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礼装から着替えるために天幕に戻った。
周囲は慌ただしく戦闘準備にはいっており、ハロルド以外も普段の武装に戻ろうとバタバタしている。
侍従たちが漆黒の鎧を手に駆け寄ってくる。総大将に相応しい手の込んだ外装にもかかわらず、動きやすさと防御力を兼ねそろえた愛用品である。
しかし首を振って、その後ろの若い侍従が手にしている竜騎士用の軽鎧を指さした。
「とんでもない! 陛下を最前線にお出しする訳に参りません!!」
重さがあるので二人がかりで運んできた重鎧を持ったまま、白髪交じりの侍従が大声を張り上げた。
いつも騎馬で最前線に立っている。
そう言い返したかったが、彼らが言いたいのがそういう事ではないのはわかっている。
「お手伝いいたしますわ!!」
とはいえ引く気はないと、もう一度同じ命令を繰り返そうとしたところで、可愛らしい女性の声が天幕内の切迫した空気をさらった。
ハロルドは伸ばされた細腕が触れて来る前に、反射的に振り払っていた。
「あっ」
声を上げてよろめいたのは、嫋やかな金髪の御令嬢。
戦いに向けて浮足立つこの状況で、場違いどころか邪魔である。
しかし真正面から視線が合って、リリアーナ・ハーデス嬢はキラキラとした目でハロルドを見上げた。
「わ、わたくし兄の出陣のお手伝いをしたことがありますわ。お役に立てます!」
「それでしたら、この組みひもの……」
ピンク色に上気した頬、零れ落ちそうに大きな瞳。
日々後宮の美女たちを見てきた侍従たちでさえ、リリアーナ嬢を無下には出来ず、手伝いを頼もうとしていた。
「下がれ」
ハロルドは路傍の石でも見たかのようにすぐに視線を逸らせて、竜騎士の鎧を持った若い侍従を手招いた。
「誰の許しを得てこの天幕に入ってきた」
黒いマントの留め具を外し、ばさり、と足元に落とす。
素早く近寄ってきた茶色の髪の侍従が、複雑で留め具の多い礼装を脱ぐ手伝いを始めた。
「何かお助けできればと」
「いらぬ。邪魔だ」
「……そんな、わたくしは」
「失礼ですが、御令嬢。今から陛下はお着替えをなさいます。ずっとそこで見ておられるおつもりでしょうか」
成人を迎えてそれほど経っていない侍従の声は、まだ少し幼い。
「少々はしたないのでは?」
しかしその態度は毅然としていて、若く美しい高位貴族の御令嬢相手に一歩も引く様子はない。
目立たない茶色い髪に、整ってはいるが派手さのない顔立ち。しばらく前にハロルド付きになったこの侍従は、エルネスト侍従長の年の離れた妹の子だ。
「今のような非常時に何を仰ってるの? わたくしはリリアーナ・ハーデス。陛下に近づくよからぬ女性たちと同列に扱わないでいただきたいわ!」
同じだろうと内心で悪態を付きながら、ハロルドは苛々と装飾の多い礼服を脱いだ。ポイと椅子のほうに投げ置いた上衣を、リリアーナ嬢がすかさず拾おうとする。
「リッカート」
ハロルドはシャツのボタンを自ら外しながら、上衣を彼女の手から遠ざけた侍従の名前を呼んだ。
「あっ、何をなさるの?!」
「ご遠慮ください」
期待した通り、彼はリリアーナ嬢の腕を掴んで強引に天幕の外に追い出そうとした。
「わたくしに許可なく触れるなど!」
「許可なく陛下の天幕に入り込んできた方に言われたくありませんね」
「お爺様に報告させていただくわ!!」
「どうぞ」
「わたくしのお爺様はハーデス公爵ですのよ?!」
「存じ上げておりますよ」
リッカートの淡々とした声に反し、遠ざかっていくリリアーナ嬢の声色が次第に甲高いものに変わっていく。
「……申し訳ございません」
重鎧を足元に置いた二人の侍従が、その白髪交じりと金髪の頭を下げた。
リリアーナ嬢を安易に近寄らせ、しかもそれを許容するような態度を取ってしまった事を謝罪しているのだろう。
ハロルドは小さく息を吐いてから、礼装用の縫製が窮屈めのシャツを脱いだ。
のんびりしている場合ではないのだ。
「翼竜にお乗りになるのは危険ではないでしょうか」
脱いだズボンを受け取りながら、白髪の侍従がためらいがちに口を開く。
繰り返される制止は、彼らの立場からすれば出過ぎた事だ。しかし、ハロルドを心配しての事だと分かっている。
「皇城まで行く」
「……ですが帝都には」
そうだ、目測でも五頭もの巨大竜が上空から帝都に襲い掛かろうとしている。
彼らが後継のいないハロルドの身を案じるのは理解できる。万が一のことがあれば、帝国に再び内乱が勃発する可能性が高いからだ。
しかし、起こるかもしれない内乱よりも、目前で危機に瀕している帝都を守ることの方が優先事項だった。
「行かねばならない」
肌着の上に近衛用のものと形は同じ軍服を着る。表情を硬くした侍従たちが、その上から軽鎧、更にその上からサーコートを羽織らせてくれる。
「……後継にはイリシアス大公家のウェイド公子を指名している」
「陛下!!」
「元老院も了承しているが、第二皇妃の腹の子の事もあり揉めるだろう。子は父親に引き取らせ、認知させろ。帝籍にいれるつもりはない」
つまりはハロルドの子ではないと公にするという事だ。
帝国の未来を左右する遺言を聞かされた侍従たちは青ざめ、震えた。
それでも身支度の手伝いは止めず、冷たくなった指で最後まで与えられた仕事をこなす。
「あとの事は任せる」
「御武運を」
いつの間にか戻ってきていたリッカートから、愛用の剣を渡された。
長年仕えてくれているエルネストと同じ色の目が、じっとハロルドを見上げている。
やがてその目が伏せられて、彼は二人の先輩と同じようにその場で膝を折り、丁寧に頭を下げた。
「……まだ死ぬつもりはない」
足元にうずくまり、低く頭を下げて礼を取っている侍従たちを見下ろして、静かに言った。
しかし、戻れるという確信もなかった。
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