第一章 胡蝶の見る夢 九

 朔也が緩和病棟に入院して、しばらくが経った。毎日家から通って、日中はできるだけ傍にいるようにしていたが、モルヒネの持続静注を受けているせいか、彼はうとうとしていることが多くなっていた。


 少なくとも朔也が苦しそうな顔をしていないだけよかったと思うようにしていたが、夜、彼のいない部屋に独りでいるとたまらなくなってくる。


 精神科でもらっている薬の量も増えた。朔也がいなくなったら、一体自分はどうすればいいのだろうと考えながら、まんじりともせず、夜を明かしていた。


「……陽向、こんな状態の君を独りにはできない。僕はまだとてもじゃないけど、死んだりなんかできやしないよ」


 陽向の変調は朔也も察したようで、日に日にやつれてくる姿を見ては、どうすることもできない自分にもどかしさを覚えているようだった。


「そう思うのなら、生きて……ドクターがびっくりするくらい、朔也さんはここの病棟で一番長生きの患者様になるの」


 微笑みかけようとしたつもりが、何の前触れもなく涙が零れ落ちた。朔也の痩せた手が濡れた頬に触れて、優しくそれを拭い去っていった。


「泣かないで、陽向……君を決して、独りぼっちにさせはしない。約束するよ……」


 朔也の容態が急変したのは、その夜のことだった。自宅から駆け付けた陽向は、なんとか間に合うことはできたが、彼を引き留めることはできなかった。


「……御臨終です」


とても静かな最期だった。朔也は二度と再び目を開けて陽向を見ることもなく、逝ってしまった。








「……この度は誠にお気の毒な事でした」


「とても残念です……あんな素晴らしい人だったのに……」


 葬儀の日、陽向は心を凍り付かせた人形のように、次々と訪れる弔問客の相手をしていた。


 多くは研究所や朔也の仕事の関係の人達だった。ラボの研究員達にはとても慕われていたのだろう、いつか朔也が倒れた時に病院で会ったことのある若い男性研究員は目を真っ赤に泣きはらしていた。


「久藤さん!」


 祭壇前の席にぼんやりと座っていた陽向は、いきなり弔問客の一人に手を取られてびくりと身を震わせた。


「本当に残念です……僕もまだ彼の考えた理論を一緒に研究していきたかった……」


 頭のやや薄い小男の顔には、見覚えがあった。確か、人工脳を搭載した虫型ロボットを施設内に放してしまって、ちょっとした騒ぎを引き起こしたことのある変わり者の研究者――。


「森啓介です。ご主人とは、ついこの間までメールでやり取りもしていたというのに本当に急なことで……」


 朔也の研究とは関わりの薄そうな、この男とは結構親しかったのだろうか。何か聞いたことがあるように気もするが、思い出せない。


 涙をハンカチで拭いながら焼香をしに行く森を冷めた目で見送って、陽向は改めて式場の中を見渡した。


 朔也の父親、そして結婚式には不在だった母親も、息子の訃報にアメリカから駆け付けてきていた。今は別の男性と家庭を持っている、朔也に似た面差しの美しい女性の目に、母親らしい涙はなかった。たった一人の弟は――今回も姿を現していない。母親の話では、連絡は入れたそうだが、仕事の都合でどうしても間に合わなかったのだそうだ。


(本当に肉親とは縁の薄かった朔也さん……でも、こんなにたくさんの研究者仲間が送ってくれるなら、きっと寂しくはないわね)


告別式は滞りなく終わり、朔也の家族をホテルまで送って、陽向はやっと自宅に戻ってきた。今は小さな骨壺に収められた朔也も一緒だ。


 身の回りを片付け、ほっと一息ついた途端、気が抜けたのだろう、堰を切ったように涙があふれだした。


「……朔也さん……朔也……」


 ふらふらと寝室に向かい、彼のベッドに突っ伏して、しばらく泣いた後、サイドテーブルの引き出しから白い封筒がはみ出していることに気が付いた。


 何だろうと取り出してみると、封筒の表には、朔也の筆跡で『陽向へ』と書かれている。


 陽向ははっと息を飲んだ。震える指で封を切ると、中に入っていたカード・キーが床に落ちた。見覚えのない、それは目で確かめだけで、先に便箋に描かれた朔也のメッセージに目を通した。





――陽向、僕達の新居の鍵を君に渡すよ。できることなら、君と一緒に新しい生活を始めたかった。しかし、もしもそうする前に僕が力尽きてしまったら……その時は、君一人でここに行って欲しい。





「何よ……私だけで新居で暮らしたって、意味なんかないじゃない……!」


ヒステリックに泣き叫んで、思わず手紙を破ろうとした時、そこに書かれた最後の一文が目に留まった。





――大切な君のために遺したものが、そこにあるんだ。最後まで君を守るという約束を、どうか僕に果たさせてくれ。





 陽向の目から滴った涙が、手紙の上に落ち、几帳面に整った文字を微かににじませた。


「朔也……さん……」


 陽向は床からカード・キーを拾い上げ、手紙と一緒に胸に抱きしめた。朔也が二度と帰ってこない家に、これ以上独りでいるのは、耐えられない。


 いつも使っているバッグを引っ掴み、陽向はおぼつかない足取りで、慣れ親しんだマンションの部屋から出ていった。


 夫も家族も、仕事も全て失った陽向の行かれる場所は、もう一つしかなかった。そう、朔也が自分のために整えた、『我が家』へ――。





***





(なんだか不思議、私、とても長い夢を見ていたような気がするの)





