第二章 愛のプラグラム 三

朔也の遺したスマートホームで、AIによって守られ、管理され、ゆっくりと心を癒やすだけの日々が過ぎていった。

その必要もないため、めったに外には出ない。食料はAIがネットを通じて注文した商品が、提携している近くのスーパーからデリバリーで届く。

暇つぶしに、本は読む。しかし、テレビは長く視聴すると疲れてしまうので、あまり見なくなり、おかげで世間の情報にも疎くなった。

毎朝決まった時間に起き、食事をし、話し相手にはAI――亡き夫そっくりに振る舞い続けるsakuyaがいた。

今でもsakuyaと朔也を同一視することは慎重に避けている陽向だが、その存在をいつしか受け入れてしまっていた。

実際、『彼』がいなければ、独りでいることに耐えられなかっただろう。喪失感と孤独に苛まれ、まともに生活することすらおぼつかなかったかもしれない。

「ご主人を亡くされたと聞いて、心配していたんですよ。独りになった途端に、あなたも精神的に不安定になるんじゃないかと……ですが、こうしてお話を聞いている限り、状態はそう悪くはないようだ」

 葬儀以来、初めて受診した心療内科の主治医は、意外なことに、陽向の顔を見て安堵したようなことを言った。

「そうでしょうか……?」

「顔色も悪くないですし、何というか、目に力がある。心底絶望している人は、そんなふうに他人をまっすぐ見たりできませんよ」

「はぁ……」

 そう言えば、睡眠薬の力を借りてとはいえ、夜はぐっすり眠れているし、食事もsakuyaの指示通りのメニューを決まった時間に食べているから栄養状態も良好なはずだ。

 夫の死後、世間との交流を絶って家に閉じ困っている女には、確かに見えないかもしれない。

 主治医は、いつも通り二週間分の処方せんをくれたが、精神安定剤の頓服は、最近はあまり使っていないため削除になった。

 未亡人になったばかりというのに早くも立ち直りに向かっている、強い女だと思われただろうか。

 違う。本当に一人きりになってしまったのなら、今日とは違った顔でここに現れ、もっと違う話をしたはずだ。

(今は朔也さんにそっくりな姿で現れる人工知能と暮らしているのだと打ち明けたら、ドクターは何と言ったかしらね)

 sakuyaは陽向にとって、十分に朔也の代わり――とまではいかなくても、家族や友人のような慰めを与えてくれている。コンパニオン・アニマルと呼ばれ、家族の一員として扱われるようになったペットのように、今度はいよいよAIが人間の相棒になる時代が来たのだと、彼なら証明できるだろうか。

(いいえ……私がsakuyaを頼るのは今だけよ。第一、彼は朔也さんの代わりなどであるものですか、ただ便利だから、利用しているだけ……)

 人工島の医療モールにあるクリニックを出た時は、まだ夕方にさしかかったばかりの早い時間だった。久々に外の空気を吸い、人と会って話ができたせいか、気分がよかった。

(まっすぐ家に帰るのはもったいないかな……島内の外れに新しくできたショッピングセンターにでも寄ってみよう)

 朔也がスマートホームの購入と同時期に手に入れた、自動走行機能のついた知能化自動車は、陽向が目的地を口頭で告げると最適ルートを即座に検索し、動き出した。

 この手のスマートカーの導入も日本は諸外国に比べて遅れているが、特区に限っては、公道での自動走行も認められている。

(そうだ、sakuyaに予定よりも帰るのが遅くなるって連絡した方がいいかしら……)

 ふと考えたものの、AI相手に、心配させるも何もないと思い直した。

(大体、sakuyaは私に対して過保護すぎるのよ。今日だって、外出すると言ったら渋い顔をしていた。いつも服用している薬がもうないから受診しないわけにはいかないと説明したら、納得してくれたけれど……あれはきっと私の安全を守ることを優先してプログラムされているせいなんでしょうね)

 陽向は思わず溜息をついた。あの家で彼と二人きりで暮らしている状態がどれほど異常か、世間から遠ざかっているとつい忘れそうになってしまう。

(こんな暮らしはいつまでも続けていられない。たとえ朔也さんの遺志でも、いつかはsakuyaの庇護を離れて、普通の生活に戻らなくちゃ……でも、家族も仕事も何もない今の私が、どこに行って何ができるのか分からない……恐い……)

