12 普通の男の子

 その男の子とはじめてまともに話したのは、高二の夏だった。

「安藤って、妹か弟いるだろ」

 休憩時間に前の席から振り返って話しかけてきた瀬尾は、どこか面白がるような顔をしていた。

「いるけど。言ったことあった?」

「いや。さっき、うちの姉貴が妹の世話焼いてるときと同じ顔してたから」

 言いながら、瀬尾は歯を見せて笑った。

 その直前まで、隣のクラスの友達が宿題を写しに来ていて、一騒ぎしたところだった。瀬尾はその様子を見ていたのだろう。

「瀬尾は真ん中なんだ?」

「六人兄弟の二番目」

「へえ。兄弟多いの珍しいね」

「すげえ騒々しいよ、うち」

 ニッと笑って、瀬尾は前を向いてしまった。ほんとうにそれだけ確かめたら気が済んでしまったのだろう。なんとなく拍子抜けして、わたしは瀬尾のつむじを見た。

 それまであまり話したことはなかったけれど、たまに休み時間に本を読んでいることは知っていた。かといって、ひとりでいることが多いというわけでもなくて、普段はたいてい友達と喋っているようなのだけれど(女子とも気さくに話しているのは姉妹がいるから慣れているのだろう)、ときどき何かの本に夢中になって、休み時間のたびに待ちかねたように続きを読んでいるようすがあった。

 それがあまりにもわくわくした表情をしているから、よっぽど面白いんだろうなと思ったのが、ちょっと印象に残っていた。



 そのやりとりから数日後のことだった。また瀬尾が急に振り返ってきて、「安藤、これ読まない?」と文庫本を差し出してきた。

 面食らいながらも、反射的にわたしは手を差し出してその本を受け取った。

「面白いの?」

「つまんなかったら人に勧めたりしねえし」

 何の他意もなさそうに、瀬尾は笑った。見ればその本は、図書室の貸し出し本ではなく、瀬尾の持ち物のようだった。

 どうして急にとは思ったけれど、聞こうとしたときには瀬尾はもう友達に話しかけられて、何やら話しこんでいた。相手がほかのクラスの男子で、あまりよく知らない人だったこともあって、あえて会話に割り込むのには気が引けた。それでなんとなく、そのまま渡された本のページをめくった。

 その頃、わたしはそれほど熱心に本を読むほうではなかった。読書ぎらいというわけではなく、気が向けば何冊か立て続けに読むけれど、読まないときは月に一冊も手に取らないという程度で、その本の作者のこともよくは知らなかった。

 だけどその本には、開いて最初のページを見ただけで、ああ、わたしはこの話を好きになるなという予感があった。

 わたしはすぐに本を閉じて、鞄にしまった。休み時間に慌ただしく読むのではなく、ひとりになれる場所でゆっくり読みたかった。

 その日、帰って家事が一段落してお風呂も上がってから、自分の部屋に籠もって借りてきた本を開いた。途中で妹が寝たので、部屋の電気は消して、デスクライトを枕元に引き寄せて。

 予感は当たった。わたしはほとんど明け方まで掛けて、その小説を読み切った。

 それは、嘘つきの話だった。

 どこか知らない、遠い国の話。身寄りのない小さな女の子と、彼女の手を引いて歩く青年が、お互いを護るために、小さな嘘を重ねていく話だった。

 その優しい嘘を最後まで貫き通して物語は終わる。

 手に汗を握る壮大な冒険活劇ではなく、大きな盛り上がりがあるわけではない。ただ読み終わって、胸のしんとなるような話だった。

「瀬尾、本の趣味いいね」

 翌朝会うなり本を返すと、瀬尾はまた歯を見せて笑い、得意げに「だろ?」と言った。

 その笑い方が誰かに似ているような気がして、わたしは少しだけ動揺した。



 それから瀬尾とはたまに話すようになって、劇的に親しくなったわけではなかったけれど、何度か本を借りたり、好きな本を薦めたりした(わたしは自分の本というのをほとんど持っていなくて、たいていは学校図書館から借りて読んだものばかりだった)。やがて三年に進級しても、瀬尾とはまた同じクラスになった。

 とはいえそこで何があったというわけでもない。受験勉強に追われていれば、高三の一年間なんてあっという間だった。

 母の訃報に振り回された夏が過ぎ、気がつけば体育祭が終わり文化祭が終わって、自習に集中講義に小論文に面接対策と、めまぐるしく日々は過ぎていった。

 結果から先に言えば、わたしは無事に第一志望に通り、そこは家から通える範囲にあった。

 進学を契機に家を出るという選択肢も、頭の隅にありはしたのだ。ひとり暮らしをすれば仕送りの分、家計への負担は増えたかもしれないけれど、その分、もっと割のいい奨学金がある大学を探してバイトを増やせばなんとでもなっただろう。

 少しでも早く家を出て、父に彼の人生を返さなくてはいけないのではないかと思ったことは、一度や二度ではなかった。

 だけど父はひとり暮らしにあまりいい顔をしなかったし(いつまで過保護を続ける気だろうと妹とふたりで呆れるしかなかった)、わたしだけが先に自立したところで、どのみち明里の進路に目処がつくまで、父は自分の幸せを考える気にはならないのだろうという気がした。つまり、わたしは妹を口実にして決断を先送りにしたのだ。



 瀬尾とは気がつけば同じ大学に進み、同じ講義をいくつかとっていた。

 顔を見かければどちらかから話しかけたし、相変わらず、本の貸し借りをすることもあった。瀬尾がニッと歯を見せて笑うたびに、ああ、やっぱり誰かに似ていると思ったけれど、それが誰に似ているのか、わたしはつきつめて考えないようにしていた。

 何となく、気がつけばという具合に、わたしたちはつきあいはじめた。ずいぶん経ってから瀬尾があるとき急に、高校のときからずっと気になってたと白状した。あの本を貸してくれた日よりも、もっと前からだったそうだ。

 まったく心当たりがなかったわたしがぽかんとしていると、気づいてくれないもんだなあと瀬尾は苦笑して、だけどわたしの鈍さをとがめたりはしなかった。

 わたしは人の気持ちに鈍感で、いつでも自分のことで手一杯だった。しっかりしなきゃと自分に言い聞かせているだけで、結局、気持ちのどこかは母親に捨てられた子どものまま、自分がもらえなかったものばかり数えて、いつも誰かのことを羨ましがっていた。そういう自分を客観的に見られるようになったのは、ほんとうに最近のことだ。

 瀬尾は普通の男の子だった。特別にかっこいいとか、飛び抜けて何かが得意とかではないけれど、誰にでも気さくに話しかけるし、面倒見がよくて、色んな人から好かれている。

 たまに騒々しすぎてうるさいし、ちょっといいかげんなところもあるけれど、おおらかでじめじめしたところがない。誰かさんの言葉を借りれば、足も臭いし二十年もしたら腹が出たり禿げたりもするかもしれないけれど、人の弱さやずるさを咎めたりしない、いいやつだった。

 この男の子だったら父は安心するだろうかと、いつからかそんなふうに思うことが増えた。結局のところ、わたしにとって一番大きかったのは、その一点だったのかもしれない。

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