」

 巧望はいらだたしげに上げた手で、少し乱れ気味のくせ毛の頭をかき回した。

「それよりも、陽向に知らせなければならないことがある」

 いきなり真顔になって切り出す巧望に、陽向は思わず身構えた。

「実は、この間ここを訪ねたのは、そのためだったんだ。森のおかげで、それどころではなくなってしまったけれどな」

「あなたが、そんなふうに改まって始める話で、手放しでよかったと思えるものはなかった気がするけれど――いいわよ、話してちょうだい」 

 少し前の陽向なら不安になっておろおろしていたかもしれない。今は相手の顔をちゃんと見て話を聞こうとするくらいには、不思議と余裕ができていた。

「sakuyaの扱いについて、本社で意見が分かれている。sakuyaを人工ながら『心』を持った人間に準じる存在と扱ってもいいという声もあるが、それでは人間でないものが人に変わって意思決定を行なう前例を作ることになると反対する連中の反発が思ったよりも強い。彼らは、sakuyaが自社のサーバを乗っ取る形で意識活動を成立させているのなら、その活動の拡大にいずれ対応しきなくなるだろう。同じネットワーク下にある自社のスマートホームにも影響を及ぼしかねないとsakuyaを危険視し始めている」

 巧望の話は、陽向が予想もしていなかったことで、とっさに何と答えたらいいのか分からなかった。

「なぜsakuyaが危険だというの? 会社のサーバにとんでもない負担をかけているのは事実でしょうけれど、いずれにせよ、彼の能力を活用するためには必要なものよ。増設するなりして対応するしかないでしょう」

 すると巧望は、陽向の目を正面から見据えた。最初の頃に覚えたような、打算的な狡猾さはなく、真摯で真率な瞳をしていた。

「sakuyaの『意思』は果たして、我々のビジネス戦略にいつ、どんな状況でも、必ず賛同してくれるものだろうか?  sakuyaが否と拒否した場合、我々は逆らうことはできるのか、いつの間にかAIに会社が乗っ取られてしまうのではないか――そんなことをおそらく連中は危惧しているんだろうな」

 今の巧望が自分達の味方であるのなら、その彼がこんな深刻な顔をして打ち明けなければならないほど、おそらく事態は深刻なのだ。

「でも、それは――人間相手でも変わらないはずよ。sakuyaに協力してもらうための条件をあなた方はそろえなければならない」

「だが、生憎sakuyaは人間じゃない」

 巧望はお手上げだというように両手を広げて天を仰いだ。

「……彼らにとって、sakuyaは投資の対象にするには、不明な部分が多すぎるのさ。『意識』を持ったAIにどう接すればいいのか分からずに、怖がっているんだよ。陽向も、それは理解できるよな」

 巧望が無自覚にsakuyaを意識を持つAIと呼んだことに陽向は気づいた。sakuyaに一度でも会ってしまった人は、そういう感覚的な理解から逃れることはできなくなる。

「ええ、分かるわ……私達は人と異なる存在に惹かれ、愛しながらも、恐れずにはいられないものよ」

かつて「完璧な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかもしれない」と語ったのは著名な物理者ステーブン・ホーキンズ博士だった。人工知能が自分の意思を持って自立し、更に自分自身を設計し直すようになった時にはおそらく人類は太刀打ちうちできない。

sakuyaはその気になれば、己の分身を再生産し、デバイスを通じて森に対してやったように人間に働きかけ、活動の場を広げることもできる。森の研究の成果はsakuya自身のものともなる。まさにオリジナルの朔也が考えるように考えて、彼がなしえなかった未来を作り出そうとしているのだ。

「でも、未知のものに対する恐れを克服しながら人間は技術革新を繰り返してきたのよ。シンギュラリティとなりうる汎用型人工知能が手に入るかも知れないのに、それを拒むなんて選択肢はあり得ないわ」

「皆が皆、陽向のように勇敢ならよかったんだがな」

 巧望が肩で大きな溜息をついた。

「言いにくいんだが、future life labs本社の一部の強硬派が、sakuyaのOSに強制的に介入しようとしているんだ。こいつは本社のラボにいる俺の友人からの情報だから確かなものだ」

陽向は動揺した。未知の存在に対する人間らしい恐れならば理解できる。しかしsakuyaという存在の掛け値のなさを知りながら、そうまでして彼を排除しようする人間がいることが信じられなかった。

「sakuyaのブロックは外部からの干渉を受け付けないほど強力なはずよ……?」

 冷静な頭を何とか保ちながら、半ば自分に言い聞かせるように陽向は訴える。だが、そんな彼女に向けられた巧望の目は悲観的だった。

「ああ、その通りさ。連中はあわよくばOSを管理下に置いて、sakuyaの意識活動をコントロールしたいんだろうが、それがどうしてもできないようなら、最悪サーバとの接続を切断しかねない…」