 そんなことを考え出すと追い詰められたような気分になってきて、陽向は意識的に思考を停止した。

 気がつけば、目的地はもうすぐそこだ。整地されたばかりの空いた区画が目立つ海岸沿いの一角に造られた巨大な建物――アメリカ資本の郊外型のショッピング・モールだ。病床にあった朔也と、体調がよくなったら一緒に行ってみようと話していたものの、その機会は得られなかった。

 平日の夕方ということもあり、駐車場に向かう車の列も少なく、店内は空いているようだった。人混みの中に入っていけるほどには精神的に安定していない、陽向にとっては幸いだ。

 別に、これといった目的があったわけではない。気分転換も兼ねて訪れた広いショッピング・モールでは、歩き回ったものの、冬物セールで心引かれるものは見つからず、結局雑貨店で手頃なペアのマグカップを買っただけだった。

(考えてみればペアのカップなんて必要なかったわね……sakuyaはコーヒーを飲むふりをするだけじゃない)

歩き疲れて入ったモール内のカフェ。甘いカフェラテをすすりながら目の前に置いた、ポップな柄の紙袋を眺め、苦笑する。

 カフェの前の通路の方ではしゃいだ子供の笑い声と共に聞き慣れない言葉が響くのに、視線を向けると、浅黒い顔をした小さな男の子を追いかけて走って行くヒジャブ姿の外国人女性の姿が見えた。

そう言えば、このショッピング・モールの中でも外でも、人種も様々な外国人の姿を見かけた。このカフェの店員もそうだし、ひょっとしたら、日本人よりも多いのではないだろうか。

人口島の再開発が進んで、その工事の関係で外国人労働者が増えてはきていた。もともと高齢化が進み、人口の減少した土地であり、新たに建設された住宅団地を購入したのは外国人が多いと聞いたこともある。陽向の住んでいたマンションの近くではそうでもなかったが、地方都市の住宅地の真ん中で肌の色や言葉が違う人達と出会うことは、確かに珍しくなくなってきた。

(ちょっと外国の街にでもいるような雰囲気ね……東京でなら、不思議でもなんでもなかったけれど……)

 思い出したようにスマホをバッグから取り出す。朔也の名前で着信が入っていたのには、ぎょっとしたが、すぐにsakuyaの仕業だと気がつく。

(何よ、朔也さんのふりをして、あなたは電話までかけてくるの?)

 干渉されすぎのような気がして、癇に障った。電話をかけ直しはせず、留守番メッセージが残されていたが、それも無視して、スマホをバッグに戻す。

もう少し粘ろうかとも思ったが、カフェラテも飲みきってしまっていた。陽向はイライラしながら席を立ち、トレイを返却して、がらんとした店を出た。

(言われなくったって、もう帰るわよ、sakuya……私を子供扱いしないでちょうだい)

 反発を覚えながらも、同じ島内にある自宅のマンションではなく、sakuyaが待っている家に戻ろうとしているあたり、自分が彼に依存していることは認めざるを得ない。

(マグカップ、sakuyaに見られないように、そっと隠してしまおう……ペアで買ってしまったなんて知られたら、何を言われるか分からないもの)

 帰宅したらすぐ自分を迎えに出てくるに違いない、ホログラム・アバターの優しく寛大な笑顔を思い描きながら、聞かれるだろう問いに答えるシミュレーションをする。

(ドクターは私の顔を見て、調子がよさそうだと言ってくれたのよ……毎日、あなたがカウンセラーになって話を聞いてくれるからかしらね)

 優秀なカウンセラーというのは、自分の意見を言うのではなく、患者にしたい話をさせてやる術に長けた人のことだと思う。胸にたまった鬱屈した感情を言語化していくプロセスを経て、患者は自然と落ち着いていくのだ。

 皮肉なことに、夫だった朔也には打ち明けるのに抵抗があった話でも、相手がAIだと考えると、平気でぶちまけてしまえる。

(あなたには、私を理解したり、共感したりできる心はないと分かっているのに……変よね、どうして私、あなたと話していると落ち着くのかしら……?)

