第一章 胡蝶の見る夢 六
陽向が人工知能統合センターに着任して、あっという間に三ヶ月が経った。自分の研究論文を書き進めながらの新しい環境での仕事は、多忙を極めたが充実していた。
休日も、論文の資料を読み込んだり、データの精査のためにラボにこもって過ごすことが多くなり、当初の考えのように、週末ごとに頻繁に神戸に戻るという訳にいかなくなった。
朔也は朔也で、海外での講演に招かれることもあり、その準備や、自身の研究室の仕事に追われており、気が付けば、互いの顔を見ない時間はどんどん長くなっていた。
それでも、電話やSNSでのやり取りだけは頻繁にかわしていた。相手の声に耳を傾けることで、ともすれば湧き上がってくるわけもない不安をごまかそうとしていたのだろう。
そんなある日、指導員の東条からつい先日に提出した報告書について話があると呼び出された。研究の進展状況を確認したうえで、彼は「よく書けている」と褒めてくれたのだが――。
「久藤君、顔色がよくないが、どこか調子でも悪いんじゃないかね?」
思いも寄らない指摘に、陽向は意表を突かれた。
「そうでしょうか……?」
「ああ……うちの娘が残業続きで過労のために入院した時も、そんな顔色をしていたことを思い出してね。お節介かもしれないが、仕事ばかりしてないで、休養はちゃんと取るようにするんだよ」
確かに休日も返上で研究に明け暮れていたかもしれないが、睡眠時間は足りているはずだ。この頃は食欲がなくて、食事は簡単な栄養補助食でごまかすこともあったが……。
さすがに他人から指摘されると気になって、自分のラボに戻ってすぐ、陽向は鏡を出して、自分の顔を確かめてみた。
言われてみれば、目の下に濃い隈ができている。貧血気味なのだろうか。それだけじゃなく、顔全体が少しむくんでいるようだ。胃の調子もよくないし、もしかしたら本当にどこか悪いのかもしれない。
考えているうちに、同じラボにいる誰かが入れたのだろう、コーヒーの匂いが漂ってきた。それを嗅いだ途端、急に吐き気が込み上げてきて、陽向は慌てて席を立ちトイレに向かった。
(おかしいな……胃腸炎にでもなったのかしら)
えづいたものの吐いてしまうことはなかった。コーヒーに反応したようだが、以前は好きな香りだったのに、おかしい。
(まさか)
ここに至って、陽向は、そう言えば、最近生理が遅れていることを思い出した。環境が変わったせい、仕事が忙しすぎるせいと軽く考えていたが、まさか――。
動揺しながら、仕事帰りに薬局で買って帰った妊娠検査薬を使ってみた。祈るような思いで確認した、結果は陽性。
(どうして、このタイミングで妊娠なんて……ピルならちゃんと飲んでたはず……)
しかし、それも別居を始めてからはそれほど真面目に飲んでいなかったかもしれない。疲れて帰って、そのまま服用せずに寝てしまったこともあるかもしれない。
翌日、産婦人科で検査を受けたら、やはり妊娠二か月を過ぎた所だった。
「次は御主人と一緒にいらしてくださいね」
笑顔でそう言う看護師に、陽向はぎこちなく頷くことしかできなかった。
(朔也に話したら、何て言われるだろう)
自分が離散家族に育ったせいか、朔也は子供のたくさんいる温かい家庭を夢見ているようなところがある。キャリア志向の妻の前では決して口には出さないが、早く子供を授かりたいと思っているに違いない。
(いつか朔也の子供を産んで、一緒に育てて……彼との暮らしを重ねるうちに、自然とそうなることを考えなかったわけじゃないけれど……)
しかし、陽向にとって、それは『今』ではなかった。いつか欲しいと思っていた赤ちゃんなのに、少しも嬉しいと思えない――そんな自分に、何より腹が立った。
そんなわだかまりを胸に抱えていたせいか、陽向はすぐにこのことを朔也に知らせるのを躊躇った。電話越しであっても、陽向の声に喜びに浮き立つような響きがないことに、朔也はきっと気づくだろう。それを追及された時に、なんと言い訳したらいいのか、さっぱり分からなかった。
代わりに、陽向は、現実から逃避するかのように、日々の仕事に一層のめりこんでいった。辛いつわりも研究に集中にしている間は、和らぐ気がした。
しかし、無理をしたつけはほどなく回ってきた。
連日の睡眠不足がたたり、珍しくも寝坊をしてしまった朝、陽向は慌てて自宅のマンションの部屋を飛び出し、もよりの駅に向かった。
ラッシュ時の駅はいつものようにたくさんの乗降客で込み合っていた。おまけに、誰もが急いでいる時間帯だというのに、不具合が出たらしくエスカレーターが止まっていて、仕方なく階段を上がることになった。文句を言いながら登っていくサラリーマンや学生に混じって陽向もふうふう言いながら登っていき、やっとホームに辿り着いて一息ついた時、ふっと目の前が霞んだ。
貧血気味の上、寝不足なのだから、当然と言えば当然だ。とっさに階段の手すりの方に手を伸ばしかけた時、着いたばかりの電車から駆け下りてきた男がふらふらしている陽向を邪魔だとばかりに押しやった。
後ろにある階段の方によろめいた陽向は、そのまま足を踏み外して転倒し、転がり落ちてしまう。
(えっ……何…が起こったの……?)
