10 写真

「夜、ちょっと遅くなるかもしれないから、何か適当にふたりで食ってて」

 遺品を取りにゆく日、お金を置いていきながら、父は振り返ってつけ足した。「あとで何食ったか確認するからな」

 それは父がたまに出張や法事なんかで出かけるときに、必ず口にすることだった。

「心配しなくても、ちゃんと食べるよ」

「そうしろ。じゃあ、留守番よろしく」

 父は慌ただしく、いつもよりちょっと早く仕事に向かい、妹とわたしは普段通りに学校に行った。妹は部活があったし、わたしは授業のほかに受験対策の補習もあって、そうそう家の都合で何日も休んでいられるような時期ではなかった。そうでなかったとしても、父について行く気はしなかっただろうけれど。

 補習が終わったあと、図書館で自習をしながら少し時間を潰して、明里の部活が終わるころにあわせて学校を出た。

 もう夕方は涼しくなりはじめる時期だったけれど、それでも帰り道の途中で行き会った妹は汗だくで、着替えるからいったん帰ると宣言した。

 並んで歩きながら、道々、明里の部活の話を聞いた。次の試合に出られそうなこと。そのせいで先輩のひとりにやっかまれているらしいこと。それでも味方になってくれる子もいるから平気だと妹は笑い、やがて雑談の中身も尽きたのか、ふと黙り込んで、

「父ちゃんがいなかったらさ、ほんとにいまごろ姉妹ふたりきりだったね」

 どこか心あらずの、ぼんやりした口調でそう言った。「そしたらさ、あたしたち、施設とかに入ってたのかな」

 わたしはすぐには答えなかった。父がいなかったとしたら、わたしも明里も、そもそもこの年齢まで生きていられただろうかと思ったのだ。

 生活に嫌気のさした母が戻らない日が一週間、二週間と長くなっていって、夏休みになって給食もなくなり、ふたりで餓えて死ぬ。そういうことが、あの日々の延長上になかったと言い切る自信は、わたしにはない。

 けれどそんな話をいまさら明里にする気にもなれなかった。少し考えて、わたしは答えた。「わたしは入っても、すぐに出なきゃだったかもね」

「ああ、そっか」

 施設というのは子どもをいつまでもあずかってはくれない。高校を卒業したら施設を出なくてはならないのだと、テレビで見たことがあった。

「おねえは遺品ってなんだと思う?」

「さあ、興味ない。それより明里、何食べたい?」

「肉」

 即答だった。可笑しくなって、思わず声を出して笑った。「肉て」

「食べたいもん」

 いーよ、と笑ってうなずいたのはいいけれど、さすがに焼き肉店に行くほどの金額は父も置いていかなかったので、着替えたあと近所の食堂に行って焼き肉定食を注文した。

 父が家事をさぼりたくなったらわたしたちをつれていくお店で、とにかく安くて量が多い。肉体労働者の人とか男子高校生とかが喜ぶ感じというか、女子高生がふたり並んで入るには、ちょっと違和感がある場所だ。

 そのお店のボリュームたっぷりの焼き肉定食を、妹はご飯多めでぺろりと平らげた。わたしもその勢いにつられて、ご飯こそ普通盛りだったけれど、きれいに完食した。

 何があってもとにかく食べる。何かにつけておおざっぱな父の教育方針の中で、多分これだけは死ぬまでふたりとも守るんだろうなと思って、それがちょっと可笑しかった。



 受け取りにいった先で話し込みでもしたのか、父が帰ってきたのは夜も遅い時間で、明里は待ちきれずに先に寝ていた。

 母の遺品というのは、たいした分量ではなかった。

 勤めていた店のロッカーに置きっ放しにしていたという小ぶりなバッグ、化粧ポーチとその中身、アクセサリーの類がいくつか、香水がひと瓶、ストールが一枚。それから、写真。

 ぼろぼろになった、わたしと明里の写真だった。

 まだ小さい。明里が三つか四つか、そのくらいだろうか。その手をわたしが引いて、デパートの屋上だろうか、遊具の前に並んで立っている。カメラのほうを見て、わたしははにかんだように、妹は何の屈託くったくもなさそうに全力で笑っている。

 こんな服を持っていただろうか。写真はかなり色せていて、ところどころ印刷面が剥がれ、もう細かいところはよくわからない。母が写っていないのは、シャッターを切ったのが彼女だからだろう。