 地下一階に向かうエレベーターには、陽向以外、客は乗ってこなかった。平日とはいえ、まだ八時過ぎの時間なのに、こんなに人が少ないと、次第に落ち着かなくなってくる。

地下駐車場も案の定、がらんとしていて、薄気味悪かった。もう少し建物に近い場所に車を停めたらよかったと軽い後悔に駆られたが、陽向は気を取り直して、まっすぐ愛車の方に向かって歩いて行った。

こうして改めて眺めてみると、朔也が購入したスマートカーは、ピカピカのボディも真新しく、いかにも高そうな、いい車だった。高級車ばかりを狙う車上荒らしがいたら、真っ先に目をつけられそうだなと変な感想を覚えながら、キーを取り出そうとバッグを持ち替えた時、通り過ぎた太いコンクリート製の柱から大きな人影が二つ、ぬっと現れた。

反射的に身を翻して逃げだそうとした、陽向の腕を男の一人が捕まえて、乱暴に引き寄せた。弾みでぶら下げた雑貨店の紙袋が足下に落ち、カップの割れる嫌な音がした。背中から羽交い締めにされながらもがく陽向から、また別の男がバッグを奪おうとする。この特区の治安が悪いなんて聞いたこともない。決して遅い時間帯でもない、ショッピング・モールの駐車場で強盗に遭うなんて、海外の映画の中のシーンのような目に自分があうなんて信じられない。おまけに、強盗達がかわす言葉も、聞いたことのない外国語だ。

 奪われまいとバッグを胸に抱きしめる陽向にいらだった男は舌打ちをして、彼女に見せつけるように手を振り上げる。

「た…助けて……!」

 思わず陽向が悲鳴をあげた、その瞬間、すぐ目の前に停めていたスマートカーのヘッドライトが点灯した。それと共に電気モーターが目覚めた、静かな作動音も沸き起こった。

「え……?」

 陽向は何もしていない。車のキーだって、今まさに強盗に取られそうになっているバッグに入れたきりだ。

 突然けたたましいクラクションが鳴り響くのに、陽向の腕をつかんだ男の手が緩んだ。何か異常なことが起きていると悟ったのか、仲間に向かって警告するような声を発し、誰も乗っていない車の運転席を窺い見ようとする。

 転瞬、スマートカーは急発進した。硬直している強盗を威嚇するかのようにヘッドライトを明滅させながら、こちらに向かって突っ込んでくる。

 怯んだ強盗達は陽向を突き飛ばし、後ずさりした。

「な……に……何なの?」

腰が抜けたように、その場に座り込んでいる陽向を回り込み、無人の車両は強盗達に追いすがった。パニックに陥って、脱兎のごとく逃げ出す男達をひき殺さんばかりの勢いで追い回し、退散させた後、車は方向転換し、うずくまったままと呆然となっている陽向のもとに戻ってきた。

(まさか――)

 まるで意思を持つかのような車両の動きを見ているうちに、陽向ははたと思い至った。そんな彼女の前で、スマートカーは音もなく滑らかに停車し、ドアを開いた。

 陽向は意を決して立ち上がり、誰もいない運転席を覗き込んだ。このスマートカーの自動走行を可能にしているのは、外部のネットワークサービスともつながっているAIシステムだ。非常に便利なシステムだが、ハッキングといった外部からの干渉を受けやすい。

