第75話
イーサンの来訪。保養地への滞在。そしてなんと言っても、ジョエル王子の誕生日会。
なるほど、本当にこれから大忙しだ。
「それで、お茶会の内容ですが……。お茶会には、どなたか閣下のご友人がいらっしゃるのですか?」
「え? ううん、お父さまにはお友だちはいないの。エヴァンズ男爵夫人のお兄さまだけが本当の友達だったって、以前仰っていたわ。〝マーシー峡谷の悲劇〟で亡くなったんだけど、とてもいい方だったそうよ」
――マーシー峡谷の悲劇?
耳慣れぬ単語に一瞬首を傾げたが、それを問い返すより早く、エミリアが話題を戻した。
「だからお茶会に参加するのは、身内だけよ」
「でしたら、お席の準備やお料理の支度はそう難しくなさそうですね」
「ええ! だからね、お茶会で出すお料理はわたしが作りたいと思ってるの」
思いも寄らぬ提案に、ジュリエットは目をしばたたいた。
伯爵令嬢のやることではないと頭ごなしに否定するほど堅物ではないが、不安だ。
エミリアは蝶よ花よと育てられた箱入り娘。もちろん包丁など持ったことがないし、暖炉以外の火に近づいたことがあるかどうかもわからない。そんな彼女に、料理は早いのではないか。
少々過保護かもしれないが、きっと彼女の侍女たちだって反対するはずだ。
「こっそり練習して、お父さまをびっくりさせようと思って。ロージーが、サンドイッチならわたしでも作れるんじゃないかって言っていたから、サンドイッチを作りたいの」
それでもまずはエミリアの主張を聞いてみようと口を閉ざしていれば、彼女が選んだ料理の名前に思わず噎せそうになる。
サンドイッチだけはやめたほうがいいのではないか。よりにもよってそれを選ぶとは、さすが自分の娘――などと感慨に耽っている場合ではない。
「あの、でも、手を怪我する危険もありますし……。お祝いの品は別のものにして、お食事の準備は料理人の皆さんに任せたほうがよろしいのでは……」
弱々しく意見してみたが、その程度はかつてリデルも、ミーナや他の侍女たちから散々言われたことだ。そしてどんなに反対されてもつっぱねてみせた頑固さは、立派にエミリアに受け継がれているらしい。
「大丈夫よ。刺繍する時だって、針で指を怪我することはあるでしょう?」
そう。リデルも、今エミリアが言ったのとほぼ同じ台詞を口にした。
刺繍は淑女の嗜み。慣れぬ内はその過程で指を怪我することなど、日常茶飯事だ。
今のところエミリアを説得できる正当な理由が『危険』以外に思いつかなかったジュリエットは、もう頷くことしかできない。
「そうと決まったら早速明日から、休憩時間にサンドイッチ作りを練習しなきゃ。ジュリエットも付き合ってくれる?」
父の喜ぶ顔を想像して浮き立っているエミリアはこの上なく可愛らしく、胸に過ぎった一抹の不安を掻き消してくれた。
大丈夫。あの時彼がサンドイッチを拒絶したのは、リデルが作ったものだったからだ。
――愛娘が用意したサンドイッチなら、旦那さまもきっと喜ぶはずだわ。
「ええ、もちろんです」
「ありがとう。ジュリエットが一緒なら心強いわ」
今にも準備に取りかかれると言わんばかりの、気合いのこもった態度だった。エミリアの、この計画にかける情熱が如実に伝わってくる。
「でも、もちろんその間のお勉強やマナーの特訓も、これまでと同じく頑張っていただきますからね」
「うっ……。わかってるわ。
以前と比べて格段に成長しているとはいえ、未だに勉強に対する苦手意識は拭えていないようだ。
唐突に授業の話を持ち出され、エミリアは複雑そうな顔をしていた。
ジュリエットとしても、エミリアの張り切りに無闇に水を差すつもりはない。釘を刺すのは程々にしておくことにする。
「わたしも精一杯協力いたしますから、頑張って素敵なお茶会にしましょうね」
「うん!」
エミリアが実にいい返事をした、その時だった。
扉を叩く音と共に、オスカーの声が聞こえてきたのは。
「エミリー、私だ。開けてもいいか?」
ジュリエットとエミリアは同時に顔を見合わせ、慌てて帳面やペンを抽斗の中へ突っ込み『証拠隠滅』を図る。
冷静になって考えれば、勉強しているふりでもしていればよかったのだろうが、それに気付いたのは随分後になってからだった。
危うくインク壺を引っ繰り返しそうになりつつ、それでもなんとか体裁を整え、互いに雑談でもしていたかのような雰囲気でソファに腰掛ける。
「どうぞ、お父さま」
「ああ。おやすみの挨拶を――これは失礼。ジュリエット嬢が来ていたのか」
「エミリアさまとちょっとした世間話をしていたところです。そろそろお部屋に戻らせていただきますわ」
腰を浮かせかけたその時、つんと裾を引っ張られるような感覚があった。
見ればエミリアがジュリエットのワンピースを軽く掴み、少ししょんぼりした表情で見上げている。
「もう行っちゃうの? せっかくジュリエットが初めてお部屋に来てくれたから、もっとお話していたいわ」
「エミリア。お前はそろそろ寝る時間だろう?」
「そうだけど、でも……」
父に軽く窘められたからと言って、エミリアはジュリエットを部屋に残すことを諦めたわけではなさそうだった。しばらく難しい顔で考え込んでいたかと思えば、何か名案を考えついたかのようにぱっと表情を明るくする。
「そうだわ! ジュリエットに寝る前の読み聞かせをしてもらうっていうのはどう?」
「こら、無理を言うんじゃない。ジュリエットの勤務時間はとっくに過ぎている。そろそろ休ませないと」
「わたしは構いませんけれど……」
親子の会話に差し出がましいとは思いつつ、つい口を挟んでしまったのは、エミリアがあまりにきらきらした期待を込めた眼差しを向けてきたからだ。
「本当に!? 嬉しい、わたしジュリエットに読んでほしいお話があるの!」
ジュリエットから色よい返事をもらえたことに、エミリアは予想以上に喜んでくれた。
オスカーの返事を聞くより早くソファから飛び降りると、跳ねるような足取りで本棚へ向かう。
そうして持ってきたのは、ジュリエットにとっては非常に見覚えのある装丁の、まだ新しい本だった。
表紙に刻印された題名は『白薔薇姫の涙』。
「ジュリエットがわたしのお誕生日に贈ってくれたご本よ」
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