第4話

 リデルの許にはたびたび、家族たちから手紙が届いた。幸せに暮らしているか、夫に大切にしてもらっているか、愛されているか……。

 父も、母も、兄も、姉も、引っ込み思案な末娘を心から心配してくれていた。

 優しく気遣うそれらすべてに、リデルはいつも、ありもしない夫との日常を書いた手紙を返した。

 オスカーは自分をとても大事にしてくれ、色々なところに連れて行ってくれたり、たくさんの贈り物をしてくれる。おかげで、自分は毎日信じられないほど満ち足りた、幸福な日々を過ごしている。


 それは、リデルがどんなに夢見ても手に入らない、憧れた結婚生活そのもの。

 自分は利用価値があるだけの単なる道具に過ぎず、お飾りの妻でしかない。それを夫から思い知らされても尚、リデルは彼を嫌うことができなかった。

 けれどミーナは、日に日に元気がなくなっていくリデルを目の当たりにし、黙っていることができなかったようだ。

 幼い頃から側で仕え、時に姉のように見守ってきてくれた彼女にとって、オスカーの態度は到底我慢ならないものだったらしい。

 

 限界だと言った彼女は、リデルも知らぬうちに王都からある男性を呼び寄せた。

 王太子である長兄の補佐として仕えている彼は、リデルの年の離れた従兄、イーサンだ。

 ミーナから事情を聞いた彼は、すべての仕事を部下たちに任せ、王都からアッシェン領まで早馬を飛ばしてやってきたらしい。

 そして、ひとしきりオスカーの仕打ちを批判すると、このままリデルを連れ帰ると言い出した。


「ここにいても君は幸せになれない。陛下に申し上げて、離縁の手続きを取ろう」

「そんな、だめよお兄さま……」

「何を躊躇う? ミーナに聞いたよ。君たちの結婚は、まだ白いままなのだろう。ならば離婚しても君の名誉は守られる」


 白い結婚。

 初夜の契りを結ばなかった夫婦について語る際、用いられる言葉だ。ほとんどの場合、夫に非があるとみなされ、妻の側はその経歴に何の傷を残すこともなく離縁することが認められる。

 ミーナはそこまで話したのかと思い、リデルはかっと頬に血の気を上らせた。


「君がアッシェン伯に憧れていたことは知っている。期待する気持ちも、わからないでもない。けれどこんな結婚生活はあんまりだ。君を顧みず、愛人とばかり過ごすなんて――陛下が知ったら、お赦しになるはずがない」


 確かにイーサンの言う通りだ。

 これまでの経緯を父に説明すれば、きっと彼は激怒するだろう。家族思いの父は、娘が軽んじられていると知って黙っていられるほど優しい人間ではない。

 そして娘を利用した男を、決して赦しはしないはずだ。

 直接罰を与えずとも、「王の怒りを買った」その事実だけで、オスカーは感嘆に失墜してしまう。


「悪いのはすべてアッシェン伯だ。君が罪悪感など覚える必要はないんだよ」


 頷こうとしないリデルを、イーサンは穏やかな声で慰め、諭す。

 確かにリデルは客観的に見ても、オスカーからこれほどまでに軽んじられるような妻ではなかった。会話さえほとんどしたことがないのだ。リデル本人に、自覚なんてあるはずない。

 今までも、ミーナから何度か言われたことがある。

 陛下に状況を説明し、教会へ離縁を願い出ましょうと。それをしなかったのは、リデルの中にまだ、もしかすればという期待があったからだ。

 その期待が打ち砕かれた今、リデルはミーナや従兄の言うことに従うのが最善なのかもしれない。

 ――でも。


「わたし、離縁はしません。父に、言うつもりも……」

「っ、なぜ……!」

「どんな目的があろうと、あの方は『はずれ姫』のわたしを娶ってくださいました。わたしは、自分にできる限りの恩返しがしたいのです」


 イーサンが、大きく目を見開く。


「君は……それほど虐げられていてもまだ、あの男の側にいたいと言うのか?」

「……あの方はわたしの、憧れなのです」

「そんなに……愛しているのか」


 愛、というものとは違うのかもしれない。

 リデルがオスカーに初めて出会った時から抱いていた憧憬は、恋とか愛と表現するより、畏怖や尊敬と言ったほうが相応しい気がする。

 それは、今でも変わっていない。

 元王女を妻に据えていれば、オスカーは多大な利益を得られる。お荷物で役立たずと呼ばれた自分が、好きな人のためにできることはそれだけ。

 たとえオスカーがリデルを愛する日が一生来ないとしても。利用されているだけだとしても、自分という存在が少しでも彼の幸せの手助けになるのならば、それでいい。

 リデルはもう、彼から優しくされることを諦めることにした。


 イーサンが一瞬、端正な顔立ちをくしゃりと歪めた。

 そしてリデルが手を伸ばし、大丈夫かと聞こうとしたその瞬間。

 彼の逞しい腕がリデルを引き寄せ、胸に押しつけるようにしてきつく抱きしめた。


「お、兄……さま?」

「リデル。君は知らなかったろう。私が君の十六歳の誕生日に、陛下へ婚姻の許可をいただきに上がろうと考えていたことを。なのに陛下はそれより早く、あの鼻持ちならないアッシェン伯に君を降嫁させると決めたんだ」

