4
暗闇に慣れた目が、明け方とはいえ外の明るさに慣れるまでに時間がかかった。
しかも、マローの背中に赤子よろしく括りつけられたまま、ものすごい速さで振り回され、しばらくはぎゅっと瞼を閉じて耐えるしかなかった。
はっきりと状況を見てとれるようになったのは、剣を構えたマローが状況を見極めるべく動きを止めたからだ。
まだ揺すられている気がしながらも、なんとか薄目を開けると、寸前に目にした情景が夢でも幻でもなく現実としてそこにあった。
三人がかりで押さえつけられているスカーは無事だろう。しかし、うつぶせに倒れているダンは生きているのだろうか。
白々と明け始めた海を背景に、落葉した木々が狭い間隔で生え、土のほとんどない岩場に広がるのは、色あせた落ち葉と常緑の下生え。
そこに腰を落として座り込み、美しい髪が地に着くのも構わず頭を垂れているのは……
「ルシエラ!!」
名前を呼んだ瞬間に、赤い装束の男がにいっと笑った。
墨色の肌のせいか表情が読みにくく、ちらりと覗いた白い歯が、まるで獣が牙をむき出しにしているかのようだった。
その笑みを見た瞬間に、失敗を悟った。
ルシエラがどういう説明をこの男にしたのかはわからないが、メイラがその名前を呼ぶのは矛盾があったのだろう。
はっと息を飲み、手で口を塞いだ。
今更ながらに、この場が大勢に取り囲まれている事にも気づく。
「そこにいるお嬢さんも、物騒なものは捨てるんだな。見ての通り三十人以上の手練れがいる。この先の船着き場にも、山の上のほうにも」
メイラはぎゅっとマローの服を掴んだ。
ダンが死んだように横たわり、動き出そうとしたスカーを男たちが押さえつけ、梯子を昇ってきたテトラの首には、後ろから剣を付きつけられている。
身体が細かく震えはじめる。
呼吸が浅くなり、視界が緩む。
怖くて。恐ろしくて。
ダンは死んでしまったのだろうか。ルシエラは怪我でもしているのではないか。
スルリ、と鋼が滑る音がした。ひと際背の高い墨色の肌の男が、反りのある剣を抜いたのだ。
マローが改めて腰を低くし、剣を構える。
相手の力量を図るすべなど知らないが、こうやってメイラを背負っている状況で、まともな勝負になるとは思わなかった。
これ以上戦わせてはならない。
それは、こんな所まで彼女たちを連れてきてしまったメイラの責任だった。
「……マロー」
今にも相手に切りかかろうと、全身の筋肉を強張らせていたマローに、メイラはそっと耳打ちした。
「剣を下げて。今ここで戦って、何とかなる数なの?」
「安心してください。指一本触れさせはしません」
「マロー」
そっと、むき出しの首筋に額を当てた。
「わたくしも、あなたたちを失いたくないの」
マローが息を飲むのと、墨色の男が踏み込んでくるのとはほぼ同時だった。
ガキン、と鋼同士がぶつかった。
直線的な剣と、湾曲した剣では、長くつばぜり合うのは難しい。
ずるりと鋼同士が滑る音がして、競り負けたのはマローのほうだった。
それが純粋に力量的な勝負だったのか、メイラの懇願によるものかはわからない。
人ひとり背負っているとは思えない動きで、マローは男から距離を取った。油断なくまた剣を構え、背後を守るように立ち位置を調整する。
ぎゅっともう一度、マローの服を掴んだ。折角生き延びてくれた彼女を、ここまでメイラの為に尽くしてくれたダンたちを、これ以上危険にさらすわけにはいかなかった。
「……そこの御方」
立場的にも引くわけにいかないマローの背後から、メイラは思い切って声を上げた。
赤ん坊がごとく背負われた相手の言葉など、まともに取り合ってくれるかどうか怪しかったが仕方がない。
「申し訳ございませんが、剣を引いていただけないでしょうか」
「メルベル!」
「マローも、少し落ち着いて?」
大柄なマローの肩幅から少し顔を出し、日が昇り始めた明るさの中、視界の暴力になりそうな真っ赤な服を着た男と視線を合わせる。
「そちらの目的をお伺いしても?」
男が真っ黒な眉をひょいと上げた。この距離からだと顔全体が黒すぎて、その目の色まではわからない。
「ほーう。なかなか肝が据わったお嬢さんじゃないか。地味な見た目だが、悪くない」
マローがむっとして反論しようとしたのを、慌てて止めた。
肝が据わっているとは到底思えないが、地味な見た目なのは確かだ。
「そこのルシエラお嬢さんが、『ご友人』を探して欲しいって頼みこんできてなぁ」
男はうなだれたままピクリとも動かないルシエラに顎をしゃくった。
「前金ももらったし言う事を聞いてやったわけだが、あっちにいけこっちにいけと振り回してくれた挙句、逃げ出そうとするからよ」
「……まあ」
メイラは美しい銀糸の髪を垂らして顔を伏せているルシエラに、気遣わし気な目を向けた。
「手荒なことをしたわけではありませんよね?」
座っているのだから、気絶しているわけではないだろうが、先ほどから身動きひとつしないのが気になる。
いやそもそも、振り回すのはともかく逃げ出すというのがわからない。
ルシエラであれば、あとくされなく上手に始末を着けそうなものだが……
「お姫様みたいにやさしーく扱ってやったさ。何しろ極上の金づるだからな? 最悪の場合娼館に売っても十分見合うツラだろう」
娼館に売られそうな気の毒な淑女……というよりは、平気で連れを奴隷商人に売り払いそうだと思ったが、もちろんそれは口に出さずに黙っておく。
「……ルシエラ?」
やはり返事はない。
もしかして、本気で具合が悪いのではないだろうか。心配になってきたところで、ぴくりと彼女の頭が動いた。
長い髪の隙間から、その美しい顔の造作が見てとれた。その長いまつげが伏せられて、目を閉じているのがわかる。
やはり意識がないのかもしれない。
「あのう……お約束していた支払いはいかほどでしょうか?」
一応、聞いてみる。
墨色の男は面白そうな顔をしてメイラを見て、軽く三本指を立てた。
金貨三枚ではもちろんないだろう。
白金貨三枚? 三千万ダラーものニンジンをぶら下げられれば、クライアントとして海賊を雇えるらしい。
「星金貨だぞ」
「え」
メイラは眉を寄せ胡乱な目つきで海賊王子を見てから、もう一度ルシエラに視線を落とした。
帝国の金銭の単位はダラー。流通している硬貨は主に金貨、銀貨、銅貨である。
白金貨は金貨百枚分、星金貨は千枚分に相当する。白金貨ですら一般市民の目においそれと触れるものではなく、星金貨など大きな商会あるいは国家間レベルの取引に利用されるぐらいのものだ。
メイラを探すために、三億ダラーを提示したのか。
驚くより先に、呆れてしまった。
くしくもそれは、後宮に上がる際にメイラが父に強請った金額と同じだった。平民であれば、その人生を十回は買える金額だ。
「ルシエラ……」
ため息と一緒に彼女の名前を呼ぶ。
ふと、髪で隠れているその口元が、笑みの形に歪んでいるのに気づいた。
それに気づいた瞬間、ドン! とどこかで爆音が聞こえた。
ぎょっとしたのはメイラだけではない。
敵対する面々の意識が、こちらから逸れた。
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