修道女、悪夢に酔い現実に焦燥する

1

 そこは恐ろしい場所だった。

 足元には血だまり。まるでオブジェのように転がる死体の山。

 足の裏に感じるのは、ぬちょりとした鮮血の生温かさだ。

―――こんなことになるとは思ってもいなかった。

 しかしそれは言い訳だ。

―――私のせいだ。私が間違えた。

 狂おしいほどに心が責め苛まれ、吐く息が涙で震える。

 ぐっと足首を掴まれて、喉の奥で悲鳴を上げた。

 踝に当たる血で濡れた髪は、見覚えのある明るい栗毛。

 フラン! フランだ。

 こちらを見上げる彼女の顔は血まみれで、白濁した双眸には瞼がなかった。

 彼女の名前を呼ぼうとした声は、塞いだ両手の内側に押さえられた。さもなくば闇雲に喚き、狂気に囚われてしまいそうだった。

―――どうして

 足元から這い上がってくる怨嗟の声。

―――どうして

 それは死者の声だ。メイラの為に死んでいった者たちの、恨みの声だ。

 耳を塞いでしまいたかった。目も塞いでしまいたかった。

 ひゅっと喉から笛のような音が零れる。

 うまく息が吸えず、唇がわななく。

「さまっ……御方さまっ!」

 ぱちり、と瞼が開いた。

 とっさに、自身がどこにいるのか分からなかった。

 天井が低く薄暗い室内。ゆっくりと左右に揺れるランプ。

「息を吐いてください。ゆっくり……ゆっくりです!」

 爪が食い込むほど強く口を塞いでいた両手は外されて、ベッドに押し付けられていた。

「吐くんですよ、吸うんじゃありませんよ」

 至近距離にテトラの顔があった。

 その必死の形相に涙があふれた。

 あの死体の山の中に、彼もまたいたからだ。

「吐くんです。吐くんですよ!」

 喉が詰まったように息が吸えない。

「御方さま!」

 ぼんやりと薄明るいランプの光が、気遣わし気な彼の顔を照らし出していた。

 呼吸の仕方を忘れたメイラの意識が、次第に朧になっていく。

 ぐっと首の後ろに手をまわされて、そのまま抱え込むように起こされた。前かがみになるように座らされるが、自力では身体を支えることが出来ない。そのままベッドの下まで滑り落ちそうになったところを、細いが力強い腕で引き留められた。

「聞こえていますよね? 息をゆっくりと吐いて」

 メイラはイヤイヤをするように首を振った。弱々しい動きだった。

 膝の上にぼたぼたと涙の雫が落ち、ひゅうひゅうと喉が鳴る。

 涙のシミが広がる部分を握りしめると、冷え切った手の甲になおも大量の熱い涙が滴った。

 テトラの腕がぎゅっとメイラの背中に回された。

「大丈夫、大丈夫ですよ」

 励ますように腕をさすられ、繰り返し言い聞かされる。

 ぽっかりとこちらをみあげるフランの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。マローも、ルシエラも、ユリウスも、ここにいるテトラさえもが、死体となってあの場所に転がっていた。

 鼻腔の奥にはいまだ濃厚に鉄さびの臭いがする。怨嗟の声が鼓膜にこびりつき、掴まれた足首がズキズキと痛い。

「怖い事は何もないです。私たちがついています。大丈夫です、大丈夫です」

 ここまできてようやく、あの血塗られた場所が夢だったのだと理解できた。

「……落ち着かれましたか?」

 柔らかな布で、そっと顔を拭われた。

 いつも夜に目覚めた時、声をかけてくれるのはフランだった。

 頼りになるメイドの優しい声が、今にも横から聞こえてきそうだ。

「御方さま?」

「……ごめんなさい。大丈夫よ」

 情けない。どうしてこんなに声が震えるのだ。せめて見た目だけでも、毅然とふるまえないのか。

「温かい紅茶をお入れしましょう」

「……少しだけワインを入れてくれる?」

「少しだけ?」

「ええ……ほんの少しだけ」

 テトラはなおもしばらくメイラの腕をさすってから、立ち上がった。

 女装しているとはいえ男性と狭いベッドの上で密着していた。ようやくそれに気づいたが、むしろ彼が離れていく事の方が心許なかった。

 行かないで……と言いそうになって、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。

 咄嗟に脳裏に過ったのは、土気色をしたテトラの死に顔。

 悪夢の中で彼がメイラに向けていた目は、こちらを恨み責めるものだった。

 夢だ。現に彼は死んでいない。

 それでも、マローに深手を負わせ、最悪の場合死ぬような目に遭わせた不甲斐ない主を、心の中で疎んでいるのではないか。

 きっとそうに違いないという思いと、そんな風には見えない、という思いが交錯する。

 結局引き留めることはできなかった。

 静かに扉が閉められて、情けなくも「あっ」と寂しげな声が零れてしまう。

 伸ばしかけた手が、頼りなく膝の上に落ちた。

 ひとりにしないでとは言えなかった。言える立場だとも思えなかった。

 ただ急に寒さが身に染みて、震える白い息を吐く。特に濡れた頬と手の甲が氷のように冷たかった。そこから全身が凍えたように冷えていき、このまま氷の人形のように固まってしまいそうな気さえした。

「……っ」

 ふと、床につけた足の側に黒い人影がうずくまっているのに気づいた。 

 ずっと膝に視線を落としてはいたが、人がいれば気づかないはずなどない位置だ。

 薄暗い線室内で、ことさらに深い影を身に帯びたその男は、若干躊躇う様に視線を上げて、真っ黒な目でメイラを見上げた。

 触れてはこない。

 ただ、体温などなさそうな男から伝わってくるのは、まぎれもなく生きている者の温もりだった。

「スカー」

 かつて柔らかな頬をしていた男は、いまやメイラよりも年嵩になり、しかしあの頃と同じひたむきな眼差しでこちらを見上げている。

 メイラは泣き笑いの顔になって、何か言わなければと息を吸ったが、震える唇から零れるのはただ悲鳴のような呼気だけだった。

 すっと差し出されたのは、先ほどテトラが涙を拭ってくれた柔らかな布。

 ふたたびぼろり、ぽろりと涙がこぼれた。嗚咽が喉を焼き、細い声が唇を震わせる。

 今だけは泣いてもいいと言われたようで、それ以上堪えることはできなかった。

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