「でも、お兄さまは……。わたしを好きなわけではありませんよね……?」


 従兄妹同士としての愛情はもちろんあっただろうが、従兄から自分に向けられる感情に、それ以上のものを感じたことなど一度としてない。そのくらいは、恋愛事に疎いリデルにだってわかる。

 すると従兄はリデルを抱きしめたまま、話を続けた。


「私は――。いや、君は私の妹も同然だ。身体も弱く、姉姫たちのように次々と縁談が舞い込むでもない。そんな君を娶るのは、私だけだと思っていたんだよ」


 それは従兄なりの思いやりだったのだろう。

 博愛精神の強い彼は、貰い手のない従妹を、慈悲で妻に迎えようとしてくれていたのだ。

 気心の知れた彼の許であれば、リデルは余計な苦労も要らぬ心配をすることもなく、心穏やかに暮らせたに違いない。男女としての愛情はなくとも、イーサンとであればそれなりに充実した生活を送れただろう。


「ありがとうございます、お兄さま。でも、ごめんなさい。わたしはやっぱり、ここに――」

「君は……、君は、洗脳されているんだ! 今すぐ私と一緒に王都へ戻ろう。私なら君を幸せにしてあげられる。ドレスや宝石だけでない、共に過ごす時間も楽しい会話も穏やかな生活も、君の望むものなら何だって与えてあげられる。君を愛することだって――」

「クレッセン公。人の城で、人の妻と駆け落ちの相談ですか」


 ひやりと、氷でできた刃のように冷たい声が、その場に響いた。

 イーサンに抱きしめられ視界が封じられた状態でも、これが誰の声かなんて姿を確かめるまでもなくすぐにわかった。

 一瞬、心臓が止まったかのような錯覚に陥り、次に早鐘のように鳴り響く。

 じわじわとイーサンの拘束が緩み、やがて完全に腕が離れてからも、リデルはしばらく振り向くことができなかった。

 先にオスカーに話しかけたのは、イーサンだった。


「そうだとして、何か問題でも? 貴方は彼女を軽んじ、虐げている。聞きましたよ、貴方とリデルが未だ白い結婚であることは。しかもそれどころか、既に愛人をふたりも囲っていると。彼女を連れ出すのに、それ以上の理由はいらないでしょう」


 ぴくり、とオスカーの眉が小さく動いた。


「なるほど、妻は余程あなたを信頼しているようだ。従兄相手とはいえ、家庭の事情をぺらぺら口外するとは」

「旦那、さま」

 

 リデルがようやく振り向いた時、そこには嘲笑を浮かべたオスカーの姿があった。

 彼は恐怖で震えるリデルには目もくれず、余裕の表情を崩さないまま、イーサンとの会話を続ける。


「クレッセン公は何か勘違いをしておいででは? 妻から何を言われたのかわかりませんが、私には愛人などひとりもおりませんよ」

「リルはそう思っていないようですが。少なくとも私の目には、彼女が幸せな新妻にはとても見えませんね」


 従兄も負けてはいない。

 リデルを守るようにそっと自分の背後に押しやりながら、オスカーを睨み付けていた。 

 ふたりとも言葉は丁寧だが、相手への侮蔑や怒りを隠そうともしていない。


「これは驚いた。まさかクレッセン公が、夫婦の事情に首を突っ込むほど野暮な方だったとは。ですがこれは、妻と私の問題です。そしてわたしは、貴方をアッシェンへ招待した覚えもない」

「何……?」

「あなたの出る幕などどこにもありません。間男の落胤を押されたくなくば、どうぞお引き取りを」 


 挑発するようなオスカーの言葉に、普段温厚なイーサンが顔色を変える。

 空気が逆巻くような感覚を素早く感じ取り、リデルは慌てて従兄の腕に縋り付いた。そうしなければ、間違いなく大変な事態になってしまうだろう予感がしたから。


「お、お兄さま! どうか今日はお帰り下さい」

「リル、だけど――」

「わたしは大丈夫です。大丈夫ですから、どうか……!」


 必死で訴えるリデルの姿に、イーサンもこれ以上居座るのは得策でないと考えたのだろう。

 先ほどまでの険しい表情が嘘のように穏やかな笑みで、リデルの頭を優しく撫でる。


「君がそう言うのなら、今日のところは従うよ。……けれど、もし気が変わったのなら手紙でも何でもいい。すぐ私に知らせなさい」

 

 最後までオスカーの存在を無視し続け、イーサンはリデルの額に別れのキスを落とし、去って行った。

 そうして彼が帰ってくれたのにほっとしたのもつかの間。リデルは手首を強く掴まれる痛みによって、オスカーの怒りの矛先が、今度は自分へ向けられたことに気付いた。

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