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「よーう、お嬢さん」

 生乾きの服を着て、若干ぷりぷりと怒りながら台所まで行くと、同じように水を飲み来ていた男がいた。

 まだ上半身裸のままで、しかも肌そのものが闇に沈み込んでしまうような色合いなので、ぶつかりそうになるまでその存在に気づかなかった。

「ひっ!」

 暗闇に浮かび上がるのは、高い位置にある双眸だ。

 肌の色だけではなく、派手なはずの真っ赤なズボンも、光源のほとんどない環境下では闇色とほとんど変わらない。

「離れろ海賊」

 メイラの傍らから鋭い声を上げたのは、当然のようについてきているルシエラだ。

 そしてそんな彼女が突き出しているのは、腕の長さほどの木の棒。先は尖り、槍のように見えなくもない。

「ほんとおっかねぇなぁ。訳ありだろうとは思ってたが、すっかり騙されちまった」

「すいません。水を飲みに来たのですが」

「いいとも。あんたの従者が汲んできた水だ」

 軽く手を挙げたのは気配で、笑ったのはむき出しになった白い歯でわかる。

 言い換えれば、それぐらいしか分からないほど暗いという事だった。

「……?」

 いいと言いつつ、そのまま動かない男を見上げた。

 メイラの目には、輪郭すらよくわからない不気味な影だ。

「なぁ、ちょっと聞いてもいいか?」

「良いわけがないだろう。近寄るな、話しかけるな」

「……ルシエラ」

 メイラは脇から伸びている木の棒に手をかけた。ルシエラのぴりぴりとした怒気が、まるで毛を逆立てた猫のようだと思ったのは内緒だ。

「わたしに答えられることでしたら」

「メルベル!!」

「ねぇルシエラ。あなたがお世話になったことは事実でしょう?」

 男が言いたいことのおおよその予想は出来ていた。

 いつか聞かれると心構えはしていた。どう答えるかも考えていた。

 安易なことをしてしまったと思いはするが、後悔はしていない。

「簪の紋章の件だ」

 代々家に伝わるものだと誤魔化すのが一番マシな言い訳だと思う。拾ったとか、もらったとかは、あまりにも非現実的だからだ。

 スカーと同郷の男に渡した玉髪飾りに刻まれた紋章は、それだけ特別でおいそれと使われることのないものだった。何しろ大陸最大の帝国の皇室の紋章だ。勝手に真似て使うだけでも重罪に問われる。

「夫のお母さまが生前愛用していたものだと聞いています」

「貴族か?」

「実際にお会いした事はありません。かなり前に亡くなられていますので」

「あの簪を使って金を引っ張ろうとかと思ったが……」

「古いものですよ」

「そうだな。古い簪よりも、あんたのほうが価値がありそうだ」

 ルシエラが、メイラの腕を掴んで引いた。素直に下がると、その分男が近づいて来る。暗闇でも、鼻先が触れるほど顔を近づけられるとさすがにわかる。

「あんたの参拝とやらに付き合ってやる。そこのおっかねぇお姫さまと影護衛だけだと心許ないだろう?」

「いえ、それは……」

「あんたを保護し、安全なところまで送り届けてやろう」

 ものすごく嫌な予感しかしないので、是非ともお断りしたい。

「化け猫姫は踏み倒してとんずらしようとしたが、あんたはそんな事しないだろう?」

 雨の音がする。

 ずっとしている。

 メイラにとっては耳慣れない、精神に不安を感じさせる音だ。

 不意にその雑然とした音が周囲に迫ってくるような気がして、両手で腕を擦った。

「ここは冷えるわ。部屋に戻りましょう」

 今となっては今更だが、親族だという設定を崩す気はないらしい。

 ルシエラの断固とした口調が、「絶対にイエスと言うなよ」と脅しているように聞こえた。

「俺があっためてやろうか?」

「殺すぞ」

「二人まとめてでも構わないが」

「死ねよ豚」

 豚?!

 メイラはぎょっとして、慌てて傍らの美女を抱きすくめた。

 さもなくば、握っている木槍を容赦なく男に突き刺しそうだったのだ。

「怖えぇ」

 さも身震いしていそうな雰囲気を漂わせていても、男が笑っているのは気配で……いや、正確にはきらりと光る白い歯で判別できる。

「水を頂けますか。部屋に戻りますので」

「一緒に?」

「とんでもない」

 寄付を募り裕福なお宅を回っていると、平民の修道女なら手を出しても構わないのではないか、と考える男は一定数存在した。メイラは極めて平凡な容姿なのだが、連れの子どもたちはそれなりに整った顔立ちの者もいて、彼らの身を守るのは彼女の責任でもあった。

 美しいルシエラはきっと、男性の目からは宝石のように映るに違いない。いくら腕に覚えがあろうとも、ちょっとした油断で弱者の立場に立たされる可能性は多いにある。

 メイラはぎゅっと彼女の腕をつかんだまま、一つのコップで交互に水分補給をした。そして、朝までにまた喉が渇いた時用にと、もう一杯注ぐ。

「部屋に戻ります」

 やたらと木槍をつき出そうとするルシエラを制する目的もあるが、それより、男の手から彼女を遠ざけたかった。

 そうすれば必然的に男との距離が近くなり、体温すら感じるほどの距離感に鳩尾が硬くなる。

「ドルーヴ」

 そそくさと部屋に戻ろうとしたメイラに、明らかに面白がっている口調で男が言った。

「俺の事はそう呼ぶがいい」

 セントコルメス王国のイシャン王子だと聞いていたが、別の名前もあるのだろう。

 厄介事の匂いしかしないので、暗くてわからないだろうが曖昧な表情を浮かべて小さく一礼しておく。

「……メルベル」

 もうほとんど見えない距離まで遠ざかったところで、暗がりから名前を呼ばれた。

 本当の名前ではなくとも、鼓膜にじっとりと絡みつくような甘い声色だった。

「おやすみ、子猫ちゃん」

 くしくもそれは、陛下が時折彼女を呼ぶときの言い方だった。

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