第78話
混沌としたジュリエットの感情を置き去りにして、オスカーの誕生日会の準備は滞りなく進められた。
休憩時間になるたびジュリエットはエミリアと共に厨房へ向かい、サンドイッチ作りの練習に付き合った。
最初の内は手伝いがなければ何もできなかったエミリアも、日を追うごとに調理器具や火の扱いが上手になり、誰の手を借りずとも上手にサンドイッチを作れるようになっていく。
その間、指を切ったり火傷したりと小さな怪我は絶えなかったが、エミリアは泣き言ひとつ漏らさなかった。
「こういうの、名誉の傷痕っていうのよね!」
と、むしろ誇らしげな様子が可愛らしい。
サンドイッチの他にエミリアはもうひとつ、父へ渡す誕生日の贈り物を用意していた。それは、刺繍の入ったハンカチだ。ジュリエットの授業で上達した刺繍の成果を、オスカーに見てもらおうという試みらしい。
どのような模様を縫い取るかは、ふたりで話し合って決めた。
花や鳥、魚や貝、剣や盾――。
さまざまな案が出る中でエミリアが選んだのは、アッシェン伯爵家の紋章である大白鷹の刺繍だった。
「お父さまが昔、お母さまから貰った剣帯に紋章が刺繍してあるの。大白鷹は、わたしたちのご先祖さま、アール族の守護神だったんですって。だから、同じのを作りたくて、昔誰かが使っていた図案を見つけてきたのよ」
エミリアが見せてくれたのは、随分古びて端々が綻びた紙だった。
リデルが刺繍したものと細部は違うが、概ねの部分は同じ図案である。エミリアの先祖であるその誰かもまた、大切な人の加護を祈りながらこの刺繍を施したのだろう。
ジュリエットは初心者のエミリアでも刺せるよう、多少簡略化した図案を新たに起こした。刺繍糸は白と黒を主体に、茶や黄色などを差し色として使う。
そして何より重要なのは、光にかざせばきらきら輝く、銀の糸だ。
「剣帯と同じように、古代文字の部分はこの糸で縫いましょう。室内では分かりづらいですが、外で使うと光を弾いて、きっととても綺麗ですよ」
「それって、すごくいい考え! 早速練習しましょう」
「ええ、それではまずは、まっすぐに縫う訓練からですね」
まずは運針を安定させるため、要らない布にひたすら針を刺していく。地味な作業ではあるが、力加減がまちまちだと、縫い目がガタガタして布が僅かに変形してしまうため、この練習は欠かせない。
そうしてエミリアが贈り物の準備をしている間、ミーナやロージー、カーソンたちが会場となるティールームの飾り付けや花の手配に奔走する。
全ての準備は、オスカーに悟られないよう、秘密裏に進んでいた。
エミリアと過ごす日々は、悶々とした思いを持て余すジュリエットにとって唯一の救いであった。授業や料理の特訓で忙しくしている分、己の心に向き合わずに済んだし、何より屈託のないエミリアの笑顔に癒やされる。
幸いにして、オスカーと顔を合わせることはそう多くはなかった。
授業の進捗具合を定期報告したり、城内で偶然すれ違ったり、その程度のことである。
想いを自覚したからと言って何か行動を起こそうという気は、ジュリエットにはなかった。
自身の正体を彼に告白し、どうこうなる未来など、想像すらしてなかったのである。家庭教師の期間が終われば予定通りアッシェン城を辞して、『ジュリエット・ディ・グレンウォルシャー』に戻る。
そうして社交界デビューをし、フォーリンゲン子爵家の婿として相応しい相手を探すのだ。
――けれど運命は時に、自身の思いも寄らぬ方向へ進んで行く。
それはエミリアが刺繍の練習を始めて、一ヶ月も経った頃。
イーサン来訪まで数日を切り、城内がますます慌ただしくなってきた来た時期のことである。
メアリと共に昼食を取っていたジュリエットの許に、珍しくカーソンがやってきたのだ。
メイド頭である彼女と、ジュリエットとの接点は非常に少ない。ここ最近、オスカーの誕生日会関連で顔を合わせることは増えていたが、それはいつもエミリアがいる場でのことだった。
「ジュリエットさん、あなたにお話があります。少々よろしいでしょうか」
カーソンは人目を憚るようにジュリエットを空いている部屋へ連れて行くと、わざわざ中から鍵を掛け、用心深くカーテンまで閉めた。
もしや自分の知らぬ所で何か不始末でも起こしたかと、ジュリエットは俄に緊張する。
しばらく厳しい目つきでジュリエットを見つめていたカーソンだが、彼女はやがて懐から一枚の布を取り出した。
見覚えのある布だった。
エミリアが刺繍を練習する際に使ったハンカチだ。
最近作った中では一番の出来だったが、まだ父に贈るような段階ではないと、エミリアが自分用に取っておいたものだった。
「そのハンカチが、何か……」
「これを、お嬢さまがお持ちになっておられました。刺繍はジュリエットさんから教わったものだと……。相違ございませんか?」
「え、ええ」
カーソンが何を言いたいのかわからず、戸惑いながら首を縦に振った。
すると見る見るうちに、カーソンの目が潤み始め、やがて目のふちにたまり切れなかった透明の雫が一筋、頬を伝って零れ落ちていく。
「この縫い取りは、わたくしが手ずから、あるお方にお教えしたものでございます」
「え……」
まるで一枚のハンカチが大切な宝物であるかのように、カーソンは細く皺の寄った指先でそっと撫でた。銀糸で刺繍された古代文字がカーテンの隙間から差す光に照らされ、微かに浮かび上がっている。
「この刺繍に使われている技法は、アーリングに古くから伝わる特殊な物で、それを知る者から教わらねば決して再現することはできません。あなたは――」
知性を感じさせる灰色の瞳がますます潤み、縋るようにジュリエットを見つめる。
どこか熱の籠もった眼差しから、ジュリエットは視線を離せない。
「あなたさまは、リデルさまなのですね……?」
問いかけの形をしていながら、少しも迷いのない口調――それはカーソンが、己の出した答えに確信を持っている証拠に他ならなかった。
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