第13話 鬼にも丸薬
暗がりにも判るその大きな黒い影。
身の丈三メートル程はあるだろうか、思わず見上げた先には鋭い眼光が闇夜にもはっきりと見て取れる。
再びそいつから放たれた激しい咆哮は、今度こそ確実に三人に向けられた。
「ひぃぃぃぃ!!ぁばばばばば」
「ぐ」
「お、お、鬼、これが……ど、ど」
ミュゼは最早失神寸前の勢い。
リタを後ろから抱きしめ、服の襟首を限界まで引っ張っている。
暗殺に身を置いていたと言うアンナ。
だが、目の前に迫る恐怖には流石に半ば人生を諦めたような顔だ。
リタはとりあえずと腰袋の瓶から日光石を取り出し、辺りに光源を取り戻す。
森の広場だけがまた明るさを取り戻し、足元に散らばる炭と化物の正体が明らかとなっていた。
その毛は厚く、黒か灰色か。
焦げ茶とも言えない色彩で何処か薄汚れている印象。
ギラギラと光って見えた一つ目は、どうやら片目が潰れているからであろう。
それは見紛う事もない、野生の熊であった。
グァォォと獣が咆哮と共に片手を振り下ろすと、その太く使い込まれた爪は地面を何なく抉り取る。
「ただの熊か」
「ば、馬鹿野郎!!ただの熊とは何だ、た、鬣がある、赤い鬣!レッドキャッスルベアだ。間違いない、危険度クラスA!こいつが、鬼だと言うのか」
「はわわわわ」
リタは目の前の熊が弾き飛ばす木っ端を払いながらようやく立ち上がった。
背中には汚れたひらひらドレスのミュゼが引っ付いている。
三人は一同距離を取って身構えた。
熊はひょろりと立ち上る身近な木々をなぎ倒し、暴れ狂う。それはどこか苦しんでいるようにも見えた。
「に、逃げよ!リタぁ、早く!!」
「馬鹿、無駄だ!もう目をつけられてる、四足歩行になったらとても逃げきれない。やるしか、ない」
「そん、な!でも、嫌!こんな所で死ぬなんて嫌よ!!リタ、何とかしなさい何とかしなさいよぉぉ!!」
リタの背中をポカポカと叩きながら喚き散らすミュゼは涙ながらにそう訴える。
アンナは今度こそはと覚悟を決めたのか、遠目にその熊を見て矢を引いた。だがその表情は固く、手も震えているのか穿つことが躊躇われているようだった。
しかし鬣が赤かろうと白かろうと、リタにすればサンブラフ村でもたまに見る野生の熊と大して変わらないのだ。
過去に一度、白の鬣がチャームポイントだった白熊を相手にした時はラックとルーシアが手間取って散々だった事はある。それでも結局はただの狩りでしかないのだ。
白の鬣はお土産として妹のミサに随分喜んで貰った記憶すらあった。
街の方では獣を魔獣と呼んでクラス別に危険視している。それは魔王が世界を支配しかけた時に現れた魔物、その置土産だという意味合いが強いようだ。
だがサンブラフ村の皆は言っていた。
魔物は獣の比ではないと。
だからこそリタは獣程度で手間取っては行けないと必死に狩りに勤しんだ。
妹に負けたくないと言うのももちろんあるが。
「い、一か八か、殺るしかない。手を貸せ、リ……だっ、おぃぃぃ!!」
アンナがレッドキャッスルベアから視線を外し、リタに協力を求めようと呟く。
が、リタは既に例の木刀片手に熊へと向かって歩み寄っていた。
正気の沙汰ではない。
何処の自殺希望者か、木刀片手に熊へと歩いていく人間等聞いた事がない。
Sクラスの冒険者ならそれぐらいはやってのけるのだろうか、否。アンナは出会ったことこそ無いがSクラスと呼ばれる冒険者は人外だと言う。
雲を消し、海を切り裂き、空を飛ぶとも言う。
実際このルーテシア国にSクラスと呼ばれる冒険者等いただろうか。一人位はいたような気もするがそんな事はアンナの知るところではなかった。
そんなSクラスの冒険者とやらなら瞬きする間に魔獣等消し飛ばしてしまうだろう。何せ遺跡やダンジョンに巣食う魔物ですら何の脅威にもならないと言うのだから当然だ。
だがこの少年は違う。
剣でもない、ただ木の切れっ端を持つ冒険者等いるわけが無い。
荒れ狂うレッドキャッスルベアに近づき何をするというのか、
あり得ない。
確かにコヨーテ共、危険と言われるワーウルフを一撃で葬った事実こそあるが、それですらまだアンナには認められないのだから。
「あ」
思わず声が漏れる。
レッドキャッスルベアはその腕を乱暴にリタへ振るった。その刹那、リタの姿がその場から消えたのだ。
レッドキャッスルベアの獰猛な爪、腕の筋力は並ではない。
