23. だって、事実でしょう?

 お茶の稽古が終わって外に出ると、金木犀きんもくせいの香りが鼻腔をくすぐる。青々とした葉の中で、赤く色づき始めた葉もちらほらとある。

 

(秋の香りだわ)


 気持ちが弾み、歩く足取りも軽くなる。読書の秋だが、食欲の秋でもある。秋の味覚を思い出しながら歩いていると、見覚えのある警官が見えた。

 柔和な笑顔はなりをひそめて、身なりの派手な男に封筒を手渡している。


(あの封筒はお金……かしら?)


 なんとなく出て行きづらい場面だ。派手な男がお金の勘定を数え、札束を封筒の中に押し込んで胸元に入れる。一言二言の言葉を交わし、反対方向へ去っていく。

 気づかれない間に路地裏から退散しようとしていると、不意に視線が交差した。


「見られてしまいましたか」

「あ、あの……」


 朽葉は人好きのする笑みを浮かべ、ゆっくりと前に足を進める。追い詰められた兎のように縮こまっていると、朽葉は膝を曲げて目線が同じ高さになる。


「雛菊さんには内緒にしていただけませんか? こういったことを知られるので恥ずかしいので」

「も、もちろん。決して、他言いたしません!」

「お願いしますね」


 こくこくと頷き返すと、安心したのか、朽葉はそのまま背を向けて歩き出す。その足取りはどこか急いでいるように見えた。


(まさか借金? いやいや、単に家賃の集金だったかもしれないし……)


 ぶるぶると頭を振る。余計なことは考えてはならない。彼は雛菊の婚約者なのだ。きっと思い過ごしだろう。そう結論づけ、絃乃は先を急いだ。

 

     ◆◇◆


 母のお使いを済ませ、市電を降りて歩いていると、一匹の猫と目が合った。

 雪のように白い猫だ。体はすらりと細く、身軽に塀からジャンプして下りてくる。ひたひたと足元まで来ると、足首にすり寄ってきた。


(お茶菓子の匂いが着物についてたのかしら?)


 しゃがんで顎をさすってあげると、みゃあ、と鳴く。気持ちよさそうに首を伸ばすので、しばらく構ってあげると、突然猫がたっと走り出した。

 しばらく行った先で自分を振り返り、こちらをジッと見つめてくる。


(ついて来いってことかしら?)


 おとなしくついていくと、再び猫が歩き出す。のんびりとした速度なので、充分に追いつける。猫はちゃんとついてきているか定期的に確認していたが、絃乃の姿を認めると、満足そうに駆け出した。


「あっ……」


 見失うと思って小走りで駆けると、そこは石畳が敷き詰められた場所だった。手前には鳥居がある。


(ここは……神社?)


 辺りをきょろきょろと窺っていると、楽しげな声が聞こえてきた。


「おー、よしよし。お前、ちょっと太ったんじゃないか?……お前は逆に痩せたか? ちゃんと食べないと」


 猫が数匹、袴姿の男を取り囲んでいる。猫たちはおのおの自由に過ごし、まさしく猫の集会だ。

 だが、その中心人物の男を見て、絃乃は頬をひくつかせる。


「あ、葵……?」


 しばらくの間があった。お互い、見てはいけないものを見てしまったような、奇妙な間が開く。先に息を吹き返したのは、彫像のように固まっていた弟のほうだった。


「…………なんで姉さんがここにいるわけ」

「え、そこの猫さんの案内で……」

「お前かー。犯人は」


 葵は白猫の両脇に手を差し込み、抱き上げる。猫の細長い体がぷらーん、ぷらーんと左右に揺れる。白猫はいい仕事をしたとばかりにキリッとした表情だったが、不意にタンッと飛び降りる。その視線は神社の入り口を見つめていた。

 葵と絃乃もその視線の先を追う。すると、そこから見覚えのある男が申し訳なさそうに出てきた。


「葵くん。お楽しみ中にすみません」


 参道から現れた詠介に最初に反応したのは絃乃だった。


「……え、詠介さん……?」

「あれ……絃乃さん、どうしてこちらに?」

「あ、あの偶然、猫を追いかけてきてここに来てしまって……」

「そうでしたか」


 和やかな雰囲気に水を差したのは棘のある声だった。


「それより、俺に何か用だったんじゃないんですか?」

「ああ。そうでした。父が探していましたよ。探し物が見つからないとかで」

「わかりました。すぐに行きます」


 葵が安請け合いをすると、急いでいるのか、詠介が名残惜しげに絃乃に向き直る。絃乃もまだ話し足りないが、引き留めることもできないと眉を下げて見つめた。


「僕も配達があるので失礼しますが……ではまた。絃乃さん」

「あ、はい……」


 奇妙な間の後、詠介が背中を向ける。時間がないのは本当らしく、早足でザッザッと音が遠ざかる。


(ああ……もう少し話していたかったな)


