七章 記憶の亡霊 1—5
とは言ったものの、じつは自信がなかった。
鈴蘭のひざまくらで優しい女の肌の香りをかぐと、血のつながりとか、御子の立場とか、どうでもいいような気がしてくる。
どうでもいいから、このまま押し倒してしまおうかと。
そんなときは、それが伝わるのか、鈴蘭も緊張する。
けれど、これは、蘭の思い違いではないはずだ。そんなとき身をかたくして、こわばりながらも、鈴蘭の心に葛藤が生じることは。
鈴蘭も、また待っている。
蘭に押し倒され、禁断のつながりを持つことを。
その緊張に、さきに耐えられなくなるのは、いつも、鈴蘭だ。
ある夜、鈴蘭は泣きながら、みんなの前で訴えた。
「今日、テレビ電話で父と話しました。父……森田のことですけど。すごく、やせてました。あのままでは病気になります。おねがいです。わたしを九州へ——父のもとへ帰らせてください」
もちろん、蘭は反対する。
「ちょっと待ってよ。森田は本来なら、僕の子どもを誘拐した、第一級の犯罪者だよ。以前の功績があるから、罰しはしなかったけど。そんなやつのとこへ、なんで君を帰せる?」
いつもの鈴蘭なら、おとなしく引きさがるのに、この日は、キッと蘭をにらんで反論した。
「父は悪人なんかじゃありません。ほんとの親より、ずっと親らしい愛情をそそいでくれました。わたしのことを誰よりも慈しみ、大切にしてくれました。わたしの父は、わたしを育ててくれた、森田だけです。お願いです。わたしを父のもとへ帰らせてください」
蘭は唇をひきむすんで、沈黙した。
すると、ちらりと、よこ目で蘭を見ながら、猛が言った。
「しかたないんじゃないの? 育ててくれた人に恩を感じるのは人情だ」
「なに言ってるんですか。猛さん」
蘭は反対したが、水魚も猛に賛成する。
「鈴蘭は、もう子どもじゃない。本人が帰りたいと言うなら、その意思を尊重するしかありませんよ。蘭」
「僕はイヤだ。そんなの」
いつになく、猛が厳しい声でたしなめた。
「蘭。おまえのほうが子どもみたいだぜ?」
蘭がだまったすきに、鈴蘭が立ちあがる。
「では、明日、発ちます。荷造りしますから」
蘭は退室する鈴蘭を追った。
薄暗いろうか。
鈴蘭の手をとって引きとめる。
「待てよ。育ててもらった恩とか、そんなの口実なんだろ? ほんとは僕から逃げだしたいんだろ?」
鈴蘭はおびえたような目で、蘭を見つめる。
「……そうです。逃げるんです。わたし、あなたが怖い」
「ウソだ。君だって、僕に惹かれてるはずだ。君は、ただ、禁忌をやぶるのが怖いんだ」
蘭が抱きすくめ、くちづけると、一瞬、鈴蘭の体から力がぬけた。
もう、どうなってもいい。
彼女を遠くへ行かせてしまうくらいなら、体で、つなぎとめよう——
しかし、一瞬ののち、鈴蘭の平手が、蘭のほおで痛烈に鳴った。
「わたしが怖いのは、あなたのそのけがれた欲望です」
女になぐられたのは初めてだった(いや、男にもなぐられたことはない……)。
ショックで、蘭は立ちつくした。
そのあいだに、鈴蘭は立ち去った。
ぼうぜんとしてると、猛が近づいてきた。ろうかのかどで一部始終、見ていたようだ。
きっと、蘭が実力行使におよんだら、止めに入るつもりだったんだろう。
「……僕って、けがれてますか?」
「ん、まあ、世間一般の常識からはハズレてるかな。でも、おれは、どんなおまえでも好きだよ」
「猛さん……」
猛にすがりついて泣くのは、これで何度めだろうか。
いつも、猛がいてくれるから、立ち直れる。
「だって……母が帰ってきたみたいだったんですよ。僕が母を亡くしたのは、十三のときだった」
「わかってる。わかってる。いつもの調子で甘えたんだよな。でも、今回ばかりは相手が悪かった。鈴蘭は、まだ三十の小娘だ」
「僕は百十さい」
「おれも百十さい。さ、飲もうぜ。蘭。失恋には酒だ」
「失恋じゃありません。ただの親子愛です」
「じゃ、酒はいらないか?」
「……飲みますけどね。朝まで眠らせませんからね」
「怖いなあ。たのむから、トイレには行かせてくれよ」
飲んでさわいで、翌朝にはケロリとしてた。自分と同じ顔の女に、ちょっと新奇性を感じただけだ……と思うことにして。
「やっぱり、娘が美しすぎるのはいけませんね。蕗子くらいでちょうどいいのかも」
「なら、蕗子、ひきとるか? あいつさ、実の親にも拒否られたらしい」
「それは、しかたないですよ。僕のこの美貌でさえ失恋するんですから。世の中ってのはきびしいですね。じゃあ、引きとりますか」
「オッケー」
その日、去っていく鈴蘭を、蘭は見送らなかった。けがらわしいとまで言われても、会えば、きっとまた母の面影を追ってしまう。
だから、そのとき、猛と鈴蘭のあいだで、どんな会話がかわされたのか、蘭は知らない。
「ほんとは、蘭のこと、好きなんだろ?」
「……わかりましたか?」
「まあね。レンゲ畑のあんたたちは、幸せそうだった。誰もジャマできないほど」
「そうですか……」
鈴蘭はほのかに涙の粒をうかべた。
「あの人を傷つけて、ごめんなさい。でも、これ以上、そばにいたら、ほんとに愛してしまうから……」
「あいつ、魔性だからなあ。ほんとは、ただの甘えん坊のガキだけど」
「ガキですか……わたしも、いつか、それがわかるようになるんでしょうか。わたしが、もっと大人になったら……。そのときには、もう一度、会いにきていいですか? 今度は、お父さんと呼べるようになりたいです」
「いいよ。待ってる。おれも、あいつも」
こうして、鈴蘭は去っていった。
蘭の胸に、かすかな痛みを残し……。
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