何人もの人間の命を奪い続けてきた。国のレッドブックでは指名手配も入り、その賞金は最早白金にも届く勢いだ。
それだけに危険。
最早一個人にどうこうできる相手ではない。
リタもレッドキャッスルベアの一振りで弾き飛ばされてしまった。
獰猛な一つ目がアンナとミュゼを舐め回すように視認する。
「はっ、わ、わわ、わ」
「……しっかりしろ、一瞬で、終わるさ。ふ、私がお前を殺る必要も無かったな」
失禁しているのだろう、その場にペタリと座り込んだままのミュゼのドレスは少し濡れているようだった。
アンナはそんなミュゼを庇うように身を寄せ、最期を待つことにした。
おかしな話だった。
これから食われるというのに、わざわざ暗殺対象を少しでも庇おうとしている自分。考えられない。
だがよく見れば、ミュゼ=ルーテシアはまだ子供だ。貴族の十五と言えば確かにそこそこの処世術に長けるものだが、やはり子供なのだ。
身内の勢力争いに巻き込まれ、よもやこんな所で獣に食われて死ぬ。
なんて哀れな最後か。
この娘も自分と同じく、報われない人間だったのだと。
せめて死ぬ順序位は守ってやりたいとアンナの心にはただそんな思いが生まれていた。
「これか……なるほど、そりゃ痛い筈だ。化膿しているな、よしこれを飲め」
「グォァァァァッ!?」
背後でレッドキャッスルベアの最後の咆哮がビリビリと辺りに木霊する。鬼気迫る叫び、それはミュゼとアンナを心まで恐怖で震わせた。
最後だ、この咆哮が終われば一振りで意識が飛ぶだろう。
「ああ、落ち着け。直ぐに動けるようになる、苦いのは今だけだ」
レッドキャッスルベアの咆哮は徐々に静かになっていくように思えた。
時折ブォ、ブォと鳴いているようだが、一向に襲いかかっては来なかった。
「……と言うか、お前は何やってんだぁぁっ!」
アンナはボソボソと聞こえる何かの話し声にふと背後を振り返り思わず声を荒げていた。
「抗生剤だ、この丸薬は様々改良しているうちにほぼ万能化しているからな。今ならもうヒカリゴケにも劣らない程の薬だ」
「知るか!って、そうじゃないだろ!お前は何をそんな魔獣と戯れているのかって……またそれを飲ませたのか、何でもかんでもすぐ飲ませようとするな!」
アンナの思わず投げた短刀をすかさずリタは叩き落とす。危険度Aだと言うレッドキャッスルベアは今やリタの足元でぐったりしていた。
自分は助かったのかとミュゼも恐る恐るといった様子で顔を上げ、そんなリタと熊を交互に見ながらぎょっとしていた。
レッドキャッスルベア。
赤い鬣は恐怖の証。
幾人もの猛者達が挑む度に命を落してきた相手であり、その度にその獣は危険度を増していった。
片目こそやられたその熊はだが、それを勲章とばかりに更に名を挙げ今ではルーテシア国内でそれを知らぬ者はいない程の魔獣となった。
それが今、この名も無き少年の元に平伏している事実は最早その現実を目の前で見ている二人ですらも理解できない事だろう。
だが獣というのは本能に長けている。
強い者、危害を加えない者の判断は人間よりも聡いのかもしれない。
「そこまで襲いかかって来る風ではなかったしな。それよりも何か苦しそうだったから助けてやりたかっただけだ。無為な殺生は労力の無駄だ」
そうは言うが、普通の人間では恐怖が先にくる。
殺られる前に殺ろうとする者達が多くても誰も責められはしないだろう。
リタはまだ自分の今までの生活が普通では無かったと言う事実に気づいてはいなかった。
「り、リタぁぁ!!うわぁん、怖いよぉ!!もう!何よ、出来るなら早くやりなさいよ、この馬鹿、この馬鹿ぁ」
ミュゼは恐怖から開放されたせいか、泣いたり怒ったりとリタを責め立てる。
傍から見ればイチャイチャとも言えるが、ブロンドの髪と元は高そうなドレス姿は曲がりなりにも貴族のそれ。
布切れの服に木刀黒髪の少年では到底釣り合ってはいないだろう。
アンナも今や地に伏せ、眠そうにしているレッドキャッスルベアを見るなり、こうなってはただの熊だなとつぶやきながら緊張の糸を解いていた。
ドスッと尻から地面に落ちる。
ふとリタがミュゼの尻を触りながら、何か濡れてるぞ? と言った後はまた違った修羅場が訪れるがそれはリタにも捌けるものではなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます