第116話

 仕方なかったんだ、とイーサンは言った。


「私自身がアッシェンへ乗り込んで君を浚ったところで、私はただの誘拐犯扱いされ、陛下の逆鱗に触れるだけ。そうなれば、君と私は永遠に引き裂かれてしまうだろう。だから、金を払って人を雇ったところまではよかったんだが――」


 彼は暗い夜空を見上げ、一瞬だけ目を閉じる。

 その瞼の裏に何が映っているのか、ジュリエットには知る由もない。


「……私も若くて愚かだった。あんなことになるくらいなら、足が付くことなど恐れず、最初から自分自身の手で君を救い出せばよかった」


 そんなものは彼の自己満足だ。

 リデルはオスカーとエミリアの側にいたかった。イーサンがあんなことをしなければ、家族三人で仲良く暮らす未来が待っていたかもしれないのに。

 だが、今はその怒りを彼にぶつけるべき時ではない。ジュリエットが真っ先にすべきなのは、エミリアの無事を確かめることだ。


「エミリアに、会わせてください。本当に、怪我を負わせたりはしていないのでしょうね?」

「君は心配性だね。大丈夫、薬で眠らせて馬車の中で休んでもらっていただけだよ。今から連れてくる」


 目配せを受け、イーサンの側で控えていた護衛らしき男が足早に去って行く。

 近くに馬車でも停めていたのか、男がエミリアを連れて戻ってきたのはそれからすぐのことだった。


「エミリアさま!」


 エミリアに駆け寄ったジュリエットは、彼女の様子を確認してほっとした。

 少し疲れた顔はしているものの、怪我を負っているわけでも気分が悪いわけでもなさそうだ。

 イーサンが嘘をついていなかったことに、腰が抜けそうなほどの安堵を覚えた。


「ご無事でよかった……。心配しましたよ」

「ジュリエット……どうしてここに? それに、ミーナも。おじさままで……」


 どうやらエミリアは、自分をさらった首謀者がイーサンだということを今の今まで知らなかったらしい。ならば馬車の中で独り目覚め、どれほど長いこと不安な気持ちを抱えていたことだろう。

 伯父が目的の人物を手に入れるための餌にされただなんて、まだたった十二歳の少女の身に降りかかった出来事としては、あまりに酷だ。

 ジュリエットはエミリアを抱きしめると、彼女の耳元で囁いた。


「今は何も聞かず、馬に乗ってすぐにここを離れてください。そしてまっすぐアッシェンへ――お父さまの元へ帰るのです」

「え? でも、ジュリエット……」


 不安げに、エミリアの眼差しが揺れる。

 幼いとはいってももう十二歳の少女。今自分の置かれている状況が異常であること、そしてそれが伯父と慕っていたイーサンのせいによるものだということも、薄々察しがついていることだろう。


 そんな彼女を守るように抱きしめたまま、ジュリエットはイーサンに強い視線を向けた。かつてのリデルであれば、決してしないであっただろう、敵意を滲ませた表情を。


「クレッセン公! わたしがここに残れば、エミリアさまのことはアッシェン城へ無事に帰していただけるのですよね!?」

「ああ、もちろんだよ。私は約束を守る男だ。私には君さえいれば、他に何もいらないのだから」

「おじさまもジュリエットも、何を言っているの……!? どうしておじさまが、ジュリエットを――」 

「エミリア!!」


 困惑するエミリアの両肩を掴み、ジュリエットは真正面から彼女の顔を覗き込む。


「何も言わずアッシェンへ帰りなさい。わたしは大丈夫だから、早く安全な場所まで。大丈夫、わたしがここにいる限り、あなたの身の安全は保証されています」

「でも、そうしたらジュリエットはどうなるの?」


 不安に揺れる眼差しに、声に、ジュリエットは明確な答えを返さなかった。

 代わりに娘の白い頬に唇を寄せ、小さく囁いた。


「――ているわ、エミリア」


 その声は風の音や木々のざわめきによってかき消され、きっとエミリアの耳には届かなかっただろう。けれど、それでいい。

 エミリアにとっての母は、リデルだけ。ジュリエット生まれ変わりの存在は、彼女にとってきっと余計な雑音にしかならないだろうから。


 だけどその瞬間、エミリアが驚いたように顔を上げる。

 まるで、決して見えないはずの幻影を見たような表情で。

 

「お、か――……」

「エミリアさま! さあ早く、馬に乗って! 後ろを振り向かず、走り続けてください!」


 エミリアが何事か口にしようとしたその時、ジュリエットは突き飛ばすようにして彼女を馬のほうへ追いやった。

 エミリアは後ろ髪ひかれるような顔をしながらも、いつにないジュリエットの強い口調と真剣な眼差しに気圧されたよう、側にいた馬に飛び乗る。


「すぐに助けを呼んで戻ってくるから! だから、どうか無事でいて……っ!」


 そう言い残して、彼女は馬の腹を蹴った。

 甲高いいななきが森の中に響き渡り、すぐ、力強い足音が鳴り始める。

 遠のいていく馬と馬上のエミリアを見守りながら、ジュリエットは静かにその背中へ向かって呟いた。

 

「さようなら……わたしの最愛の娘」

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