 その写真を見て父がぼろぼろと泣くのを、わたしはいっときのあいだ立ったまま、無言で見下ろしていた。

 そのときわたしの胸にあったのは、悲しみではなく、いきどおりだった。

 こんなことくらいで、と思った。

「こんな写真一枚、後生大事に持ってたからって」

 古びてぼやけて、いい思い出だけ都合よく切り取って残したような、こんな写真で。

 わたしたちを捨てていった母を、

「許さなきゃいけない?」

 そう吐き捨てた声が、醜く歪んで震えた。

 父はすぐには返事をしなかった。

 無言で座り込んだままの父に、いきなり、ぐいと手を引かれた。とっさのことによろめいて、ほとんどぶつかるように父の隣にへたりこんだ。

 父の腕に頭を抱き寄せられて、煙草のにおいのするシャツの胸に額を押しつけながら、子どものように声を上げて泣いた。

 もうとっくに忘れたつもりになっていた、母に捨てられて傷ついたちびの頃の自分が、そのまま胸の中にいたことに、わたしは自分で呆れた。それでも自力ではその涙を止めきれなくて、いつまでもぐずぐずと泣いた。

「ごめんな。ごめん」

 頭の上で、何度も父がそう言った。

「なんで謝るの」

 わたしが涙声で聞き返しても、父はなかなか理由を答えなかった。ただ何度も、

「ごめん」

 そう繰り返して、腕に力を込めた。



「暁美さんはさ」

 わたしがすっかり泣き止んでから、眠っている明里を気遣う小声で、父は話しはじめた。あれだけわたしが大声で泣いていたのだから、妹は起きているのかもしれなかったが、気を遣っているのか気まずいのか、ともかく部屋から物音はしなかった。

「ちゃんとしないとねって……お母さんなんだからしっかりしなきゃね、って。何回も言ってたんだ。結婚する前からずっと。お前たちが産まれたときにも」

 初めて聞く話だった。

 それはわたしの中の母のイメージとは、少しも重ならない言葉だった。

「だけど、ちゃんとするって、難しいねって……どうしたらいいんだろうねって」

 いい母親をやれない自分を恥じる気持ちが、母にあったのだということが、わたしには信じがたいことだった。だけど嘘だと決めつけるには父の声音は沈鬱ちんうつで、嘘やごまかしのようには思えなかった。

「俺はさ。ずっと好きだった暁美さんと一緒に暮らせることが嬉しくて、おまえたちが可愛くて、いいとこ見せようって張り切って」

 父の涙がぽつりと落ちてきて、わたしのつむじを冷たく濡らした。

「でも俺が一生懸命いい父親をやろうとすればするほど、暁美さんは、しんどかったんだと思う。お前は母親失格だって、突きつけられてるみたいで。自分はいなくてもいいみたいに思えて」

 父の涙が、母を喪った悲しみのためではないことを――少なくともそれだけではないのだということを、わたしはこのときようやく知った。

 父は、悔いているのだ。

「俺はそのことが、わかってなかった。暁美さんだって苦しかったのにな」

 この人は、逃げた母を責めずに、自分を責めているのだった。母をひとりで寂しい場所に追いやったのが、自分だったのではないかと疑って。

「俺が、暁美さんからおまえたちを取り上げて」

 父の声は絞り出すようだった。「おまえたちから暁美さんを取り上げたんだ」

 馬鹿じゃないの、と。

 そう思った。どこまで人がいいのかと。

 ごめんなとくりかえす父を見上げて、震える声で言った。「父ちゃんがいなかったら、いまごろ、わたしも明里も死んでたよ。おかあさんと三人じゃ、無理だった」

 父はそれには返事をしなかった。単なる慰めだと思ったのかもしれない。

 だけど実際のところ、母はとてもあのままわたしたちを育てきれはしなかっただろう。少なくとも、いまよりいい未来があったとは思えない。

 母はあの頃、生活に、育児に、疲れていたのだろう。祖母がいるうちはどうにかなると楽観的になれても、いよいよ周りに頼れる大人がいなくなったとき、母は、途方に暮れたのだと思う。祖父はとうに亡く、親戚とも縁が切れていた。

 父がいなかったら、わたしも妹も、きっとろくなことにはならなかった。母がこのアパートを出て行ったきっかけが、もし仮に父の言うとおりだったとしても、それは母の選んだことだ。路上でのみじめな死は、彼女の生きてきた結果だ。

 それでもこの人は、ひとりきりで死んだ母の寂しさを思って、自分のせいだと泣くのだ。

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