2

 差し出した手を包んでくれたのは、大きな二つの掌だった。

 温かい、血の通った手。

 ところどころタコがあったり、古傷があったりするが、紛れもなく生きている人間の手だ。

「……っふ」

 無様な顔は見せまいとしても、顔面はくしゃくしゃに歪んでしまっているし、涙腺からは壊れたように涙が滴った。

「ああ、そんなに泣かないでください」

 そこでさっとアイロンの当たったハンカチが出てくるあたり、胸部の豊かなふくらみ同様極めて女性的なひとなのだ。

「け、怪我をしたと」

「……テトラですね、余計なことを」

「う、腕が……」

 視界が涙でとんでもないことになってしまっていたが、確かめるように触れた腕は両方ともしっかりと存在していた。

「すぐに特級のポーションを飲めたので、なんということはありません」

 編み込みをしていた髪が、労働者の男性のように短くなっていた。

 よく見れば、頬はこけているし、顔色も悪い。彼女が怪我から完全に回復しているわけではない事は、素人目にも確かで。

 本人があっけらかんと言うようには、簡単な事態ではなかったのだと思う。

「マロー」

 ぼろぼろぼろと涙が頬を伝い、マローの手を伝い。

「マロー」

 壊れたように名前を呼ぶメイラに眉を下げ、マデリーン・ヘイズは「はい」と律儀に返事をしながら涙を拭い続けた。

「さあ、横になってもう少しの間お休みください。島を出る手段を整えましたので、日の出にはここを発ちます」

 低く柔らかい声で宥められ、子供のようにコクコクと首を上下させた。

 長椅子のベッドに横になり、ほほ笑み返してくれるマローの顔を瞬きもせず見上げる。

 夢ではないのか。幻影ではないのか。瞼を閉じれば消えてしまうのではないか。

 涙で視界が遮られることすら不安で、伸ばした手が握る彼女の服を離すことが出来ない。

 大きな手が、そっとメイラの目の上に乗せられた。

 男性と遜色のないサイズだが、ダンのものよりもずっと掌は薄く、指も細い。何より柔らかくて、ほっこりと温かい。

「お休みください」

 あれほど寝苦しいと思っていたのに、ストンと眠りに落ちた。

 ただ、ずっと嗚咽を繰り返している事だけが、最後まで意識に残っていた。



「御方さま」

 そっと揺すられて、目が覚めた。

 瞼を開けようとしたが、張り付いたように動かない。何度か擦ってようやく目を開け、寝る寸前の事を思い出して慌てて跳ね起きた。

「……マロー!」

「はい、御方さま」

 すぐ傍らに、片膝をついたマローがいた。

 見慣れない短い髪の彼女は、胸のふくらみさえなければ甘い顔立ちの男性にしか見えない。

 髪が短いぶんその印象は増していて、胸に詰め物をした男だと言われても誰も疑わないだろう。

 一段と上がった男ぶりに見惚れていると、濡れた布でそっと目元を拭われた。

 目ヤニでもあったのかと慌てるが、非常に男前の顔で安心させるように微笑まれ、「瞼が腫れてしまいましたね」と囁かれる。

 ……駄目だ。何が駄目なのか分からないが、これ以上は駄目だ。

「ほ、本当に無事でよかったわ」

 メイラは動揺しそうになるのを押しとどめ、なんとか言葉を発した。

「あなたが死んでしまった夢を見たの。あなただけじゃなく、ユリウスや他のみなも」

 幾分掠れた声でそう言うと、マローは励ますようにぎゅっとメイラの手を握った。

「ユリウスも生き延びてピンピンしておりますよ。すでにもう仕事に戻らせています」

「そ、それはちょっと早いんじゃ……」

 最後に見た時、血の海の中で瀕死の状態だった。死んではいないと思っていたが、あれだけの怪我から復帰するにはまだ時間がかかるはずだ。

「よろこんで走り回っていましたから、大丈夫です」

 絶対に違うだろうと思いつつ、ここでそれを指摘しても仕方がないので曖昧な笑みを作る。

「本当ですよ。あれは今、帝都にいます」

「……帝都」

 マローとの再会に喜び、浮足立っていた気持ちが一気に冷えた。

 聞きたい。

 帝都に襲い掛かったという軍勢はどうなったのか。

 陛下はどうされているのか。

 しかし、出国手続きなどなにもかもをショートカットしたにちがいないマローが、前者はともかく後者を知っているとは思えない。

 迷うメイラの両手を、マローは再びぎゅっと握った。

「ここは危険な地域です。御方さまの身に万が一のことがあってはなりません。一刻も早く帰国しましょう」

 事情を知らないのだから、そういうだろう。

 ルシエラが怒っていた理由も、陛下に直接任されたメイラが、ふらふらと危ない場所にいるからなのはわかっている。

 もちろん再会は喜ばしい事だが、太く大きく頑丈な枷が増えてしまった。

 果たして、スカーの故郷のあの湖までたどり着けるのだろうか。

 何より不安なのは、もはやメイラの命などどうでもよさそうなあの黒衣の神職だ。確かめたわけではないが、どういう手段を使ってか海賊をけしかけたのはあの男ではないかと疑っている。

 神職としてそれはどうかと詰問しても、本人はきっと神の御意思だと都合のいいことを言うのだろう。

 これ以上巻き込まれる人を増やすわけにはいかない。

 神の御名のもとにと、罪なき人々の魂を狩らせるわけにはいかない。

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