 陽向は息をのんだ。sakuyaの広範な意識活動を可能にしているのは、アメリカにあるfuture life labs社のサーバなのだから、そことの接続を断たれると、sakuyaは今のようには機能できなくなるだろう。

「そんなことは絶対にさせないで!」

 強い口調で言い放つや、陽向は思わず立ち上がり、驚いて腰を浮かせる巧望を激しい目で見下ろしていた。

「sakuyaの意識活動を断つなんて……絶対に駄目よ……」

守りたいのはsakuyaの意識か。彼の中にもしかしたらいるかもしれない朔也なのか。自分が何を口走っているのか分からぬまま、陽向は必死の面持ちで懇願した。 

「お願い……」

 震えながら伸ばされる陽向の手を巧望がとっさに捕まえた。椅子から立ち上がって、感情を高ぶらせている彼女の側に近づき、なだめるように肩にもう片方の手を置いて、その顔を覗き込んだ。

「勿論だとも。俺は今でもsakuyaは苦手だが――死んだ兄貴が陽向のために遺した最高のギフトなら、どんなことをしても守らなきゃな」

陽向は巧望の温かな手をきゅっと握り返した。励ますような彼の口調が心強くて、弱々しく微笑み返そうとした、その時、

「僕の身の振り方を君達に案じてもらう必要は無いよ」

寄り添いあっている二人のすぐ側に、唐突にsakuyaが現われた。背中に回された巧望の手が、緊張のためこわばるのが分かる。

「驚かせないでよ、sakuya……」

 何でもないことのようにしてしまいたくて、陽向が口をすぼめてなじると、sakuyaは軽く肩をすくめた。

「ごめんよ。君達に話しかけるタイミングがなかなか見つからなくてね」

 急に居心地が悪くなった陽向は、巧望の腕からとっさに身を引こうとする。しかし、巧望はすぐに陽向を解放しようとはせず、何か言いたげな真剣な眼差しを向けてきた。

(巧望は、陽向のことが好きなんだよ)

 こんな時にsakuyaの言葉が思い出されてしまう。全く巧望らしくもない、思い詰めたような切迫した表情をまともに見ていられなくて、陽向はうろたえながら目を伏せた。

「……巧望さん、お願い……っ……」

 陽向が囁くと、今度は巧望も素直に応じた。彼に触れられた部分が熱を持ってうずく手を胸に引き寄せると、巧望は黙ったまま、自分達を静かに見守るsakuyaのもとに歩いていった。

自分にそっくりな男の幽霊と相対するのはどんな気分なのだろうか。陽向には、兄弟としての朔也と巧望のことは何も分からない。朔也の死の知らせを受けとった時、巧望は自分の体の一部が永遠に失われたように感じたのだろうか。

「ほら、見てみろよ。彼女は、俺のことなんかお呼びじゃないんだ」

 意気消沈してうなだれる弟を慰める態で、sakuyaが彼の顔を覗き込んで、熱心に訴えている。

「そんなことはないよ。陽向は素直じゃないだけで、あれで結構おまえを気に入っている。少なくとも実体を持たない僕なんかよりもずっと、おまえの方が彼女にはふさわしいはずだ。そう思ったから、僕は、おまえを日本に呼び寄せたんだよ」

 巧望が乾いた笑い声をあげ、嘆かわしげに頭を左右に振った。

「俺はいつも――必ず、朔也の愛した人を愛して、欲しくなる……あいつ死んだらもう、こんな想いからは解放されると思っていたのにさ……」

 陽向には、彼らが何を話しているのか理解できなかった。おそらく自分のことが取り沙汰されているとは感じていたが、いわく言いがたい疎外感から入り込むことできなかった。

「俺は一度サラでしくじっている……おまえが……いや、死んだ朔也がそんな俺を許すとは思えない……」

「今度は失敗しなければいい」

 ひそひそと。自分達だけに分かる秘密の言葉でも使っているかのように目配せをした後、双子兄弟は二人同時に陽向を振り返った。

 反射的に、びくっと身を震わせる陽向。

「sakuya……?」

 並んで陽向を見つめるsakuyaと巧望は、実体とそれをそっくり模してつくられた影のようだった。自分ではない他の誰かの見る夢の中に迷い込んでしまったような、現実感のない、不思議な心地に陽向は捕われた。