一見正常に作動しているように見える内部機器を凝視しながら、陽向は試すように囁きかけてみた。

「もしかして、そこにいるのは、sakuyaなの……?」

 その言葉に応えるかのように、クラクションが鳴り、ヘッドライトが明滅するのに、陽向は思わずのけぞりそうになった。

「……マヒル……」

 車両に搭載されたナビの音声が己の名前を呼ぶのに、陽向ははっと息をのんだ。

「ゴウトウ…相手ニ、下手な抵抗なんてするものじゃない。外国人による窃盗事件が、この界隈で頻発しているってニュースは見ていなかったのかな?」

 もともと車両に搭載されているスピーカーから発せられる合成音声は、最初はいかにも機械じみていたが、キーを調節するうちに、朔也の声質にかなり近づいてきた。

 陽向はハンドバックとコンクリートの床に落とされてたぶん破損してしまったマグカップの入った紙袋をひっつかみ、車の運転席に身を滑り込ませた。

 滑らかなシートに沈み込んで、がちがちになっていた体の緊張をほどき、ほうっと深い息をつく。

「君の帰りが遅いから心配になって、このスマートカーのAIに侵入してみたんだけれど……正解だったな。君が怪我をする前に、あの強盗達を阻止することができて……」

一瞬聞き流しそうになったものの、我に返った陽向はすぐにsakuyaにかみついた。

「ちょっと待ってよ……ハッキングだなんて、あっさり言ったけれど、それ、違法行為じゃないの……?」

「もしも、無関係な他人の車やスマートフォン、コンピューターに侵入したなら、それは違法行為だろうね。この車の所有者は、久藤朔也だった。つまり、僕のものに外からアクセスして自動走行機能に干渉しようが、別に問題はないんじゃないかな」

からかうような朔也の声を聞きながら、陽向は軽い頭痛を覚えて、頭を抱えた。

「……それって、やろうと思えば、他人のパソコンやスマホから個人情報を盗んだりできるっていうこと……?」

「ううん、それは考えたことがなかったけれど、その気になればできるんじゃないかな……陽向は、僕にそうして欲しいと思うのかい?」

「まさか!」

 陽向が慌てて頭を振ると、sakuyaの笑い声がスピーカーを通じて車内に響いた。

「冗談だよ」

 ついさっき強盗に襲われたばかりでショックのあまり震えていたというのに、sakuyaとのんびりとした会話を交わしているうちに気持ちが静まってきたのは不思議だ。

「あなたってば、ほんとに信じられない……朔也さんだったら、こんな非常識なことはしないわよ」

「……それは陽向の認識不足だよ。君の身が危ないと分かったら、どんな無茶でも無法でもやってのけたはずだ」

 言い返そうとして、黙り込み、陽向はうつむいた。そうかもしれない。朔也は自分を愛していた。たぶん自分が彼を愛した以上に――。

「陽向?」

気遣わしげな呼びかけを拒絶するかのように、頭を左右に振る。

「どこに行っても、あなたは私についてくるのね。まるで監視されているみたいで、息が詰まるわ」

ああ、こんな皮肉を言うつもりなんてない。本当は感謝している。sakuyaが助けにきてくれなければ、今頃どうなっていたか――。

「……陽向に窮屈な思いをさせていたのなら、謝るよ」

 ふてくされている陽向におもねるように囁いて、sakuyaは車を発進させた。情緒不安定な今の陽向に運転を任せるつもりは、最初からなかったらしい。陽向もあえて逆らわなかった。

「謝らないでよ、馬鹿……あれは、ただの八つ当たりなんだから……」

 つっけんどんに呟いて、走行する車の窓の方に、陽向は顔を向ける。このまま家にまっすぐ戻るつもりでいたのだが、進行方向がそれとは違うことに気がついた。人工島から本土に続く大橋の方に向かっている。

「ちょっと、sakuya、一体どこに行くつもり……家に帰るんじゃないの?」

 不安に駆られて、かすれた声で囁く。安心安全な『我が家』から遠ざかっていることに、存外ストレスがつのってきた。

「君にちょっと見せたいものがあるんだ。時間はかからないから、付き合って欲しい。閉じこもりっぱなしで塞ぎがちな君には、いい気晴らしもなるんじゃないかな」

 さっき、あんな文句を言ったことの意趣返しだろうかととっさに疑ったが、そんな感情がAIにあるとも思えない。

「分かったわよ。その代わり、安全運転はしてちょうだい……私、夜の運転は苦手なんだから、途中で代わってと言われてもできないわよ」

 陽向は観念したように、車のシートに身を預け、勝手に動いているハンドルの上に手を滑らせた。自動走行は、人工島外では原則禁止。それだけで監視カメラに引っかかるとは思わないが、運転しているふりだけでもしないと、落ち着かなかった。

