第三章 コギト・エルゴ・スム 六

 夢というのは目が覚めた途端にあやふやになっていくものとばかり思っていた。しかし、生前の父や朔也と語り合った、あの夢の中での出来事は生々しいまま、陽向の心に留まり続けた。

(どうして、あんなおかしな夢を見たのかしら……?)

 ただの夢として忘れ去るには奇妙に示唆的な内容だった。陽向の記憶の奥底に埋もれていた記憶がもとになっている可能性もある。

(……父さんや朔也さんとの討論の内容の全てを私が覚えているわけじゃない。彼らの話に追いつくために、私が自分で学んだことやその後の研究生活の中で、どこかで接したことのある情報が含まれていたのかもしれない)

 いつものように決まった時間に目覚め、この頃では冷凍のセットミールに頼らずに自分で用意するようになった簡単な朝食を取りながら、陽向は昨夜に見た夢の残像を追っていた。

「陽向」

 柔らかな声に名前を呼ばれ、はっと我に返った陽向のすぐ側に、sakuyaが出現した。淡く発光するホログラムからなる彼の姿と夢の中で出会った夫とつい比べてしまいながら、陽向はぎこちなく朝の挨拶をした。

「……おはよう、sakuya」

 チューリングテストの準備を始めた頃からずっと、陽向は意図的にsakuyaを呼び出すことを控えてきた。一目見れば彼の人間らしさに惑わされ、科学者として冷静に分析することができなると恐れたからだ。

 しかし、テストが期待した形には終わらず、sakuyaの正体を確かめるすべをなくした今も、陽向は彼を遠ざけている。

 コギト・エルゴ・スム。sakuyaは自分の意思で陽向に呼びかけ、こんな優しい笑顔を向けてくるのだろうか。もしそうなら、彼は『人間』だ。しかし、陽向には確かめようがない、それが分かるのはsakuya自身だけなのだ。

 そのことがずっと引っかかって、以前のように打ち解けてsakuyaと話ができなくなっていた。当然の帰結かもしれないが、こんなことならテストなどしなければよかったと後悔しそうなくらい、寂しい。

 sakuyaは、ダイニングテーブルの陽向の正面の席に座る格好で、コーヒーを飲んでいる。思えば、sakuyaと一緒に食事をするのは久しぶりだ。陽向の煩悶を慮ったかのように、彼が自分から話しかけたり近づいてきたりすることもしばらくなかった。

彼の手にあるホログラムのマグカップは、いつか陽向がショッピングセンターで買ったものの壊してしまったペアのカップと同じデザインだ。人間らしさを演出するためとはいえ、芸が細かすぎないか。

「……いいのよ、私のために、人間のふりをしなくても……あなたには淹れたてのコーヒーの味は分からないのでしょう」

 己の口から零れた言葉の棘に、陽向自身が戦いた。

「君の言うとおり、味は分からないよ。ただ、肉体をなくした今でも、君とこうして朝食を囲むことが楽しいからそうしてる……でも、陽向が嫌がるなら、もうしないよ」

 少し哀しげに眉をしかめるsakuyaから、陽向はたまらず、視線を逸らした。なんて言うこと、これでは自分が一方的にsakuyaの気持ちをないがしろにしているようではないか。ああ、でも――。

「本当に、そう、思っているの?」

 コギト・エルゴ・スム――陽向はsakuyaから顔を背けたまま、固い声で問い返した。それに応えたのは、雄弁な深い溜息だ。

「陽向は、僕が何を言っても信じようとはしない。心を持たない『哲学的ゾンビ』のような存在なのではないかと疑っている」

 陽向はとっさにsakuyaを振り返った。そこに見いだした傷ついた表情に、胸を激しくかき乱された。

「あなたが悪いわけじゃない……これは私の気持ちの問題なの……」

sakuyaを傷つけてしまったという後悔がこみ上げてくる。しかし同時に、傷ついているふりをしているだけで、本当は何も感じていないのではという疑いもまた――。

「君が僕をどう思おうとかまわない」

 揺れ動く陽向とは対照的に、sakuyaの態度はどこまでもぶれなかった。

「けれど、これだけはどうか信じて欲しい。僕は君を幸せにするために、ここにいるんだよ」

 陽向に向けられるひたむきな眼差しに、生前の夫と同じ、もの柔らかでありながら決して折れない、しなやかな強さを垣間見た気がした、その時――。

 キッチンのカウンターに置きっぱなしにしていた陽向のスマホが着信音を鳴らした。

 陽向はふらふらと立ち上がって、キッチンに回り込み、スマホを取り上げた。画面に表示された巧望の名前を見た途端、迷わず電話を切った。

 あんな別れ方をして以来、巧望とは会っていない。会えるはずもない。こうして時々かかってくる電話も無視し続けていた。

 ただ、巧望がそう簡単にsakuyaを諦めるとも思えず、彼が会社としての権利を掲げてsakuyaを渡すよう迫ってきた時にどうするかを考えると、心がひりひりとするようだった。

「私を幸せにするために存在するなんて、無理よ……あなたを知れば、きっと皆、放ってはおかないわ」

 途方に暮れたように呟いた、陽向がダイニングの方に向かって語りかけた時、もうそこに、sakuyaの淡い光のベールに包まれた姿はすでになかった。

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