第4話

 翌日。

 空には雲ひとつない。駅でしばらく空を眺めていたが、雨が降る気配はない。私はちょっぴりがっかりしながら自転車置き場に向かった。

 そんな自分の心情を不思議に感じて、自転車を漕ぎながら考える。バスは苦手で、自転車で学校に行くのは好きだ。だからがっかりすることなんてない。

 昨日、バスでセンパイと話したことが楽しかったからかもしれない。友だちと話すのも楽しいのだけれど、センパイとの会話はそれとは少しだけ違う感じがした。

 それから次に会えたらきっとセンパイの名前を聞こうと思っていたからだ。時間が空いてしまったらセンパイと話すきっかけが作れないかもしれない。昨日センパイと話せたのは、私が偶然二人掛けに座ったからだし、偶然センパイが隣の席に座ったからだ。ちょっぴり仲良くなれたセンパイと次も話ができるとは限らない。

 昨日、センパイは私と相席をしたけれど、今日は別の誰かと相席をしているのだろうか。あのセンパイのことだからきっと今日も楽しく何かを話しているのだろう。

 私はあんなふうに相席をして話をするのがはじめてだったからびっくりしたけれど、センパイは二年以上同じようにバスに乗っていたはずだ。だからたまたま顔を合わせただけの一年生のことなんて、忘れてしまっているかもしれない。

 そもそもセンパイの名前が聞けなかっただけでなく、私だって名乗っていない。自分が名乗らなかったからセンパイの名前も聞けなかったのだ。次に会ったときにはちゃんと名乗ろう。だけどいきなり名前を言うのも変な気がする。どうすればいいのだろう。

 自転車を漕ぐスピードに合わせて街並みが流れていく。それと同じように思考がドンドンと流れていく感覚が好きだった。

 藤花に自転車で三十分かけて学校に来ていると話したとき「うわー! きつっ!」と叫ばれた。桃には「ちょっと遠くない?」と心配された。だけど、こうして色々なことを考えていると、意外とあっという間に学校に到着してしまうのだ。

 学校の近くまでたどり着いたとき、背後から大型の自動車のエンジン音が近づくのに気付いた。チラリと振り向いて確認すると、学校の前を通過するバスだった。

 このバスにセンパイは乗っているだろうか思いながら、私を追いこすバスの窓を見上げる。すると窓に顔を近づけて笑顔で手を振るセンパイの姿を見つけた。私は動こうとした右手を押しとどめてハンドルをギュッと握り、センパイから視線をそらさないように小さく頭を下げる。センパイは遠目からでも八重歯が確認できるくらいの満面の笑みで笑って手を振ってくれた。

 私が学校の前までたどり着くとバス停にセンパイが立っていた。そして私の姿を見付けて大きく手を振る。

「おはよう」

「おはようございます」

 私は自転車から降りて挨拶をした。

「今日はお天気だから自転車なんだね」

「はい」

 そうして自転車を押してセンパイの隣を歩く。

「自転車って気持ちよさそうだね」

 センパイは珍しいものを見るように私の自転車に少し触れながら言った。

「気楽だし気持ちいいですよ。センパイも自転車で通える距離じゃないんですか?」

 するとセンパイは急に足を止めた。そして少し唇を尖らせて俯く。

「自転車、乗れないんだもん」

「ええっ! 乗れないんですか!」

 思わず叫ぶとセンパイはさらに唇を尖らせた。

「別に乗れなくても困らないし」

 センパイはそう言うと歩くスピードを上げて、私を残してスタスタと先に行ってしまう。三年のセンパイに対して失礼過ぎたと私は焦った。しかも昨日はじめて会った人だ。センパイが仲良く話してくれるから勘違いをしてしまっていた。クラスメートとは違う。センパイなのだ。

 私は慌ててセンパイを追いかけて「すみませんでした」と声を掛ける。だがセンパイはそっぽを向いてしまってこっちを見てくれない。

「あの、センパイ、すみません。本当に……えっと、バカにしたわけじゃなくて、その……」

 若干涙目になりながら必死に謝ると、クックックという妙な音が聞こえはじめた。その音の出どころはセンパイだ。よく見るとセンパイはそっぽを向いたまま、口もとに手を当てて肩を小さく震わせている。

「センパイ?」

 思い切ってセンパイの肩を引いて顔を覗き込む。目が合った瞬間、センパイはブハッと盛大に笑い声をあげた。

 どうやらセンパイにからかわれていたようだ。

「怒らせちゃったかと思ってびっくりしたじゃないですかー」

 思わず情けない声が漏れてしまう。

「ゴメン、なんだか必死に謝るのが面白くて」

 センパイはクスクスと笑い続けながらピタリと足を止める。

「え? 今度は何ですか?」

 意味が分からず首をかしげると、センパイはさらに楽しそうに笑って私の方を指さした。

「自転車」

 そう言われてやっと気づく。もう玄関の目の前まで来ていた。自転車を引いたまま教室に行くことなんてできない。センパイはクスクスと笑い続けながら「じゃあね」と言って玄関の中へと姿を消した。

 私は一人になってトボトボと自転車置き場に向かう。そしてまた名前を聞けなかったことを思い出した。

 静かな教室で一人考える。

 センパイは、私のことを覚えていてくれた。きっと名前を聞いても不自然ではないはずだ。だけどどう切り出せばいいのかが難しい。

 次に会ったときに「名前を教えてください」と普通に言えばいいのだろうか。それともまずは自分の名前を伝えるべきだろうか。でもいきなり自己紹介をはじめるのはちょっと違うような気がする。

 うーん、と頭を抱えていると「おはよう」と声がした。声の方を見ると、桃が一人で立っている。

「おはよう。あれ? 藤花は?」

 すると桃は微妙な笑みを浮かべながらため息を付いた。

「今日は一人で起きるって言ったから起こしに行かなかったの。でも待ち合わせの場所に来ないから覗きに行ったら、まだ寝てた」

「あらら」

「今日は遅刻するかもね」

 そんな桃を見ているとまるで藤花のお母さんのようだ。

「それより、うれしそうに何を考えてたの?」

「別にうれしそうにはしてなかったと思うけど」

 私は首を捻る。どうやってセンパイの名前を聞こうか悩んでいたのであって、うれしそうになんてしていないはずだ。

「そうかな? すごくうれしそうっていうか、楽しそうっていうか、そんな顔をしてたように見えたんだけど」

 私は自分の顔を触りながらますます首を捻った。

 そして藤花は、何とか遅刻にならないギリギリの時間になって教室に飛び込んできた。

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