第2話
リデルは大国エフィランテの王家に生まれた、末の姫だった。
両親は王族にしては珍しく大恋愛の末に結婚した夫婦で、結婚して二十年以上経っても非常に仲睦まじい。
リデルの上には二人の兄と三人の姉がおり、いずれも頭脳明晰の美男美女。明るく優しい彼らは、民から『我が国の誇り』と慕われている。
いっぽう末姫のリデルはというと、幼い頃から病弱で、しょっちゅう身体を壊しては寝込んでいた。
おかげで公式行事に参加したことなど一度もなく、城で働く女官ですらリデルの顔を知らないと言う者がいる始末だ。
病弱なリデルを、両親は非常に心配してくれた。
静養のため、宮殿の敷地内で最も静かな場所に、リデル専用の小さな離宮を建ててくれたのだ。
リデルはそこで、身の回りの世話をしてくれる数人の侍女たちと生活した。
侍女たちは皆優しく、家族も折りを見て見舞いに訪れてはくれたものの、そういった閉ざされた生活はリデルを極端な人見知りにしてしまった。
もちろんリデルが公の場に姿を現さないことは、何も人見知りだけが理由ではない。
あれは十歳くらいの頃だっただろうか。姉の誕生日に小さな茶会が開かれると知り、参加したいと言ったことがある。
あの頃のリデルは、確かにおとなしい性格ではあったが、今ほど人付き合いを怖がったりはしなかった。
ちょうど身体の調子もよい時期で、姉を祝うために裏庭で大事に育てた花束を贈るため、とびきりのドレスを着て参加しようと思ったのだ。
優しくて妹思いの姉は、医者とも話し合った上でリデルの参加を快く受け入れてくれた。
けれど茶会を楽しみにするあまり、リデルは前日の夜、あまり寝付けなかった。
自分でもなんとなく熱っぽいという自覚があったのに、どうせたいしたことないだろうと高をくくっていた。侍女たちに言えば茶会へ参加できなくなってしまう、という恐怖もあった。
そうして身体の不調を黙って参加した結果、リデルは途中で倒れてしまった。あまりの香水臭さに頭痛や吐き気まで催し、何度も嘔吐した。
その時、招待客の女性が扇で口元を隠しながら、はっきりとこう言ったのだ。
――やだ、汚らしい。
リデルを見て眉をしかめたのは、何もその女性だけではなかった。
皆、姉に気を使ってか大声では言わなかったが、ひそひそと不満を口にしているのが聞こえる。
――せっかくの茶会が台無しだ。
――姉姫に恥をかかせて。身体が弱いなら部屋に引っ込んでいればいいのに。
背中をさすってくれていた姉が激怒する声と、慌てて駆けつけてくる侍女たちの足音。
そうして意識を失い再び目覚めた後……。リデルは一部のごく親しい人間を除き、前より更に、他人とまともに話せなくなってしまっていたことに気づいた。
お茶会を台無しにしてごめんなさいと謝るリデルに、姉は、そんなことは気にしなくていいと優しく言ってくれた。
――わたしはあなたが来てくれて嬉しかったのよ。誰にも文句を言う資格はない。それより、わたしがもっと早く気づいてあげるべきだった。具合の悪いことを気づいてあげられず、ごめんなさいね。
姉は逆にリデルのほうに謝ってきた。
その後、姉があの茶会に来ていた友人数名と縁を切ったことを噂で知った。
自分のせいで大好きな姉に迷惑をかけたのだと知ったリデルは、大変な後悔に襲われた。
以降、リデルの人見知りにはますます拍車がかかる。
それはもはや、対人恐怖症と言えるほどだっただろう。
親しい人以外を前にすると手足が冷たくなり、声が喉にひっかかったように詰まってしまう。
問いかけられても頷くことさえできず、相手が苛立っているのではないかという焦りが鼓動を早めた。
そんな時、脳裏には必ずと言っていいほど、あの日の人々の視線がよみがえった。苦しみうずくまるリデルに向けられた、汚いものでも見るかのような蔑みの目が。
自分が他人を不快にさせるかもしれないということが、怖くてたまらなかった。
以来、リデルは極力、人前に姿を現さないよう気をつけてきた。
十三歳の誕生日を迎える頃には病気も大分よくなっていたが、毎年開かれる建国記念式典も、女神の祈りの儀も、王室主催の舞踏会も、すべて具合が悪いと言って断ってきた。
それでもどうしても顔を出さなければならない時――例えば姉の結婚式などの際は、お付きの侍女の陰に隠れるようにして、早くこの時間が終わらないかと祈るようにしていた。
挨拶をしなければならない時などは、うつむいたまま目を合わさないよう心がけた。
そうして、常に俯き加減で自信のないリデルのことを、人々はいつしかこう呼ぶようになる。
エフィランテ王家のお荷物。
陰気で地味な出来損ない。
はずれ姫。
それが巷での、リデルの評判だった。
だから父の口から、オスカーが喜んで結婚を承諾したと聞かされた時、リデルは心の底から喜んだ。
なぜならオスカーは、以前からリデルの憧れの人だったから。
初めて出会ったのは長姉の結婚式。人酔いして具合の悪くなったリデルに、声をかけるでもなく遠巻きに見つめる人々の合間を割って、颯爽と近づいてきたのが彼だった。
黒い制服に、銀の飾緒。ひとめで正騎士だとわかる彼は、嘔吐してもおかしくない顔色のリデルを躊躇なく抱き上げ、離宮まで送り届けてくれた。
冷や汗でぐっしょり濡れた青白い顔の自分は、とても見苦しかったと思う。けれどそれを告げると彼は一瞬大きく目を瞠り、次に怒ったような口調でこう言ったのだ。
――そんな下らないことは気にしません。
ぶっきらぼうな言葉だったが、リデルの耳にはとても優しく響いた。
その後、リデルは侍女たちによって彼が誰なのかを知った。
アッシェン伯爵の嫡子、アーリング家のオスカー卿。冬色の瞳を持つ、気高き氷の騎士。高貴な身分と端正な顔立ち、そして同期の誰より早く叙勲を受けたという輝かしい経歴により、国中の女性たちの憧れを一身に受ける青年であった。
それは、リデルも例外ではない。
少しでもオスカーの噂が聞こえてくると熱心に耳を傾け、天覧試合が開かれるたび、無理して足を運ぶ。
常勝記録を誇る彼の、馬上で槍を掲げる凜々しい姿に、何度うっとり頬を染めたことか。
助けてくれた礼にと、手紙とともに綺麗なカフリンクスを贈った。後日、綺麗な装丁の本とともに返事の手紙が届いた。淡々とした素っ気ない手紙だったが、それでも嬉しくて、毎日毎日読み返した。
そんな娘の様子に、側にいた父王が気付かぬはずはない。
ひとりの騎士に熱い視線を注ぐ末娘を見て、彼はきっと、こう思っただろう。
幼い頃から病弱で、さまざまなことを我慢してきた娘を、せめて好きな相手に娶せてやろう……と。
父の親心と、自分を受け入れてくれた夫の寛大な心に報いるため、リデルは必死で努力を重ねた。
苦手だった刺繍もダンスの練習も積極的に行い、領主夫人として必要な知識を得るため勉強にも励んだ。 オスカーに相応しい女性になりたかった。妻として認めてもらいたかった。
おめでたいリデルは、知らなかったのだ。
オスカーが、自分など妻にしたくなかったことも。
父からの命令で、仕方なく結婚を承諾したことも。
本当は、他に大切な女性がいたことも。
何も知らず無邪気に、過ぎた幸せを夢見ていたのだ。
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