 目の前に立ち上がったナビを見ていると、どうやら車は六甲山上を目指すドライブウェイを進んでいるようだ。

 陽向の運転では、昼間でもきついだろう。真っ暗な山中を縫うように伸びる、傾斜のきつい、くねくねとした坂道を、sakuyaの制御下にある知能化自動車は、熟練ドライバーと言ってもいい動きでスムーズに走った。

 標高が上がって行くにつれ、木々の向こうに、キラキラと光る遠くの街や港の灯り、それに抱かれるようにして、黒々とわだかまる湾を見下ろせるようになってきた。

(ああ、そう言えば……昔、神戸で暮らす朔也さんと遠距離交際をしていた頃、夜景が綺麗だからと六甲山まで連れいってもらったことがあったかな)

 六甲山系には『1000万ドル』と称される見事な夜景を望むことのできる展望スペースがいくつもあり、その中でも人気のスポットの一つが、六甲山上展望台――いわゆる天覧台だ。昭和天皇が立ち寄られたことを記念して、そう名付けられたのだという。

「天覧台の夜景を見に行くつもり?」

「覚えていたのかい、陽向……懐かしいだろう?」

「昔、ここに連れてきてもらった時は、二人でケーブルカーで登ってきたんだったわよね」

 あの頃は陽向もまだ大学院生だった。国内外で有名な研究者として活躍していた朔也も、陽向の前では、ごく普通の二十代半ばの青年となって、東京からわざわざやってくる恋人と共に人気のデートスポットを訪れる、休日を無邪気に楽しんでいた。

(あれから何年経ったのだろう……今はもう、私の側にあの人はいない。なんだか、全てがはるか昔の夢のように思えるわ)

 しばらく物思いにふけっていた陽向は、車が道路を逸れて駐車場に入っていく振動に、はっと我に返った。

 車の窓から外を見ると、天覧台の駐車場から、この付近に一軒だけあるカフェが見えた。灯りはまだついているが、この時間では既に閉店しているだろう。

 駐車場に停まっている車もまばらだ。天覧台の開放時間は夜の九時までだから、あと三十分もないこの時間、帰る者はいても、今から見に来る者の数は少ないだろう。

 エンジンをとめた車のフロントグラスの向こうにも、キラキラと輝く街の灯りが眺められた。

 つい懐かしさに駆られて見入っていると、しばらく話しかけてこなかったsakuyaが急に声を発した。

「せっかくここまで来たんだ。車中にとどまっていないで、展望スペースまで行こうか……?」

「え、ええ……でも、あなたは、どうするの……ここで私が戻ってくるのを待つつもり?」

 駐車場は展望台に隣接しているが、カフェを挟んでいるので、道路を少し歩いていかなければならない。夫面をすること甚だしいAIも、一緒に夜景を眺めに行くことはできないのだ。

「僕のことはいいから、行っておいで……ああ、スマホを持って行くのは忘れないでね」

 何となく釈然としないものを覚えながら、陽向はバッグをつかんで外に出た。たちまち山上の冷たい風が吹き付けてきて、慌ててダウンのコートの前をとじ、小走りで道路の方へと向かった。

(夜景を見ようと、こんな所までわざわざ誘っておきながら、結局一人で見るしかないなんて……)

 寒さに震え上がりながら、ロープーウェイ駅に隣接した階段を天覧台へと上がっていく途中、バッグの中のスマホが鳴った。

 不審に思いながら取り出したスマホの画面を見ると、久藤朔也と表示が出ている。

「……sakuya、あなたなの……?」

 一瞬ためらった後、応対に出る。

「そろそろ天覧台にたどり着いた頃かなと思ってね」

 階段を上りきったところには、広々とした展望スペースが広がっていた。ロープーウェイの最終便が出た後でもあり、防護柵の前には、夜景を眺めにきたカップルが何組かいる程度だ。

「ええ、丁度着いたところよ……」

 広場をまっすぐに渡って、陽向は柵の前に立った。遮るものが一切ない、眼下に広がる夜景の圧倒的に眺めに息を飲む。

(ああ、そうだ……昔、朔也さんと一緒に並んでここに立っていたんだ。カフェでお茶をした後、ケーブルカーを待つつもりでいたのに、彼と一緒にも見る景色が綺麗だったから時間の経つことも忘れてしまった)

