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 ハロルドにしてみれば、メルシェイラの事は抜きにしても、教皇のことを偉大で人徳ある宗教家だとは思っていなかった。

 実は、物心ついたころに一度だけ会ったことがある。おそらくだが、異母弟の聖別式だったように思う。弟はその時まだ乳飲み子で、妃としては階位の低い母親の腕に抱かれ泣いていた。その腕から異母弟を受け取って、額に指で聖印を描いた教皇ポラリスその人が、まるで人さらいのように見えたのだ。

 教皇の方は、隅にいたおとなしい子供のことなど覚えていないだろう。しかし、幼少期に刻み込まれた印象は、大人になっても消えずに残った。あの時から全く容姿が変わらない教皇を目にするたびに、人ひとりから時を奪う神の采配に畏怖するよりも、あの人さらいかと一歩引いて警戒してしまう。

 もちろんそれを公言したりはしない。世界最大規模の信者を抱える中央神殿を敵に回しても、いいことなど何もないからだ。

 絵姿でも、実際にも、常に微笑みを絶やすことのない慈愛の人。……世の誰もが、教皇の事をそんな風に思っている。

 三十年も中央神殿という魔窟を支配してきた男が、ただのお綺麗で慈悲深いだけの人間なわけがないのに。

「……ひっ」

 まだこの場に居座っていて、教皇と距離の近かったリリアーナ嬢が小さく悲鳴を上げた。

 叔父ロバート・ハーデスの太い腕に華奢な手で縋り付き、自身のあげた不躾な声を取り繕うこともできずに震えている。

 彼女だけではない。

 常時笑顔が標準装備だった美貌の教皇が、その顔から笑みを消した。……言葉にすればただそれだけのことだが、実際にその瞬間を見てしまったほとんどの者が感じたのは、おそらくは恐怖だ。

「ああ、怖がらせてこめんね」

 当の本人にも自覚があるのか、その真顔はすぐにもとの笑みに隠された。

「怖いから笑っていろといつも言われているのだけれど」

 失敗失敗と、軽く舌先を噛んで微笑む仕草は、まるで無邪気な少年のよう。

 しかし、直接笑みが失せた顔を見たわけではない神殿騎士たちを含め、そこにいた誰もが凍り付いたように動かなかった。

 教皇の青みがかった灰色の目が、ひたとハロルドを見つめた。

 顔は笑っていても、目の奥にあるのはそんな穏やかなものではない。

「あの子は今どこに?」

「タロスの離宮だ」

 ハロルドは同じように冷えた目で相手を見据え、ことさらにゆっくりと足を組み替えた。

「襲われる可能性が高いから場所までは言えないが」

 教皇は口角を緩やかに持ち上げたまま、その唇の隙間からため息を漏らした。

「駆け引きをしに来たわけじゃないんだよ」

「駆け引き? いや、違うな。メルシェイラを傷つけ、我が手の内から奪っていこうとする者を近づけたくないだけだ」

「あの子を殺そうとしているのは君の方だろう?」

 その言葉を聞いた瞬間、目の前が赤く染まった。「ははは」と乾いた笑みを吐き出し、もういっそ不快なものは消してしまおうと、テーブルに立てかけていた剣を掴む。

「陛下!」

 誰かの声が制止するのを聞いた。しかし、止める意味を感じなかった。

 シャリンと鋼が鞘から滑り落ちる音がする。何百人もの命を奪ってきた剣が、生々しくその刃をきらめかせる。

「この先もずっと、君の寵愛だけを頼りに、大勢のお妃たちの中で暮らさせるの?」

 抜身の剣を突きつけても、教皇の表情は変わらなかった。

「あんな悪意にあふれる場所にいたら、いつかきっと心が死んでしまうよ」

 まるで子共に言い聞かせるような口調だった。

 腹立たしい事にそれが事実の一部であると分かっていても、認めるつもりはなかった。

 ハロルドは、左手に握っていた鞘をぽいとその場に投げ捨てた。

 小石の多い地面を跳ね、場違いな青いドレスに当たって止まる。

「わたしなら守れる。これ以上傷つけることなく、心穏やかな日々を送らせてあげられる」

「……神殿の奥深くでか?」

「それの何がいけない? 後宮よりはましだろう?」

 保護という名目で神殿に押し込め、無理強いいはしないと言いつつも、二度と俗世に返す気はないのだろう。

 ハロルドは教皇の喉元に剣の切っ先を突き付けた。殺意を隠しもしなかった。

 メルシェイラの心を踏みにじり、殺そうとしたのは誰だ。その柔らかな部分に傷をつけ、涙を流させたのは、目の前にいる自称祖父ではないのか。

「すぐにその舌を切り捨て二度と喋れなくしてやろう」

 もうこれ以上この男の言葉を聞いていたくなかった。

 ぬるりとした刃が陽光を弾き、切っ先を立てると眩く反射した。

 迷いはなかった。ただ、目の前ですまし顔をしているこの男を排除したくてたまらなかった。

「……君は、中央神殿を敵に回すのがどういうことなのか、理解しているのかな」

「愛し合う夫婦を引き裂くような者が神の寵児のはずはない。偽物を成敗してやろうというのだ、感謝されるのではないか?」

「そう」

 うっとりと、歌うように教皇ポラリスは頷いた。

「君の選択をあの子はどう思うかな」

「……なに?」

 意味ありげなその台詞に問い返そうとした瞬間、ゴッ!!……と深く、強く、地面が揺れる音を聞いた。

「うわ、ゆ揺れてる」

「地震か?!」

 ハロルドと共に余多の戦場をかけ抜けた先鋭たちですらも、大地が割れるようなその揺れに成すすべもなく浮足立った。

 水不足以外の天災がほとんどないこの国の者にとっては、軽い地震であっても、人生で数回経験する程度のものなのだ。

 それが今、まっすぐ立っているのも難しいほどの大きな揺れに見舞われて、当のハロルドですら肝を冷やした。

「何が……」

「陛下が教皇猊下に剣を突きつけた瞬間に揺れたよな」

「えっ、それって」

「見ろ!!」

 地面の揺れが続く中、誰もが大きな声を上げて叫んでいた。

 彼らが指さすのは帝都。

 見慣れたその街の上に、黒々とした巨大なものが複数蠢いている。

「何だあれは」

 訓練が行き届いているはずの上級騎士たちですら、顔から血の気を失せさせ呆然としていた。

「……竜? 竜じゃないかあれ?!」

「いったい何頭いるんだ?」

 互いの長い尾を追う様にして帝都の上空を飛び回るのは、ハーデス公爵領で討伐した巨大竜と同じか、それよりも大きな竜たちだった。

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