「巧望さん?」

 不安に駆られて我が身に腕を巻き付けながら呼びかける陽向に答えたのは、巧望ではなくsakuyaだった。

「陽向」

 涼やかな風のように滑らかに近づいてくるsakuyaを見ているうちに惑乱にも似た怪しい目眩を覚えて、陽向は手近にあった椅子にふらふらと座り込んだ。

 そんな彼女のすぐ前で、sakuyaはひざまずき、膝の上で握りしめた小刻みに震える手の上に己の透ける手を重ねた。

「僕を見て、陽向」

 陽向は、瞳を揺らせながら、ゆっくりと顔を上げた。視線が合うなりほっとしたように微笑むsakuyaから、どうしても目が離せなくなった。

「大丈夫よ、私はちゃんとあなたを見ているし、あなたの話を聞いているわ」

このホログラム・アバターに人間らしい自然な動きや存在感を与えるため、異常なほどのリソースがつぎこまれていることに、今更ながら驚かされた。

 意識活動だけを残したいのなら、ここまでやる必要はなかったのに、朔也はなぜ、そうまでして人間らしさ、自分らしさを付与することにこだわったのだろう。

「陽向。君が巧望から知らされたように、僕がこれから先も今のような意識活動ができるかは怪しい状況になってきた。この姿を維持したまま、君とこんなふうに会話をすることも、いつまでできるか分からない」

「あなたを失うなんて考えられないわ…」

 うわごとのように呟く。陽向の目にじわりと涙がうかんだ。

「そう思ってくれて嬉しいよ、陽向……でもね、僕自身、いつまでもこのままでいられるとは思っていないんだ。君がいつかこの安全な住処から出ていくように、僕自身の在り方も今とは違うものに変わるだろう」

「やめて。そんな話、聞きたくない」

 陽向は両手で耳を塞ぎ、嫌々をするように頭を振った。陽向はともかく、sakuyaを自分だけのものとして、この家に留めおけるはずがないとは薄々分かっていた。だからこそ、future life labsに託すことも考えたのに、その相手がsakuyaを破滅させかねない敵となってしまった今、陽向は一体どうすればいいのだろう。

「まだ何か方法があるはずよ……あなたの意識活動を存続させるために……」

混乱する頭の片隅にある理性的な部分を懸命に働かせようとしている陽向の耳に、切実な響きを帯びた声が届いた。

「陽向、明日どうなるかも分からない身だからこそ言うんだが、どうかひとつ、僕の願いごとを叶えてくれないだろうか……?」

 陽向は思わずsakuyaを振り返り、疑わしげな口調で問いかけた。

「願いごと……? 不思議ね……私の幸せのために造られたはずのあなたが、自分のための願い事をするの……?」

 そんな陽向の額にsakuyaの手がかざされた。淡く輝く光の粒子でできた、それは陽向の頭の頂に愛おしむように触れ、ほのかな赤みをおびた滑らかな頬を指先でなぞり、細い顎をかすめるように撫で下ろした。

 勿論、実際に触られたようには感じなかった。何の温もりもなかった。しかし、その擬似的な接触は陽向の胸に鋭い針に刺されたような痛みを覚えさせた。

「信じられなくてもかまわない」

 切々とした口調で、sakuyaは訴えかけた。

「こんな姿で蘇った時から、僕はずっと君に触れたかった。君の温もりや肌の匂い、腕に抱き締めた時の柔らかな感じの記憶はあるのに、もう二度と前のようには手に入らない。そのことがずっと僕を悩ませていたんだ」

 そう言えば、じっと眠っている陽向の頭を撫でるような仕草をsakuyaは時々することがあった。ホログラムの身では触れられるはずがないものを、一体どんな指示が、このAIにこんな無駄な動作をさせるのだろうと不思議がっていたものだ。

「あれは……あなたの願いだったの……それとも、あなたじゃなくて、朔也さん……?」

 sakuyaの唇が苦しげにきゅっと引き結ばれた。再び開いた口から、思い切ったような言葉が発せられた。

「だから、陽向、一度でいいから、昔のように君に触れさせてくれないか……?」

その台詞に、はからずも心を動かされる陽向。自分もずっとsakuyaに――朔也に触れたかった。側にいるのに抱きしめることもキスすることもできないのが、辛かった。

「でも――実体のないあなたには、そんなことできないじゃない」

 頭にうかんだ馬鹿な考えを嗤うように、陽向は頭を左右に振った。

「だから、巧望に協力を頼んだんだ」

 陽向は思わず耳を疑った。

「巧望さんに協力って……どういうこと……?」

 問いかけるように顔を上げる陽向に答える代わりに、sakuyaは立ち上がって、自分達の会話を神妙な面持ちで眺めていた巧望のもとに戻っていった。

「室内装飾にも用いられることのあるホログラムだけれど、その特性の一つとして、実体のあるものの動きに合わせてシンクロすることもできるんだよ。等身大のロボットにまとわせれば、それは人間そっくりに見えるかも知れない。勿論、実体とそれがまとうホログラムのデザインとの間にある誤差は少なければ少ないほど、リアルさは増す」

