4 名前

 妹が鉄棒から落ちて、額を切ったことがある。

 あの子が小六のときのことだ。いくつになっても分別のつかないようなところが明里にはあって、いまに怪我をするのが目に見えている無茶を次から次にやっては、そのたびに周囲をはらはらさせた。

 そのときの怪我だって、完全にあの子の自業自得だった。誰かに突き飛ばされたとかいう話じゃなくて、一人で調子に乗って大技を決めようとして一人で勢いよく落っこちたのだ。

 地面に伸びたまま起き上がれないでいる姿を見て、最初のうちこそわたしも心配したが、病院で包帯を巻かれるころになると、妹は反省するようすのかけらもなくけろっとしていて、病院という非日常の空間を楽しんでいるふしまであった。

 心配した分だけ腹を立てて小言をいうわたしの横で、父ひとりがいつまでも真っ青になって、頭を打ったんだから後になってなにか症状が出たらどうしようとか、女の子なのに傷跡が残ったらとか、ぐずぐずと嘆きつづけた。

 わたしはそれを横で適当になぐさめながら、いいなあと思っていた。

 妹が羨ましかったのだ。わたしも父に心配されたかった。

 だけどその小さな嫉妬を、わたしはそのまま握りつぶした。姉の沽券を気にしたから、というわけではない。口に出してしまえば最後、その感情がささやかでもおぼろげでもない、巨大な怪物に化けてしまうような気がして。



 明里の名前をつけたのがほかでもない父だったと知ったのは、もっと後のことだ。明里が中学の修学旅行で家にいない夜、晩酌で酒を過ごして酔っ払った父が、ぽろりと口に出したのだ。

 それはわたしには、衝撃的なことだった。父と母が古くからの知り合いだったということは聞いていたが、そんなに前から、そんなふうに親しい間柄だったということは知らなかった。

「普通、生まれたばっかりの赤んぼってのは、あんまりしょっちゅう笑ったりしないもんだと思うんだけど。明里はやたらずっとニコニコしててなあ」

 いまでも目に浮かぶとでもいうように、目を細めて父は話した。

「明里が生まれたとき、病院に、赤ん坊の顔見に行ったんだよな」

 ――この子が笑うと空気が明るくなるなあ。

 そう父が言って、それを聞いた母が、「じゃあ、この子の名前はあかりにしようか」と言い出したのだそうだ。字はあとで母が決めたという。

 そのときお前にも会ってるよ、と父は思い出したようにつけ足した。そのときはまだ存命だった祖母にしがみついて、わたしも母の病室にいたのだそうだ。

「お前はその頃からお利口さんだったよ。まだちびなのに、祖母さんの言うことをよく聞いてなあ。俺が話しかけたら、恥ずかしがって祖母さんの背中に隠れちまって、可愛かったなあ」

「ぜんぜん覚えてない」

「だろうな。二歳とかだろ?」

 その頃、父はまだ二十歳かそこらだったわけだ。わたしはとっさに学生だった父の姿を想像してみようとしたけれど、うまくいかなかった。

 父はそれを何気ない、いい思い出のひとつとして話したんだろう。わたしに教えたことを、父は覚えていないかもしれない。なんせけっこう酔っ払っていたので。

 けれどわたしは……わたしはその話を聞いて、父に腹を立てていた。悔しかったし、正直に言えば、裏切られたような気までした。

「いいなあ」

 けれどわたしは口に出しては、そんなふうな言い方をした。けして声高に非難するようにではなく、寂しさを前面に押し出す、子どもじみた計算高さで。「わたしも父ちゃんに名前、つけてほしかった」

 それは子どものたわいない嫉妬として、父の耳には入っただろう。それでも父は、娘の無茶なわがままを笑いとばすこともなく、ちょっと困ったような顔をした。

 明里の父親は、ほんとうは、この人なのではないのか。

 いつから自分がそんなことを考えるようになったのか、覚えてはいない。

 母はわたしたちの父親のことを、秘密にしていたわけではなかった。心当たりが多すぎて自分でも分からないのだと、彼女はあっけらかんと話した。まだ小学生だったわたしたちに向かって、悪びれることもなく。

 それでもいまになって考えてみれば、昔の男の誰に顔立ちが似ているとか、その程度の心当たりのひとつふたつさえ、まったくなかったということがあるだろうか。

 いくらあの母でも、子どもの父親でもなんでもない男に、娘ふたりを押しつけて平気で逃げたりするだろうか?