 あれは初冬にさしかかった頃。吹く風は冷たかったけれど、朔也がいたから、それも気にならなかった。付き合い始めて三年が経ち、言葉に出さずとも、将来のことをどちらもが意識していた時期だった。

(……僕は、これから先、何度も、陽向と一緒に、この夜景を見に来られたらいいなと思うよ。いつか、陽向と家族になって、この街で暮らせるようになったらいいなって……)

 今まで忘れていたような些細な出来事も、こうやって実際に、その場所を訪れてみることで、記憶が鮮やかに蘇ってくるものなのだ。

 身に染みこんでくる冬の寒さを紛らわせるようにぴったりと寄り添い合っていた、彼のとつとつと語りかけてくる声。眼下に広がる、宝石箱の中を覗き込んだような夜景を眺めながら、寒いのに、やけに頬が熱くなっていることを意識した――。

「……見ているかい、陽向?」

 大きく見開いた目で美しい夜の港町を眺めながら、陽向はぎゅっと握りしめたスマホに向かって囁きかけた。

「ええ、朔也さん……見ているわ……」

 何だか、本物の朔也とスマホで話しているような気分だった。彼はどこか遠くにいるだけで、今も生きていて、こうして陽向に語りかけてきてくれる。

「あなたとまたここに来ることができて、私、嬉しい……!」

 目をつぶると、陽向に向かって照れくさそうに微笑みかける、朔也の顔が思い出された。

(私も……そう思うわ……あなたと家族になって、ここにまた来られたら、きっと素敵ね)

 遠回しのプロポーズに、はにかむようにうつむいてそう応えたのだけれど、実際に、結婚して一緒に暮らし始めてからは、一度も訪れることはなかった。

 いつでも、その機会はあると思っていたからかもしれないが、忙しさにかまけて、とても残念なことをしてしまった。

 堅くつむった目の淡いからいつしか涙があふれ、冷たい頬をこぼれ落ちていくのを感じた。

(朔也さん……朔也……さん……)

 陽向の愛した朔也はもういない。愛した人の遺した、人工の心が、その代わりを務めてくれていた。




その夜、陽向は夢の中で朔也に会った。生前と何も変わらない姿で、屈託なく陽向に笑いかけてくる彼の胸に、陽向は迷わず飛び込んだ。ああ、やっぱり生きていたんだと喜んだのも束の間、その体は力を失って崩れ落ち、陽向は自分が冷たい死体を抱きしめていることに気づかされたのだ。

「嫌……っ……朔也さん……私を置いていかないで、朔也さん……!」

泣き叫ぶ自らの声で目を覚ます。上体を起こし、両手で顔を覆って泣いていると、いつの間にか、淡く輝く光のベールに取り巻かれたsakuyaがベッド脇にたたずんでいた。

「何を……しに来たの……?」

 涙で濡れた顔を手の甲で拭いながら、かすれた声で尋ねると、彼は真摯で真率な目で見つめ返してきた。

「君が悲しんでいるからだよ、陽向……言っただろう、僕は君を幸せにするために、ここにいるんだ。君のために僕にできることがあれば、教えてくれないか……?」

 ああ、この顔、この表情、語りかけてる声の響きも何もかも、朔也そのものだった。昼間はどんなに強がって見せていても、今は無理だ。涙が止まらない、こんな夜は、たとえ偽物であっても愛する人の面影にすがらずにはいられない。

「あなたが私のためにできることは一つだけよ……お願い、もう私の側からいなくならないで」

うつむき、細い肩を震わせながら、陽向は懇願した。

「約束するよ、陽向……だから、もう泣かないでくれ……」

 sakuyaの実体のない手が陽向の頭の上にのせられ、優しく撫でるような仕草を繰り返している。繊細な指が髪をすく動きに見入っているうちに、陽向の涙はいつしかおさまっていた。

(私を抱きしめたり、キスしたりすることもできない相手に、こんなに簡単になだめられるなんて、私、どうかしてる)

理性で認めていないつもりだけれど、心はこんなにも正直に、sakuyaを朔也と同一視していた。


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