 陽向はあっと叫びそうになった口をとっさに上げた手で塞いだ。目の前に、誤差などないに久しいほど完璧な相似形につくられた男が二人いるではないか。

「まさか」

 呻くように呟く陽向に向かって、sakuyaが深々と頷いた。その瞳が深く澄んでいることに、思わずたじろぎそうになる。

「たぶん、そのまさかだよ、陽向……どうしても試してみたいことがあるんだと、僕が巧望を懸命に説得したんだ。勿論、嫌がる君に無理強いすることはできないから、君の反応を見て決めるつもりだけれど……」

 かっとなった陽向は、sakuyaの言葉を遮るように手を振り回しながら叫んだ。

「そんなの無理に決まっているでしょう……! あなたのホログラム・アバターと同期したって、それが巧望さんであることには変わりないじゃない……受け入れられるはずがないわ」

 sakuyaを睨み、それから、その傍らで複雑な面持ちで佇んでいる巧望に向かって、威嚇するかのように歯をむいた。

「変な真似をしたら、恨むわよ」

「そうきたか」

 情けなそうな顔をする巧望の肩に手をかけ、その耳に向かってsakuyaが何事か囁いた。巧望が囁き返し、二人はどちらともなく頷き合った。

「やめてちょうだい……そんなことを考えるなんて、二人ともおかしいわよ……!」

 陽向は信じられないものを見るかのような目つきで、二人がそろって近づいてくるのを眺めた。

「陽向、僕が実体のある人間となって君に触れたいと思うのは、そんなにおかしなことかい?」

陽向が視線を向けた先にある思い詰めた表情は人間の苦悩そのものだ。欲しいと思うものに触れられる肉体のないことが、彼にとって、そんなにも辛いのか。

「……分からないわ……私を望んでいるのは、sakuya、あなたの意思なの?……それとも……死んだ、あの人なの……?」

 sakuyaは唇だけで微笑んだ。

「……さあね……それを確かめるつもりで、陽向はこれから起ることを見ているといいよ」

 sakuyaは巧望の後ろに回り込み、居心地悪そうに身じろぎする彼に向かって、言い聞かせた。

「じっとしていてくれ、巧望……ホログラムを同期させるから……」

 僅かに高くなったシステムの作動音が、静まりかえった部屋の空気に微細な波をたてはじめた。

 両手をだらりと垂らした格好で立ち尽くしている巧望の後ろに寄り添うように佇んでいるsakuya。その体を構成する光の粒子を砂嵐のように蠢かせながら腕を広げ、背後から覆い被さると、二人の男の姿が束の間二重写しのようになった。

「sakuya……巧望さん……」

 とめなければと思う一方で、陽向の心はつい、目の前の光景に引き込まれてしまった。

 sakuyaが命じるがまま、巧望が腕を上げるのに合わせて、ホログラムの腕も上がる。最初はうまくシンクロできなかったものが、調整を重ねるうちに、次第に一体化した動きになっていった。腕だけではなく、体のそのほかの部分も顔の表情も徐々に溶け合い、一つになっていく。

 同一の遺伝子コードによって朔也に等しく造られた肉体の上に投影されたホログラムは、もはや代理人(アバター)ではなく、実体化した朔也当人にしか見えない。

 夫が墓場から蘇るのを目の当たりにした、陽向の体を深い衝撃が貫いた。

 視覚から入る情報を、人はもっとも信じやすいからだろう。現に、これをまとっている者の正体を知っていても尚、陽向の顔は懐かしい朔也の顔から離れられず、その心臓は胸の中で打ち震えている。

「陽向」

 名前を呼ばれた途端、陽向の体は椅子から立ち上がり、なすすべもなく彼のもとに引き寄せられていった。

「……あなたは誰……?」

 陽向の馬鹿げた問いを咎めるように僅かに眉をしかめてみせた後、柔らかく微笑みかけてくる、この顔は――巧望ではない、朔也の表情、忘れようもない愛する人の笑みだ。

「朔也……さん……あなたは、朔也さんなのね……」

 おずおずと伸ばした手を取られて、陽向は彼の胸に引き寄せられた。触れたら最後、願い続けてきた、この夢が消えてしまうのではないかと一瞬恐れたが、安定化したホログラムは、この程度ではもはや歪みを生じなかった。

「陽向、陽向……やっと君を抱き締められる……君が僕の腕の中にいる……まるで夢のようだよ……」

 朔也の声は歓喜に打ち震えている。陽向の胸の鼓動もまた――。

「朔也さん……私も、あなたにずっと……会いたかった……」

 求めるように上げた手はもはや虚しく空をかくようなことはない。陽向よりも頭一つ分背の高い、彼のしっかりとした腕や背中の手触り、服の下でしなやかな筋肉が張り詰めるのが分かる。

「あなただけが……今でも、私の……」

そうして陽向は今、あれほど焦がれた朔也の腕の中にいて、その唇が己の唇を優しく塞ぐのを感じているのだった。

 これが夢ならもう二度と覚めないでと願いながら――。

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