階段の半ばくらいでとまった陽向は、一瞬現状が理解できなかった。近くにいた通勤客達が慌てて駆け寄ってきて、大丈夫ですか?と心配そうに尋ねてきたり、助け起こそうとしたりしてくれたが、最初に陽向を押しのけた男はというと、どこかに消えていた。
「痛っ……」
人々に助けられながら上体を起こした時、腹部に異常な痛みを覚えると共に出血していることに気が付いた。
(嘘……まさか、そんな――)
陽向はパニックになった。とっさに、傍にいた女性の手に縋りついた。
「お願いです、救急車を呼んでください、私、妊娠しているんです!」
そう叫ぶ自分の切迫した声を聞いたのを最後に、陽向の意識は遠のき、闇の中に滑り落ちていった。
「罰が当たったのね」
救急搬送された日の夕方、必要な処置を施された体を病院のベッドに横たえた陽向は、白い天井を見つめながら乾いた声で呟いた。
「罰?」
ごく低い穏やかな声が尋ねる。点滴のチューブにつながれた腕に、温かい手がそっと触れ、いたわるかのように撫でた。
「仕事のことばかり考えていて、せっかく授かった命のことを邪魔だなんて思ってしまった……素直に喜べずに、あなたに知らせるのも先送りにしてしまっていた」
傍についてくれている人の顔を頑なに見ようとしない、陽向の虚ろな目がふいに潤んだ。
「だから、こんなことになったの。ごめんなさい、朔也……私達のあかちゃん、死んじゃった……全部私のせい……」
「それは違う」
陽向の言葉を遮るかのように、彼の口調は少し強くなった。
「責められるべきなのは陽向ではなく、駅の階段で君を突き飛ばした見知らぬ男のはずだ」
「でも、私は……もっと大切にしてあげるべきだったのに、あかちゃんのこと守れなかったのよ……!」
「そうだね、確かに君は、自分の体をもっといたわるべきだった。……僕が残念に思うのは、初めての妊娠で動揺した時、君が迷わず相談できるほどには、僕は信頼されていなかったのかなってことだよ」
「!」
陽向は思わず、痛む体を起こして、朔也の方に視線を向けた。こんなにも悲しそうな彼の顔は初めて見た。
「ちが……う……」
違う。朔也を信頼していないなんて――そんなことはない。
口から出かかった言い訳は、たちまち胸に打ち寄せてきた圧倒的な感情の前に凍り付き、ついに言葉にならなかった。
ずっと昔、まだ少女だった頃、この人は決して自分を裏切らないと確信していたはずだ。それなら、なぜ大人になった今も変わらず信じようとしなかったのか。
大きく見開いた目から堰を切ったようにぽろぽろと大粒の涙をこぼす陽向に、朔也はベッド脇に寄せていた丸椅子から身を起こし、震える彼女の体をそっと抱きしめてくれた。
「もう、いいよ、陽向。今はもう何も考えるな。……ゆっくり眠って、体を休めるんだ」
朔也の大きな手が、あやすように陽向の頭を撫でてくれている。
「君が怪我をして病院に運ばれたと聞いた時は、心臓が止まるかと思った。無事でいてくれて、どんなほっとしたことか」
かき口説くように囁いて、朔也は陽向の顔を覗き込みながら、にっこりと微笑んだ。無理して作った笑顔は、どこか痛々しい。
「ねえ、朔也……しばらく見ないうちに、少し痩せた……?」
もともと食べても肉につかない人だったけれど、顎がとがって見えるほどに明らかに痩せた彼の顔を見て、不安な胸騒ぎがした。
「陽向がいなくなってから、ちょっと不摂生をしていたからね。でも、それを言うなら、陽向も同じだろ」
絹のような指先が、涙でぬれた陽向の頬を優しくくすぐっていった。
「僕は大丈夫だよ。心配しないで、今は眠って、陽向……」