 けれど、感傷に浸る間も短く、ちくちくと視線が突き刺さる。


「……何よ」


 言葉を促すと、葵は冷めたような目を向けた。

 何もかもわかったような顔で、居心地が悪くなるのは気のせいじゃない。


「ふうん。姉さんは詠介兄さんに惚れているんだ」

「ほ……惚れているのは事実だけど! 繊細な乙女心を勝手に暴かないでくれる!?」

「乙女心って言っても、姉さんは三十路……」

「うりゃあ!」


 手刀を加えて、その場にうずくまる弟を見下ろし、絃乃は両腰に手を当てる。


「この世には、言っていいことと悪いことがあるの! 乙女に年齢は関係ないでしょう。第一、今の私はぴっちぴちの十六歳! 花も恥じらう乙女なの!」

「……どこに花が恥じらう要素があるんだよ……暴力反対……」


 小さくなった葵はぶつくさと文句を言っている。

 絃乃は胸を張り、姉としてぴしりと人差し指を突きつける。


「悪い口におしおきしたまでよ」

「事実だろ。そんな風だから、婚期を逃がすんだよ……」

「だから! 今は結婚適齢期なの。決して逃がしてないんだから!」


 前世とは違って、十代の今はお肌も潤っている。気力も充分だ。

 お肌も心も、荒れ果てた過去の姿とは違う。中身はともかくも、見た目はまるきり別の人間なのだから。

 だが、葵はそんな姉の心情に気にかける様子はなく、ゆっくりと起き上がる。


「って言ってもさ。呉服屋の次男坊との結婚なんて、堅物の父上が許すわけないだろ?」

「ぐっ……」

「俺はともかく、姉さんは庶民じゃないんだ。華族の婚姻に姉さんの意思は関係ないだろ」

「そ、それはそうかもしれないけど……。いやでも、これからは自由恋愛の風潮だろうし、まったく可能性がないとも言い切れない……でしょう」


 さっきまでの勢いは消え失せ、だんだん声が小さくなっていく。

 葵は呆れた様子で、頭の後ろで腕を組む。


「父上と母上がそれを許すと? 本気で思ってる?」

「……思っていないです……」

「そもそも、詠介兄さんが姉さんを好きだとしても、結婚までは考えていないんじゃないかな。普通に考えてあり得ないし」


 それは予想していたどの言葉よりも、心を深くえぐった。


「あ、あ、あり得ないって言った! ひどい!」

「詠介兄さんは身の程を弁えているってことだよ。賢い人だから、そんな無茶なことに挑むような人じゃない。そんなの、姉さんだってわかるだろ?」


 淡々と事実を突きつけられ、反論できない。

 飄々としてつかみどころのない彼だが、無謀な賭けに乗るような性格だとは思えない。つまり、葵の言っていることは正しい。

 絃乃はネジが切れたようなからくり人形のように、かくんと首を下げた。


「うう。やっぱりそうだよね。結婚なんて夢物語よね。所詮、華族に生まれた私はその時点で自由とは無縁の生き物だもの……」

「……そこまで落胆しなくても」

「だって、事実でしょう? たとえ両思いでも、人生を添い遂げることは不可能。だったら、この思いはいつか手放さなければいけない」


 自分で言っていて、悲しくなってくる。


(生まれ変わっても、うまく事は運ばないよね……うん。わかってた)


 女学生の恋は、うたかたの恋だ。いつかは消えてなくなる。きらきらした思い出として心の中に鍵をかけてしまっておくべきもの。

 打ちひしがれる絃乃に、葵は首の後ろに手をやる。


「まあ、可能性はゼロではないと思うけど……でもなぁ」

「お願いだから、これ以上、傷口に塩を塗り込まないで。みじめな気持ちになるじゃない」

「……もろ手を挙げて応援はできないけど、いいんじゃない? 好きな気持ちはそうそう割り切れるものでもないだろ」


 意外な言葉が聞こえてきて、にじみ出た涙を指先で拭う。


「何よ、わかったような言い方ね」

「これでも多少なりとも経験はあるから。姉さんよりは」

「い、言ったわね? 姉をもっと敬いなさいよ」

「……大事にはしているよ。だから、こうして実家に戻らずに身をひそめているんだろ」


 そうだ。彼はまだ家には帰れない。

 その事実を思い出し、絃乃の表情が曇る。


「……いつ帰ってくるの?」

「さあ。身の安全が保証されるまで?」

「なんで疑問系なのよ。さっさと解決して早く帰ってきなさいよ。あなたの家はうちなのよ」

「とりあえず、まだ無理」


 ぶっきらぼうに言う言葉に、何よそれ、と言い返しておく。


「って、早く帰らないとマズいんだった。姉さんも早く帰れよ」

「待ってよ。途中まで一緒に帰るわ」


 並んで参道を戻っていく。参拝者とすれ違うこともなく、元の道まで戻る。

 その境内裏で枯れ葉を踏む音がしたことは、誰も気づかなかった。

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