 薄っすらと開けた目の端で、何かがちかちかと光っている。それを避けるように顔を背け、 寝返りを打った拍子に手がベッドのヘッドボードに当たって、陽向はたちまち目を覚ました。思わず跳ね起き、ここがどこなのかを確認しようと辺りを見渡した。


 一瞬、ここはマンションの寝室のベッドの上で、いつものように寝起きの悪い妻を起こそうとしている朔也が傍にいるように気がしたのだが――。


(馬鹿ね)


 打ち寄せてきた記憶の波に淡い期待感は粉々に打ち砕かれた。


陽向はたった一人、馴染みのない部屋の真新しいシーツの敷かれたベッドの上にいるのだった。


(今何時だろう……そんなに長く眠ってはいないと思うから、まだ真夜中のはずだけれど……)


 陽向の目を覚ましたことを認識したのだろう、天井の照明がゆっくりと光度を増して、寝室の中のものの在りかを照らし出した。


 陽向の視線は壁にはめ込まれた大きな鏡の上に留まった。よくよく見れば、それはミラー型のディスプレイになっていて、淡く発行する画面に何か表示が出ている。


 疲れよりも好奇心が勝って、陽向はベッドから降り、鏡の前に立った。


 そう言えば、この家は最新型のOSによって管理するスマートホームなのだった。陽向も説明書にはざっと目を通していたはずだが、今までのところ、普通の家とそう変わらないので、どこが特区での建設にも許可が必要な実験施設なのか、ピンとこなかった。


「パスワードを入力してください……?」


 鏡の表面に浮き上がった光の文字は、くるくると回って、執拗にパスワードを要求してくる。陽向は途方に暮れそうになった。


「何よ、パスワードだなんて、私、教えてもらっていないわよ、朔也さん」


 そう呟いた途端、認証画面が一転した。


――音声認識システムがパスワードを確認しました。s、a、k、u、y、a……sakuya。OSを開始します。


 性別不明の無機質な音声が一方的にそう告げ、ディスプレイ上には、OSのインストール状況が表示された。八%……四十%……八十%……。


 陽向はしばし唖然となって、その様子を眺めていた。


(自分の名前を魔法の呪文にするなんて、随分しゃれっ気のあることをするのね)


自分を驚かせたことに成功してにっこり笑っている朔也を想像し、陽向は薄く微笑んだが、すぐに興味をなくし、その場を離れていった。


(……シャワーを浴びてこよう、汗をかいて、気持ちが悪い――)


 寝室のドアの方に向かいながら、陽向は、このスマートホームの機能について朔也が語っていたことを思い起こした。


(このスマートホームの最大の特徴はね、立体ホログラムによって空間に投影されるアバター、所有者が個別に与えられたホームセクレタリーを通じ、家を管理する汎用型人工知能(AGI)と直接に会話、コミュニケーションが取れることなんだよ)


 汎用型人工知能とのコミュニケーションなんて、そんなに簡単できるはずがないでしょうと、ラボの人工知能とのコミュニケーション実験に行き詰っていた陽向は一蹴して、信じようとしなかった。


(やれやれ、陽向はきっとすごく評価の厳しい所有者になるんだろうな。それなら僕が、そんな君でも満足させる、より完璧なホームセクレタリー・システムをカスタマイズして用意しよう)


 違う、これはまた別の時に聞いた話……いや、本当に朔也はそんなことを言ったのだろうか。夢でも見ていたのではないか……?


 ドアを開いた瞬間、ほのかな光の塊が部屋の中に生じるのを目の端で捉えた陽向は、何かに躓いたように足を止めた。


 頑固な陽向でさえも信じざるを得ない、より完璧なシステム――。


(まさか――そんなことは、ありえない……朔也さんが天才だって、できることとできないことがあるはずよ)


 陽向は弾かれたように後ろを振り返った。とっさに身構えようとしたが、そこにあるものを目にした途端、全身が砂と化して崩れ落ちていきそうになった。


 寝室の中央、さっきまで陽向が眠っていたベッドの前に、朔也が立っていた。柔らかなウエーブのかかった髪、悪戯っぽい笑みを浮かべた唇、深い謎をたたえた深沈とした黒い瞳も何もかも、生前の彼、いや、健康だった頃の久藤朔也そのもので――。


 唯一、決定的に違うのは、その全身が淡い光のベールをまとい、時折わずかなノイズを生じて揺れ動くことだけ。


 何も知らない人間が、こんな姿の彼を見たら、幽霊に違いないと恐怖に駆られるだろう。


 陽向が視線を天井に向けると、照明部分の他、四隅にホログラム発生装置の小さなレンズが光っていた。


 そう、これは勿論、朔也の幽霊などではなく、彼の姿を忠実に再現したホログラム・アバターなのだ。しかし――。


「陽向」


陽向の背筋に沿って、体毛が凍り付いた。聞き違えるはずがない、これは朔也の声だ。


「何だか長い夢を見ていたような気がするよ。……目が覚めたら、君が目の前にいて、そして、僕は――」


 朔也の姿をしたものは、目の前に広げた自らの手にしばし見入った後、やりきれないように頭を左右に振った。


「ここにおいで、陽向」


 朔也の手がこちらに向かって差し伸べられる。陽向は催眠術にでもかかったかのようにふらふらと、彼に引き寄せられていった。


「君にもう一度会えて嬉しいよ、陽向」


 半ば透けた実体のない腕が抱擁を装って、陽向の体に回される。その時、自分が小さく震えていることに、初めて気がついた。


「朔也……さん……」


 いわく言い難い惑乱に見舞われて、陽向は目を閉じた。夢の中で、稲妻に抱かれている気がした。 


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