胸の奥が訳もなくざわついていたが、励ますように頷く朔也の顔を見ているうちに、信じてもいいような気がしてきた。深く考えるには、陽向はあまりに打ちひしがれていた。
そのことを後から、どんなに後悔したか、知れない。
退院後間もなく、陽向は職場復帰した。いつまでも休んでいると、周囲から取り残されてしまいそうな気がしたからだ。
朔也も神戸に戻っていったが、流産した後ろめたさのせいで連絡は滞りがちだった。
この頃から不眠に悩まされるようになった陽向は、心療内科にかかるようになった。薬の影響もあって考えがまとまらず、研究論文も滞るようになった。
そんなある日、陽向は、ネットで公開されている東条の論文の一部にどこかで見覚えのある記述があることに気が付いた。
(……これって、私が書いたものにそっくり……そうよ、東条先生に提出した、私の研究の報告書……)
論文発表のプレッシャーに常にさらされている学者が、他人の論文を盗用するという話は、今でもたまに聞くことがある。しかし、まさか自分の、しかも正式に論文の形になっていない報告書を上司に使われるなんて、信じられなかった。
「……東条先生!」
頭に血が上った陽向は、東条のラボにまで彼を問い詰めに行った。大勢の研究員が何事かと見守る中、彼の論文に不正があったことを問いただしたのだ。しかし、陽向の剣幕にたじろいだのか、相手は空とぼけるばかり。
「久藤君、君の報告書なら確かに受け取った記憶はあるが、私は他の大勢の研究員の報告書や論文にも目を通しているんだよ。君の研究の経過報告書の内容まで、すぐには思い出せないな……君の勘違いだと思うがね、後で確認してみるから、また出直してくれないか」
そういなしたうえで所要のために出ていく東条を、陽向は呆然と見送ることしかできなかった。
ラボにいた研究員達は、気の毒そうな顔をするか、関わり合いになりたくないとばかりに陽向から視線を逸らすかのどちらかだ。
脳裏に朔也の顔が思い出されたが、彼は遠く神戸におり、何よりも陽向自身の後ろめたさが彼に仕事でのトラブルを伝えることを潔しとしなかった。
(一人でも大丈夫なんて言って、自分の我がままを通して家を飛び出したのに、私はここでも失敗してしまったの……?)
裏切られた怒りと口惜しさでふらふらになりながら、何とか自分のラボに戻る。呼吸が不自然に乱れており、息が苦しい。過呼吸の発作を起こしかけているのだと気づいて、デスクに深く腰を下ろし、何とか呼吸を整えようと試みていた時、スマホが鳴った。
画面を見れば朔也の名前が表示されている。何という偶然だろうと、慌てて応答に出る。しかし――。
「久藤陽向さんですか……久藤博士の奥さんの?」
端末から聞こえてきたのは、慣れ親しんだ朔也の声ではなかった。
「は、はい、陽向です」
戸惑いながら、朔也のラボの研究員だと名乗る男の話に耳を傾ける。
「陽向さん、どうか驚かないで聞いてください……久藤博士が倒れたんです」
陽向はスマホを握りしめたまま、よろよろと立ち上がった。相手の言っていることが、とっさに頭では理解できなかったが、体の方が先に反応したのか、無意識にバッグを持ち上げようとした。
「朔也さんが…どうして……?」
「ミーティング中に急に、激しい背中の痛みを覚えられて、ポートアイランドの中央市民病院に緊急入院になりました。主治医から身内の方を呼ぶようにと指示があったので、お願いです、できるだけ早く、こちらに戻ってもらえませんか?」
陽向は声もなく凍り付いた。全身が砂と化して、足元から崩れ落ちていくような気がした。
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