 父も、いくらお人好しだからといって、心当たりのひとつもない子どもたちを平気であずかって育てるものだろうか。

 その考えは染みのようにわたしの胸の隅に居座って、何度となく顔を出した。けれど同時に、それもまた有り得ないことのようにも思えるのだった。

 妹の顔がはっきりと父に似ているというわけでもなかったし、それに、もし心当たりがあったのなら、父はもっと早くに強引にでも母に迫って、学生だろうとなんだろうと籍を入れていたのではないだろうか。相手が女手ひとつで娘ふたりを育てていて、その一方なりと自分の子かもしれないのに、その可能性に何年ものあいだ、知らんぷりをしていられるような人ではない。少なくともわたしの知っている父は。

 そう思う一方で、その不毛な想像はときおり浮上してはしつこく頭の隅をちらついた。

 けれど、わたしには事実を確かめる気はなかった。とてもではないが父に直接聞いてみる気にはなれない話題だったし、それに、もしそれが本当だったとしたら、何かが決定的に変わってしまうような気がした。

「弓香の名前はさ」

 いっときして、父が迷い迷い、話しはじめた。「暁美さんが大好きだった友達が、弓道部でね。和香ちゃんって言って……その子からもらったんだって。暁美さんはずっと、その子が弓を引いてるところがきれいだって、よく目を輝かせて話してて」

 その話もまた、わたしにとっては初耳だった。

「父ちゃんも知ってる人なんだ?」

「うん。同級生だったからな」

 飲んでいたビールの残りを流しに捨てて、父は話を続けた。「和香ちゃんは、とてもしっかりした子だったんだよ。なんていうのかな。苦労してるのに、僻んだところがなくて」

 その言葉はわたしには少しばかり刺さった。自分がいろんなことを僻んでばかりいるような気がして。

 だけど父は、わたしの屈託には気づかずに、遠くを見るような目でその人のことを話した。「優しくてね。人のずるいところは許すのに、自分はなんにもずるをしないで、何をするにもいちいち真っ当にがんばって」

 そういう人が母の友達だったということが、なんだか不思議な気がした。それをいうなら、母に女友達がいたということ自体が意外だったのだけれど。

「暁美さんは、和香ちゃんのそういうところに憧れてたんだと思う。お前の名前をどうしようかって考えてるときに、和香ちゃんが弓を引いてるところを思い出したんだって」

 ふうん、とわたしは気のない相づちを打った。母がわたしの名前に何かの願いを込めていたのだとしても、その期待に応えたいなどといまさら思えるはずもなかったし、そこに何らかの愛情を見出そうという気にもなれなかったから。

 だけどそれをそのまま言えば、父を傷つけるだろうという予感はあって、だからわたしはすべての言葉を飲み込んで、ただ小さい子どものように自分の膝を抱えてつま先をじっと見ていた。

 それを見て何を思ったのか、父は手を伸ばしてわたしの頭をぽんぽん叩くと、わざとらしく欠伸をした。「あー、飲み過ぎたァ」

 父ちゃんもう寝るわ、と宣言してトイレに向かう父の背中をいっとき目で追って、わたしは小さく口の中で呟いた。

 ――明里はずるい。

 そうして、父にも妹本人にも言えるはずのないその言葉を、小さく丸めて胸の奥にぎゅうぎゅう押し込んだ。

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